医療におけるコミュニケーションと「ソクラテス的対話」
中岡成文
(大阪大学大学院文学研究科教授・臨床哲学;
同医学系研究科兼任教授・医の倫理学)
小論では、ドイツの哲学者ホルスト・グロンケによる「医師・患者の相談のモデルとしてのソクラテス的対話」(『看護・介護雑誌』第2巻第4号、2001年)*をもとにして、医療におけるコミュニケーション状況を改善するために「ソクラテス的対話」という哲学的グループワークを活用する試みについて報告する。
グロンケはドイツの「ソクラティク哲学協会」のメンバーで、ソクラテス的対話の進行役(英語でファシリテーター)の資格を同協会より認定されており、現時点でのソクラテス的対話の理論的指導者の一人でもある。ベルリン自由大学哲学部のハンス・ヨナス・センターに勤め、「倫理と医療の対話」というプロジェクトのコーディネーターでもある。
*Horst Gronke, Das Sokratische Gespraech als Vorbild fuer das beratende Gespraech zwischen Arzt und Patient, Pflegemagazin, 2. Jg. 2001 Heft 4.
1 ソクラテス的対話と医療
グロンケは上述の論文の序で、次のように説き起こしている。医師・患者の対話(また一般に医療者と患者との間の対話でも同じ)で、医師にとってとくに大切なのは、一方では患者から意味深い情報を手に入れ、他方では患者に診断や治療方法についての提案を適切に伝えることである。看護者にとってもまた、患者をケアし、治療措置を実施するさいに、患者との意思疎通は様々な仕方で必要になる。他方で、患者の側の課題は、自分の気になることを対話にうまく持ち出すこと、自分が協力者(治療方針の決定やその実施に関して、またそれ以前に既往歴を語ることや診断を下すことに関して)であると感じられるようにすることである。
医師・患者の対話(相談)がうまくいった場合、対話は一方向的ではなく、双方向的となる。こういった理想的な形にするために、「ソクラテス的対話」が多くの有益な手段を提供できるとグロンケは考えている。「ソクラテス的対話(ソクラティク・ダイアローグ)」は、いうまでもなく古代ギリシアの哲人ソクラテスと、その弟子プラトンが著したいくつかの「ソクラテス対話編」にさかのぼるが、20世紀に入って、ドイツの哲学者・教育学者レオナルト・ネルゾンLeonard Nelsonとグスタフ・ヘックマンGustav Heckmannによってグループワーク方法論として改良されたのち、とくにここ10年間、相互了解や真理を目指す理性的な相談の形として、ドイツ内外の多くの会社・公共機関で採用される度合いが高まっている。
2 今日の医療者に求められるコミュニケーション
L・レーバインなどを引用しながら、グロンケは次のように論じる。「今日の患者は20年前の患者がまだ持っていたのとは違う願望を持っている。価値転換がスピードアップし、とくに個性の自覚が高まるにつれて、患者の個人的願望がより前面に出るようになった。患者がより多くの情報を手に入れられるようになると、医療ケアの質に対する要求が高まる」。患者はメディアから情報を手に入れて、診察にやってくる。「短時間の診断とそれに続く薬の処方では、今日の患者たちはもう満足しないといっていい。患者(中略)は自分もまた医師の決定と行動のプロセスに参加したいと思っているのだが、それだけではない。それに加えて、病気を克服するためには患者の自己責任がしだいに重要になっているという事情もあるので、医師の側ではたんに指示を出すだけではなく、患者の質問、気がかり、不安を引き受けること、いや患者を励まして話をするよう仕向け、できるだけたくさんのコミュニケーションがとれるようにすることが必要なのである」。
このように目の肥えた、要求の多い患者に対して、医療者はどう向き合っているのだろうか。「こういった患者の要求に応えて、きちんと話し合える医師はまれである。患者とコミュニケーションをとること、とくに話し合って助言を与えることは、医師にとっては肝心な仕事で、患者から強く求められるのではあるが、たとえば医師の教育や再教育においてこの点にはまだ比較的わずかな意義しか認められていない。医師と患者のコミュニケーションがテーマとして取り上げられるとしても、それは「患者を病気の情報源として利用するだけの技術的手引きの観点から行われることがしばしばであり、患者を苦しみを抱えた、しかし自己責任をとりうる人間としてはあまり見ていない」(W・プファイファー)」。
