生命をめぐる政治と生命倫理学
――出生前診断と選択的中絶を手がかりに―

堀田義太郎
(大阪大学大学院医学系研究科博士課程、医の倫理学)
 


0.はじめに

 本稿は、障害を持つ胎児の選択的人工妊娠中絶(selective abortion以下「選択的中絶」とする)と、それを前提にした出生前胎児診断 [1]prenatal diagnosis以下「出生前診断」とする)をめぐるいくつかの議論をとりあげて、そこで提起されている問題を「女性と障害者の権利間の衝突」という問題構成で論ずる議論を批判的に検討したい。

現在日本で行なわれている出生前診断は、胎児に障害があるかどうかを、一般に中絶可能とされている妊娠22週未満に予測することができる。この診断によって、胎児が出生段階で障害をもつかどうかについて高い可能性で知ることができる。この技術によって、生まれてくる子どもが障害を持つかもしれないことを理由にした中絶が行なわれている。

それに対して、障害者団体を中心に、生まれてくる子どもの障害を理由にした選択的中絶は障害者差別であるという批判がなされてきた [2]。障害をもって生まれてくる子を「望まない」という判断を前提にした選択的中絶は、現在、障害や疾病とともに生きている人々に対して「あなたたちは生まれてこなかったほうがよかった」と言っていることになる、という批判である。こうした批判を受けて、選択的中絶は、女性が「望まない妊娠・出産」を終わらせるための人工妊娠中絶の権利に含まれるのかどうか、また、選択的中絶を前提にした出生前診断は、自分の身体の情報へのアクセス権に含まれるのかどうかをめぐる議論が行なわれてきた。

この問題を「障害者の権利と女性の自己決定権の衝突」の問題として論じる議論がある。具体的に問題にされるのは、@「選択的中絶」を女性の生殖への権利(リプロダクティブ・ライツ)に含めることが、現に存在する障害者に対する差別になるのかどうか、A障害者差別であるという主張には、女性の生殖への権利や出生前診断へのアクセスを「制限する正当性」があるのか否か、といった点である。

しかし、以下でいくつかの論考をとりあげて見ていくように、選択的中絶や出生前診断の問題において真に問われているのは、「女性と障害者の権利の衝突」でもないし、「胎児と妊娠した女性の権利の衝突」でもない。逆に言えば、出生前診断‐選択的中絶の問題を「権利の衝突」といった図式でしか見ないとすれば、本来問われるべき問題を問わずに済ませてしまうことになる。本来、問われるべきであるのは、権利を「衝突」させている社会的・政治的な状況である。

本稿は、こうした点を明らかにした上で、障害者運動や障害学 [3] が提起した「社会モデル」の観点から、選択的中絶や出生前診断を擁護する議論を批判し、それを通して生命倫理学と生命をめぐる言説の政治との関係について考察することを試みたい。

1.「権利間の衝突」という図式

1−1.Mahowaldの議論とWassermanの応答

 ここでは、『障害・差異・差別』と題された論集に収められたMary ahowaldの議論と、それに対するDavid Wassermanの応答を見ることを通して、選択的中絶‐出生前診断の問題を「権利間の衝突」の問題として捉える見方を検討したい [4]

 Mahowaldは、「障害を持った人々の権利擁護」と「女性の権利擁護」とのあいだの「対立関係」という問題設定から議論を始める。この問題設定から出発してMahowaldは、胎児に障害があるかどうかという問題と、女性のリプロダクティブ・ライツとは切断可能で

ある、と論ずる。彼女によれば、妊婦の自律性にたいして胎児の「道徳的地位」のほうが弱い(less compelling)場合には、障害の有無に関わりなく中絶は許される(Mahowald:237)。ここで問題は、「妊娠した女性と胎児」の問題に置き換えられている。Mahowaldによれば、この問題は、どの時期から胎児に人格としての地位を認めるか、という「線引き問題」によって解決できるのである。「障害という事実はそのものとしては、〔女性の〕選択には無関与なのである」(ibid.,括弧内は引用者による補注)というのが彼女の結論であると言ってよい。

 このMahowaldの議論に対しては、同書のなかでも共著者のWassermanが反論している。反論のポイントは、「出生前診断と選択的中絶の問題は、胎児が道徳的地位を持つかどうかという問題とは無関係に生ずる」(Wasserman:283)という点である。Wassermanは、「中絶される胎児の死からは切り離された」出生前診断と選択的中絶の「害悪」として、インペアメント(損傷)を持つ人々の数の削減、障害者に対する排除的な態度の強化、などをあげているが、その「どれもが胎児が重要な道徳的地位を持っているという前提に関わらない」と指摘する(Wasserman:278-9)。また、Wassermanによれば、問題は、出生前診断の情報にたいするアクセスを制限することが「知る権利」と衝突するかどうか以前に存在する。

