遺伝子をめぐる言説の社会的文脈
――遺伝子医療の倫理問題の検討に向けて――

霜田 求
(大阪大学大学院医学系研究科助教授・医の倫理学)

 はじめに

 「遺伝子」(あるいは「ゲノム」「DNA」)をめぐる諸問題ついて一般社会向けに発信される言説が近年急激に増加している。本稿は、これらの言説を社会的文脈という視角から整理した上で、その意味を解読することを目的とする。それは同時に、遺伝子に関わる医療の倫理問題を検討するための準備作業でもある。
 これらの言説群は、きわめて大まかに言えば「人間の知能や行動は主に遺伝子によって影響を受けている」説と「遺伝子決定論や遺伝子還元主義はでたらめだ」説との対立構図を形づくっている。しかしながら、文字通りの「遺伝子(生物学的)決定論」を唱える論者はほとんどいないことから見て、この対立構図では問題の焦点を見誤ることになりかねない。そこで対立軸と論点の再整理が必要となる。ここでは、遺伝子の「影響」についての評価を軸に二つの方向に分け、「遺伝子を中心とする生物学的組成が主導的・中心的な役割を果たす」という説(=遺伝子中心主義)と、「遺伝子だけでなく社会文化的な環境や個人の自由意思を含む様々な要因が関わっている」とする説(=遺伝子中心主義批判)との対立構図を設定する。
 以下では、それぞれの主張のポイントを整理して検討を加えた上で、それをポストゲノム時代における人間理解や社会認識を問う手がかりとし、さらに遺伝子医療の倫理問題と関連づけてみたい。

 1 遺伝子中心主義
 一方で、遺伝子に関わる疾患の原因やその治療法の開発が進められ、生命のメカニズムが解明されていく中で、人間存在にとって遺伝子の占める位置・役割がますます強調される。これが生物学や心理学などによる遺伝研究の様々な成果と結びつくことにより、遺伝子の人間論的、社会文化論的な意義が前面に押し出されてくるようになる。
 さて、人間の表現型(phenotype)すなわち形態、性格、能力、行動といった形質(trait)の具体的特徴には、
@身体的特徴:皮膚・髪・眼の色や形態、身長、運動能力、がん体質、肥満体質など、
A精神的機能および能力:知能、精神疾患、学芸の才能など、
B性格・性向・行動:性的志向、外向性、攻撃性、犯罪性向、アルコール依存性など、
が挙げられる。
 これら表現型に対する遺伝子型(genotype)すなわち染色体上の位置における遺伝子の内容構成の「影響」をどのように理解するか、あるいは表現型の違いをどのように評価するか(とくに@とABとを連続したものと見るか、質的に異なると見るか)という問題が浮かび上がってくる。

1)「遺伝子中心主義」(遺伝子主導論)とは
 「特定の遺伝子によって個々の表現型が決定されている」(例:「体重の遺伝子」「高知能の遺伝子」「同性愛の遺伝子」などが存在する)のではなく、「遺伝子発現プロセスにおける環境要因との相互作用や遺伝子相互の関係、あるいは個人の自由意思にも一定の役割を認めた上で、そこでの遺伝子の中心的・主導的働きを強調する」という見解を、ここで「遺伝子中心主義」と呼ぶことにする。
 これに含まれる主な立場には、
@進化生物学(動物行動学、社会生物学、行動生態学):R.ドーキンス、E.O.ウィルソン、
A進化心理学:R・ライト、長谷川寿一/眞里子、進化論的倫理学:内井惣七、
B行動遺伝学:R・プロミン、安藤寿康、
がある。ただし、これらの文献でも主要な部分を占めている、「進化」(evolution)や継時的な「遺伝」(heredity, inheritance)については、問題の焦点を絞るためにあえて論じることはしない。個々の表現型が遺伝子の突然変異および自然選択(適応)によって進化したというネオ・ダーウィニズム説や、親から子への「遺伝」に関わる論点ついては取り上げず、人間個体(個人)における形質生成因子としての「遺伝子」(gene)とその表現型の「意味」、集団内での差異(個人差)への遺伝子の「影響」に関わる問題に焦点を定めて論点を整理する。以下に挙げるポイントは主にBの行動遺伝学によって提示されているものであり、必ずしもそのすべてについて他の諸分野の論者の見解が一致しているわけではないが、論点を際立たせるためにあえてこのような手法をとることにした。

