クローン技術と人間の尊厳

堂囿俊彦
(東京都立大学人文科学研究科博士課程、哲学・倫理学)

 

昨年の1225日に世界で初めて体細胞クローニングを用いることで女児(イブ)が誕生した、という発表がある新興宗教団体によってなされた。メディアでも残念ながら一時的ではあったがこの発表は大々的に取り上げられたが、全体的な論調はクローン・ベビーに対して否定的であった。理由は主として以下の二つである。すなわち、クローン技術は未だ不完全であり人間に応用するのは危険だというものと、倫理的に問題がある、人間の尊厳を侵すというものである。[1]

 わが国で20016月に施行された「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」(以下「規制法」と略記)[2] でもまた、「人の尊厳の保持、人の生命及び身体の安全の確保並びに社会秩序の維持(以下「人の尊厳の保持等」という。)に重大な影響を与える可能性がある」(第一条)[3] という理由から、胚や生殖細胞を扱うクローン技術に関して様々な規制が設けられ、イブのケースのような体細胞クローニングによる個体産生も禁止されている。

 本論では、規制根拠として挙げられているいくつかの理由の中でも特に「人の尊厳」(human dignity) に着目したい。というのも、第一に、人の尊厳という理由がこの中でもっとも根本的な理由と考えられ [4]、第二に、「この法律[規制法]が守るとしている人の尊厳とは何なのか、中身が明らかでなく、一貫していない」[5] と批判され、第三に、そもそも人の尊厳を人クローン個体の作成を規制する根拠とすることに対して異論が少なくないからである。[6]

 具体的な手順は以下の通りである。第一に、規制法に対する批判をまとめ、第二に、規制法およびその第四条にもとづき200112月に施行された「特定胚の取扱いに関する指針」[7](以下「指針」と略記)を分析し、批判に答えるには何が必要なのかを確認する。第三に、そこから浮かび上がってくる問題、とりわけヒト胚の問題を考える。

 A. 規制法における「人の尊厳」

1) 批判点の確認

 規制法に対する批判として、すでに言及した島の反論はきわめて明確かつ強力なものと思われる。それは以下の二点である。[8](括弧内の用語は、すべて人クローン規制法第二条の定義による。)

(1)  この法律では、9つの特定胚のうち、人クローン胚、ヒト動物交雑胚、ヒト性融合胚、ヒト性集合胚を人または動物の胎内に移植することが禁止されているだけで、特定胚の産生自体は禁止されていない。しかしこうした産生自体も人の尊厳を侵すのではないか。
(2)  この法律では、上記4つの特定胚以外の胚、すなわちヒト胚核移植胚、ヒト胚分割胚、動物性融合胚、ヒト集合胚、動物性集合胚を、人または動物の胎内に移植することが禁止されていない。しかしこうした特定胚から生成される個体も人の尊厳を侵すのではないか。

(1) は胚というレベルで、(2) は個体というレベルで人の尊厳を問題にしていると考えることができるだろう。(ここで意味されている個体は、次節で確認する規制法の場合と同じく、おそらく出生後のヒトである。)そこで次に、規制法で用いられている人の尊厳の内実を明らかにすることで、これら二つの批判の妥当性を探りたい。

2) ヒト胚と「人の尊厳」

 すでに見たように、規制法において特定胚の作成そのものは禁止されなかった。なぜか。それはそうした胚が医療上の有用性をもつと考えられるからである。特定胚の中でもおそらくもっとも注目されている人クローン胚を例にとって考えてみよう。この胚、正確に言えば、この胚の破棄(滅失)によって得られるヒト胚性幹細胞(embryonic stem cellES細胞)の有用性はきわめて大きい。なぜならこのES細胞は人体のあらゆる組織(臓器)に分化する可能性をもつからである。(そのためこの細胞は万能細胞とも呼ばれる。)だから特定の組織に分化させる技術が確立すれば、私の体細胞核を除核卵(核を除いた卵細胞)に移植し、こうして得られるヒト胚を滅失して樹立されるES細胞からほぼ自分の遺伝子をもった(それゆえに拒絶反応のない)臓器を作り出すことができるかもしれない。[9] 生殖を目的としたクローニング (reproductive cloning) に対して、こうしたクローン胚作成が治療目的のクローニング (therapeutic cloning) と呼ばれるのは以上の理由による。しかしその前に考えなくてはならない。たとえ治療目的であっても、そもそも「破棄を前提として」ヒト胚を作り出すという行為は許されるのであろうか。[10] そしてこの問いは、ヒト胚とは人の尊厳をもつのかという問いにつながる。というのもかりにもつのであれば、ヒト胚を他(者)の有用性のために消滅させることは原則的に [11] 許されないはずだからである。

 人の尊厳という表現は、規制法第一条及び第四条の二箇所で用いられているが、その内実を探る手がかりを与えてくれるのはすでに引用した第一条である。そこでは次のように言われている。

ヒト又は動物の胚又は生殖細胞を操作する技術のうちクローン技術ほか一定の技術(以下「クローン技術等」という。)が、その用いられ方のいかんによっては特定の人と同一の遺伝子構造を有する人(以下「人クローン個体」という。)若しくは人と動物のいずれであるかが明らかでない個体(以下「交雑個体」という。)を作り出し、又はこれらに類する個体の人為による生成をもたらすおそれがあり、これにより人の尊厳の保持、人の生命及び身体の安全の確保並びに社会秩序の維持(以下「人の尊厳の保持等」という。)に重大な影響を与える可能性がある…。