 Wassermanが言うように、問題は胎児の権利と女性の権利との対立ではない。また、出生前診断‐選択的中絶を国家などの機関が制限・規制する正当性があるかどうかを問う前に、それを行なう理由を問うべきである。問題にされているのは、まさにこの「理由」だからである。Mahowaldのように、問題を「線引き問題」に還元すると、ある時期以前に行なわれる中絶はいかなる理由があっても認められるが、それ以降の中絶はいかなる理由であれ認められないということになる。すなわち、「線引き問題」では「理由」への問いそのものが消去されてしまうのである。

 Mahowaldの議論を好意的に解釈すると、彼女は「障害」を理由にした中絶を全面的に肯定することを避けるために、問題を「障害者の権利と女性の自己決定権の衝突」という図式から、「障害」そのものには無関与な、「胎児と妊娠した女性」という図式に移行させたのではないか、と考えることもできる。というのも、「現存する障害者と女性の権利」の衝突という図式から言えるのは、「選択的中絶が現存する障害者に対する直接的な危害になるわけではないから、女性の自己決定権を制限する正当性を持たない」ということだけだからである。しかし、いずれの図式にせよ、真に考察すべきことは先送りされてしまっている。

1−2.問題の所在

 MahowaldWassermanの議論から言えることは、Mahowaldは問題を解決したのではなく逸らしているということである。Wassermanが言うように、「出生前診断と選択的中絶の問題は、胎児が道徳的地位を持つかどうかという問題とは無関係に生ずる」(ibid)とすれば、問題はどこにあるのだろうか。先の議論から離れて考察してみよう。

 選択的中絶や出生前診断をめぐる生命倫理学の議論は、ある個人(障害者)の権利擁護のために別の個人(女性)のリプロダクティブ・ライツを制限することが正当化されるかどうか、という問題として論じられることが多かった。しかし、このような問題の立て方をする以前に、中絶が非合法にされている現状と、中絶を認める条件に国家が「胎児の障害」を含もうとしてきたという歴史的な経緯をまず問題にすべきではないだろうか。こうした現状と歴史そのものに問題があるとすれば、その現状と歴史を条件として立てられている「問題」に正面から応答しようとすることは生産的ではないだろう。問われるべき問題は、第一に、なぜ中絶が非合法なのか、第二に、なぜ選択的中絶や出生前診断があるのか、である。障害者の権利と女性の自己決定権が「衝突」させられてきたのは、中絶一般を非合法化した上で、「胎児の障害」を合法的中絶の用件に含めようとする国家によってである [5]。選択的中絶の問題と女性の自己決定権の擁護は、本来まったく別の問題であるとすれば [6]、女性の自己決定権の擁護からは中絶の無条件合法化を目指す立場、障害者の権利擁護からは出生前診断と選択的中絶への反対と「社会モデル」に則った社会的障壁の削減を目指す立場しか帰結しないはずである。

 さらに、「障害を持った子を産み(育て)たくない」と考えさせる最大の理由になっているのは、現在のこの国の社会で障害を持った子どもを育てることが、そうでない場合よりも困難が伴うからである。そして、この理由によってなされる決定が「女性の自己決定権」の範囲の問題になってしまっているとすれば、それは子育ての負担が女性に押し付けられているからにほかならない。前者は社会的に、後者はとくに男性が解決すべき問題である。

2.出生前診断をめぐるダブル・スタンダード 

 前節で見たように、出生前診断‐選択的中絶の問題は「女性と障害者の権利の衝突」という図式のなかで理解されるべきではなく、健常者中心の社会全体が受けとめるべき問題である。この節では、いくつかの論文を参照しながら、問題になっているのは、「障害はないほうがよい」という健常者の見方であるということを確認したい。

 出生前診断‐選択的中絶を正当化しようとする議論の大きな論拠は、「障害を持つ胎児」を中絶することと、現在生きている障害者を差別することとは別である、という点である [7]。つまり、出生前診断や選択的中絶が否定しているのは「障害者」ではなく「障害」であり、したがって障害者差別ではない、ということである。しかし、以下で見るように、「障害」と「障害者」を切り離して、「障害」だけを否定しようとする議論を簡単に受け入れることはできない。というのも、障害者にとって、「障害はない方がよい」と簡単に言い切ることはできないからだ。