医師の患者に対する、また同じ医療者に対するコミュニケーションの姿勢について、グロンケは批判的コメントを続けて、次のようにも述べている。「至る所で〈これだけやっておけばいい〉という態度が目につく――個々の症状を治療しておけばそれでいいとか、重要な対話や相互行為のパートナー(看護者、医療補助者、患者世話人など)を軽く扱うとか、対話のなかで相手の言うことにはあまり耳をかさない(パターナリズム的で子どもをあしらうような物言いになることが少なくない)とか」。
3 制度とハート
医師がこのようにコミュニケーションに消極的なのには、制度から来る理由もある。経済的インセンティヴが欠けているのである。コミュニケーションとか助言的な話し合いをしても儲からない。「医療ケアにとって、ケアされた患者の数のほうが、どれほどコミュニケーション的な対応がされたかということより大切な基準になることが多い」とL・レーバインも述べているとおりである。丁寧に患者さんに説明しても、それは医療報酬に跳ね返らない。これは現在の医療制度の欠陥と言えるかもしれない。けれども、むろんお金がすべてではない。かりに制度を変えて、「コミュニケーションや助言的話し合いのコストに対して金銭的報酬を払うとしても、それだけで良い助言的話し合いをしようという動機づけが高まると考えてはならない」とグロンケはいう。むしろ、逆である。ホイベルの言葉を借りれば、「プロの意識にとっては、援助への努力が先にあるのであって、その努力を認めてほしい――金銭的にも認定してほしい――という当然の要求はその後ではじめて生ずるのである」。
ソクラテス的対話の推進者として、グロンケは、医療者の意識を条件づける医療制度のあり方にも注意を払う一方、個々の医療者の自覚を強く促している。そして、その自覚を育て上げるべき医学教育のあり方に警鐘を鳴らしている。彼はシャハトナーとともに、次のように論じている。「あらゆる問題をシステムのせいにしたがる傾向があるが、問題はシステムだけにあるのではなく、医療者の頭と心にもある。医療者が教育されるとき、対話のエトス(気風)を作り上げたり、このエトスに見合った対話能力を育てたりすることにはほとんど重きがおかれないのである」。しかし、なぜそれほど患者との対話が大切なのか。クライアントを丁重に扱い、その要求に対応するという、他のサービス業と共通する心得からか。それだけではない。「社会心身論的な観点から言って、病気の定義に際しては、患者自身の〈感じ〉が決定的な役割を果たすのであって、定義する能力は医師だけに認められているわけではない」。
これはたいへん重要な指摘だが、筆者としては、関連してもう少し考えてみたい点もある。たとえば、風邪という身近な病気は、おそらく医学的正確さをもっては扱いにくいものであろう。風邪で医者にかかったとき、患者はよくとまどいを感じる。患者が「風邪のようです」というと、それが基本的には信じられ、処方される薬も、患者が症状をどう自己判断しているかに依存する。ほとんどの医師は、「風邪にかかったと思ったときの患者の行動パターン」をやむを得ないものとしてただ受け入れているのであり、それに問題があると思っても真剣に介入し、患者の認識を変える(啓蒙する)ことはしない。これは、上述の定義に関する医師と患者の共同作業とは言えないだろう。
4 患者も対話を学ぶべきである
さて、そうはいっても、医師と患者の関係がこのように一面的なのも無理からぬ面があると、グロンケは率直に認める。医師はプロで患者は素人だという点で、両者はしょせん同等ではない。だから、患者を同等の自律的人間として敬意を払うように医師の態度を変えさせるというだけでは、問題の一面にしか対処していない。専門家としてのプライドと決断力をもって頑固に治療に臨む姿勢も、患者の自律を認めて柔軟に対話する姿勢も、どちらも医療者には必要なのだけれども、二つはなかなか両立しないし、二つの間の切り替えも困難なのである。グロンケは言う。この対立を「克服するには、特別な対話能力を育成しなければならない。医療者は対話の素人にとどまっていてはならず、対話の専門家にならなければならない。なぜなら、癒しの技術とは対話の技術で(もまた)あるからである」。