ここから少なくとも明らかなのは、人クローン個体、交雑個体、これらに類する個体が人の尊厳等に重大な影響を与えうるということである。そこで、さきの (1) の批判、つまりヒト胚と尊厳との関係は、そもそも人クローン規制法では問題になっていないことになるだろう。[12] なぜなら、人クローン個体や交雑個体の生成を防止するために禁止されているのは胎内移植であり(第三条)、その背景には、胎内移植を経なければ出生し得ないという考えがあるからである。[13] つまり規制法で言われる個体とは、現行法において基本的に「人」とされている出生後のヒトを意味するのである。[14]

 それでは島のように、問題にされていないこと自体が問題であって、この態度こそ、「胚は人間ではなく、禁止するに値しないという価値判断」[15] を含意すると考えることはできるだろうか。確かに刑事法規制には、禁止しない行為を暗黙のうちに正当化してしまう側面があることは否めないし [16]、今回の規制法に関してこの側面を積極的に利用したと解釈することはできる。つまり、規制法を、「クローン個体等の産生を峻厳な刑罰で禁止すること、および、これらの胚を用いた研究を解除するという、二本の大きな柱をもった法律」[17] と見ることもできるのである。事実、規制法の土台となった科学技術会議生命倫理委員会による「クローン技術による人個体の産生等について」(199912月)では、「人クローン胚の研究は…個体を産生しない限り、人間の尊厳の侵害や安全性の面での重大な弊害を伴うものでもない」 [18] と述べられ、ヒト胚をモノと見なしているようにも思われる。

 にもかかわらず、規制法の附則第二条において次のように述べられていることは注目に値する。

政府は、この法律の施行後三年以内に、ヒト受精胚の人の生命の萌芽としての取扱いの在り方に関する総合科学技術会議等における検討の結果を踏まえ、この法律の施行の状況、クローン技術等を取り巻く状況の変化等を勘案し、この法律の規定に検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずるものとする。

さらに指針第二条では、「特定胚のうち作成することができる胚の種類は、当分の間、動物性集合胚とし、その作成の目的はヒトに移植することが可能なヒトの細胞に由来する臓器の作成に関する研究に限るものとする」とされ、唯一動物性集合胚の作成が認められたに過ぎない。指針を最終的にとりまとめた総合科学技術会議生命倫理専門調査会の特定胚指針プロジェクトは、その理由について、「…我が国ではヒト胚問題全体について議論が尽くされておらず、ヒト胚の研究利用に関する倫理的な問題に係る考え方について更に議論する必要があるので、当面は基本的に動物胚であると考えられる動物性集合胚に限り作成を認める」[19] と述べている。つまり、ヒト胚の身分について基本的な考え方が出ていない現段階で、ヒト胚の取扱について云々することはできないということなのである。[20]

 それゆえに、前節で確認した批判点 (1) に対して、規制法は答えを棚上げにしている状態である。言い換えれば、ヒト胚に人の尊厳はあるという見解に余地を残していると言えるだろう。[21]

3) 人クローン個体・交雑個体と「人の尊厳」

 規制法第一条において人の尊厳を侵す可能性があると想定されているのは、以下の三つの場合である。

(A) 人クローン個体の作成
  →人クローン胚からの個体生成
(B)交雑個体の作成
  →ヒト動物交雑胚、ヒト性融合胚、ヒト性集合胚からの個体生成
(C)これらに類する個体の人為による生成
  →上記の特定胚以外のもの(ヒト胚核移植胚、ヒト胚分割胚、ヒト集合胚など)からの個体生成

実際にこれらのうち規制法第三条で禁止されているのは (A) および (B) であり、(C) は禁止されていない。そこでこうした区分を支えている考えを明確にするため、規制法の土台となったクローン小委員会の最終報告書「クローン技術による人個体の産生等に関する基本的考え方」(199911月)[22] を見てみよう。この報告書では「人間の尊厳の侵害」という項目で以下の三つが挙げられている。

(a) 動植物の育種と同様、クローン技術の特色である予見可能性を用いて、特定の目的の達成のために、特定の性質を持った人を意図的に作り出そうとすること(人間の育種)や、また、人間を特定の目的の達成のための手段、道具と見なすこと(人間の手段化・道具化)に道を開くものであること

(b) 人クローン個体に固有の問題として、既に存在する特定の個人の遺伝子が複製された人を産生することにより、体細胞の提供者とは別人格を有するにもかかわらず常にその人との関係が意識され、実際に生まれてきた子供や体細胞の提供者に対する人権の侵害が現実化・明白化すること

社会的な観点からは、上記2点の問題を容認することは、人間の個人としての自由な意志や生存が尊重されている状態とは言えず、すべての国民は個人として尊重されるという憲法上の理念に著しく反することとなる(個人の尊重の侵害)。

(c) 遺伝子が予め決定されている無性生殖であり、受精という男女両性の関わり合いの中、子供の遺伝子が偶然的に定められるという、人間の命の創造に関する基本認識から著しく逸脱するものであり(人間の生殖に関する基本認識からの大きな逸脱)、かつ、親子関係等の家族秩序の混乱が予想されること

このように人間の尊厳は、(a) 人間の育種、人間の手段化・道具化、(b) 人権の侵害、(c) 生殖に対する基本認識、ということになる。しかしこの中で厳密な意味での人間の尊厳は (a) と考えられる。というのも (b) で言われている人権は、『国際人権規約』や『市民的及び政治的権利に関する国際規約』 [23] において述べられているように、「人間の固有の尊厳に由来する」と言われ、(c) も、規制法ではむしろ「社会秩序」(第一条)という別の禁止理由に含まれると考えられるからである。[24] つまり人間の固有の尊厳とは、人間が育種され、手段化・道具化されるさいに損なわれているものにあるということである。それは何か。私はそれを、引用文中における、「人間の個人としての自由な意志」に見る。(以下「意志」はこの意味で用いる。)私が他人の単なる手段や道具とされるとき、私の意志は端的に無視される。育種の場合も同じであることは、家畜のケースと類比的に考えればよく分かる。人間の育種が行われた場合、交配するのかどうか、どの個体と交配するのかは、種を優れたものにするという何世代にもわたる通時的な目的に従って決められ、個体の意志はまったく顧慮されないはずである。それゆえ生まれてきた子供もまた、その目的のためにのみ存在する。つまりここで人々は、その目的の単なる手段・道具にすぎないのである。

