イギリスにおける中絶論の現状

村上弥生
(東京外国語大学非常勤講師、倫理学)

 

  本稿は、Journal of  Medical Ethics, Volume 27October 2001)の別冊に収められた中絶についての論文集の内容を紹介するものである。

  この特集は、British Pregnancy Advisory ServiceBPAS)が、20002月にロンドン大学で「中絶の新しい倫理」と題して催した法学、神学、倫理学、医学の分野にまたがる学際的なシンポジウムに基づいている。BPASとは、イギリスで1967年に24週までの中絶が合法化されたことを受けて、1968年に、安全な中絶処置を提供するという目的で設立された団体である。ここではおよそ年に5万件の中絶が行われているが、イギリス全体での中絶が年に十数万件であることから見ても、中絶を求める女性たちに対するサーヴィス提供者としてBPASが中心的な役割を果たしてきたことがわかるであろう。

ところで、なぜ、今「中絶の新しい倫理」なのか? 1967年に中絶法が成立してから30年余が経過した。諸外国に比して、相当に自由なこの法の下、また実際の医療現場での法解釈が非常に緩やかであるなかで、中絶容認派の中核にあるBPASが、開かれた討論の場をどうして必要と考えたのか?それは、中絶をめぐる議論の重点が、近年、女性から胎児に大きく移しているという状況にBPASが危機感を感じると同時に、そうした変化に正面から取り組む社会的責任を自任しているためである。この会議で打ち出された幾つもの視点が「新しい倫理」に理論的に収斂していく方向性は、結論から言って、この会議の中では見出されてはいない。中絶の選択は、きわめて社会的な、しかも単純ではない意味を孕むものであり、同時に紛れもなくプライヴァシーの領域に属し、当事者の生涯を決定する個人的な選択である。法学、医学、神学、倫理学、そして中絶を求める現実の女性の代弁者としてのBPASのスタッフという諸分野それぞれの視点からの議論は、重大な仕方ですれ違う。しかし、すれ違っていく様子それ自体に、中絶の問題の複雑さが如実に表れている。その意味で、この学際的な会議は意義ある誠実な知的実践であると言える。以下、女性から胎児へ焦点の移動をもたらした二つの背景を中心に論者の対立点をまとめていく。 

 医学の新しい展開

 イギリスの中絶法は、大家族を抱えて日々の暮らしにあえぐ貧しい女性たちを救済する福祉政策の一環として成立した。1970年代には、男性と同じ条件にたって社会に参入しようとする女性運動に呼応して、中絶は女性の性と生殖に関する自己決定権の一部として定式化されていった。しかし、「今日、状況は大きく変化し、女性の地位はめったに問題にされなくなってしまった」とBPASAnn Furedi氏は中絶をめぐるこれまでの歴史をふりかえっている。

この変化の大きな原因の一つは、胎児についての医療技術や知識の大幅な進展がある。その経緯をまとめているのは、新生児医療の専門家でありロンドン大学教授のJohn Wyatt氏である。胎児の生理学の研究の結果、かつての「受動的なタブラ・ラサ」という中絶容認に都合のよい胎児のイメージは「子宮内の環境と能動的に反応し合う有機体」に取って代わられた。科学的な理解としてだけではなく、一般の人々の目にも、超音波検診によって「生まれる前の赤ちゃん」の姿が日常のものになっていった。

 医師にとってこうした知識と技術の発展は、これまで決定的に重大だった周産期ないし新生児医療が母体内の胎児に対する医療と連続し、切れ目のない一続きのケアが可能になってきたということを意味する。ここから、医師の前には妊婦がいるのではなく、「二人の患者」がいるという考え方が医療の文脈で自然なものとなってきたと、Wyatt氏は言う。

Wyatt氏は、臨床医としての立場から、特に後期の中絶について重大な心理的葛藤があることを指摘し、道徳的に、また事実上これは維持しがたい行為であり、幅広い公共の議論の必要性を訴えている。

この「二人の患者」という表現に対して、法廷弁護士であるBarbara Hewson氏は、法律家の立場から強く異を唱えている。Hewson氏は、二人の患者と言う場合に、妊娠して子を望んでいる女性が胎児と「私の赤ちゃん」と呼ぶ関係にあることから、人格に準じた価値が胎児に与えられていくという事実はあるにしても、そうした文脈を外れて「二人の患者」という考え方が法律に翻訳されるとどういう結果になるかを、具体例で指摘している。アメリカのサウスカロライナ州とカリフォルニア州では、麻薬を用いたり飲酒をした妊婦が児童虐待で告訴され、服役した場合もあった。

