ふぁっつ・にゅう

 

          番外編(研究室の風景)
  
  今日は芽細胞発癌説について議論するためS氏がT先生の研究室を訪問しています。大学院生のFさんも同席しています。
T 「Sさんは医学部出身じゃないのに芽細胞発癌の理論を良く理解されてますね。」
S 「特に基礎知識が必要というわけではないと思います。癌を最もシンプルに理解しようとしたらこう考えるしかない、って話ですよね。」
T 「その通りです。ところで、芽細胞発癌をきちんと理解しているかどうか確かめるための2つの問題があるんです。1)癌の発生機序として芽細胞発癌と多段階発癌の両方があり得るか? 2)正常細胞が癌化する経路は2つ以上あり得るか? Fさん、どう思う?」
F 「えーっ? どっちもありなんじゃないですかー?」
T 「きわめて医学部的な回答だね。両方の先生方の顔を立てましょうと(笑)。両方とも明確に×だよ。」
S 「『すべての自然現象は最も要するエネルギーが少ないただ1つの経路を使う』、 物理学の一丁目一番地ですよね。」
T 「さすが、その通りです。1つの自然現象が起こるとき、複数の経路があるというのは極めて例外と考えないといけない。教科書に載っている多段階発癌説のように未分化癌になる経路が9つもあるなんてのは論外です。」
F 「えーっ、いいじゃないですが。バイキングみたいにいろいろ選択の余地が広がるし。」
T 「いや、そういう問題じゃないだろう。」
S 「どんな可能性を考えても芽細胞発癌説より多段階発癌説の方が回り道になってエネルギーを要しますから、芽細胞発癌説が何らかの理由で問題がある、という状況になった時だけ多段階発癌説が成立することになりますよね。」
T 「そう、物理学的に見ればそういう極めて単純な問題なんですよ。」
S 「でもどうしてそういう単純な考え方が最近まで注目されなかったんでしょうか。」
T 「一つは”正常細胞”の定義がきちんとされていなかったからだと思います。幹細胞から正常細胞に分化する過程を省いてしまうと、多段階発癌説もいかにもシンプルに見えますからね。」
S 「そうですね。そこは成人ではほとんど増殖能がない、すなわち胎児性細胞がほとんど残っていないと考えられる甲状腺だからエビデンスが見えやすかった、ということはなかったですか。」
T 「おっしゃる通りです。成人でも再生能があって幹細胞が残っている大腸癌や肝臓癌では甲状腺ほど芽細胞発癌説をきれいに証明するのは難しいでしょうね。甲状腺では実験的にも臨床的にも子供にしか発癌誘導ができませんから。」
S 「最近は国際誌の総説とか教科書にも多段階発癌説と芽細胞発癌説の両論併記がされるようになってきましたね。」
T 「甲状腺癌の研究者で芽細胞発癌説を知らない人は今やモグリです(笑)。でもいまだに芽細胞発癌説はまだ十分なエビデンスがないって書かれるんですよね。」
S 「そうなんですか?もう十分すぎるほど出ていると思うんですけど。」
T 「面白いことに我々が芽細胞発癌説のエビデンスだと捉えているデータが多段階発癌説の論者たちにとってみれば多段階発癌説をサポートしているように見えているようなんだよね。」
S 「えっ、そんなことが本当にあり得るんですか。」
T 「例えばマウスに癌遺伝子を導入しても大人で発癌誘導ができないというデータを記載した論文にしてもDiscussionのところには芽細胞発癌説は出てこない。分化癌で高頻度に見られる遺伝子異常が未分化癌で消えてしまうという論文も、結論はやはり多段階発癌。我々はYuri Nikiforovの論文を芽細胞発癌のエビデンスとしてよく引用していますが、彼はバリバリの多段階発癌論者です。」
S 「データとその解釈が乖離しているんですね。なんでそうなってしまうんですか。」
T 「”思い込み”でしょうね。そもそも多段階発癌説のエビデンスは豊富で芽細胞発癌説のエビデンスは無い、って書いている時点でかなり思い込みが入っているから。現象を正しく理解するために仮説を作るのが本筋なんだけど、どうも本末転倒になっていて、多段階発癌、という仮説に当てはめるために、色々な付帯条件をつけて無理やりデータを押し込んでるって感じはするよね。ところでFさん、多段階発癌説を支持すると思われるエビデンスは何ですか?」