 それでは (a) を人の尊厳の内実とした場合に、規制法の区割りは妥当であろうか。(A) の人クローン個体がこうした意味での尊厳を侵す「可能性」をもつことは、上記の報告書がそもそもこの個体の産生禁止を主眼としていることからも明らかである。そこで問題は、残る二つのカテゴリーとなる。

 まずは (B) の交雑個体について考えてみよう。まっさきに浮かぶ疑問は、上記の意味での尊厳が交雑個体を禁止する根拠として妥当なのかというものである。交雑個体は、まさにヒトという種と別の種とを混ぜ合わせることにより作られるゆえに、「当該個体に生じた様々な結果をとらえて『人としての尊厳を侵害した』ということはできない」[25] ように思われるからである。にもかかわらず報告書において、そうした個体生成は「人間の尊厳及び安全性の問題において、人クローン個体の産生を越える問題を有する」という理由から禁止されている。それではこの場合に侵される尊厳とは、誰の尊厳であり、いかなるものなのか。その答えは以下の文章に示されていると思われる。

(B)の作成は]ヒトという種のアイデンティティを曖昧にする生物を作り出すものであり、クローン技術による人個体の産生を上回る弊害を有する…。[26]

 ここで危惧されるべき事態として考えられているのは、「ヒトという種のアイデンティティを曖昧にする」ということである。そうだとすれば、交雑個体の場合に問題になっているのは、「ヒトが種としてもつ尊厳」と考えられるであろう。(この意味での尊厳と (a) との関係はB-4で触れる。)

 それでは最後に (C) を見てみよう。[27] 規制法第一条では、(C) (A) (B) と同じように人の尊厳を侵害する「可能性」をもつとされているが、第三条においてそれらの胎内移植は禁止されなかった。なぜか。それは、特定胚の場合と同じく、これが医療の一環として位置づけられうるからであろう。体外受精にさいして十分な卵子が採れないとき、作られた数少ない受精胚を分割してヒト胚分割胚をつくれば出生率を上げることができるだろう。これを禁止するとなるとどうなるであろうか。そのときにはおそらくこうしたかたちの不妊治療を受けたいという患者の自己決定は否定されることになるであろうし、結局のところその人の尊厳を侵すことになるかもしれない。

 そこで冒頭の第二の批判に対しては次のように答えられる。規制法で胎内移植が禁止されなかったヒト胚から生成される個体も人の尊厳を侵すのではないかという批判であった。確かにこうした個体を産生することで、人間の尊厳は侵されるかもしれない。しかしこうした可能性だけで禁止すれば、それは現実に患者の尊厳を侵害することになりかねない。だからこそ、そうしたヒト胚の胎内移植は禁止されなかったのであろう。

 だが指針第九条において、これらの特定胚の胎内移植も禁止された。なぜだろうか。禁止の根拠としては、ヒト胚研究小委員会によって平成123月に出された「ヒト胚性幹細胞を中心としたヒト胚研究に関する基本的考え方」(以下「報告書」)および規制法の国会審議においてなされた衆参両議院での附帯決議が挙げられている。[28] 前者では確かに、「ヒトクローン胚等」(規制法における特定胚)について、「個体産生に至らないよう適切な取り扱いがなされること」(24頁)とされている。この根拠となった「クローン技術による人個体の産生等について」では、「初期胚からの核移植[ヒト胚核移植]による個体の産生や、初期胚の分割[ヒト胚分割]によるクローン個体の産生」について、次のように述べられている。

成体からの核移植とは異なる側面があること、生殖補助技術としての将来の可能性があることを考慮しつつも、同一の遺伝子を有するものを人為的に複数産生可能となる点などの問題があることから、これらの技術により個体産生が行われないよう具体的な措置を講ずる必要がある。[29]

ヒト胚分割は同一の遺伝子を有する人間を人為的に複数産生することができる。規制法ではこの可能性から禁止は導かれなかったが、ここでは導かれている。こうした違いを生み出しているのは、おそらく「医療という概念のあいまいさ」であろう。この概念が何を意味するのかは実のところ非常に難しい。しかしある科学技術を医療というカテゴリーに括るということは、その技術を患者というカテゴリーに結びつけることである。医療という概念は患者という概念と不可分に結びついているからである。そして、その技術の開発・使用を禁止することは、それを望む患者の意志を否定することになるかもしれず、この点で尊厳の侵害が起きかねないのである。ところが上記引用において、クローン技術を用いた個体産生は、確かに「生殖補助技術」として認められてはいるが、「生殖補助医療技術」として認められてはいない。つまりその技術を用いないことが誰かの尊厳を侵すことにはならないと考えられているのである。附帯決議についても同じことが言える。そこでは基本的に医療という視点が度外視され、可能性から直ちに禁止が導かれているのである。[30]

 以上、島の批判の妥当性を探るべく規制法および指針を分析してきたのであるが、第一の批判に対しては答えておらず、第二の批判に対しては医療という要因をもって境界線を引いているということが明らかとなった。[31]しかし第二の答えは不十分である。というのも医療という概念そのものが不明瞭であり、そのためになぜ人クローン個体の産生が(不妊)治療ではありえないのかを示していないからである。従って医療ないしは治療という概念を(両者の違いも含めて)明確にすることが第二の批判に答えるためには必要である。そこで本稿では、まずは第一の点について考えることとし、第二の点については別稿で改めて論じることにしたい。