  ロンドン大学、インペリアル・カレッジの医療倫理教授のRaanan Gillon氏は、Hewson氏やWyatt氏の問題提起に直接答えるかたちをとってはいないが、「胎児の道徳的地位」をめぐる従来の基本的な倫理学の見解を整理している。生存権を含めた人間としての完全な道徳的地位はいつ備わるのか,そうした「人格性」の特性と考えられるのは何か、それについての見解は、1,受精の瞬間(人間の魂が宿るとするローマ・カソリック教会の公式見解)、2,感覚能力が備わるとき(脳死に対応してbrain life)、3,自己意識が生じるとき(生後しばらくは人格ではない)、の三つに大別される。Gillon氏は、最後の立場が、慣習と直観に反するものでありながら、最も一貫性のある基準であるとして、胎児が人権をもった人となるのは誕生時であるという現在の法についてこう批判している。「産道の北にいるときは生存権がなく、南におりてきたときには生存権があるというのは、生物学的地理学と揶揄されてもしかたがない」ものであり、人間の道徳的地位についての内在的な基準というにはお粗末である。

一見したところ、Gillon氏の主張は、倫理学の立場から中絶を容認し、女性の自己決定を支持するものとも見えるが、興味深いことに、人格性を中核に据えたこの種の倫理的議論の抽象性、不毛さを象徴する発言として、次のように、Hewson氏の反発を買っている。「産道を通過することがそれほどの違いをもたらすというのはいったいどういうことか」という議論もあるが、「女性が子供を産むというふうに事態を見るのではなく、そこに産道しか見ないのであれば、出産における女性の決定的な役割も見損なう」ことだろうし、出産がその結果を引き受ける女性にもたらす重大な意味も見失われる。この議論は、胎児の権利を主張する側の発言として言及されているが、そのまま胎児の権利を否定するGillon氏にも当てはめられる。

胎児を中心とした抽象的な議論に対して、Furedi氏も同様の批判を行っている。「人となりゆくものの存在が価値や尊重を受けるのは当然だとしても、それはあくまで抽象のレベルにおいて」であり、「人生において後戻りすることが決してできない決定を下し、その決定を担って残りの人生を送る女性の自律に対する尊重と相対的なものでしかありえない」とFuredi氏は力説する。

Wyatt氏とFuredi氏、Hewson氏の主張は中絶をめぐって対立する立場にあるが、そのいずれに対しても、Gillon氏の示すパーソン論では解答として不十分であるのは明らかだろう。

2 障害者の権利運動の高まりと出生前診断

中絶の議論に大きな波紋を投げかけたもう一つの社会状況の変化は、障害者の権利を求める運動が大きく高まってきたことである。同時に、一定の障害について出生前診断が可能となった。出生前診断の結果、胎児の障害を理由に中絶することは、障害者に対する差別であるという重い批判が障害者の立場から発せられるようになったのである。

この批判に対して、Gillon氏は、「胎児の道徳的地位」の確定の仕方によって解消されると主張している。「胎児が人間としての完全な道徳的地位を有するのであれば、もちろん障害を根拠にした中絶は障害者に敵対する行為であり、差別に他ならないが、胎児が道徳的地位をもたないのであれば、現実に生きている完全な道徳的地位を有する障害者に対する差別にはならない。」たとえば、「子供を持とうとしない人、あるいは別の理由で中絶した人が、現実に生きている人々に対して差別をしていることにならないのとまったく同じである。」

この解答が、偽善的に響きうるものであり、感情的に納得しがたいものであることは、Wyatt氏が指摘している。出生前診断に基づく選択的中絶を行うということは、同種の障害をもつ人々の生命の価値に否定的な評価を下すことであり、また、一定の障害を持つ人が生まれないようにすることが社会的に望ましいという含意をもたらす可能性を軽んじるべきではないとWyatt氏は言う。「中絶が純粋に個人的で医学的なことだということを前提とした生殖についての自律が、差別的、優生学的な傾向を強めていく」という落とし穴は看過できないと言う。

障害者の権利の主張の中で、「障害」の捉え方、概念自体が、障害に適切に対応できていない社会が作り出した社会的構築だという指摘がなされるが、Wyatt氏も、経験から言って、社会的な偏見や社会の対応の不十分さが、親が中絶を決定する上で大きく作用していると言う。

