置き去りにされる生命倫理

鷲田清一
(大阪大学大学院文学研究科教授、臨床哲学)

 

 二十世紀の終わりにヒト胚から多様な組織に分化しうる幹細胞が「樹立」され、クローン技術の人への応用研究も一気に加速して、これまで生命技術の開発とともにそのつどいわば場当たり的に論議されてきたヒト胚の取扱い方について、総合的な観点から検討をくわえる審議が政府機関(内閣府総合科学技術会議生命倫理専門調査会)でようやく始まった。クローン技術をはじめ、遺伝子の組成を操作することで難病を克服しようという遺伝子治療や、人の受精胚を用いて皮膚や臓器を造る再生医療などにみられるような、人の発生過程に踏み込む研究や操作の是非をめぐって、生命技術の可能性とともにその安全性やそれが引き起こす社会的な問題をも十分に視野に入れつつ、「国民的合意」が得られるような包括的ともいえる公的ルールを作り上げるべく、検討が始まったのだ。

 実を申せば、わたし自身、その専門調査会に委員のひとりとして出席しているのだが、あるとき会議の席で「人の生命の萌芽」という胚の位置づけについて疑念を述べてすこし議論が紛糾した。会議のあと会場の外のロビーで休んでいると、背後で会場を足早に去る委員もしくは傍聴者の数人が「あんな議論していたら何も進まない」と吐き棄てるように言っているのが聞こえた。わたしは逆に、「あんな議論」はもっとしなければならないとおもっている。その理由について、以下に述べてみたいとおもう。

 脳死問題が生命の終わりをめぐる議論だとすれば、ここで問題となっているのは生命の始まりについての議論である。「人の生命の萌芽」としてすでにクローン技術規制法(「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」)で位置づけられたヒト受精胚を、どこまで医学の研究対象として、あるいは再生医療の材料として「利用」してよいかという問題、つまりは人の胚を「作成」したり「使用」したりする研究の是非が、ここでは問われている。

 脳死問題であれヒト胚の取り扱いをめぐる問題であれ、これがなぜ慎重な議論を要するのかといえば、生死という、人が人として負わされた生命のもっとも基礎的な条件や、個人のアイデンティティ、社会秩序の根幹にかかわるものであるというだけでなく、そもそも科学技術の急速な展開に「倫理」というものが追いついていないというところに問題があるからだとおもう。生命倫理にかんしていえば、ひとつには、生死の基準というものが医学の専門的な知識なしには分からなくなっているということがある。今日の病院では、少なからぬひとが集中治療室で、みずから生きているのか装置によって生かされているのか判別しがたいような状態に置かれる。じっさい、そこでは患者の家族の多くが、「まだ生きているんでしょうか」と医師に訊く。たいていのひとは専門的知識がないので医師の説明を信じるほかないのだが、全体としての医療技術、とりわけ生命技術の行く末には漠然とした恐れや不安を抱いている。そして、わたしたちの倫理はまだそれを統御するところにまでは行っていないと感じている。これまで倫理の問題とならなかったような生命の状態が、先端的な医療技術によって人為的に産みだされたからである。生死の区別は知覚不能になった。いいかえると、わたしたちは生命への操作的介入についてみずからの内にたしかな参照軸をもっていないということである。この間隙を埋めることができなければ、生命操作技術の拡大に歯止めをかけることはむずかしい。

 「人の生命の萌芽」。ヒト受精胚をめぐってクローン技術規制法のなかで設定されたこの概念には、それに「人」としての尊厳をしかと認めつつ、しかし「人」と同じ生存権は認めないという、わたしたちの苦肉の判断が反映されている。「萌芽」という語で、いずれ人になる可能性をもったものとして尊重し、かつ人そのものではないというかたちで人との違いを確認する、つまり、ひとと同じ生存権をもつものではないと考える。そしてそれを根拠として、別のひとの命を救うためにそれを活用する医療の道を開く……。これについては、「人の萌芽」と言い切るのではなく「人の生命の萌芽」と言うことで、「「生命」という一語を入れた分だけ、胚を人から遠ざけ生命一般のレベルにおとして、研究材料としての利用を正当化する根拠にしている」という疑念を表すひともいる(島次郎『先端医療のルール』)。

 「人の生命の萌芽」という表現には、たしかに、やがて人になる可能性をもったものを壊すという責めの意識と、それによって他の生命が恩恵にあずかるという、二重の思いが込められている。「人の生命の萌芽」という特別な存在を破壊することに対して、ある種の咎の念、罪責感は禁じえないが、そのことによって得られるより大きな恩恵のために眼をつむるという事情である。が、これがひとつの指針もしくは法律として定着すると、先端医療の技術者の内面で「このことで、失われゆくひとつの命が救われるのだからやむをえず」という苦渋はしだいに薄まり、「指針に謳われているのだから問題はない」というふうに、その行為から「責めを負う」という意識が免除され、倫理について無感覚になってしまいかねない。そしてそれは技術開発やビジネスの問題にさしたる抵抗もなくスライドしてゆく……。そういうかたちで、倫理が科学技術からますます遅れることになるというのが、いまの生命倫理のいちばんの問題であるとおもう。