 B. ヒト胚に「人間の尊厳」はあるのか

1) 意志を語ることはパーソン論を前提とするのか

 ヒト胚と人間の尊厳との関係を問うこと自体、無意味なのではないかこうした疑問をもたれるかもしれない。なぜなら前節で確認したところでは、人間の尊厳とは無視されてはならない意志をもった主体にのみ認められるように思われ、当然のことながらヒト胚はその主体から排除されるように思われるからである。つまり、「ヒトが人間の尊厳をもつには当の主体が意志する能力をもたなければならない」と思われるのである。

 こうした考えの背後には、生物学的なヒトとは別に人(人格、パーソン)の規準を設定し、ヒト胚をその規準を満たさないものと見なす、いわゆるパーソン論的発想がある。[32] (以下、「人格」「人」は人間の尊厳の主体を意味する。)人格の規準は論者によって様々であるが、少なくともヒト胚を人格から除外するという点では大方の論者が一致している。例えばマイケル・トゥーリーは人格の規準について次のように述べる。

ある個体を人格にする非潜在的性質…は、非瞬間的な関心の持続的な主体である (being an enduring subject of non-momentary interests) という性質である。[33]

この規準に照らし合わせたとき、ヒト胚が人格ではなく、それゆえに人間の尊厳をもたないことは明らかであろう。

 しかしヒト胚は人ではなく、それゆえにヒト胚を破棄しても殺人ではないという思考方法を受け容れることが本当にできるのか。この考えをそのままの形で実践することが可能か。私はそうは考えない。われわれの感情をパーソン論によって啓蒙するべきなのだろうか。しかしそのさいにわれわれは、実践によってパーソン論の正しさを発見するというよりも、むしろ「何かを歪めている」のではなかろうか。このことはパーソン論が人工妊娠中絶の是非をめぐる議論を終結させることができなかったという事実からうかがい知ることができるように思われる。[34] それゆえにここでは、躊躇を妄想と非難するよりもまえに、どうしてこの(私の)躊躇がこれほど強いのかを考えてみたい。

2) 現実に人格であるために現実に能力をもつ必要はない

 なぜ私はヒト胚の破棄をモノの処分と同一視できないのだろうか。それはヒト胚に人を見るからである。もっと正確に言えば、ヒト胚に人の姿を「重ね合わせる」からである。そのヒト胚が将来人として享受するべきさまざまな幸福をそこに重ね合わせるからこそ、そしてその当人はヒト胚としての自己の破棄を望まないであろうと考えるからこそ、そうした同一視には断固として反対したくなる。この重ね合わせを根底で支えているのは、「ヒト胚は人になる可能性をもっているという事実」である。この可能性ゆえに、われわれはヒト胚に人の姿を見ざるをえないのである。[35]

 しかしこうした説明はパーソン論の立場からすればまったく取るに足りないものに過ぎない。「ヒト胚がどれほど人になる可能性をもっているからといって、そしてそのためにどれほどヒト胚に人の姿を重ね合わせざるをえないからといって、ヒト胚はやはり人ではない」と反論されるだろう。この議論を「潜在性に関する論理的問題点」[36] として明快に打ち出したのは、周知のようにジョエル・ファインバーグである。「1930年にジミー・カーターは6歳であったが、そのとき彼は、自分ではそのことを知らなかったのではあるが、アメリカ合衆国の潜在的な potential大統領であったわけである。そのことは、彼に、その時点では、アメリカ陸海軍を指揮するといういかなる要求も、たとえ非常に弱い要求ですら、権利として与えるものではなかった。」[37] 潜在的な大統領だからといって、現実の大統領と同じ権利をもつわけではない。同じように、潜在的な人格だからといって、現実の人格と同じ権利をもつわけではない。人格として認められるには、「現実に」人格の規準を満たしていなければならないのである。すなわち、「任意の時点tにおいて、C[道徳的人格性を規定する諸特徴自己意識、情緒的経験の所有、等々]を現実に actually所有している生き物はすべて、そして、その生き物のみが、たとえその生き物がいかなる種あるいはカテゴリーに属していても、時点tにおける道徳的人格である。」[38]

 この議論に対しては、次のような素朴な疑問が浮かぶ。「Cを現実に所有している」とはいかなる事態を言うのか。例えば私は、無意識状態のとき、Cを現実に所有してはおらず、それゆえに人格ではないことになるのか。そのときに誰かが私を殺したとしても、その人は罪を侵したことにはならないのか。しかしそうしたことは決してない。われわれは、たとえある人が無意識状態であっても、あたかもその人が意識をもっているかのように考えることができるし、実際にそうしている。その一例として、緊急治療行為時におけるいわゆる「推定的同意」を挙げることができるだろう。それのみを取り出せば侵襲行為である治療行為は患者の同意によって違法性を阻却される。しかし無意識状態などで患者の現実的同意が得られず、「遅れると危険」というような緊急時に、医師は自ら患者の同意を推定することにより、その行為の違法性を阻却できるのである。[39] 「患者が当該状況を正しく認識したとするなら治療的侵襲の結果・危険に対して同意を与えることを拒絶しなかったであろうと認められる場合には、患者の現実的な同意が存在せず、あるいはそれが無効であったとしても、結果の発生は合法となると解すべきである。」[40]

 このようにわれわれは、現実に何らかの規準を満たしている存在のみを現実に人格とみなしているのではなく、その意志ないしは決定を推定しうる存在をも現実に人格とみなしている。(以下、前者を人格A、後者を人格Bと呼ぶ。)つまり可能性というレベルでしか能力をもたない存在が、ただちに現実的人格というカテゴリーから排除され、人間の尊厳をもたないと判断されているわけではない。それではヒト胚を人格Bに含め、ヒト胚を尊重されるべき尊厳をもつ主体と見なすことはできるのか。これに対しては当然のことながら様々な反論が予想される。そこで次節では想定される反論を考察する。