F 「えーっ、またテストですか? 未分化癌で遺伝子異常が蓄積するっていうのは分化癌で見られる遺伝子異常が消えてしまうから使えないし・・・・。そうそう、正常甲状腺から分化癌がでるし、分化癌から未分化癌が出ますよね。」
T 「多段階発癌説のスタートはおそらくそこだったんだろうね。でもそれは僕が『男性専用車両からでてきたニューハーフ理論』と呼んでるものなんだ。」
F 「えーっ、それなんですか?」
T 「とってもわかりやすい例えなんだけれど品がないのでSさんの前で披露するのはやめておこう。つまり、組織レベルの話を細胞レベルの話と一緒にしてはダメ、ってことなんだ。」
S 「癌幹細胞の研究では未分化な細胞は分化した細胞に変化しますけど、決して逆は起こりませんからね。」
F 「でも、甲状腺の細胞株に癌遺伝子を入れたら悪性化するじゃないですか。」
T 「iPS細胞ができるくらいだから遺伝子改変したらなんでも起こり得るんだよ。実験室でできるから生体内で実際に起こっていると考えるのはかなり無理がある。」
S 「そもそも、分化した細胞が未分化な細胞に変化することは生体内ではなかなか起きませんね。ほとんどの細胞は未分化なものが分化することで形成されていますし。」
T 「そう、そういう特別なことが”癌細胞だから”という免罪符で許されるって誤解していたんだと思うよ。Fさん、ほかにエビデンスある?」
F 「えーっと、えーっと・・・ 偉い先生がみんなそうだと言ってるから。」
S 「ハハハハ・・・・」
T 「Sさん、実は笑いごとではないんですよ。これが現在最大最強のエビデンスだと思います。」
S 「40年も多段階発癌説でやってきてますから方向転換には時間がかかりますよね。ところで、流れが変わったのはやはり韓国の甲状腺癌の過剰診断問題ですか?」
T 「そうですね。恥ずかしながら2014年のAhnらのデータについては僕も事前に知らなくて、国際学会で韓国の研究者に会ったときに『あなたの論文読んでるよ。』ってやたら言われるのでなんでだろう、って思ってました。」
S 「あのデータは多段階発癌では説明できないですよね。将来悪性化する癌を超早期に見つけてしまったせいだとしても、年数がたてば必ず甲状腺癌の死亡率が下がってくるはずですから。」
T 「幸い韓国では甲状腺癌の超音波検査の数が減少に転じて、甲状腺癌の手術数も減少しています。」
S 「そこで今度は福島をどうするかという問題になってきますね。福島県民健康調査が始まって一番得をしたのは先生だって陰で言われていますよね。」
T 「それは言わないで(涙)。 あの時点で子供のうちから甲状腺癌は既にできているんだ、ということを多くの先生方に納得させることが叶わなかったのは自分の不徳のいたすところ、と反省しているから。」
F 「先生、学会で味方が少ないですもんね。もっと友達増やすように努力した方がいいですよー。」
T 「(怒)専門家の間でも意見の対立があるし、科学的な議論とは離れた思惑もあってちょっと福島の場合は問題が複雑なんです。まず、過剰診断とスクリーニング効果という2つの言葉がかなり定義をあいまいにして使われています。」
S 「過剰診断、っていうと言葉の響きがよくないから診療する立場からするとあまり使いたくないっていうのはわかるような気がしますね。でもこのあたりは特に専門家は用語を正確に使ってもらいたいですね。」
T 「韓国の場合は成人が相手だったので多段階発癌説の立場でも逃げることもできたのです。僕は間違っていると思うんだけれど、将来悪性化して死をもたらす甲状腺癌の超早期のものを切り取ったんだ、ってことでね。」
S 「甲状腺癌で死ぬ前に寿命で死んでしまうから結果として早期手術が無駄であったんだという解釈ですね。それなら多段階発癌説を主張することと、小さな癌を手術せずにおいておくことは矛盾しませんよね。」