2)遺伝子中心主義の主張の要点
(ア)人間の表現型は「〇〇の遺伝子によって決定されている」わけではないが、「関連する遺伝子型によって方向づけられている」と言うことはできる。例えば「IQを決定する遺伝子」は存在しないが、知能を形作る形質(情報処理能力、計算能力など)を発現させるさいに主導的役割を果たす遺伝子型は想定可能だ。生後すぐ別々に育てられた一卵性双生児におけるIQや行動パタンの調査で高い類似性を示すデータが得られていることは、表現型への遺伝子の影響を「直接示す証拠」と見なしうる(異なる環境要因に関わりなく同一の遺伝子型プログラムが発現している)。

(イ)遺伝子型に含まれる遺伝情報は、固有のプログラムに従いながら、個人の内的および外的環境要因と相互作用しつつ一定の可変範囲の中で発現する。「遺伝子によってプログラムされている」といってもそれは「変更不可能な宿命だ」ということを意味するわけではない(「遺伝差別」の多くはこの偏見に由来する)。比喩的に言えば、楽譜が遺伝子型、演奏家と楽器が環境、演奏が表現型(あるいは〈設計図―建築作業者・資材―建物〉、〈レシピ―料理人・食材―料理〉といった比喩も可能)ということになり、同じ遺伝子型からでも多様な表現型が生成することはありうる。

(ウ)人間の性向や行動など複雑な遺伝子発現メカニズムは、環境要因との相互作用以外に個人の自由意思によっても変容可能であるが、主導的役割はあくまで遺伝子型が担う。「遺伝子決定論」か「環境決定論」ないし「自由意思論」か、という二者択一は誤りだ。感情や欲望などの「心の働き」も、脳神経細胞や生化学的な作用(ホルモン分泌など)を作り出す遺伝子によって主に規定されていると見なしうる。

(エ)表現型における個人差は、遺伝子型による統計的かつ量的な影響として数値化可能である。個人の遺伝子型がその性格や行動といった表現型をどのように生成させるかという発生メカニズムはほとんど未解明であるものの、集団内での表現型の個人差が統計的に数値化可能という意味では、遺伝子型の差異が表現型の差異を「規定する」と言ってもよい。ある集団内での遺伝子型の表現型に対する影響の比率、言い換えると表現型の全分散に占める遺伝分散の割合(=遺伝要因の寄与率)を「遺伝率(heritability)」として表すことができる(ただしこれは、個体内部での表現型への遺伝子型の影響の比率ではない)。例えば、顕著な遺伝的規定性を示す表現型である身体的形質(身長、体重)の遺伝率は60%〜80%、IQや外向性は約50%と推定される。

(オ)知能や性的志向、攻撃性の個人差に遺伝子発現メカニズムがどのくらい影響を及ぼしているかという「科学的にニュートラルな問題」を、すぐに差別や優生学と結びつけるイデオロギー的批判は誤りだ。たしかに、過去においてしばしば見られた遺伝学を優生政策と結びつける事例(ナチス・ドイツ、20世紀初めのアメリカなど)や、遺伝の影響を人種レヴェルに適用する発想(A・ジェンセン「IQと学業成績をどこまで引き上げることができるか」(1969)、ヘルンスタイン/マレイ『ベル・カーヴ』(1994)など)は不適切だが、それは中立的な科学理論の「悪用」「誤用」にすぎない。

