安楽死と延命医療の限界づけ
――ドイツにおける最近の安楽死議論から――
堀江 剛
(大阪産業大学非常勤講師・哲学倫理学)
以下の論考は、2000年 "Journal of Medicine and Philosophy" 誌に掲載された Stephan W. Sahm 氏の論文「緩和ケア vs. 安楽死。ドイツの位置:ターミナル医療ケアに関するドイツ連邦医師会の諸原則」(注1)に基づいて、主にドイツにおける安楽死議論について紹介することを目的とする。さらに、それと各国の安楽死に対する態度を比較しつつ、それぞれの社会が「生を終らせる決定」をめぐってどのような方策を形成しているのかを整理し、安楽死問題を考えるための手がかりを、筆者なりに与えてみたい。
1. 連邦医師会による原則見直しの経緯
1998年 9月、ドイツ連邦医師会は、ターミナル医療ケアに関する「死に付き添うための連邦医師会の諸原則 Grundsaetze der Bundesaerztekammer zur Sterbebegleitung」を発表した。すでに1993年、連邦医師会はターミナル医療ケアの問題を含んだ諸原則を打ち出していたが、世界各国やドイツ国内で安楽死に関する議論が高まる中、原則の改訂を迫られことになったのである。
また、この原則作成のための草稿が 1997年 5月に公開されたとき、マスメディアを通じて「非常に議論の余地のある」「安楽死容認への道を開くもの」として報道され、世論の間で大きな議論になった。多くの政治家や知識人たちも、安楽死問題に関連させて、この草稿を批判した。このため連邦医師会は、最終的な原則提示を前に、関連するあらゆる団体とともに議論を行い、この草稿を再検討するよう余儀なくされた。こうした事態は極めて異例のことであり、市民や大多数の医師たちからも大いに歓迎された。非常に多くの組織や個人が草稿の変更のための提案を送り、それらが再検討の議論の中で反映され、草稿は大幅に変更されることになった。
このように、最終的に発表された原則は(以下ではこれを《原則》と記す)、安楽死に関するドイツ内外の様々に異なる動向や公けの議論を汲み取った(あるいはそうせざるをえなかった)結果成立したものであると言える。そうした動向・議論を整理すれば、以下のようになる。
一方で(積極的)安楽死を認めていこうとする動向が、アメリカやオーストラリアの幾つかの州やオランダおよびスイスで、90年代半ばに展開されていた。特にオランダの(積極的)安楽死に対する極めて「寛容な」態度は、隣国ドイツの医療界に安楽死に関する何らかの態度決定を迫るものであった。
他方ドイツ国内には、戦前ナチスが行った「無能力者・障害者の安楽死」に対する強烈な拒否の態度があり、一旦安楽死を認めれば、それがなし崩し的に「人を正当に殺すための法」になりかねないとの疑念が強い。ドイツ国内のマスメディアや政治家は、こうした疑念を代表するかたちで連邦医師会の草稿を批判したのであった。
加えて90年代半ばには、ドイツ最高裁判所が生命維持措置中止に関する幾つかの判決を下していた。その中には、患者の推定された意思が生命維持措置中止に際して決定力を有することを初めて認めた判決もあったが、(積極的)安楽死に関して踏み込んだ判断からはほど遠く、その法的な是非に関して不明瞭感を取り払うものではなかった。
2. 改訂版《原則》の特徴
さて、こうして改訂された《原則》の特徴を見ることにしよう。
(a):「積極的・消極的安楽死」という言葉の使用を慎重に避け、代わりに「措置目的の変更」および「限界づけ」という表現を用いている。
(b):死のための基本ケアを提供することが、医師に無条件に義務づけられている。基本ケアは緩和を目的とし、生命維持措置の中止を排除しない。むしろ十分な緩和ケア提供の義務を強調している。
(c):人工栄養は基本ケアとしては考慮されていない。ただ「飢え・渇きを満たす」義務が言われているだけである。これは、人工栄養・酸素の用意に対する義務が主観レベルに移されたことを意味する。