Furedi氏は、あくまで女性の自己決定権を擁護する立場から、「女性たちは政治的な信条を示すために、あるいは抽象的な理由や原理原則から中絶しているのではない」と言う。「個々人の具体的な現実の中で自分にとっては担いきれない」ということで中絶しているという文脈に据えてみるなら、障害を理由に中絶する人が障害者を否定していることにならないのは、「子供の数を制限する人が大家族は悪いという主張をしているわけではないのと同じ」だと言えないだろうか。

このFuredi氏の選択的中絶の擁護は、女性の具体的現実に対するまなざしを伴うために、先のGillon氏の議論と理屈はまったく同じでありながら、与える印象はかなり違う。とはいえ、出生前診断と選択的中絶の問題は、胎児の地位をめぐる議論では解消されない、また個々人の事情に納めて済ますことのできる問題でないことはあきらかである。

3 確認される中絶論再考の必要性

以上、BPASの開いたシンポジウムに基づく論文集を概観してきたが、それによって、パーソン論を軸に行われてきた中絶をめぐる倫理的議論が、現実の社会との接点を維持できていないことが確認されたように思われる。子を産めば工場での職を失い食い詰めるという理由で闇の中絶に向かっていた女性というような中絶の原風景は今も消えたわけではなく、今日的な中絶の限りなく多様な理由、進学をあきらめないですむためにとか、性と生殖のコントロールにときたま失敗はあるとしても性生活を楽しむとか、家族と自分にとって最適の時期に最適の数の子供を育てたいといったすべてが、いまだ形を成しきらない女性の権利の内実を模索する個々人の決定なのである。そうした現実の女性たちとの連関を持った倫理的議論が求められる。

補足しておくなら、そうした模索する女性の現実と呼応して、フェミニズムの立場も多様化している。たとえば、本論文集で、Wyatt氏とFuredi氏がともに言及しているケース、アジアの女性が女児を中絶しているという事態に対する反応もさまざまである。過酷な差別を受ける女性を中絶することは差別を温存することであり、許されないといった反応もあれば、差別されている当の女性たちが差別を温存するような決定へと操作されているという見方もあるであろうし、可能な範囲での運命に対する抵抗であると理解することもできるだろう。

他方、臨床の場の医師の声に耳を傾けてみると、やはりパーソン論や患者の自己決定権といった枠組みでは解消できない中絶の問題性が浮かび上がる。Wyatt氏の言うように、医師は、その職業上、「か弱き者を助けること」を欠かせない傾向として身に培うべきものである。すると、性と生殖に関する女性の権利をどのように考えるにしても、女性と胎児という二つの生命(一定の権利を持った患者ではないとしても)に相対しているという医師の受け止め方は、しごく当然のことだと言える。従って、特に後期の中絶は、医師にとって心理的に大きな葛藤であり、職務に適したその人となりに全面的に反することを行うように求められるという意味で、医師自身にとって非人間的な要求だというのも確かなことであろう。

とはいえ、女性の性と生殖に関する権利の中でも、中絶の権利は、長い歴史をもつ抑圧の社会構造を変革する楔として、女性運動において妥協の余地のない要求であり、患者の自己決定権一般におさまりきらない意味合いを持っている。中絶の理由を詳しく尋ねられたり、時期を理由に拒否されたりすることなく、絶対的に女性の自己決定にまかせられなければならない領域だと考えられている。その場合、中絶においては、医師と女性の関係は、単に一般論で言われるパターナリズムを排するというだけでなく,女性の決定に医師が機械的に従って生命を操作するというWyatt氏の否定する「クライアントーテクニシャン」の関係こそが理想的だということになるだろう。この問題は、中絶を自分が行うかどうかを個々の医師の選択にまかせればよいといってすむ問題ではない。中絶に携わることを拒否する医師が多ければ、その医療サーヴィスは不足することになり、女性の中絶の権利を実質的に損なうことになるからである。

また、本論文集では言及されていないが、障害者にとって障害は自己のアイデンティティから切り離して考えられるものではなく、そこに統合されたものだという報告もある。(Silvers, Wasserman and Mahowald, Disability, Difference, Discrimination, 1998)とすれば、障害そのものと障害者を混同すべきでないとか、障害はあるよりないほうがいいという相対的評価の対象でしかないといった議論は、十分な説得力がないであろう。

女性と医療と障害者の現実に根差した倫理的な対話はまだ始まったばかりである。それぞれの現実と確実にかみ合い、それぞれの自律を保証しうる適切な制度の形成に参与しうる倫理が求められているのである。


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