(カ)遺伝子型の個人差が解明されることにより、抽象的・形式的な平等主義(=「悪平等主義」)の無効が宣告され、個々人の遺伝子情報の効率的運用や、遺伝子型の「多様性」に応じた個々人の処遇、さらには適切な社会資源の配分が可能となる。例を挙げると、個人の医療情報のカード管理、病気のなりやすさや薬剤の効きやすさ(効きにくさ)を踏まえたオーダーメイド医療、教育における「適切なクラス編成」や就職における「適性に合った進路選択」などである。

 2 遺伝子中心主義への批判

1)批判者たちの主張の要点
 以上に見たような見解に対して、生物学、科学論、メディア論、市民運動など多方面からいろいろなレヴェルで批判が浴びせられてきた。次にその主な論点をまとめておこう。

(ア)遺伝子型および表現型それぞれの実体化
 環境要因および相互作用による可変性を認めているとはいえ、遺伝子型はそれ自体として完結した「意味」を持つものとして、特定の表現型に至る発現プログラムを内蔵する「設計図」と見なす誤りが認められる。言い換えると、遺伝子からタンパク質合成に至る生体内環境での相互作用が非加算的・偶発的・自己変容的であること、内分泌系・免疫系・神経系において細胞・組織・器官が自己組織的なネットワーキング機能を有することが十分に考慮されていない。IQや攻撃性、性的志向、神経症といった表現型を、調査する側の限られた情報や意図によりバイアスがかかった統計的データを数値化した人工物(artifact)として実体化する錯誤に陥っている。これらの表現型はむしろ、当人の振る舞いや他の人との関わり、そして社会的文化的な関係性といった文脈においてそのつど「意味」を充填される「社会的構築物」であって、「その個人差への遺伝子型の影響の割合」を数値化できるような「実体」ではない。

(イ)還元主義とアトミズム
 人間の性格・性向・行動を、個々の反応・対応・動作から成るものと見なし(例:「社交性」を形づくる「寛大さ」「明朗さ」「気前のよさ」)、それぞれの要素を発現させる遺伝子型へと還元可能と考える点に問題がある。とくにガン、精神疾患、犯罪行動といった表現型の「原因」を個人の生物学的組織および機能に還元し、個人の「自己責任」を強調することで、外的環境要因の疫学的知見や社会文化的要因(とくに有毒化学物質)を軽視する傾向が強い。「原因」となる(あるいは「影響」関係がある)遺伝子を特定し、それに操作を加えて「治療」や「予防」が可能になるという発想は、「社会防衛的処置」や「犯罪者の厳罰化」といった方向での「問題解決」へとつながる可能性を内包する。

(ウ)生物学的「行動」「集団」と人間の「行為」「社会」との質的差異の軽視
 外部の視点から観察可能な対象として、それ自身で完結した「意味」を付与されうる生物学的な「行動」「集団」に対し、その「意味」が自己反省的な解釈作業および正当化(根拠づけ)と切り離すことのできない人間の「行為」「社会」は、連続したものと見なすことはできない(質的に異なるものである)。ハチやアリの「互恵的利他行動」、サルの「支配システム」「ヒエラルキー」は、その〈利己性/利他性〉や〈権力/服従〉の「意味」を問う反省的視点と正当化要求(およびその批判と変容可能性)とを欠いている点で、人間固有の政治的・倫理的水準を持たない。

(エ)社会工学的な「制御」(コントロール)および「設計」(デザイン)の発想
 知能や行動への遺伝的影響を強調する「研究」が歴史的にどのように機能してきたかについて、その政治的・経済的・社会的・道徳的な連関を探ろうという姿勢に欠ける。「望ましくない質」(犯罪者、精神病者、売春婦、貧困者など)の断種や出産制限、「劣等な人種」の抹殺や移民制限、「好ましい質」(高IQ、北方系白人種、貴族血統など)の出産奨励といった旧来の優生学的施策との結びつきを真剣に考慮しない。マイノリティの地位向上や福祉政策の廃止・縮減や優勝劣敗の自由競争の推進といった新自由主義的政策を正当化し、雇用・保険・教育での差別的処遇に口実を与えるという「政治的機能」に対しても、表層的理解にとどまることが少なくない。科学の「中立性」への批判的視座を欠いていることにより、科学の社会における文脈性(社会的な力学と科学との内的連関)が看過されてしまう。