3) 想定される反論

 人格Bにヒト胚を数え入れることに対しては、ヒト胚と推定的同意が認められる患者との間に見られる違いに応じて、以下のような反論がなされると思われる。

(1)両者では現実の状態が異なる。
(2)両者では過去の状態が異なる。

(1)の点に関して主張されるのは、例えば次のようなことである。ヒト胚では(少なくとも受精後14日頃までは)脳の原型である原始線条すらもないが、患者には、確かに一時的に機能しなくなっているが脳という器官は存在している、と。しかし当のヒトに脳が現実に存在しているのかどうかは、そのヒトを人格Bに数え入れることには関係がない。というのも、かりに脳が跡形もなく破壊されている緊急患者が運ばれ、幸運にもその治療方法が確立されているとすれば、医師は間違いなく推定的同意のもとに治療を行うと考えられるからである。この思考実験は、推定的同意をするさいに、当の存在が現実にどのような状態なのかということが問題ではないことを示している。

(2)は、前者はかつて人格Aであった(かもしれない)が、ヒト胚は一度もそうなったことはなく、これが推定的同意にとってきわめて重要だという主旨である。ここにはさらに二つの反論が含まれている。

 第一の反論は、推定的同意は、個人的・具体的な情報なくしては適切になされえないというものである。例えば腕に重傷を負ったピアニストが意識のない緊急患者として運ばれてきたときに、医師は、患者の個人的データを背景にした推定的同意にもとづき、安全だが腕を切断する治療方法よりも、より危険であるが腕を切断しなくてもよい治療方法を選択するかもしれない。そしてヒト胚にはこうした個人的背景が欠けている以上、このようなかたちでの推定的同意は不可能である。しかし推定的同意は決してこのようなかたちに制限されない。実際には「合理的な人」ないしは「一般人」[41] という想定の下で推定せざるをえない場合もある。それゆえに個人的・具体的な背景をもった個体でなければ推定的同意の対象たりえないという見解は妥当ではない。[42]

 第二の反論は、推定的同意は、たとえ合理的な人を想定するにしても、過去にそうした意志をもっていた人でなければ、なされえないというものである。おそらくこれが最終的な答えとなるであろう。しかし正直に言えば、なぜこの事実が意志を推定する不可欠の条件なのか、私には分からない。すでに見たように、ここで語られる人は個性をもった人である必要はなく、合理的/一般的な人である。だからこそ、この人はもはや「過去という視点」からだけ語られる必要はなく、だからこそ、この人を、そしてその人の意志を、「未来という視点」から語る可能性が開かれるのではなかろうか。そしてこの点において、基本的にヒト胚と患者とは異ならないはずである。

 それではそこで語られる意志とは何か。私はまっさきに、「生存に対する意志」を挙げる。なるほどこれを「人間の個人としての自由な意志」と呼ぶのはトリヴィアルにも思えよう。しかし考えていただきたい。推定的同意という仕方で、合理的な人を想定したうえでの意志ここでは「人間の個人としての自由な意志」が前提とされているはずであるを語るとき、われわれは「生存に対する意志」以上の何かを語っているのだろうか。語っているのかもしれない。[43] しかし少なくとも、「生存に対する意志」をも、「人間の個人としての自由な意志」として語るときがあることを否定はできないだろう。

 以上のことが正しいとすれば、われわれは未来という視点から、「破棄されることを望まない」という意志をヒト胚に重ね合わせることができる。だから実は、ヒト胚における推定的同意の成立を阻んでいる要因は、ヒト胚の側にあるのではなく、われわれの側にある。かつて人格であったヒトの推定上の意志は無条件に認め、未だ現実的人格とはなったことのないヒトの推定上の意志は認めない(より厳密には、われわれにとって不都合な意志は認めない)、とわれわれが決めているにすぎないのだ。

 しかし、将来「破棄されたかった」という意志をもつ可能性のあるヒト胚についてはどうなのか。[44] 障害をもって生まれた子どもが「自らの出生は回避されるべきだった」と主張して医師を訴えるwrongful lifeと呼ばれるケースを見れば、確かに生存への意志を単純に重ね合わせることはできないように思われる。しかし逆に、障害を抱えて生きる人が「生まれない方が…」という意志(思)を一律にもつわけではない。障害をもって生きるということの是非を一義的に語ることは誰にもできないはずだ。だから例えば受精卵診断で深刻な遺伝的疾患が見つかった場合に、安易な重ね合わせによって破棄を正当化することは許されない。それではここには尊重されるべき意志がなく、それゆえにそうしたヒト胚は尊厳を持たないのか。そうではない。確かにここでは未来という観点から意志を語ることはできない。しかしこれが不可能なのは、意志が不在だからではなく、その意志がどのようなものであるのかがわれわれには分からないからである。われわれが直面しているのは、意志の不在ではなく、意志の不可知さなのである。その限りで、やはりこうしたヒト胚も尊厳をもつと言わなければならない。[45]

 結局のところ、ヒト胚は人なのかどうかなのかという問いの答えは、ヒト胚を調べても出てこない。そして、われわれが想像力をもちいて、人格の基準を現実には満たさない存在(人格B)の心を語り、それに従って自らの行為を制約するという事実を省みれば、ヒト胚は人格であり、人の尊厳をもつ。だからこそヒト胚の滅失は罪悪感を伴うのである。人格Aの視点にだけ定位してヒト胚という人格Bの消滅は悪ではないとするパーソン論のいびつさは、ここにこそある。