他方で、ソクラテス的対話の推進者グロンケとしては、患者側の賢明な対話的成長をも期待して、次のようにいう。「似たようなことは患者、とくに慢性病の長期患者で医療者と対話することが多い人々にも言える。こういった患者の場合、対話能力を身につけて、対話が成功するように積極的に影響力を行使することが大切である」。
5 医療者は患者とどう話せばいいのか――パートナー的医療に向けて
医療者が患者と有効な話し合いを持つことは、どんな点で難しいのだろうか。グロンケは次の問題点をあげている。
*患者中心の有効な対話ができない
*問題点がよく見えてくるように対話を持っていくことができない
*対話を肝心の点に集中させることができず、話が脱線してとりとめがなくなる
*無理のない、自然な対話の流れを作り出せない
こういったコミュニケーション不全は、個々の当事者(医療者と患者)の資質に左右されるところも大きいだろうが、それを解決するには特別な訓練、教育を受けなければだめだとグロンケは主張する。「パートナー的な医療・看護」に向けた対話が必要だと彼はいうのである。つまり、一方では〈黙って医者のいうことを聞いていればいい〉という伝統的な家父長的な医療、他方では近年の経営重視の観点に影響された〈患者さまは神様です〉的な医療という両極端を避け、医療者と患者がほんとうに相手の言うことに耳を傾け、自分も変わっていく、パートナー的な医療を作り出すことが求められているのである。
さて、それでは、パートナー的医療を実現するために、どのような対話をしていくことが具体的に必要なのだろうか。とりあえずのキーワードは、もちろん患者の自己決定の尊重である。医療者は、患者の責任をもった自己決定をサポートすることが大切である。ただし、たんに形式だけではない、実質を伴う自己決定とは何かを考えてみなければならない。一人の医師と一人の患者が向き合う診察室、あるいは一人のナースが一人の患者を訪れるベッドサイドだけがコミュニケーションの場のすべてではなく、その外部にも、医療のコミュニケーションに影響を与える要因は様々に広がっている。つまり、医師・患者のコミュニケーションは多次元にわたるものなので、多次元性から来る困難も考慮に入れなければならない。「患者の自己決定、自律を尊重する」とだけいって済ますわけにはいかない、複雑な影響因子を考えてみると、次のようなものがあるとグロンケは指摘する。
*対話そのものの事実的経過
*対話の目標設定
*対話に直接間接に関与する人々
*制度に関して枠組みとなる条件
グロンケはずばりと言う。「医師・患者の対話は私的な対話とは違って、制度的にあらかじめ規定されており、患者の自律を制限せざるをえない、特殊な役割期待がどうしても入ってくる」。人間の自己決定、自律が擁護される背景には、個人主義的、また理性主義的な哲学や人間観があるが、いくつかの点でこれらの哲学・人間観は疑問をもたれている。グロンケは次のように述べている。「自律モデルの根本には患者は理性的に行動するという想定があるが、これが主要な問題である。この理性的だという想定は、現在では「批判的クライアント」というモデルにすぐ結びつくが、これは一面的であって、理性的な患者は実際にはまれにしかいないのである」。合理主義の意味内容が問題である。L・アルノルトの言葉を借りれば、「患者は非合理的に振る舞うものであって、合理的消費者とは違う。患者は(中略)選択の基準をしばしば「信頼」とか「希望」という言葉で言い表す」のである。
コミュニケーション倫理学のJ・ハーバーマスは合理性に二つの種類があると指摘した。ふつう合理的といわれるのは、目的追求的・戦略的な合理性であり、この観点からすると他人は自分の行動のための道具、手段とみなされることが多い。それに対し、ハーバーマスはコミュニケーション的合理性、つまり相手と対話的に交わり、論理的に筋の通った発言をすることを目指す合理性があると考えている。グロンケ自身にも、コミュニケーション倫理学とソクラテス的対話とを比較した仕事がある。さて、そのグロンケがいうには、「上述のとおり、患者の言動は治療プロセスからも、制度からも、対人関係からも影響を被る。したがって、医師や看護者の行為が根本的に次のようなジレンマに巻き込まれていることは明らかである。すなわち、医師や看護者は一方では患者を治療し、ケアするが、そのときは患者を行為の〈対象〉とするのであり、他方では患者の「助言者、必要ならばとりなし人、弁護者」(ラーベ)となって、患者の主体役割を代わって演じなければならない」。
