☆明治時代
明治31年3月、府立大阪医学校附属看護婦養成所が創設されることになりました。養成所の修業年限は1年で、明治32年に初めての卒業生として9名の看護婦が誕生しました。
当時は日が暮れると蝋燭の灯を使用していました。明治33年11月、発電機と蒸気機関の設備によりようやく病院に自家用電灯がともりました。
明治39年には臨時大阪府会で附属病院拡張案が議決され、明治43年新病院が新築されました。
明治39年に行われた病院の拡張に伴い学生募集にも力を入れたので、看護婦志願者は急増しました。
新入生達は寄宿舎に入り、翌日から病院の外来と病棟の勤務に分かれて実習と学習が始まります。勤務と授業は交替制で、交替の合間には寄宿舎で包帯巻きやガーゼ伸ばしをしていました。
また試験が迫ると講堂や手術室で勉強する姿がみられました。
学生達は府から月に4円50銭の支給を受け、その内3円が食費として差し引かれていました。
この時代、寄宿舎はよく移転しました。病院近くの家屋を借りていたり、精神科の病棟が不要になればそこに移りました。50畳くらいの大きな部屋に50人も寝起きしていました。勤務が厳しくて辛いものだったので、寄宿舎に帰ると涙があふれてくるような毎日でした。
疲れを癒す楽しみは、生け花やお茶・お花・絵画・習字・手芸などを習うことでした。病院に近い福島の天神さんの夜店をぶらついたり、巡航船に乗って夜の道頓堀や心斎橋筋へ行くことも楽しみの一つでした。
夜になると寄宿舎には焼き芋屋の売り声が聞こえてきました。よく窓から縄を下ろして焼き芋を購入したものでした。
最も華やいだことはお正月のかるた会でした。また美しく着飾った晴れ着姿の看護婦が人力車に揺られていく有様は、堂島川畔の明治の風物詩でした。
◇看護婦養成所学生の学習と勤務状況
実習は学用病棟実習・普通病棟実習・外来実習に分かれて行われ、3ヶ月ごとに配置転換するようになりました。
朝は5時に起床し、病室・詰所・廊下・便所を掃除することから始まりました。
夏になると学用死体安置所に氷を入れに行くことも勤務の一つで、不気味な鳥の声が聞こえる老木の生い茂った場所に一本の蝋燭のみで向かうのは恐怖の体験でした。
大正15年、火事のために焼け落ちた病院も復興し、その近代的な病院の一角に新しい寄宿舎ができました。
寄宿舎の誕生を記念し、寮歌が作られました。寮歌は四部あって、2階の紅梅寮は「春の歌」、3階の葵寮は「夏の歌」、4階の芙蓉寮は「秋の歌」、1階の銀杏寮は「冬の歌」と分けられました。
平成5年に医学部附属病院は長年親しんだ中之島・福島の地を去ることになりましたが、その時まで『銀杏寮』は看護婦宿舎の呼称として愛されていました。
◇昭和時代初期の看護婦養成所学生の学習と勤務状況
昭和2年の教育過程改正に伴い養成所の修業年限は2年となり、学年は甲と乙に分かれました。1年目の科目は病院の歴史と諸規則・解剖学・生理学大意・一般看護法・修身・国語と実習で、2年目は伝染病患者看護法・消毒法・小児病看護法・治療介補法・包帯学・産婦看護法・精神病者看護法・救急法・衛生学大意・医療器械学大意・修身・国語と実習であり、そのほとんどは実習の時間に充てられていました。生徒は寄宿舎に入り、卒業すると看護婦補として附属病院で勤務することが決まりでした(服務義務年限は2年)。それでも看護婦の人気はうなぎ上りで、昭和8年には志願者が500人を超え、入試は学科のほかに体格・容姿までが点数に入り、昭和11年頃には身長までが入学の条件になっていました。
昭和18年頃になると学科と実習は半々の時間となりました。2年生になると見習当直というのがあって夜の看護実務を勉強しました。また2ヶ月ごとに各科を回って実習する方法がとられていました。
昭和9年9月21日、養成所の入試当日に室戸台風が大阪を襲いました。ほとんどの受験生たちは定刻に間に合いませんでしたが、勇敢な37名の受験生はずぶぬれになって青い顔をふるわせながら試験場にかけつけました。衣服からはしずくが落ち、待合室の窓ガラスがバリバリと音をたてて飛び散り、受験生の顔からは血が流れました。その手当てにひと騒動で試験は午後からの開始となりました。ずぶぬれの衣服を脱ぎ、有り合わせの手術着を着せられた受験生は全員合格となりました。(^^)
競争率の高い入試に見事栄冠を勝ち得た寄宿舎生活第一夜、食膳には祝いの赤飯と鯛の焼き物が並びました。喜びの一夜が明けると試練の日々が生徒達を待ちうけています。担当の婦長に氷の割り方や検尿ビンの運び方・器具の磨き方・言葉遣い・電話のかけ方までしつけられ、一日中追い回されました。洗濯物にアイロンをかけるのは真夜中になり、起床は朝5時というハードさでした(2年生の起床は朝6時という決まりでした)。授業が終わって寄宿舎に戻るとそこには婦長がいて、母親のように日常生活のしつけがなされました。