 玉井真理子[1999a]は、選択的中絶は「誰が何のために」行なうのか、と問う。まず、「誰が」行なうのかといえば、中絶される本人が自分で自分を中絶することはありえないから、障害を持って生まれてくる子を望まない周囲の人々である。「何のために」という問いに対しては、@「障害を持って生まれてきたら本人が不幸になる」、A「障害児が生まれると家族が苦労する」という二つの答え方が考えられる(玉井[1999a:115])。だが、人(健常者)が他人(障害者)の幸/不幸を評価することは原理的に不可能だから、@は認められない。そしてAの「家族の負担」は社会的に解決されるべきものである。結局、「『本人の不幸』に関しても多くは周囲がそのように判断しているだけに過ぎない」(ibid:116)。また、予防や治療も、障害が「ない方がいいに決まっている」という価値観の下で行なわれる限り、選択的中絶を正当化する「障害に対する否定的価値観が内包されている」(ibid:116)。

 また、立岩真也[2002a]も、「障害はないにこしたことはない」という出生前診断‐選択的中絶を正当化する理由を問題にする。立岩が問題にするのも、障害がない方がよいのは「誰にとって」(ibid:66)なのかという点である。立岩は、著名な生命倫理学者の一人であるピーター・シンガーの主張を取り上げる。障害そのものを否定するが、現に存在する障害者を否定するわけではないというシンガーの議論は、「障害」と「障害者」を切り離した上で、「障害はよくない」と論じることによって、出生前診断を擁護しようとする議論の典型であると言える [8]。こうした主張に対して立岩は、「障害はよくない」と言えるのは「誰」なのか、という点を問題にする。障害者運動や障害学が主張してきたことの一つに、「障害は個性である」という主張がある。つまり、すべての障害者が障害を否定的に考えているわけではないのである。また、社会に否定的な意味を与えられてきた障害に対して肯定的な(個性としての)意味を与えなおすことは、障害者自身にとっては自己の尊厳を回復するためのプロセスの一つでありうる。障害と障害者を切り離そうとするシンガーの議論はこうした主張やプロセスを認めていない。たしかに、「自分でできることがよいこと、よいと思うことを否定できないし、否定する必要はない」(ibid:57-8)し、「本人が自らがより好ましいものとして採用しようとするなら、それを拒絶すべきではない」(ibid:58)。だが、それはいずれも「本人にとって」である。そして、「問題は誰がそれを決めるかである」(ibid:62)。

 立岩が指摘するのは、障害者自身にとっては、障害があることそのものがよいか悪いかを単純に言うことはできないが、「他方、周囲にとっては(負担という点では)障害があることは確実に都合が悪く、ないことはよいことである」(ibid:66)という点である。「障害はないほうがよい」と言えるのは、つねに周囲の健常者であって、「それはつまりは、人のことを手伝うのは面倒だということ以外のことではない」(ibid:74)。すなわち、「障害を持った子は生まれてこない方がよい」という健常者の判断は、端的に「障害者は周囲の迷惑だ」と言っていることになる。

3.「社会モデル‐マイノリティ集団モデル」[9] と言説の政治

 「障害はない方がよい」という健常者の見方は、障害者は生活したり活動するのが困難であるという現状認識に基づいている。この場合、困難の原因は障害者個人の身体に求められている。すなわち、まず先に「障害のある身体」が存在し、それが、社会的・政治的に生活し活動することを困難にさせる原因であると考えられている。障害者運動や障害学は、障害者の生活上の不利益や困難の原因を「障害のある身体」に求めるこうした見方を、「医療モデル=個人的悲劇モデル」 [10] と呼んで批判する。知られているように、このモデルに対して、障害者運動やそれをもとに展開されてきた障害学は障害の「社会モデル」を対置する [11]

 「社会モデル」は、「障害(disability)」を身体的な「損傷(impairment)」と切り離し、障害を「社会的・環境的・態度的障壁を指す概念」[12] として定義し直す。「障害とは何か」は、その人が生きている「社会が何を障害と見なしているか」によって決まるという認識である。「社会モデル」は、「障害」は社会によって構築(構成construct)されるもの、つまり「社会的構築物(social construction)」であると主張する。この立場は、マイノリティ運動と理論のなかで「反本質主義(anti-essentialism)」あるいは「構築主義(constructivism)」と呼ばれる立場に対応している。すなわち、マイノリティという政治的・社会的な位置(すなわち政治的・社会的諸権利をめぐるマジョリティとの格差 [13] )の原因は、その人の(女性、同性愛、身体的損傷、人種等々といった)属性ではなく、そうした属性に対して否定的な意味づけをすることによって政治的・社会的権利の剥奪を正当化し、自己の既得権益を守ろうとするマジョリティ(社会)の態度にある、という主張である。