(オ)新しい優生学を支える理論的根拠
 精神的機能や行動への遺伝子型の主導的役割を強調することは、個人の「資質」の遺伝子レヴェルでの操作可能性へと道を拓く。操作可能な対象の「質」の選別が、個人の「自由な選択」と人々のニーズに応じるバイオ関連ビジネスを駆動力として行われるとき、新しい優生学の問題が浮上してくる。とくに出生時での生殖細胞系列への遺伝子操作(消極的介入:「悪い遺伝子」の除去、積極的介入:「よい遺伝子」の導入)やクローン人間作製へ向かう力を後押しする可能性も否定できない。

2)コメント
 ここで取り上げた論点は何れも無視しえないものであると思われる。とくに人間の精神的な働きや行為、社会を固有の文脈と力学に定位して捉える必要があるという論点は、遺伝子中心主義的見解の根本的限界を浮き彫りにしているのではないだろうか。ここで提示された批判的視角は、遺伝子と医療の関係を考察する上でも重要な示唆を与えるものと言ってよいであろう。
 
 3 遺伝子医療の倫理問題と社会的文脈
 
1)遺伝子医療に関わる倫理的問い
 遺伝子に関わる医療(研究および臨床応用)もそれ自体一つの医療行為である以上、他の、とくに先端医療行為の中で論じられる倫理問題と同様のことが指摘できる。例を挙げると、
*被験者ないし患者の権利(自己決定権、プライバシー権など)の尊重・保護、
*リスクを含めた十分なインフォームド・コンセントを行うこと、
*独立した審査機関による妥当性のチェック、
*「人間の尊厳」が侵害されないことの保障、
*適正かつ公正な医療資源の配分という観点からの評価、
などである。
 他方、遺伝子に関わる医療ということで特別に考慮すべき倫理問題がある。それはおそらく、遺伝子が生物学的メカニズムにおいて際だって重要な機能を果たしていること、そして遺伝子という「情報」が、生命活動のみならず人間の社会・文化にとっても無視しえない規定要因と見なしうるということと切り離すことができない。三つの位相に整理してみよう。

(ア)情報の管理と制御…遺伝子診断の結果を当人(および血縁者)にどのように伝える(または伝えない)のか、個人の遺伝子情報に基づく教育・雇用・保険加入における差別をいかにして規制するか。
(イ)情報による選別と選択…受精卵・胚、胎児、新生児への遺伝子スクリーニングによる生命の選別の是非、遺伝病保因者のカップルが着床前ないし出生前診断によって産むか産まないかの選択をすることの是非。
(ウ)情報そのものの修正ないし変更…正常遺伝子の導入や付加あるいは欠損遺伝子との交換(=遺伝子治療)、能力増強や機能強化を目的とする遺伝子の「改良(enhancement)」について、それぞれの妥当性と許容条件。

 以下では、現在のところまだ実施されてはいないものの、医療者・生命科学研究者の中に実施を求める強い声があり、将来的に大きな倫理問題として立ち現れてくることが予想される、生殖細胞系列(germ line)への遺伝子操作(治療ないし改良)に関わる問題――(ウ)の一部――を検討する。というのは、先に(1、2)論じた遺伝子をめぐる様々な言説が投げかける問題点が、この場面でより一層尖鋭に浮かび上がってくると思われるからである。そこで問われるのは、例えば、
*単一遺伝子病(ADA欠損症、ハンチントン病など)を発症させる遺伝子型に、体外受精した胚の段階で操作を加えて発症を防ぐ治療は容認できるか。
*知能に関わると推定される遺伝子型に、体外受精した胚の段階で操作を加えて知能を高くする改良は容認できるか。
といった操作的介入の是非である。
 こうした問いに向き合うとき、同時にまた次の問いに応答することも避けることはできない。それは、「他者への明白な危害が認められない場合は、個人の自由な選択が尊重されねばならない」というリベラル個人主義の原則を受け入れる限り、この二つの問いに対して「容認すべきではない(禁止すべきだ)」という理論的根拠を提示するのは困難ではないか、あるいは、「治療目的」という消極的介入を容認するとしたら「改良」という積極的介入も認めざるをえない(両者を区別する「論理的根拠」はない)のではないか、という問いである。