 人の胚の利用にかんして「有用性」や当事者(たとえば、産みたいと人と産ませたいとおもっている医師)のベネフィットが主張されるのも、そういう文脈でのことである。そこには生まれてくる人、生まれえたであろう人にとってのベネフィットは議論の周辺に置かれる。他方、「人としての尊厳」が言われるのもまたそういう文脈でのことである。「人の生命の萌芽」という言い方で「人としての尊厳」を言うときには、人間以外の生命は除外されている。ヒト受精胚を「人の生命の萌芽」と規定するときには、そのような除外のもつ意味もよく意識しておかなければならない。ひとは他の生命を食って生きているが、しかし同時にそのことの贖いや抑制も工夫してきた。それが「人の生命の萌芽」と言い切ることで脱落してしまう可能性があるからだ。このように「尊厳」の対象をためらいなく特化する日本の議論は、ときに、人間中心主義と批難されるヨーロッパの生命倫理より以上に人間中心主義的である。現に日本では、動物実験にたいする法的規制は、欧米とくらべ格段に緩やかだ。

 いまの生命倫理のむずかしさは、生命技術の急激な展開に「倫理」が追いつけないところにある、いいかえると生命技術の予想を超える展開にわたしたちの倫理的感覚がうまく働かなくなっているところにある。この混乱は別のところにも現われており、たとえば、第二次世界大戦の死者よりもはるかに多くの胎児が堕ろされてきたこの国で、すでに人である赤子の堕胎が倫理的な問題としては一部でしか浮上せず、他方、人であるかないかが議論される受精胚への操作についてはこれほどまでに厳密な倫理的な論議がなされるという奇妙な事情も、そのことと無関係ではないとおもえる。また、胚以前の生殖細胞(精子や卵子)、さらには生殖腺組織(精巣や卵巣)の位置づけや操作限界についても法的規定はない。「倫理」がはたらかないので、生命「倫理」といってもじっさいには「法」的な手続き論の次元で対応するしかないのである。

 そのことが、法的議論で使用される言語にも反映している。たとえばES細胞を「樹立」し「配付」するために「廃棄予定」の「余剰胚」を「使用」するという表現が用いられる。しかし、「樹立」「廃棄予定」「余剰胚」「使用」「配付」といった、すでに法律や指針において用いられてきた術語への言いようのないわだかまりや抵抗の感情のなかにこそ、いまの生命倫理の困難が潜んでいるはずなのに、それが問題としては消されてゆく。

 「余剰胚」の「廃棄」などという表現への、わたしたちの内なる、理由のはっきりしない抵抗感、それはわたしたちの日常の言葉遣いにも現われている。英語の be をわたしたちは「ある」と「いる」の二様に訳す。虫けらでも黴菌でも「いる」、逆に物のみならずお金や名誉といった大切なものでも「ある」、と。ここでは命のあるものとないものとの差異が、言葉のうえでは厳格に守られている。そして、たとえばそういう(子どもにも共有されている)言葉遣いのなかに強く刻印されてきたわたしたちの肉ともいうべき倫理がどういうものであったかにまで立ち返って、生命技術をめぐりいま求められている倫理を組み立てることが必要だ。

  受精胚という、未だ人のかたちをとらないがやがて人になる可能性をもった存在の仕組みをも知り、操作しうるような地点まで、わたしたちの科学は到達した。では、わたしたちの「ひと」としての想像力は同じようにそこにきちんと着地しうるのか。たとえば、「人の生命の萌芽」と言うなら、わたしたちは「人」のみならず、その存在を人によって消去される「人の生命の萌芽」である者の側にも立って、事態を考えることができるのか。死んだ人の無念、生命として見棄てられた赤子の哀しみ、そういう「声にならぬ声」にどこまで耳を澄ましうるかに賭けることによって、みずから「人である」ことの意味を問いつづけることができるのか。そういうことも問われないといけない。

 「フランスでは、生殖医療の実施前にカウンセリングを義務づけ、そこで生殖技術の利用に伴う親子関係の法的問題や、養子をとる方法などの他の選択肢を説明して、一ヵ月の熟慮期間を課すよう法律で定めている。ひと月いろいろ考え、それでもやりたいという人だけに限ろうというのである」(島次郎、前掲書)。生命倫理はそれほどの慎重さを要する問題だとおもう。ひとには、あのときは分からなかったけれどいまだったら分かる、というふうに、時間をかけないと見えてこないことがある。

 

[付記]本稿は『中央公論』20025月号に掲載されたものである。