(d):生命が脅かされてはいるが死には近くない状況にある患者に対しては、人工栄養を含む生命維持措置の提供が義務づけられている。しかし、生命維持措置の中止は、それが患者の申告と推定意思に適っているならば、モラルとして正しいであろう、と言われている。
(e):明確に「積極的安楽死」が拒絶され、医師による自殺介助は専門家のルールを犯すものとされる。
(f):いわゆる「事前指定書」は、現状では合意できない患者の推定意思の証拠であると見なされる。事前指定書は、この《原則》において初めて言及されたものである。
大雑把に分けると、前半 (a),(b),(c) が「緩和ケア」遂行に関する議論であり、後半
(d),(e),(f) は「積極的安楽死・自殺介助」に関する議論である。別の言い方をすると、前半は「生を終らせるためのプロセスに入るかどうかの決定」をめぐる問題であり、後半は「生を終らせるかどうかの決定」をめぐる問題である(これは論文の著者の言葉ではなく、筆者の区分けである)。一見して分かるように、《原則》は前半の決定を医師に義務づけ、後半の決定を拒絶している。前半
(a),(b) 及び後半(d),(e) に関する考察は次章以降に譲るとして、ここではまず(c),(f)
について簡単に触れておく。
(c)について、最初の草稿では「自然栄養 natural feeding」遂行の義務が言われていた。従って、その反対概念である「人工栄養
artificial feeding」は基本ケアとしては義務づけられない、と解釈できるものであった。マスメディアは、基本ケアに自然栄養しか入っていないのは問題であり、これは安楽死行為を暗黙のうちに許す危険があるとまで批判した。また植物状態患者たちの代表は、患者に対する人工栄養の要求から逃れるための理由になる恐れがあると訴えた。さらに、人工栄養停止の決定が経済的な関心に左右される危険があると非難された。
連邦医師会はこうした疑念を否定しつつ、「自然/人工栄養」という区別に誤解の余地があることを認めた。《原則》の最終文面では、「飢え・渇きを満たすことを義務づける」という表現に変更された。つまり自然/人工という区別が問題なのではなく、患者における「飢え・渇き」の除去が問題なのであって、それは必ずしも人工的な栄養補給を基本ケアから外すことではない、ということが明確にされた。また、こうした場合「経済的な事情に左右されてはならない」という文が加えられた。
(f)について。ドイツでも、事前指定書として「死を終らせる決定」に関する自分の意思を表明する方法は普及しつつある。厳密には法的な拘束力はないが、それはますます考慮されるようになってきている。《原則》では、初めてそれに積極的なかたちで触れている。ドイツでの事前指定書の書式はアメリカのそれと変わらないし、書式に関する問題も今のところ出ていない。
3. 安楽死の概念と延命医療の「限界づけ」
ドイツでは、医療倫理の世界で議論されている「安楽死 euthanasia」の意味を示すとき、"Euthanasie" の代わりに "Sterbehilfe"(「死を助ける」)という語を用いる。これは、ナチス時代に使用され、戦後では極めて否定的な意味を含む "Euthanasie"という言葉を避けるためである。しかし《原則》は、今日ドイツ社会で一般的になっている "Sterbehilfe" という言葉さえも、慎重に避けている。《原則》の中でこの言葉が使用されているのは、いわゆる「積極的安楽死 aktive Sterbehilfe」を拒否する部分ただ一ケ所である。また、表題には "Sterbebegleitung"(「死に付き添う」)という新造語が掲げられている。
《原則》におけるこうした用語上の工夫には、今日議論されている「安楽死」の問題設定そのものに対する反省(あるいは見直し)の態度が反映されている。とりわけ医療の臨床場面では、安楽死を「積極的/消極的 active/passive」ないし「殺す/死に任せる」というかたちで区別することへの疑念と困難があり、それをどのように解消するかという問題がここに含まれている。