2)二つの応答
 これらの問いに対しては、他の多くの医療・生命倫理問題と同様、通常次に挙げる二つの見解が主な対立構図を形づくる。

(ア)当事者の選択の自由(自己決定)を重んじる立場
*医療は人々のニーズに応えて技術的に可能な選択肢を提供するだけで、あくまで決定するのは当事者であり、安全性が確認され十分なインフォームド・コンセントの上であれば、その決定を尊重すべきだ。
*リベラル個人主義の原則を尊重する社会では、安全性が十分確認されていない技術であっても、リスクを承知で(結果については自己責任に委ねられる)それを選択することが容認されねばならない。
*「生命の操作は自然に反する」、「多数者の道徳感情に反する」、「人間の尊厳への侵害」といった先端技術に対してしばしば提示される反対理由は、そもそも「自然」「道徳感情」「尊厳」といった概念が不明確である(恣意的に内容が埋め込まれる)ので認めがたい。むしろ理性的主体としての個人の自律性を「人格の尊厳」の核心と考える立場としては、そうした技術の利用を禁止することが選択権の侵害であり「尊厳の侵害」であるとも言いうる。

(イ)生命ないし共同体の価値を重んじる立場
*「生命の始まり」である生殖細胞系列への操作は、それ自体が「生命の尊重」という共同体の道徳的基盤を掘り崩しかねないので、禁止すべきだ。
*安全性が確認された段階で苦しむ患者への「治療」として行われるのであれば容認可能だが、欲望やビジネスに後押しされた積極的「改良」は生命の質を選別することであり、したがって「生命の尊厳」への侵害であるがゆえに決して容認できない。
*「改良」はまた、人間の欲望の際限なき拡張を促し、生命の手段化・モノ化・商品化をさらに推し進めることにつながる。

 もちろん遺伝子に関わる医療の問題に対する判断や評価がこの二つの見解に尽くされるわけではないが、推進/条件つき容認ないし規制/禁止といった方向を決めるさいにとくに有力な「論拠」となることは否定できない。しかしここではこれら二つの見解についてこれ以上立ち入って検討するのではなく、異なった角度からのアプローチを提示してみたい。その作業は、同時に先に見た遺伝子をめぐる言説の社会的文化的な側面を医療の問題と関連づけることでもある。

3)問題の文脈に定位するアプローチ
 さて、このアプローチの基本スタンスは次のようにまとめることができる。まず、個人の選択の自由や幸福追求権を基軸とするリベラル個人主義の論理による正当化も、社会の道徳的基盤や生命の尊厳の侵害といった根拠を掲げるコミュニタリアン的価値実体主義の論理による否定も、そのまま「妥当する/しない」という判定を下すことはしない。そして、これら二つ以外の立場も含めて、それぞれの主張の中で提示されている諸論点を〈問題〉の文脈として再構成し、そこに定位しながら、人はどのように他者に関わっているのか、さらにはいかにして公共的な意見形成および意思決定を進めていくのかを問う。言い換えると、人と人との〈関係性〉において働く様々な〈力〉を分節化しつつ、それぞれがどのように位置づけられるのかを主題化する、というものである。以下では、その中で検討する必要のある論点をいくつか挙げておく。

