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1.はじめに
「こころを科学する」とは何を意味するのだろうか。
1990年、米国ではブッシュ大統領(当時)が「脳の十年」を宣言し、脳科学研究では分子レベルからシステムレベルにいたるまでのあらゆる分野における大規模な研究推進計画が始まり、欧州諸国もこれに続いた。研究者間では、既に1980年代後半辺りから、「人間の頭脳は脳を理解できるのか」や、「人工的な計算機(コンピュータ)が脳に取って代わる事はあり得るのか」などの議論が真面目になされるようになり、1989年には養老孟司氏によるベストセラーである「唯脳論」も出版された。その一方で、「人間の知能は、生まれ持った遺伝子が決定的な要因となり得るのか、それとも生育環境による影響が大きいのか」といった議論も進んだ。我々の認知、記憶および情動のような、主として心理学領域で論じられていた事柄が、次々と脳科学研究の題材に成り得るとして再び脚光を浴びるようになった。ようやく人間の精神活動、すなわち「こころのしくみとはたらき」までもが生物学的な言語(生命科学的現象論)や物理学的な数式(生物物理学的仮説)を用いて語れる日も夢ではなくなるという期待に多くの研究者が胸を膨らませた。またさらに、人工知能、ニューラルネットワーク、神経経済学(Neuroechonomics)、神経倫理学(Neuroethics)など、脳にまつわる新たな学問分野も登場した。ようやく、「こころ」=(イコール)「脳」、「こころの病」=(イコール)「脳の疾患」といった解釈が一般に広く浸透し、科学的知見として根付いたかに見える。
しかし、このようなことを言える筋合いにはないので単に失笑を買うだけかも知れないが、「脳の十年」を経て得られたものは何だろうかと改めて問うてみた。これも私見に過ぎないのだが、つまるところ脳は複雑な階層構造を有し、認知・記憶・思考・情動といったさまざまな情報の並列処理を驚異的にエコなエネルギー効率で実現しているという事実を、最先端の技術を以て確認できたに過ぎないような気がする。「こころ」を生み出す「脳」のしくみについては未だ大部分がブラックボックスのままであり、解明すべき真実は今後の研究の進展に委ねるほかはない。
ところで、よく考えてみれば「こころ」が「心臓」の場所に無いということについては、とうの昔から我々も知っていたはずである。要するに、「こころ」はどこにあるのか?の問いかけに対し、「脳」にあるという客観的事実を、我々は素直に受け入れる用意が整っていなかっただけではなかろうか。ならば我々は、ここへ来てようやく科学的な眼を養うことができて、それと引き替えに「こころ」は「脳」といういわば臓器における営みに過ぎないのだという、きわめて現実的かつ現時点で分かっている限りの科学的事実に納得を余儀なくされてしまったのかも知れない。
科学とは自然界のあらゆる現象に普遍性を見出すものである。そして科学は、我々の生き方や個々の価値観を育む豊かな人間性や寛容の精神などとは必ずしも相容れない。前置きが長くなってしまったが、「こころを科学する」という命題は永遠のテーマとするにふさわしいと感じているが、現時点で幾つかの矛盾を包含している。そして、実現可能性について言えば、例えば、地球外スペース(宇宙)に人間を住まわせることよりもはるかに難しいことのように思える。「こころの健康」を守る予防医学的観点からは、こうした昨今の科学的偏重傾向をしっかりと見極めながら、新たな健康観や豊かなこころの維持・育成に向けた取り組みをめざして行きたい。
 
2.現在進行中の研究プロジェクト
*「眼はこころの窓」:眼球運動計測を用いた非侵襲的脳機能評価法についての研究
昔から「眼は口程(くちほど)にモノを言い」などとも言われ、眼差しの外観はその時の心理・生理状態を顕著に表している。さらに、ヒトの脳の約3分の2は視覚情報処理とそれに伴う眼球運動を制御するために使われているとしても過言ではない。また、霊長類(サルなど)を用いた神経生理学的研究の成果により、眼球運動の発現と制御に関わる脳内神経回路の解明は格段に進んでいる。こうした背景にもとづき、本研究のねらいは、跳躍性(サッカード)眼球運動を行っている際の反応性の違いを利用して脳機能障害の病態評価を試みようとするものである。これまで客観的な病態評価が難しいことから、障害の程度や治療効果の判定に寄与する定量的な生体指標(バイオマーカー)を確立する必要性が高まりつつあるさまざまな精神疾患(うつ、統合失調症、強迫性障害、PTSDなど)を対象として、高精度(サンプリング周波数 > 1kHz)眼球運動計測を行い、反応時間・角速度・運動軌跡・瞳孔径・エラー発生率など種々のパラメータを用いた統計学的解析を行い、定型群(健常群)との違いを明らかにして行きたい。現在までに、大阪大学附属子どものこころの分子統御機構研究センターの協力のもと、広汎性発達障害(ADHD、自閉症、アスペルガー症候群など)を対象に行った研究では、視覚呈示に伴う順行性サッカード運動発現の際に認められた異常が、投薬治療や症状改善に伴って消失することが明らかになるなど、興味深い研究成果を得ている(第33回日本神経科学会大会にて発表:Neuroscience Research, vol.68, 2010参照)。

*「公平感(損得勘定)にともなう脳活動および機能局在に関する研究(共同研究)」
NIRS: near infra-red spectroscopy(近赤外光分光法)の原理を用いた局所脳血流量変化の多チャンネル同時計測をもとに、社会経済活動の基本となる公平感(損得勘定)に関連する脳機能局在を調べ、さまざまな条件下での脳活動の変化を定量化する。本研究は、大阪大学社会経済研究所と共同で進めており、社会行動の原動力ともいえる人間の公平感を考慮せずして今日の市場経済は健全化しなくなってきているという現状に鑑み、より豊かで公平な社会の実現をめざすものである。 |