医療者が患者との関係で巻き込まれるこのジレンマを、先ほどの二種類の合理性に引きつけていうと、次のようになる。「医師や看護者の行為は、あるときは主として相互了解に基づく患者とのコミュニケーション的な協力に、別なときは患者から望ましい反応を引き出そうと一方的に働きかけることを主眼とする戦略的なやり方にと、くるくる変わることになる」。患者を自分と同等で相談するに足る相手と見るか、基本的に格下の相手でふつうでは話が通じない(コミュニケーションのギャップがあるので、それ以外の手段で操作しなければならない)と見るか。これは医療者にとって大きな態度の分岐点となるはずで、これら二つを両立させることはほとんど不可能と思えてしまうだろう。ところが、グロンケは、ここでソクラテス的方法が基本的なサポートを行い、医療者と患者の対話スタイルをコミュニケーション的理想に近づけることができると主張するのである。
6 ソクラテス的対話をどう応用するか
グロンケはソクラテス的対話の基本的説明を行っているが、ここではそれは割愛したい。筆者はイギリス、ドイツ、日本(大阪大学大学院文学研究科の臨床哲学研究室が中心)で何度かソクラテス的対話(グロンケが「ソクラテス的に方向づけられた対話」と呼ぶものを含めて)に参加しているが、このグループワークの有効性は、実際にそれを体験してみないと理解してもらえない。自分や他の参加者の具体的体験に基づき、いわば一期一会で対話し合うことで、参加者たちは自分が倫理的に変わるチャンスを実感することができる。その点で、この方法論は他の議論とは異質なのである。ソクラテス的対話について基本的な知識を得たい方は、上記臨床哲学研究室が発行している小冊子『臨床哲学のメチエ』第7号(2000年秋冬合併号)で特集されているので、参照していただきたい。
さて、グロンケはこの方法論を医師・患者の対話にどのように応用しようというのだろうか。彼はいう。「ソクラテス的に行われる医師・患者対話では、ふつう、ソクラテス的に方向づけられた対話が適切な形となる」。つまり、長時間かけて行い、進行役(ファシリテーター)が完全に中立的に振る舞う正規のソクラテス的対話とは違う、いわば準ソクラテス的対話形式が、医師・患者を集めて行われる対話では適当だというのである。この準対話が純粋なソクラテス的対話と違うところは、「対話をリードする人物(これは医師や看護者である必要はなく、患者であってもよい)が2つの役割を引き受ける点である。この人物は、対話参加者としては自分なりの内容に踏み込んだ発言をし、ソクラテス的対話徳目を肝に銘じ、それにかなった対話行為を実践するよう努めるのであるが、対話の同伴者としては、ソクラテス的に良い要因を強める一方では、ソクラテス的に悪い要因を抑えるようにして、対話のダイナミズムに影響力を行使し、メタ的観点から対話が構造を崩さずに進んでいくようにリードする」。つまり、ここでグロンケが提案する準対話では、進行役は医療者が引き受けることが多いが、患者でもよく、いずれにせよ進行役として全体の進行をコントロールする傍らで、一人の参加者として対話に内容的に参加してもよい(ここがふつうのソクラテス的対話と違う)。つまり、進行役は二足のわらじをはくのである。
グロンケはさらに論じ続ける。「対話同伴的な働きかけは、対話を構造化し、リードする介入が主であり、それはたいていは対話を刺激し、構造化する問いの形をとる。対話同伴者として、対話をリードする参加者は、あらゆる対話参加者がたとえば次の点を満たしているかどうかに気をつける」。彼があげている点とは、たとえば参加者が互いに理解し合っているかどうか(「あなたはこのことを理解しましたか?」と問うてみる)、あるいは具体的状況から離れていないかどうか(「それはこの場合どこに具体的に表れていますか?」と問うてみる)などであるが、これもソクラテス的対話の一般論に帰着するので、ここでは省略する。
グロンケが強調するのは、対話に参加する医療者と患者との間に厳としてある権力格差である。医師の権力が大きければ大きいほど、対話は彼ないし彼女の発言によって左右されることになりやすい。だからこそ、医師は対話のうちで、「自分のテーゼ(命題)を立てること、あるいはいわゆる閉じられた問い、ないし決定する問い(「……ということではないか?」)の形をとるテーゼを立てることはあきらめるべきであり、とくに対話の導入場面ではこのことは大切である。ある対話局面の結果をみんなが承認することが確かになったときに、はじめて決定する問いを立てることができる」。