(ア)〈他者への関わり方〉という文脈
@個人の自由な選択(自発性)の位置づけ…選択がそれだけで完結するものではなく、医療バイオ関連ビジネス、「優良/劣等」という人間の「質」についての社会的な価値評価、同じ選択に向かわせる社会的圧力といったものと不可分であること(これらの「外圧」によって「選択させられている」可能性)を見据えることが求められている。「個人の自由な選択」がそれ自体としてただちに決定の根拠とはなりえないし、逆に「共同体の道徳的基盤」や「生命価値原理」も同様であり、両者ともに社会的媒介連関の一成分として捉え返すことが必要なのではないだろうか。

A他者および社会の「制御」「設計」への欲望による〈関係性〉の変質可能性…遺伝子の主導的役割を強調することが、人間存在の不確定性を極小化し、他者を操作可能な対象へと加工したりその異質性を排除するという発想へとつながりかねないが、これといかに向き合うのかが問われている。生きていく上で否応なく関わらざるをえない他者が「自分の思い通りであってほしい」という欲望は、〈関係性〉そのものを貧困化することになるのではないか。

B「かけがえなき応答可能性」としての「尊厳」…実質的な価値の起源(神ないし自然)によって根拠づけられる「生命の尊厳」や、何らかの属性(自己意識、判断能力・対応能力)の担い手である「人格の尊厳」の何れとも異なる、「人間の尊厳」概念の可能性を探る。他の存在によって当の者として眼差され、働きかけられ、それに対して「応答しうる」ということ、そして決して他の存在によっては代替されえないその応答の仕方、そしてそこに成り立つ特別な〈関係性〉に、その存在が固有の位置を占めるに値するという「尊厳」
を認めることができるのではないか。生命への操作的介入が「人間の尊厳への侵害」となりうるのは、そのことによって多様な「応答可能性」が「制御」や「設計」への欲望によって一元化・平板化されてしまう可能性が否定できないからである。

(イ)〈人間相互の関わり合い〉という文脈
@社会的公正の確保…遺伝情報に基づく差別(教育、雇用、保険加入)の可能性、既存の権力関係(経済力、情報量、医療資源アクセス機会など)をより強化する機能、南北間での医療資源配分の巨大な不公正を前提にしかつそれを増大させる可能性などを注視しなければならないであろう。あるいは「遺伝子改良」に向けた研究開発や実用化への公的関与(補助金投入や保険適用)の是非についても、それが社会的不公正を拡大させるという理由で法的に規制または禁止する可能性を踏まえて検討することが要請される。

A生まれてくる子の福祉と安全性…遺伝子操作によって生まれてきた子が、親による期待や世間の眼あるいは「告知」の仕方によってそのアイデンティティ形成に与えられる影響をどのように受け止めるのか(少なくとも何らかの社会的サポート態勢が必要であろう)、また子自身やその子孫に及ぶかもしれない未知のリスクをどのように評価するか(治療目的や死の回避といった緊急性のない人体実験として法的に規制する可能性も考慮される)、が問われる。

B障害を持つ人たちとの共生…遺伝子操作による〈障害〉の除去に対して、それが障害者への人々の差別意識の助長や障害者福祉の縮減と結びつく可能性があるという問題。とりわけ障害を持って生きる人たちから提示されるそのような危惧や不安を社会はどのように受け止めるのかは、きわめて重要な課題であると言ってよい。

C容認可能か規制(または禁止)すべきなのか、あるいは条件つきで許容するのか、公的な関与をどこまで認めるのか、についての意見形成と決定へのプロセス…たんなる専門家・有識者の「審議会」や「諮問会議」とは異なるレヴェルで、法共同体を構成する成員相互の関係性=共生の枠組みをつくりあげていくことが求められている。

4)まとめにかえて
 以上で挙げたような問題を形づくる文脈を見据えながら、「選択の自由」であれ「人間の尊厳」であれそれ自体として「決定の論理的根拠」となりうるものはない(「治療」と「改良」の区別についても)ということを踏まえつつ、「制御」や「設計」の対象として他者を眼差すのではないような〈関係性〉を構想すること、それを様々なレヴェルで討議する枠組みを創出していくことがさしあたり必要なのではないか。