たいていの生徒は勉強熱心で、地下室で読書したり夜の手術室で教えられた電話のかけ方・言葉使いを復習するなど、涙ぐましい努力が続けられていました。
◇戦争時代の看護婦養成所学生の学習と勤務状況
国民の生活が次第に戦時色に包まれると、看護教育もその例外ではありませんでした。何事にも「非常時だから」という言葉が盛んに使われ、軍事教練だ、防空演習だとすっかりあわただしい養成所となってしまいました。特に担架訓練が重点的に行なわれ、負傷者を運ぶ練習に力を入れました。
病院の中に「救護班別隊」が結成され、警戒警報が発令されると隊員はただちに病室の患者を地下の安全な場所へ移動させる作業に取り掛かります。担架に乗せたり背負ったりして階段を駆け降りることが1日に何度となく繰り返され、生徒や看護婦の足は痛々しく腫れ上がりました。空襲になると電気もガスも止まるので、手術や消毒に備えて燃料の用意をしておかねばなりませんでした。包帯の再生も大変な苦労でした。堂島川の水で包帯を洗い、手術もカーバイトの光で行なわれていました。
昭和20年頃には看護婦も生徒も白衣の上からもんぺをはいた決戦姿となりました。授業は週に2~3回しか行なわれず、ほとんど実習で空襲、空襲の毎日でした。
昭和20年3月13日、大阪市内に今までかつて経験したことのない恐ろしい大空襲がありました。物凄い焼夷弾の雨が降り、町はまさしく地獄の火の海と化 しました。病院にも不気味な音をたてて焼夷弾が落下し燃え上がります。しかし医師・看護婦・職員が決死の消火につとめ、病院は見事に守られました。病院の 屋上にも焼夷弾が落ちて戦場のような大騒ぎでしたが、その一方診察室では非常袋にカルテや書類を袋に詰める看護婦の姿がありました。
その年の6月、築港方面で大空襲があり、病院へ死体や重傷者がトラックやバスで次々と運ばれてきて野戦病院のような騒ぎとなりました。重傷者の上に死体 が重なっているという悲惨な情景が広がり、収容者は800人を超えました。死体は山口病館の地下室へ、重傷者は手術室や処置室に運び込まれ、軽い負傷者は ゴザを敷いたところに寝かされました。
夜に訪れた家族を遺体のところへ案内するのも看護婦の仕事でした。またある生徒が死体安置所に行った時「看護婦さん、助けて」と言って足をつかまれたと いう話も残っています。この大空襲の後、病院の裏側の空地に大きな穴を掘り、数日にわたって石油で死体を荼毘に付しました。夜になると死体を焼く焔がガラ スの破れた寄宿舎の窓を通して天井にゆらゆらとうつり、臭気が鼻をついて無気味な日を過ごしました。
やがて病院の薬局の薬品も底をついて消毒薬もなくなってしまいました。負傷した患者の傷口には蛆虫が発生し、ガーゼ交換の時にはぞろぞろ這い回ります。ピンセットで蛆虫を1つ1つ取り除き、そのガーゼや包帯を堂島川で洗いました。
戦線での負傷兵の増加、結核・栄養失調やその他の病気で倒れる者の増加に伴い看護婦不足が問題となりました。看護婦の増員計画のなかで看護婦養成所は「厚生女学部」となり、看護婦の技術・地位の向上と補充の万全を期しました。
養成所から一歩前進して高等女学校程度以上の教育形態を作り上げ、「厚生女学部」は昭和20年6月5日発足しました。
◇戦争時代の看護婦養成所学生の学習と勤務状況
昭和20年3月13日の大阪大空襲では、寄宿舎にも多数の焼夷弾が落ちて火を吹きました。看護婦や生徒はみな病院にいてほとんど寄宿舎にはいませんでしたが、ただ宇多村ツル監督がいて、2~3人の看護婦たちと茶室へ飛んで行き、炎の中でバケツで水をかけ火を消そうとしたものの、火勢が強く手のつけようが ありませんでした。日ごろお茶やお花やお琴などの稽古をし、ひな祭りが催され、情操教育の場として長い間使われてきた寄宿舎の茶室は、置いてあったアルバ ムとともにすっかり焼け落ちてしまいました。
食糧事情も日に日に悪化し、深刻な食糧難となりました。従来看護婦や生徒の食事は恵済団に委託して賄ってきましたが、米や野菜・果物の統制が実施されて からは自炊することになりました。主食代用としてとうもろこし・大豆・豆かす・甘藷・馬鈴薯・高粱が配給されました。厳しい食糧事情の中、栄養不良や下痢 をする者も出ました。病院の空地に家庭菜園をつくり自給自足を試みましたが焼け石に水でした。空腹と栄養不良のため階段から転げ落ちたり、廊下にしゃがみ こむ看護婦や生徒もいました。





