4) 種の尊厳と重ね合わせ

 以上見てきたような重ね合わせが、種のアイデンティティ、種の尊厳という考え方の中でも働いていることを最後に確認しよう。(この「種の尊厳」の妥当性そのものについては、別稿で改めて論じる。)すでに見たように、種の尊厳は、キメラ・ハイブリッドといった「雑種の」個体生成を禁止する根拠として用いられていた。しかし、こうした意味での尊厳が人クローン個体を防止するような意味での尊厳といかに関連するのかは、必ずしも明確ではない。[46] キメラ、ハイブリッドと聞いたときに、われわれはいかなる存在を思い浮かべるだろうか。それらの元になる胚の成り立ちからも容易に想像しうるが、ヒトとそれ以外の動物とが何らかの仕方でまざった個体を想像するのではないだろうか。(ちなみに文部科学省の手になる「法律により母胎移植が禁止される胚」というパンフレットには、ヒトの胴体に馬の足をした個体や、猿人のような個体が描かれている。)確かにそうした個体を目の当たりにすれば相当なショックを受けるであろうが、そのショックと人の尊厳とはどのように関わるのだろうか。

 すでに述べたように、キメラ・ハイブリッドはヒトではない以上、そうした個体のみを捉えて「人の尊厳が侵された」と言うことはできない。むしろ「われわれの」尊厳が侵されたというべきである。しかしなぜこう言うことができるのだろうか。それは、そうした個体がもつ二つの要素から成り立っている。

(1) ヒトと共通した要素をもつ。
(2)種を混ぜるという通常であれば育種(端的な手段化)という文脈でのみ用いられる手段によって生まれた。

(1) の事実によって、われわれはキメラ・ハイブリッドに自らを重ね合わせざるをえず、さらに (2) の事実によって、あたかも自分が育種というかたちで手段化されたかのように見なすことになるのである。育種が人の尊厳を侵す行為であることはすでに見たとおりである。結局のところ、種の尊厳・アイデンティティとは、人は育種されてはならないし、手段化されてはならないという人の尊厳の原則と同じことを意味していると考えられる。

前途瞥見

 本論で私が主張したことは、ヒト胚も人間の尊厳をもつということである。われわれは「すでに」ヒト胚に人間の尊厳を認めている。細胞の塊はヒト胚であるという事実によってわれわれに人の姿を重ね合わさせる。そしてわれわれは常日頃から、そうした重ね合わせを通じて、語ることのない存在(人格B)の声を聞き、それに従って自らの振る舞いを決めているのである。それ故にヒト胚という場面に限って語る存在(人格A)の利益を得るためにその声に耳をふさぐことに違和感を覚えるのは、当然のことなのである。パーソン論がヒト胚は人ではないと声高に叫んでもどうしてもわれわれの感情が納得しないのは、そのメカニズムが推定的同意という場面で、あるいはごく日常的な場面で、われわれの行為を支えているものだからであろう。

 もちろんヒト胚に尊厳を認めるからといって、ヒト胚を常に絶対視しなければならないということではない。周りの状況との葛藤の末、破棄せざるをえないケースもあるかもしれない[47] しかしヒト胚に尊厳を認める以上、少なくとも治療目的のクローニングは禁止しなければならない。なぜならそこでは葛藤の場がはじめから排除され、ヒト胚の破棄が「すでに決められている」からである。ここでヒト胚は端的にモノ化されている。

 しかし未解決の問題は山積みである。主なものを挙げれば次のようになる。第一に、すでに述べたが、生殖目的のクローニングの妥当性は本稿では検討できなかった。この問題は体外受精というコンテクストの中で、医療という概念を明確にしながら改めて論じる必要がある。第二に、人工妊娠中絶について考えなければならない。パーソン論の背景としては、人工妊娠中絶の正当化が挙げられる。胎児は人ではないので中絶しても殺人にはならないというのがその論理である。しかし私が本論で展開した考えに従えば、やはり中絶は殺人である。しかしここにはリプロダクティブ・ライツを含めて、論じるべきことが多くある。第三に、人の終わりについて、とりわけ脳死を中心として考えなければならない。本稿では未来という視点から重ね合わせを論じたが、過去という視点からの重ね合わせ(リビング・ウィルの尊重)について、家族との関係も含めたうえで考えたい。

付記:本論は、2002年度東京都立大学法学部で開かれた石井美智子教授のゼミ「家族と医療」において発表した原稿をもとにしている。一年を通じてこの場で交した石井教授や参加学生との真摯で活発な議論がなければこの論文は完成しなかった。石川求氏(東京都立大学)、鈴木崇夫氏(清泉女子大学)は、原稿に丁寧に目を通し、コメントを寄せて下さった。野津悌氏(国士舘大学)との日頃からの議論は、論点を明確にする助けとなった。以上の方々に心から感謝の意を表したい。

〈注〉
*引用文中、丸括弧及び太字は原著者によるものであり、角括弧及び下線は筆者によるものである。
*引用文献については、筆者、発行年、頁数のみを挙げる。詳細な情報については論文末の参考文献を参照されたい。

[1] イブの出生について、例えばシラク大統領は「人格の尊厳を侵す犯罪」と、そしてユネスコの松浦晃一郎事務局長は「人間の尊厳の許し難い破壊」と不快感を露にした。

[2] 以下のサイト内から入手可能。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/index.htm

[3] 「人の尊厳」と「人間の尊厳」という二つの表現について、本稿では全くの同義語として扱う。ただし甲斐は両者を同義とみなすには検討を要すると考えている(2001, 88頁)。また川井は、「抽象的な人」「具体的な人間」というかたちで両者のニュアンスの違いを捉えている(総合研究開発機構・川井, 2001, 30頁)。

[4]  クローン小委員会報告書(http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/shisaku/rinri.htm)では、人クローン個体禁止の理由として、人間の尊厳の侵害と安全性とが挙げられている。位田の指摘するように、「この安全性の問題は、生命科学が進展していけば回避できる可能性がある」以上、「より基本的な理由は、もう一つの『人の尊厳』に求められることになる。」(2000, 57頁)

[5] 島, 2001, 12.