 社会的な不利益の原因を、医学的に診断される身体的な損傷に求める「医療モデル=個人的悲劇モデル」に対して、「障害」という概念の社会的構築性を主張する「社会モデル」は、医学的に確定できる身体的な損傷が「障害の(真の)原因」であるという信念を認めない。というのも、社会的・政治的な不利益の根本的な原因が障害者自身の身体に求められると、社会がその阻害を除去する負担を負う義務はないということになってしまうからである。

 本稿にとって、「社会モデル‐マイノリティ集団モデル」の含意は、ある「社会」におけるマジョリティの認識や言説それ自体が、当の「社会」を形成する力の一つになる、という点である。こうした観点から見れば、たとえば「障害はないほうがよい」という非障害者による評価や言説は、障害者に対して現実に不利益をもたらす社会的な制度を正当化し、それを補強する力の一つになっていると言えるだろう。「マイノリティ」とされてきた人々が指摘してきたのは、こうしたマジョリティによる同情的な感情を含んだ「みなし」こそが、「マジョリティ‐マイノリティ構造」を追認・反復することで、この構造を自己言及的に形成する力(権力)の一部になるということである。

 「社会モデル」が提起したことは、第一に、「障害」とは「社会的構築物」であるということ、第二に、「社会的構築物」である限り、それはある状態を「障害」と見なすマジョリティによる社会的な言説と実践を離れて実体的に存在しない、ということである。この第二の点から、「障害はない方がよい」という健常者の言葉や考え方の前提には、「障害」を個人の属性であるとする考え方があり、それこそが「人を無力化する社会的環境(disabling society)」[14] の構築に関与している、と言うことができる。また、「障害者はかわいそう」といった同情にも注意が必要である。こうした「かわいそう」という感情が、「障害者はかわいそうである」という一般命題の個人への適用であるとすれば、それは個人を「障害者」という範疇に押し込めていることになるからだ [15]

4.結語:生命をめぐる言説政治と生命倫理学

 出生前診断あるいは選択的中絶に関する議論もまた、「障害」をめぐる様々な言説によって織りなされる「生命をめぐる政治」のなかに位置づけられる。「障害はない方がよい」という言説が、当の「障害」を構成することに関与しているのだから、この前提を問う前に「権利間の衝突」という図式を単純に受け入れることはできない。議論はむしろ、この図式の前提にされている「障害はない方がよい」という「みなし」を再考し、それを解体する、それ自体一つの政治的な実践であるべきではないだろうか。

前節で見たように、「障害」を社会的な構築物とみなす「社会モデル」の含意の一つは、差異化し差別化する言説と実践においてこそ「障害」が構成されることを明らかにした点にある。言いかえれば、「障害」は、ある状態を「ない方がよい」とみなす言説と実践を離れて実体的には存在しないということだ。したがって、「障害」について語る言説は、つねにすでに「障害」を構成する、あるいは脱構築する言説の政治に組み込まれていることになる。

 先に見たように、現存する障害者に対する社会的差別を撤廃することと、障害のある子どもを望まないという判断は両立すると主張する議論がある。この立場は、「障害はないほうがよい」という世間の「常識」は承認した上で、その評価と現存する障害者への社会的・政治的な差別とは切り離すことができるという立場である。立岩真也や玉井真理子が言うように、「障害はないほうがよい」と一般論で語る健常者は、原理的に不可能であるはずの「他者の生の評価」を行なうという誤謬を犯している。また、選択的中絶を擁護する論者の一人である永田えり子は、より慎重な議論を展開している。永田によれば、障害を持っているという理由で中絶する個人を「道徳的に非難すること」はできるとしても、それが「自由な選択」である限り「個人の命の選択」を制限したり禁止することはできない(永田[1995:139-140])。その選択は恋愛において相手の「質」を選んでいるのと同じである、というのがその論拠である。その上で永田は、「いったん生まれたすべての個人が生きやすい社会を作る」(ibid:141)べきだと主張する。だが、「障害」を個人に内在する「質」と見なして選択の基準とし、そうした選択の自由を認めるべきだという言説そのものが「すべての個人が生きにくい社会」を構成している、ということに関する認識は欠けている。