他の国々と同様に、ドイツでもこれまで安楽死を議論する際には、積極的/消極的という区分けが一つの基準になっていた。この区別に従えば、末期患者を「死に任せる」目的での生命維持措置中止は、消極的安楽死行為になり道徳的に正しいと判断される。そして法的にも処罰されない。しかしもし維持装置のスイッチを切ることが必要になった場合、この行為が「積極的」なものである事実は動かせない。ここから曖昧な事態が生じる。法律家によって消極的安楽死と考えられるものが、積極的行為の範疇に入ることになりうるからである。また積極的安楽死において、それが積極的行為であるという理由で道徳的に正しくないと判断されるならば、そもそも一連の医療「行為」であるターミナル措置そのものが、どうして消極的安楽死として容認されるのか理解困難となる。
純理論的に考えて、行為に積極的/消極的という区別はない。ある行為の必要があれば、そこに必ず行為する/しないの決定が必要となる。この決定は不可避であり、それ自身一つの行為である。だから、消極的安楽死の定義である「苦しむのを長引かせないため、延命治療を中止して死期を早める“不作為”」という表現は形容矛盾である。それは純然な行為(=作為)である。また現実的に考えても、つまりターミナル医療の臨床においても、この区別は常に、曖昧さを含むものとしてしか捉えられない。結局、安楽死議論における「積極的/消極的」という区別の問題設定そのものを変えなければ話は進まない。
《原則》が採った方向は、医療措置行為における義務をまず明確に定めることであった。そしてターミナル医療が「生を終らせる決定」に必然的に関わるとすれば、そこにある「行為」を消極的にではなく、むしろ一定の医療目的に適った積極的な「義務」として提示することであった。《原則》は次のように言う。
「医師の義務は、患者の自己決定権を尊重しつつ、その生命を維持すること、その健康を守り・回復させること、そして苦しみを緩和し、ターミナル患者を死に至るまでサポートすることである。しかし生命維持という医療的責務は、あらゆる事情において成立するわけではない。妥当な診断や治療処置がもはや示されず、限界づけが必要になってくる状況がある。そこで緩和医療的ケアが前面に登場する。」(注2)
「医師には、ターミナル患者(すなわち、生命に関わる一つもくしは複数の機能が不可逆的欠損に陥った病人あるいはけが人で、近いうちに死が訪れると予想される人)を、尊厳ある死が可能となるようなかたちで援助する義務がある。・・・まだターミナル期にはないが、その危険が予想される患者に対しては、措置目的の変更が問題になる。それは、病気が非常に進んでおり生命維持措置が苦しみを長引かせることにしかならない場合にのみ考慮される。つまり、延命および生命維持に代わって、緩和医療的・看護的処置が採られる。こうした措置目的の変更の決定は、患者の意思に対応するものでなければならない。」(注3)
ここでポイントになるのは、延命医療における「限界づけ Begrenzung, limitation」あるいは「措置目的の変更 eine Aenderung des Behandlungszieles, a change in the treatment objective」という概念である。これを基軸にして、「生を終らせる」ためのターミナルケアが積極的な「義務」行為として位置づけられるようになる。それは「消極的」に安楽死を実行することではない。
ところでこのような「限界づけ」は、医療行為そのものがつきあたる「限界」とは明確に区別されなければならない。つまり、延命治療の努力の果てに死が訪れるという意味での「果て」ではない。そのような意味であれば、その後の医療措置の「義務」は語りえない。そうではなく、ここでは医療システムが自らの内側に「延命治療を中止するかどうか」ないし「措置目的を変更するかどうか」の決定線を引くことが問題になっているのである。もちろんその決定は「患者の意思に対応するものでなければならない」。
4. 積極的安楽死・自殺介助の拒絶
「積極的安楽死は、たとえ患者の要請があったとしても、容認し難いものであり、法的に罰せられる。医師が自殺を介助することは、医療の倫理と矛盾するものであり、罰せられる可能性がある。」(注4)