[6] 加藤, 1999, 102-141; Harris, 1998, p.31f.; Beyleveld/Brownsword, 2001, p.161. また、イブ出生の立て役者と見られるボワセリエ博士は、毎日新聞のインタビューに対して、「人間の尊厳に反するという人がいるが、人間の尊厳とは何ですか。愛する子供を持ちたいという願望をかなえることが尊厳に反するとは思えない」と述べている。20021228日付毎日新聞

[7] 注2参照。

[8] 島, 2001, 12-13. 御輿も同様の批判をしている。御輿, 2001, 47.

[9] しかしES細胞の利点として挙げられる「拒絶反応のない臓器の作成」は自明ではない。粥川, 2003, 100-115頁を参照のこと。

[10] 「出生を前提として」クローン胚を含めたヒト胚を作り出すこと、つまり生殖目的のクローニングの是非については、生殖補助技術、とりわけ体外受精および顕微授精も含めた上で稿を改めて論じることにしたい。両者は事柄として分けるべきだと思われるかもしれないが、私はそうは考えない。というのも出生を目的としたヒト胚作成という点で両者は変わりがないのであり、後に見るように、一見両者の線引きをしていると思われる「医療」「治療」という概念そのものがきわめて曖昧だからである。他人のいわゆる余剰胚から子をもうけることは医療であって、不慮の事故で幼くして亡くなった子供あるいは死胎の体細胞クローン胚から子をもうけることは医療ではありえない、という説明は、どれほどの説得力をもつのだろうか。生殖医療とクローン技術規制は一体化するべきだという島の指摘は正鵠を射ている。(2001, 13, 196-197頁)

[11] なぜ「原則的」なのかについては、注21を参照のこと。

[12] 尾崎, 2002, 61.

[13] 「現在の科学的知見では、人の胚は母体への胚移植の過程を経なければ、出生、成長する可能性がないということで、人のクローンの個体を生み出さないためには、胚の母体への胚移植の段階を禁止の対象とするということが適切ではないかということでした。」(第五回委員会議事録、事務局発言)

[14] もちろん、民法の通説では胎児が母体外に全部露出する時(全部露出説)であり、刑法の通説では一部露出する時(一部露出説)という点で違いはある。また民法において、損害賠償や相続などの場合には、胎児は人と見なされる。

[15] 島, 2001, 10.

[16] 石塚, 2002, 19; 小名木, 2002, 180. ただし「適法と違法の評価のほかに、法がそのどちらの評価をもさしひかえるところの第三の領域」である「法的に空虚な領域」(金澤, 1995, 24頁)を積極的に認めるのであれば、話は別である。

[17] 町野, 2001, 86. 町野はクローン小委員会の委員であったが、引用に見られる「二本の大きな柱」という考えは、委員会全体の総意ではなく、彼の「個人的見解」(92 7)である。

[18] 2. 2に記したサイトからPDF書類として入手可能。

[19] 「諮問第4号「特定胚の取扱いに関する指針について」に対する答申」http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/seimei/2001/hai3/011201.htmから入手可能。

[20] この課題はヒト胚小委員会に委ねられ、平成15年秋頃までに結論を出すことを目指して現在も議論が続けられている。議事録は以下のサイトから入手可能。http://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/life/haihu19/haihu-si19.html

[21] しかし「人の尊厳を侵すことのないよう、生命倫理の観点から遵守すべき基本的な事項を定め」た「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」では、生殖補助医療目的で作成されたものの、提供カップルがもはや不要と判断した胚(いわゆる余剰胚)からのES細胞樹立が条件付で認められている(第六条)。(注2のサイトから入手可能。)これを見るかぎりヒト胚には尊厳が認められていない印象を受けるが、そうではなかろう。ヒト胚に尊厳を認めるからといって、それを絶対的に保護しなければならないわけではない。例えば中絶をしなければ妊婦が助からないというときに胎児を殺すことは、たとえ尊厳を侵すことであっても正当化されるはずである。(もちろん余剰胚からのES細胞作成がこれに当てはまるのかは検討を要する。)

[22] 注4のサイトから入手可能。

[23] 国際人権条約における「人間の尊厳」に言及したものとして以下の文献がある。秋葉, 2000; Beyleveld/Brownsword, 2001, pp.2-21.

[24] クローン小委員会委員であった位田も、(a) を「尊厳に対する侵害の中核」(2000, 57-58頁)と見ている。

[25] 町野, 2001, 92 16.

[26] 「クローン技術による人個体の産生等について」3.2のサイトから入手可能。

[27]  (C) には、動物性集合胚、動物性融合胚も含まれるが、本稿では、さしあたりヒト胚と考えられる、ヒト胚分割胚、ヒト胚核移植胚、ヒト集合胚のみを扱う。

[28] 「「特定胚の取り扱いに関する指針」及び「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律施行規則」解説資料」9.2のサイトから入手可能。

[29] 2.

[30] 「法[規制法]第3条に掲げる胚以外の特定胚についても、人又は動物の胎内に移植された場合に人の尊厳保持等に与える影響が人クローン個体若しくは交雑個体に準ずるものとなるおそれがあるかぎり、人又は動物の胎内への移植を行わないこと。」(1─ア)http://www.sangiin.go.jp/japanese/ayumi/zenkai/150/1504106.htm

[31] ちなみに島自身は、自ら提示した二つの批判に答えてはいないが(おそらくこのことが目的なのではない)、生命倫理で守られるべき五つの原則(@本人同意原則、A無償原則、B匿名原則、C公序原則、D審査原則)を提示し、これらに違反することは人間の尊厳の侵害にあたるとしている。(186-193頁)あえて踏み込んで言えば、おそらく二つの問題点はCの観点から論じられることになるだろう。そしてそこで最終的に問題となるのは、社会全体の合意を形成する枠組みになるはずだ。私はこの方向性を否定するつもりはないが、本稿では別のアプローチをとった。

[32] パーソン論の全般的な説明としては、蔵田, 1998を参照のこと。

[33] Tooley, 1983, p. 303.