それよりも、対話の途中では、開かれた問い、情報に関する問い(「何が起こったのか」などに関する問い)を立てたほうがよい。自分のテーゼ、たとえば診断なども、開かれた問いの形で表現する。そうすれば、他の参加者たちは、そのテーゼ(診断)を他の解答と並ぶ一つの解答として捉えることができる。情報の問いに対立するのは、認識の問い(たとえば、「私たちはなぜ保存的措置よりも外科的介入を選ばなくてはならないのか?」)である。ソクラテス的対話では、この2つを区別することに重要な価値がある。それは、たとえば今、情報の正しさを検討しようとしているのか、それとも情報を積み重ねることによって「認識の問い」に答えられると信じているのかをはっきりと区別するため、対話の次元を混同して不毛なやりとりに陥らないためである。それによってはじめて、専門家が素人を対話に真剣に引き入れる可能性が出てくる。
また、ソクラテス的対話の経験者には周知のことだが、対話の途中で「メタ対話」の時間を設けることが重要である。グロンケはいう。「対話同伴者のまた別の仕事は、必要があれば対話そのものを(メタ)対話の対象にすることである」。といっても、医師・患者の場合、対話の流れに関して構造的問題はないだろうから、対話参加者の「情緒的関係」が中心となる。つまり、メタ対話は、内容的対話に否定的影響を与えるようなコミュニケーション障害を話題にのぼらせ、それを軽減することに役立つのである。参加者はたとえば次のような「表出的」な、つまり気持ちや感じについての発言をするだろう。「今日は安心できなかった」、「ほんとはあなたに訊きたいことがあったんだが、訊けなかった」、「あなたが私をしょっちゅう遮ったので、いやな感じだった」、「あなたがせっかちなのをずっと感じていた」、「あなたは私の問いにちゃんと答えない」など。
ソクラテス的に方向づけられた医師・患者対話で実践されるべき主要な振る舞い方は、どんなものだろうか。グロンケは次のような態度を重要とみなしている。
たとえば、第1に、内容に関する発言を控えめにすること。対話をリードする参加者(ふつうは医師)は、とくに対話の導入局面で、自分の判断はあまり出さないようにするべきで、患者の言いたいことに耳を傾けねばならない。「それでは医師としての専門的な意見を述べて、責任を果たすことができないではないか」と不安になるかもしれないが、ふつうそんな心配はない。むしろ「意図的に控えめにするようにしても、つい医師としての地が出て、あまりにも早く、詳しく意見を言いすぎる」とリプケも述懐しているとおりである。
あるいは、第2に、理解から「相互了解」へ移ること。解決(たとえば治療方法の提案)に到達しようと努めるとき、相互への理解から出発して、医師・患者のいずれもが合意できると思われる答えを求めなければならない。このようにすれば、患者は、「健康と病気を通り抜けていく道」が「自分自身の道」であると実感でき、より自覚と自律を深めることができるし、患者と医師の関係はより信頼に満ちて生産的になる。
第3に、「アクティヴ・リスニング」。医師が患者の言うことを十分に理解するためには、それを自分の言葉で言い換えてみることも有益である。たんに距離を置いて中立的に聴くだけでは不十分で、「まるで自分が患者であるかのように」(リプケ)、患者の状況に自分を置き入れてみることが重要である。
第4に、具体性。具体的な状況に引きつけて発言することは、ソクラテス的に方向づけられた話し合いの核心をなす。冷厳な抽象化、定義、一般的意見ではなく、その後似たようなケースが起きたときに適用できるような直観を手に入れること、それがものをいうのである。「そのように具体的な対話をすることで、そのつどの病気や徴候が持ちうる多様性を、医師は対話のなかで説明することができる。そうしてもらえば、患者のほうも見方が広がるし、医師、患者双方が病気というものをはじめて理解できるきっかけになる」という趣旨のことを、リプケも語っている。
第5に、単純さと正確さ。医師・患者の対話だからこそ、誤解やいらいらが起こらないように気をつけなければならない。そのためには、相手にわかるようなシンプルな言葉を使い、できるだけ正確に表現しなければならない。