このように、《原則》は積極的安楽死および自殺介助をはっきりと拒絶する。すでに1995, 6年のドイツ医療会議では、積極的安楽死は明確に拒絶されていたが、それが再度強調されることになったのである。実際、幾つかの調査・研究においても、ドイツにおける医師の(積極的)安楽死に対する態度はいずれも否定的である。また、積極的安楽死を推進しようとする医師の目立った運動は、現在ドイツには見られない。しかし諸外国の安楽死を認めようとする動向の中で、《原則》が明確に否定的な態度を示した(あるいは見直し議論の中でそうせざるをえなかった)ことは、やはり一つを意味を持つと言えるだろう。
さらに、《原則》がこのような明確な態度を示すことができた理由として、次のことが考えられる。すなわち先の「限界づけ」における義務が明確になっているからこそ、積極的安楽死をはっきりと拒絶することができた。ある意味で、積極的安楽死の遂行や自殺介助は、延命治療の「限界づけ」決定およびそれ以後の医療措置義務を怠ることから生じうる事態である。別の言い方をすると、「生を終らせるためのプロセスに入るかどうかの決定」を明確にすることで、医師によって「生を終らせるかどうかの決定」が無規定的に用いられる(あるいは患者が要求する)可能性に一定の歯止めをかけることができたのである。
とはいえ、《原則》が安楽死と緩和ケアに関する関係を完全にクリアにしているわけではない。特に、先に(d)として特徴づけたものは、恐らくそれが臨床場面の実際であろうと想像されるものの、その不明瞭さをよく表している。つまり「生命が脅かされてはいるが死には近くない状況にある患者に対しては、人工栄養を含む生命維持措置の提供が義務づけられている」にもかかわらず「生命維持措置の中止は、それが患者の申告と推定意思に適っているならば、モラルとして正しい」と言われている。これは「たとえ患者の要請があったとしても容認し難い」積極的安楽死の場合と、微妙に食い違うように思われる。しかし、これ以上は具体的なケースの問題として考察されるべきであり、理屈だけを通すのは慎まなければならない。
ところで、積極的安楽死・自殺介助が支持ないし拒絶されなければならないことの根拠は、どこにあるのだろうか。それは《原則》には書かれていない。しかし論文の著者 Stephan W. Sahm 氏は、《原則》支持の立場から、この拒絶の根拠に関する考察を行っている。それをここで手短に見ておこう。
第一に、(積極的)安楽死の支持者は、基本的に患者の「死ぬ権利」に対する自律的な判断を根拠にしている。確かに人間の自律性を尊重することは大切なことであるが、それがあらゆる道徳的な正しさを根拠づける唯一のものであるとは言い難い。人間は自然的な被造物でもあるのだから、その「自然性 naturalness」も、自律性と同じように尊重すべきなのではないか。自然で尊厳ある死もまた大切にするべきである。
第二に、このような人々はまた、安楽死が数少ないケースや極端な状況に限定されるべきだ、とも主張する場合が多い。しかしそれは論理的に矛盾した主張である。なぜなら、もし人間の自律性に基づいてあらゆる事柄が正当化されるとすれば、いかなるケースや状況にもかかわりなく、常に「自らの生を終らせる」権利を主張しなければならないはずだ。
第三に、現在の西欧社会は急激な高齢化によって特徴づけられ、それ故に「安楽死容認」が政治的・経済的な理由で乱用され、「望まれない安楽死」といったものを引き起こす危険を孕んでいる。現にオランダでは、年間千件以上もの安楽死が報告されているが、これは非常に高い数字であり、その中には「望まれない安楽死」も含まれている可能性がある。
第四に、積極的安楽死や自殺介助がやむを得ず許される場面があるとすれば、それは関係者同士の極めて親密な関係が成立しているときである。しかし通常、医師と患者との関係はそのようなものではなく、社会的なものである。しかも医師は専門家として「生を終らせる」ための大きな力を一方的に所有している。安楽死が広く社会的に広まれば、逆に人々は自らの生を終らせる自由な行為を、そうした力によって制限されることになるのではないか。
5. 《原則》に対する筆者の評価
