看護部の紹介

看護部寫眞館・阪大病院グラフィティ

歴史的写真

◆◆阪大病院の変遷◆◆

☆明治時代

 明治2年創設の大坂府医学校病院を経て、府立大阪医学校の創設は明治13年。明治33年11月には発電機と蒸気機関の設備を導入し、附属病院に自家用電灯がともりました。
 明治36年、大阪府立医学校は大阪府立高等医学校と改称しました。さらに明治39年、臨時大阪府会で病院拡張案が議決され、明治43年附属病院の新築工事が竣工しました。

☆大正時代

 大正4年10月、大学令により大阪府立高等医学校は府立大阪医科大学と改称しましたが、まもなく附属病院始まって以来の出来事が起こりました。大正6年2月19日に発生した火災です。この火災により病院は全焼しました。
 附属病院の看護婦約300名は衣類その他一切を失いましたが、自分達はどうなってもかまわないと一睡もせずに泥にまみれたカルテを拾ったり、運び出した医療器具・書類の整理に汗を流しました。
 この失火について、次のような記録が残っています。


午後1時40分 第二号館中央三階二等病室から出火。
11歳の喘息患者さんの吸入器のアルコールランプが倒れ、燃え広がりました。
午後2時30分 火はみるみるうちに広がり病院全体が炎につつまれました。
午後2時45分 病院の東北隅にあった機関室が爆発しました。
助けを求める叫び声、逃げ惑う軽症患者、堂島川につながれた小船に乗り込む者や川に落ちる者、駆けつけた家族で恐ろしい修羅場と化しました。
看護婦は泥と煤にまみれながら患者を背負ったり、担架に乗せて救助活動に全力を注ぎました。
午後5時頃 ようやく鎮火。入院患者438名は全員無事で、近くの病院や施設に分けて移送されました

 大正7年5月、北区常安町の附属病院焼跡に府立大阪医科大学仮病院が完成、さらに大正7年6月には堂島浜通の敷地に附属病院本館の起工式が執り行われました。
 大正8年11月、新大学令により府立大阪医科大学を廃し、大阪医科大学が設置されました。病院もこれに準じ大阪医科大学病院と改称しました。大正13年3月、かねてから建設中の大阪医科大学病院新築落成式が挙行されました。

 昭和4~5年にかけて、大阪医科大学は第6番目の帝国大学となるための運動を始めます。これが認められ、昭和6年3月には帝国大学創設に備えて大阪医科大学・同予科を廃止しました。
 昭和6年新設の大阪帝国大学には医学部・理学部が設置され、病院は大阪帝国大学医学部附属医院と改称しました。昭和7年7月には附属医院石橋分院を新築 し、診療を開始しました(昭和43年閉鎖)。昭和13年には医学部附属医院新館(東病館)が竣工し、病院の規模は拡大の一途をたどります。

 第二次世界大戦を経て、昭和24年大阪帝国大学は大阪大学と改称し、医・理・工・文・法経の5学部からなる新制大学として再出発をきりました。これにあわせて医学部附属医院及び附属医院分院も同附属病院・同附属病院分院と改称しました。
 昭和36年になり、医学部附属病院耳鼻科宿直室の天井コンクリート塊が落ちて2名が負傷するなど病院の老朽化が明らかになりました。同年9月には第二室 戸台風により医学部附属病院等、多くの施設が浸水する被害にみまわれ、翌年から10ヶ年計画による附属病院病棟の増改築工事が起工しました。
 昭和39年に本院改築第1期工事、昭和41年に第2期工事、昭和45年に第3期工事、そして昭和48年には第4期工事がそれぞれ完成し、同年11月に附 属病院改築竣工式が挙行されました。以来、平成5年6月に現在の吹田市山田丘の地に移転するまで、大阪の中心的メディカルセンターとしての役割を果たして きました。