T 「でもまあ、今、日本の臨床現場でされているように、小さな癌を長いことおいておくと未分化癌になります、でも小さな癌を手術せずにおいておいても大丈夫です、なんて説明で患者さんを納得させるのは難しいとは思うけどね。しかし、福島の場合はそうはいかない。こどもたちはこれから半世紀以上も生きていく。いくらスピードが遅いと言ってもこれから多段階発癌説で進行していくと仮定したら、こどもの時期に超音波で見つかる癌が将来発症しないはずがない。だから理論的にはたとえ小さくても見つかったものを手術しないという選択肢はあり得ない。」
S 「手術の時期が早すぎるんじゃないかって批判は出てくると思いますけど、将来発症するものを早期に見つけているのだ、というスクリーニング効果で正当化できますね。イギリスのウイリアムズも論文で甲状腺癌は子供のころに発生して高齢で悪性化して癌死をもたらす、って書いてますよね。でもあの解釈だと本来指数関数になるはずの癌の増殖曲線が、若年でいったん増えて、中年でプラトーになってまた高齢で増えだす、っていう3次関数みたいな奇妙なグラフにになってしまいますよね。」
T 「芽細胞発癌説では子供の甲状腺癌は高齢者で発生するものとは完全に別物で、悪性化しないしそのほとんどが悪さをする前に成長を止めるから、超音波で早期に見つけてしまうと明らかな過剰診断になるのでまずいんだよね。でも、多段階発癌の立場を取る限りこの検診は正当化されるんだ。」
F 「多段階発癌がひっくりかえらない限り検診はやめられない、って可能性もあるってことですか。それって確かにフクザツ。」
T 「将来悪性化するものに眼をつぶってていいのか、って絶対言われるからね。でも甲状腺癌に限って言えば今までの癌研究の常識で判断してはいけないんだ。そこまで踏み込めるかどうかだと思うよ。専門家でさえ理解できていないことで当事者である福島県民の理解を得るのも大変だろうし。」
F 「考え方の違いが大きな社会問題を引き起こすのかと思うと、医学理論って怖いんですね。」
T 「そう。医学の場合人の体を使って実験することができないから、間違った理論が大きな犠牲を払った末に訂正されるってこともしばしば起こっているんだ。Fさん、興味あるなら森鴎外でググってごらん。」
F 「えっ、あのなんとかって小説を書いた森鴎外ですか。」
T 「君はなんとか、ってくらいしかでてこないのかい。ちなみによい子は野口英世、でググったらいけないよ。」
F 「えっ、なんでですか。」
S 「世の中知らない方が幸せってことが結構あるんですよ。野口英世は偉人、ってことにしておきましょうよ。」
T 「Fさんは医学理論は怖いって言ったけど僕はそうは思わない。正しい考え方をすればいいんだよ。」
F 「その正しい考え方ってのが何かわからないんじゃないですか。」
S 「基本は数学的・物理学的に正しい、ってことじゃないですか。」
T 「そうです。数学や物理は決して間違うことはないですからね。医学をやっているとしばしば数理学的におかしいんじゃないかって思われる理論が広く信じられていることに気づかされます。そういう理論は一時期はもてはやされますが、遅かれ早かれ歪みがきて、いずれは消えゆく運命にあるのです。ただ、そのような理論が横行していること自体、医学の研究者が数理学的に考えることが苦手であるということの象徴だと思いますね。Fさんも物理をしっかり勉強した方がいいよ。」
F 「先生、知ってます?最近は物理を勉強しなくても医学部は受かるんですよ。私なんて中学から物理なんて一切勉強してませんし。」
T,S 「・・・・・・・・・・・・」

*注:この話は限りなくノンフィクションに近いです。登場人物も限りなく実際の人物に近いです(キャラが混在してますが)。 ちなみに研究室の雰囲気はほぼこの通りです。こんなマニアックな雰囲気を味わいたい方はどうぞ見学にいらしてください。



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