以上で、ドイツ連邦医師会《原則》をめぐっての安楽死論争の紹介を終る。すでに述べたように《原則》は、安楽死に関するドイツ内外の様々に異なる動向や公けの議論を汲み取った結果成立したものである。それは、医療界が延命医療の「限界づけ」を明示することによって(積極的)安楽死の問題に応える、という構成をとっている。ここで三点だけに絞って、《原則》に対する筆者の評価を加えることにする。
第一に、延命医療の「限界づけ」及びその後の緩和ケアを「義務」として明示したことは、医療を遂行する側の態度決定として評価できる。積極的/消極的安楽死という区別を回避することは、ドイツでの議論に限らず、今日では一般的な傾向である。それは通常、積極的/消極的安楽死を「安楽死/尊厳死」という言い方に置き換えるかたちで行なわれている。《原則》は、この「尊厳死」を臨床の側から明示的に規定し、そのことで「消極的安楽死」という法的・臨床的に曖昧な表現を放棄しえたのである。
しかし第二に、医療側からの「限界づけ」あるいは「措置目的の変更」がどのようになされるのか、ということが問題になる。それは、先に(d)で述べた「生命維持措置中止」をめぐる不明瞭さにも関係する。こうした事柄を「患者の意思を十分尊重し、家族・スタッフと話し合った上で医師が決定する」と言うだけでは、単に医療主導による「生を終らせる決定」を確認しているだけではないのか、という疑問が残る。医療システムに従事する者とそれを利用する者との間でどのように決定がなされるべきか、ということに対する踏み込んだ議論がない。ここには、そもそも《原則》が連邦医師会の作成したガイドライン以上のものではない、という限界がある。
第三に、《原則》を読んでみると「積極的安楽死拒絶」少し唐突に宣言されているような印象を受ける。《原則》は積極的/消極的安楽死の区別を回避しておきながら、何の定義もなしに「積極的安楽死は容認し難い」と宣言しているだけである。これは恐らく、改訂の論争過程の中で医師会が世論やマスメディアに向けて明言せざるを得なかった文言なのであろうと予測される。つまり「積極的安楽死拒絶」宣言は、世論の圧力というある種の政治的配慮によるものであって、医師会の中で「そもそも積極的安楽死とはどのような事態なのか、なぜそれが必要とされるのか」といった議論の結果ではないように思える。しかし、公けの議論をくぐり抜ける過程でこうした宣言が《原則》に盛り込まれたということは評価しなければならない。それはやはり、ドイツの人々の積極的な態度決定であったのである。
6. 生を終らせる決定のバリエーション
最後に、これまでの議論をふまえながら、世界で起こっている安楽死議論をある観点から簡単に整理し、またそれを安楽死の個別のケースを考える上でのヒントとして示し、安楽死問題を考えるための材料としたい。ここで「ある観点」というのは、様々に異なる社会が「生を終らせる決定」をめぐってどのような方策を形成しているのか、そのバリエーションを考えてみることである。私たちはドイツの場合を検討したことによって、安楽死問題に関する先進国であるアメリカやオランダとは別の方策を見ることができた。つまり、問題を考えるための選択の範囲が少し広がった。今ここで、その広がりを利用してみたいのである。
長い間の人間社会の習慣として、一般に生は「終る」ものであって「終らせる」ものではないという観念が支配的であった。それは「とにかく生かす」ことを理念とした近代医療の発達を通じて、ますます固定化された。しかしまた、組織的・技術的に管理されて「とにかく生かされる」場面が広がる中で、今度はどのように「生を終らせる」かの「決定」の問題が社会の中で広がってきた。これが「安楽死の是非」という問題となって現れているのである。それは、一定の倫理観や形式的な論拠づけによって一般的に確定されるものではない。むしろ、様々に異なる社会において形成される様々な方策のバリエーションとして見い出される。いまそれを四つに整理してみると、
A:「生を終らせるのは誰か」それは「関係者か当事者か」という決定主体に着目して、基本的に「生を終らせる」のは当事者自身が決定し、関係者(医師)はそれを補助するだけであると考える。患者の自己決定権を、安楽死実行のための根拠として持ち出す方策。医療における様々な問題を、権利をめぐる法廷上の争いとして解決しようとするアメリカ型。