第6に、話題になっている事柄とその関係者とを区別すること。医師であれ、患者であれ、看護者であれ、私たちは自分の意見が批判されると、すぐ自分という人間が攻撃されたように感じるものである。そうなると、自分という人間が倒されないように、やり返すことに夢中になり、話している内容はお留守になる。だから、事柄(内容)と当事者とを区別するように注意しなければならない。
第7に、合意(コンセンサス)を目指すこと。医療者と患者が対話の場に臨むだけでも価値はあるが、合意に達するよう努力することはその価値をます。というわけは、中身のある合意(外見だけの合意ではなく)ができると、患者は医師の助言に従うものだからである。参加者が自分で納得して真の理解(つまりソクラテス的認識)を得ると、首尾一貫した行動をとるものなのである。
7 医師教育、患者教育でソクラテス的対話を訓練しよう
患者、医師、看護者がかかわる「価値」の領域、つまり人間にとって根本的に何が大切かという深い分野が話題になるときは、対話の形としてはソクラテス的対話が適しているとグロンケは信じている。それは次の理由による。
第1に、倫理的対話で個々の具体的状況が話題になっているときは、教条的にそれぞれの「立場」をぶつけ合っても不毛であるから、その状況を話の流れに沿って、また各当事者の行動に沿って、細かく検討する必要がある。それができることこそ、ソクラテス的対話の長所である。
第2に、ソクラテス的対話は、参加者が語る具体的経験から始め、つねにその経験から離れないようにする。それによってすべての参加者が対話を内容的に自分のものとして捉え、対話の後で行動に移すことも容易になる。
第3に、ソクラテス的対話は基本的な価値観や規範的態度に関する理性的論証を重要視するので、これを行うことにより、医療者も患者も倫理的に成熟することができる。
第4に、ソクラテス的対話は専門的知識を持ち込むことをやめ、参加者が自分の頭(心)を振り絞るので、参加者は自分の理性への信頼を高めることができる。
第5に、参加者が自由闊達に話し合い、しかも一定の規律や構造を守るような対話ができるのだということがわかる。この場合、認識に関する側面が大事ではあるが、情緒的側面(たとえば共感的振る舞い)も関係してくる。
グロンケは以上のような理由をあげて、医師教育、患者教育にソクラテス的対話を導入することを勧めている。
先ほども述べたように、ソクラテス的対話の有効性や面白さは実際に体験してみないとわかりにくいし、説明しにくい。ここに紹介したグロンケの論文では、プライバシーへの配慮その他の理由から当然とはいえ、実際に医療者と患者を集めてソクラテス的対話をやってみたらどのような成果があったという、具体的・個別的な報告を含んではいない。この論文は、ソクラテス的対話をこの方向でやってみてください、そうすればわかりますという誘いのようなものと読者は理解しなければならないのだろう。
大阪大学大学院文学研究科の臨床哲学研究室でもここ2年間ほど、イギリスやドイツでソクラテス的対話に参加してきたし、また2001年9月にはドイツの「ソクラティク哲学協会」の代表者二人(ここに紹介したホルスト・グロンケ自身とベアーテ・リティヒ)を招いて、講演会やコロキウムを行い、そしてソクラテス的対話を実際に指導してもらった。研究室に医療関係の社会人院生や元院生が何人かおり、他にも看護者・介護者である市民と接触が多いため、私たち自身も医療者の参加するソクラテス的対話は組織したことが何度もある。そのなかで医療に関連する体験が語られなかったわけではないが、医師や看護者と患者とが直接医療について語り合うような対話というのは、今まで少なくとも私個人としては、思い描いたことがなかった。
けれども、グロンケはここに紹介したような医師・患者のソクラテス的対話を実際に指導したことがあるようだし、また前述のリティヒも先端医療技術の是非をめぐる公共的論議(EU圏、とくにオーストリアにおける)にソクラテス的対話を導入し、その効果を検証する研究を近いうちに実施しようとしている。私たち臨床哲学研究室でも、このような方向での具体的取り組みに踏み切る必要があるのかもしれないと、個人的には思案しているところである。
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