 健常者が「障害はない方がよい」と言うとき、「障害」は生まれてくる子どもの身体に位置づけられている。そして、この「医療モデル=個人的悲劇モデル」が、現存する障害者に対する社会的差別を正当化する根拠になっている。医療モデルに依拠した認識を問わずに「社会的差別を撤廃する」と主張しても、社会的差別の根底にある見方、つまり、差別の理由や原因を障害者の身体の側に求める見方は保持されたままである。この立場からの「社会的差別の撤廃」とは、健常者による「恩恵」や「施し」を越えることはない。

 「社会モデル‐マイノリティ集団モデル」は、ある抑圧的なカテゴリーが社会的な構築物であり、したがって可変的なものであると主張することによって、当のカテゴリーを解体しようとする。たしかに、そうしたモデルの問題点も指摘されているし、その実践それ自体が、カテゴリーを解体するためにカテゴリーに依拠せざるを得ないという(遂行的)矛盾を内包している [16]。しかし、矛盾や問題を指摘する前に、問われているのは「マジョリティ」という位置であるということに留意する必要がある。つまり、求められているのは、マジョリティ自身が自己を相対化し、自身を変革することなのである [17]

 生命に関わる言説は、つねにすでに生命をめぐる言説の政治のアリーナのなかに位置づけられている。もちろん「生命倫理学」もこの政治の外部に立つことはできない [18]。問われているのは、生命倫理に関わる言説はそのどの位置に立とうとしているのかである。 


〈注〉

[1]  玉井真理子[1999a:109-112]が述べているように、必ずしも出生前胎児診断が選択的人工妊娠中絶に結びつくわけではないし、むしろ結びつかない出生前胎児診断の方が件数としては多いようである。しかしここで議論の対象とするのは、障害をもって生まれてくる子どもの出産を防ぐという目的と理由によって行なわれる出生前診断である。

[2]  もちろん、こうした指摘は最近になってはじめて行なわれたわけではない。多くの論者が指摘しているように、日本においても少なくとも30年以上にわたってこの問題に関する議論が積み重ねられてきた(市野川・立岩[1998])。そうした議論は、問題は出生前診断や遺伝子診断といった技術にだけ起因するものではない、ということを示唆している。技術的な展開があってはじめて問題が提起されたのではなく、逆にそうした技術を開発・展開させる欲望が問題にされているのである。一般に「生命倫理学」の対象とされる諸問題についても、「技術が問題を提起する」という見方ではなく、むしろその技術を開発し展開させている欲望を問題にするという観点が必要である。

[3]  「障害学」(Disability Studies)とは、「障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動」である。その主張は主に、@「従来の医療、社会福祉の視点」から障害や障害者をとらえるのではなく、「社会が障害者に対して設けている障壁」に着目すること。またA「障害独自の視点の確立を志向し、文化としての障害、障害者として生きる価値に着目する」(長瀬[1999:11])こと、の二つである。@は「障害」を社会的障壁と読み換えることから「社会モデル」と呼ばれ、Aは一つの文化として「障害」を評価することから「文化モデル」と呼ばれる。

[4]  Silvers,Wasserman,Mahowald.,ed1998].同論集は、3人の著者それぞれの独立した論文、その論文に対する他の共著者によるコメント、そしてそのコメントに対する論文の著者の応答、という形式で構成されており、各著者の主張のポイントがその相違点を通して明らかになっている。

[5]  もちろん、「国家」が女性と別のところに存在するわけではない。個々の女性の欲望が選択的中絶を求める社会の欲望の一部でありうるし、女性自身がそうした国家政策を正当化していることも充分ありうる。したがって、「女性と障害者の衝突が〈国家によって〉引き起こされてきた」、という表現は正確ではない。しかし、女性は、一貫して国家によって次世代再生産装置としてコントロールの対象と見なされてきた(藤目[1999]、荻野[1994]等。資本主義システムという観点から論じたものとして、小倉[1997])。したがって、こうした表現は不正確だが依然として必要である。