B:「生を終らせるのはどのような手続きによるか」という決定形態に着目して、そのためのネットワークや制度を整備していこうと考える。例えば、ホームドクター制度の普及、それとの地方の法律機関との密度の濃い連係を形成することなど。こうした諸制度の機能を前提にして安楽死に寛容な態度をとるオランダ型。
C:「生を終らせるのはどのような決定によるか」それは「終らせるためのプロセスに入る決定か、それとも終らせるという決定そのものか」という決定種類に着目して、前者を明確にすることによって後者を拒絶できると考える。(積極的)安楽死は認め難いということを前提にして、それでも何らかの積極的な「決定」を、とりあえず医療システム主導の下で実現しようとするドイツ型。
D:「生を終らせる決定」の問題を、とりあえず先延ばしにする。多くの国や社会は、今のところこのような状況にある。
もちろん、これらの中のどれか一つの決まった型を、社会が選んでいるわけではない。例えば、患者の自己決定権は、今日ではどのような社会でも考慮されなければならない事項に入っているし、C の型は今日の医療が緩和ケアを充実させる中で現実的なものとなっている。また、どのような社会でも「生を終らせる決定」を常に実行しているわけではなく、多かれ少なかれ問題を先延ばしにせざるを得ないことがある。けれども、何らかの型を優先させて(先延ばしも含めて)社会は問題に対処していることも確かである。私たちの社会は、どのような型を組み合わせたり優先させたりしているのだろうか、あるいは新しい型を作り出すことができるのだろうか。筆者の考えでは、安楽死を容認するにせよそうでないにせよ、「生を終らせる決定」のための「手続き・制度」を充実させることが最も重要な事柄であるように思われる。
しかしまた、安楽死および緩和ケアの議論は、このような一般的な型に還元されて終るものでもない。「生を終らせる決定」は、いずれにしてもそれぞれの個々の状況として、そこで関係している人々が「決定」しなければならない問題だからである。こうした事柄を見落とさないために、ここで一つの発想の転換を提案したい。それは、このような個別的な「決定」状況とともに生じる関係もまた、一つのその場の「社会」であると考えることである。それは大きな社会の中の小さな社会であるが、「生を終らせる決定」に関わっている点では、大きな社会と同じである。そして、その個別の「社会」あるいは個別のケースにおいて「誰が」「どのような手続きで」「どのような種類の」決定を行う(あるいは先延ばしにする)のか、そのうちの何を優先させているのか、こうしたことをその都度のケースで考える必要がある。
〈注〉
(1)"Palliative Care versus Euthanasia. The German Position: The
German General Medical Council's Principles for Medical Care of the Terminally
Ill." by Stephan W. Sahm (Deutsche Klinik fuer Diagnostik), Journal
of Medicine and Philosophy, 2000. Vol. 25. No. 2, pp. 195-219.
(2)Bundesaerztekammer(1998). "Grundsaetze der Bundesaerztekammer zur Sterbebegleitung," Deutsches Aerzteblatt 95, A2365-2366, p. 254. 尚この文書はhttp://www.bundesaerztekammer.de/30/Richtlinien/Empfidx/Sterbebegl.html でも閲覧することができる。
(3)Bundesaerztekammer(1998). p. 255.
(4)Bundesaerztekammer(1998). p. 254.
BACK