[34] 加藤, 1999, 178.

[35] しかしもちろん重ね合わせはこの可能性にのみ基づいているのではない。例えば、少なくとも現時点では再び人になる可能性が閉ざされている脳死患者の場合、逆に、「過去に人格であったという事実」が重ね合わせを支えることになるだろう。注42参照。

[36] Feinberg, p.201.64頁]

[37] ibid., p.196.61頁]

[38] ibid., p.197.61頁]

[39] もちろんいつでも医師によって推定された同意が違法性を阻却するわけではない。

[40] 町野, 1986, 199.

[41] 本稿において、私はこのような人の具体的な規準を示すことができなかった。これも稿を改めて論じなければならない。この規準を示さなければ私の議論がほとんど役に立たないという批判を否定するつもりはない。ただ私は、意志から人間の尊厳を語ることが、現実的能力に執着するパーソン論とは異なることを示したかったのである。

[42] 私はこのような形での推定的同意しか認められない状況があるということを否定しない。われわれ各人の決定が多様にならざるをえない状況(例えば脳死)において、「他者の決定」と「私の決定」とを同一視するのはパターナリズムに他ならない。つまりここでは、尊重されるべき決定をする自己は、個性をもった人でなければならず、安易な重ね合わせはかえってその意志を無視しかねないという点で尊厳の侵害にあたる。ヒト胚についてもこのようなケースがあることはすぐ後に述べる。

[43] しかし生存に対する意志とは別に自由な意志を語ることは、いかにして可能なのか。私にはいまのところ積極的に述べることはできない。

[44] 意志をもつ可能性が全くないヒト胚の場合について言えば、その破棄が尊厳の侵害にあたると私は考えない。

[45] それではそうしたヒト胚を全て母胎に移植するべきなのか。具体的な答えはまだ見つからない。一つの方法は、そもそも出生前診断をしないというものである。ドイツでは「胚保護法」第二条にもとづきこの方針がとられていたが、最近まとめられた国家倫理委員会の報告書 (Stellungsnahme: Genetische Diagnostik vor und wahrend der Schwangerschaft.) では、制限付きで出生前診断を認める案が多数派説として提案されている。以下のサイトから入手可能。http://www.ethikrat.org/ 概略は以下に記した私のホームページで読むことができる。

[46] この問題を指摘しているものとしては、青柳, 2002, 35 .

[47] しかし、かりにヒト胚の破棄が正当化される場合があるとしても、そうした胚からES細胞を樹立することが直ちに正当化されるわけではない。両方の判断はレベルが違う。

〈参考文献〉

以下の文献については、私のホームページ(http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6101/)に紹介文を掲載する予定なので、そちらもあわせて参照していただきたい。

・青柳幸一 2002:「科学/技術の進歩と人間の尊厳」『ジュリスト』No.1222, 30-35.
・秋葉悦子 2000:「出生前の人の尊厳と生きる権利母体保護法改正に向けての提言」 『人間の尊厳と現代法理論』111-133.
・石塚伸一 2002:「ヒト・クローンと刑事法規制」『法学セミナー』No. 573, 16-19.
・位田隆一 2000:「ユネスコ「ヒトゲノム宣言」の国内的実施人クローン個体の産生禁止」『法学論叢』第14656,45-65.
・御輿久美子 2001:「人クローン規制法読解」『人クローン技術は許されるか』9-44.
・尾崎恭一 2002:「ヒト胚研究と人間の尊厳ヒト胚の尊厳性について」『理想』668, 60-70.
・小名木明宏 2002:「生命倫理をめぐる法」高橋隆雄編『ヒトの生命と人間の尊厳』第六章,九州大学出版局, 167-191.
・甲斐克則 2001:「ヒト・クローン技術等規制法について」『現代刑事法』No. 24, 87-91.
・加藤尚武 1999:『脳死・クローン・遺伝子治療』PHP新書.
・金澤文雄 1995:「人の胚の道徳的および法的地位」『岡山商科大学法学論叢』3, 1-37.
・上村芳郎 2003:『クローン人間の倫理』みすず書房.
・粥川準二 2003:『クローン人間』光文社新書.
・響堂新 2003:『クローン人間』新潮選書.
・蔵田伸雄 1998:「パーソン論概念の説明」加藤尚武・加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人のために』世界思想社, 97-108.
・総合研究開発機構・川井健 共編 2001:『生命科学の発展と法生命倫理法試案』有斐閣.
・島次郎 2001:『先端医療のルール』講談社.
・町野朔 1986:『患者の自己決定権と法』東京大学出版会.
・町野朔 2001:「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律日本初の生命倫理法」『法学教室』No. 247, 86-91.

Beyleveld, Deryck /Roger Brownsword 2001: Human Dignity in Bioethics and Biolaw,New York: Oxford University Press.
Feinberg, Joel 1980: ‘Abortion’, in Tom L. Regan (ed.), Matters of Life and Death, Random House, pp. 183-217.[谷口佳津宏・佐々木能章訳「人格性の基準」加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎 欧米の「生命倫理」論』東海大学出版会, 47-65.ただし部分訳。]
Harris, John 1998: Clones, Genes, and Immortality, New York: Oxford University Press.
Tooley, Michael 1983: Abortion and Infanticide , New York: Oxford University Press.


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