[6]  三輪[2002:218-219]。

[7]  玉井[1999b]参照。

[8]  シンガー[1993:541999:65](立岩[2002:50])。

[9]  「社会モデル‐マイノリティ集団モデル」という表記は、Asch2001]による。

[10]「社会モデル」にとって「医療モデル」とは「個人的悲劇モデル」である。石川[2000]を参照。

[11]  石川[2000:156-158]、倉本[2002]などを参照。

[12]  石川[2000:159]。

[13]  「マイノリティの問題は、社会の一部の人々の社会的位置をめぐって派生する問題であるから明らかに社会問題といえる。マイノリティとして存在する以上、その問題はアプリオリには存在し得ない。マイノリティの問題はそれに対峙するマジョリティとの関係の問題でもある。……問題の共通項はそれぞれの問題においていずれも民主主義的諸権利をめぐってマジョリティとマイノリティとの間に社会的格差が形成されているという現実である」(豊田[1998:103-4])。

[14]  もちろん“disabling society”は、文字通り訳せば「できなくさせる社会」であるが、「人を無力化する社会的環境」という石川[2000]の訳はその含意を汲み取っていると思われる。

[15]  たしかに「かわいそう」という感情そのものを否定することはできないかもしれない。しかし同時に、まさにその「かわいそう」という評価が、そのようにみなされる人々を「かわいそう」な状況に押し込め、さらにそれを覆い隠す効果を持つこともあるという点に留意する必要がある。「脳性小児マヒ者の生活,思想そして肉体との格闘」(DVD版帯書き)を描いた映画『さようならCP』(原一男監督、疾走プロダクション製作、1972年)の冒頭部分でも街頭でカンパする人々の障害者に対する「同情」が問題にされている。また、障害者に対する「かわいそう」という感情と、障害者差別との関係を論じたものとして、田村[1999]を参照。

[16]  「マイノリティ」とされてきた人々は、自分自身に付与されたカテゴリーの社会的・歴史的な構築性を明らかにすることによって、そうしたカテゴリーによって正当化されてきた不正義を糾し・正そうとする。だが、倉本智明が指摘しているように、「フェミニズムについても妥当することだが、社会モデルは、それまで医学的な次元で語られてきた問題を、社会という文脈で語りなおすにあたって、戦略上の必要からとはいえ、身体に関わる問題を棚上げすることで、それについて語る回路を自ら閉ざしてしまった」(倉本[2002:199])。すなわち、カテゴリーの社会的な構築性という主張は、そのカテゴリーを構築する社会を解体する前に、逆にカテゴリーを解体しようとする実践そのものの基盤を掘り崩すことになってしまう。この基盤とは、カテゴリー化に伴う共通の記憶や経験であり、「障害者」においては身体的な損傷(impairment)による経験である。解体しようとする実践の根拠となる「わたしたち」のアイデンティティ、すでに構築されたカテゴリーに依拠するしかない。だが、解体の「矛先は必然的に自分たちの過去および現在の諸実践にも向けられる」(石川[2001:162])ことになる。社会的カテゴリーの解体は、当のカテゴリーの名のもとに結束した「わたしたち」(そして「わたしたち」が共有する経験の解体でもある。そしてそれは、すでに構築されている差別的な社会に利することになる。こうした点に関して、ゲイとレズビアンについてだが、レオ・ベルサーニ次のように指摘している。「ゲイ男性とレズビアン女性は、自分がどのようにしてゲイ男性、レズビアン女性として作り上げられてきたかを自覚するほど洗練されたとき、その瞬間に姿を消してしまったのである。特殊なゲイのアイデンティティを疑うこと(と相関してホモセクシュアリティの病因調査研究を信じないこと)は、健常者の支配制度への抵抗に必須不可欠である根拠そのものを除去するという、奇妙だが予想された結果を招いてしまった。わたしたちは自分たちを作り上げてきた知と政治制度の特質を剥ぎ取ろうとして自分をも消去してしまった。……ゲイからゲイの性質を奪い取ればホモフォービア(同性愛恐怖者)たちの圧力が強まるだけである。これはホモフォービアたちの基本目標ホモセクシュアルたちの排除をそれなりに実現する」(ベルサーニ[19951996:4-6])。障害者運動のパラドックスは逆に、「わたしたち」の結束を容易にする身体的な損傷(impairment)の再発見が、差別を正当化する医療モデルを承認することになりかねない、という点である(石川[2000][2001])。しかし、社会の抑圧に対抗するために、さしあたり抑圧的なカテゴリーの名のもとに結束せざるを得ないという「マイノリティの言説戦略」(石川[2001])のパラドックスや限界が示しているのは、「誰が何のためにどの範囲での結束を必要としているのか」(鄭[1997:57])という問いである。そこで何よりもまず問われるべきであるのは結束を強いている「マジョリティ」という位置である。

[17]  石川[2000:41-42]。

[18]  豊田正弘[1998]が指摘しているように「社会問題」の部外者は存在しない。

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