<文献>
1)遺伝子中心主義関連
・安藤寿康『遺伝と教育――人間行動遺伝学的アプローチ』風間書房 1999
・同上『心はどのように遺伝するか――双生児が語る新しい遺伝観』講談社ブルーバックス 2000
・井上薫『遺伝子からのメッセージ』丸善ライブラリー 1997
・ウィルソン、E.O.『社会生物学』新思索社 1999[原著1975]
・同上『人間の本性について』ちくま学芸文庫 1997[原著1978]
・同上『ナチュラリスト』上・下 法政大学出版局 1996[原著1994]
・内井惣七『進化論と倫理』世界思想社 1996
・金子隆一『ゲノム解読がもたらす未来』洋泉社 2001
・シルヴァー、L.M.『複製されるヒト』翔泳社 1998[原著1997]
・佐倉統『遺伝子 VSミーム――教育・環境・民族対立』廣済堂出版 2001
・ドーキンス、R.『利己的な遺伝子』紀伊國屋書店 1991[原著1976]
・同上『延長された表現型』紀伊國屋書店 1987[原著1982]
・長谷川寿一/長谷川眞里子『進化と人間行動』東京大学出版会 2000
・プロミン、R.『遺伝と環境――人間行動遺伝学入門』培風館 1994[原著1990]
・別冊宝島real『遺伝子商売』宝島社 2001
・ライト、R.『モラル・アニマル』(上・下)講談社 1995[原著1994]
・ワトソン、J.D.『DNAへの情熱――遺伝子、ゲノム、そして社会』Newton Press 2000

2)遺伝子中心主義批判関連
・アップルヤード、B.『優生学の復活?――遺伝子中心主義の行方』毎日新聞社 1999[原著1998]
・池田清彦+金森修『遺伝子改造社会 あなたはどうする』洋泉社 2001
・金森修「遺伝子改造の論理と倫理」、『現代思想』2000/9
・グールド、S.T.『人間の測りまちがい――差別の科学史』河出書房新社 1998[原著1996]
・斎藤貴男『機会不平等』文藝春秋 2000
・ネルキン、D./リンディー、M.S.『DNA伝説――文化のイコンとしての遺伝子』紀伊國屋書店 1997[原著1995]
・ハッバード、R./ウォールド、E.『遺伝子万能神話をぶっとばせ』東京書籍 2000[原著1997]
・ホー、M.-W.『遺伝子を操作する――ばら色の約束が悪夢に変わるとき』三交社 2000[原著1998]
・ホーガン、J.『続科学の終焉――未知なる心』徳間書店 2000[原著1999]
・港千尋「遺伝子と権力」、『現代思想』1998/9
・リフキン、J.『バイテク・センチュリー――遺伝子が人類、そして世界を改造する』集英社 1999[原著1998]
・レウォンティン、R.『遺伝子という神話』大月書店 1998[原著1991]

3)遺伝子関連全般
・ウィンガーソン、L.『ゲノムの波紋』化学同人 2000[原著1998]
・最新科学論シリーズ『遺伝子の世紀 21世紀“最大の科学”の予感』学習研究社 1999
・霜田求「生命操作の倫理問題――社会的文脈に定位する視角から」、文部省科研費研究成果報告書『コミュニケーション理論を軸とした実践哲学の可能性についての研究』 2001
・多田富雄/中村桂子/養老孟司『「私」はなぜ存在するか』哲学書房 1994
・寺園慎一『人体改造』NHK出版 2001
・バーリー、J.(編)『遺伝子革命と人権――クローン技術とどうつきあっていくか』DHC 2001[原著1999]
・広井良典『遺伝子の技術、遺伝子の思想――医療の変容と高齢化社会』中公新書 1996


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