看護界における倫理(看護倫理)の動向

内布敦子
(兵庫県立看護大学助教授、がん看護学)

 

1.はじめに

 医療は従来から専門知識の壁によって閉ざされた領域で、患者は自分自身の身体に苦痛を伴う侵襲が加えられ、生命の危機に立たされるにもかかわらず、自分の身体を思うようにできないという究極の人権侵害にたえず直面してきた。人権に関わる倫理がもっとも問題になるべき領域であるが、患者の人権が取りざたされたのは歴史的にも遅く、特に我が国においては現代でもなお十分な人権への配慮がされているとは言えない。看護職は医療の現場で最も近く、最も長く患者のそばにいて、直接肌に触れ、その気持ちもよく聴き理解する立場にあるが、倫理が問われる場に登場することはほとんどない。筆者自身は、倫理学の専門家ではないので、一般の看護師の立場で臨床で働いていた経験や倫理感覚が決してとぎすまされているとはいえない普通の看護師として感じることを述べることにする。

2.看護倫理をめぐる職能団体の動き

国際看護協会(International Council of Nursing)の倫理綱領(Code of Ethics for Nurses)が、1953国際看護協会大会において採択された。この綱領は、ケアの提供、情報の提供、人々の安全および尊厳、権利擁護などについて定めている。日本看護協会によって翻訳され、公式ホームページに掲載されている(http://www.nurse.ne.jp)。また、日本看護協会は、1988年に「看護婦の倫理規定」を策定し、看護師の基本的責任と人間性の尊重、差別のない看護の提供、プライバシーの保護、ケアの質の向上への努力など、10項目の行動指針を提示している。(日本看護協会 1988

 これらの動きは、古くは医学的研究における倫理原則を表したニュールンベルグ綱領(1947)やヘルシンキ宣言(1964)、さらには1973年のアメリカ病院協会が出した患者の権利章典などの流れをくむものである。このような医学研究もしくは医療における倫理原則を確認する動きは、医学の領域で早くから始まっており、人々の努力が積み重なっている。しかし現実の医療の場では、医療者と患者の知識格差、医師への権限の過度な集中によって倫理的問題が容易に生じやすく、国際的な宣言や制度による患者の権利保障を行ってもなお、日常的に患者の権利が侵されるという問題が起こっている。

3.看護倫理をめぐる我が国看護界の状況

看護倫理に関する書籍や論文(総説を中心とした)は、ここ数年多く出版されている。看護関係の学会のテーマにも多く取り上げられ、ちなみに2001年の第21回日本看護科学学会学術集会(会長:片田範子)が「21世紀に問う看護の倫理性」をテーマに開催されており、今年、第17回日本がん看護学会学術集会(会長:小島操子)は「がん看護における倫理的ジレンマへの挑戦」をテーマに開催されている。また医療事故に関連してリスクマネジメントという課題の中で倫理が論じられていることなどを合わせると、極めて多くの学会やセミナーで看護の倫理的課題が取り上げられていることになる。倫理的課題に対する看護職の関心は、年々高くなっている。

学会などの団体レベルでは、委員会活動として倫理的課題を取り上げている例が見られ、日本看護科学学会では看護倫理検討委員会を設置し、看護師が直面する倫理的課題とその反応について調査報告している。また社会的に取り上げられる倫理の問題を取り上げ学会としての見解を提示するといった活動も行っている。ちなみに19954月に発生した東海大学病院安楽死事件に対して「看護倫理からみた東海大学病院事件―報道が問わなかった問題を問う―」として日本看護科学学会看護倫理検討委員会の報告を掲載している(片田他,1991)。さらに1992年に出された旧厚生省の「臨時脳死及び臓器移植調査会の最終答申」を受けて同委員会は「脳死及び臓器移植に関する重要事項について日本看護科学学会看護倫理検討委員会の見解」として学会誌に見解を提示している(片田範子他,1992)。東海大学安楽死事件は、その場にいた看護師達の間で「不自然な死」と不審が高まり事件が発覚したのであるが、看護師の行動を非難する報道もあった。日本看護科学学会倫理検討委員会はこの報告の中で、看護師を含むチーム医療が機能していれば、医師の単独判断がそのまま実行されることなかったのではないかと述べ、チーム内でも社会に向けても看護師の発言や参画をもっと行わなければならないとしている。また、同委員会は、医療の分野で倫理的な問題が生じたとき、看護師が影なる共犯者となっているはずなのに、社会的責任を問われることは少なく、むしろ責任さえ問われないほど看護師が過小評価されており、医師の権限が強大な医療社会では第一線の臨床看護師は倫理的判断について意見を求められることもなく、述べることも出来ないと指摘している(片田他,1991)。看護師集団のこのような性質は、長い歴史を経て主に医師との相互関係の上に形作られており、専門家でありながら意見を言わない集団として特徴づけられる。サイレントプロフェッショナルといわれるゆえんでもある。「脳死及び臓器移植に関する重要事項について日本看護科学学会看護倫理検討委員会の見解」のなかでも、なまの脳死の現場で、個人(この場合は家族)は、自由意志が発現出来るほど情報を与えられておらず、状況は威圧的で意志決定権者の混乱を招いていると看護師が報告しているとして、倫理に抵触する状況を看護師が見過ごしていることや看護師が意見を言うポジションを獲得していないことを大きな問題として提示している(片田他,1992)。

この他に1996年には薬害エイズの問題についても看護師の倫理的責任を検討した論文が発表されている。著者のAnn Davis1996)は、世界的に著明な看護倫理の研究者であるが、我が国の薬害エイズの倫理的問題にからむ看護師の責任について解説している。非加熱製剤によるHIV感染の危険性について知り得る立場にいた医療者が、患者に非加熱製剤を投与するという行為はmoral agentとしての機能を果たしておらず、倫理に反する。もし看護者がそのような立場にいてそれを阻止しなかったとしたら、阻止しなかったために患者に重大な危害が加わったということになり、倫理原則の「危害を与えない」に抵触することになるとしている。ここで著者は、医学や看護の専門性と道徳の権限を区別することについて触れている。「医学も看護もともに重要なことは、専門ではない知識や価値にまでその範囲を拡大してはいけないということです。つまりは医学と看護は道徳の権限とは異質の存在であり、また道徳の権限と同じ重さで量られるものではないということです。道徳の権限は道徳を実行する個々の存在(moral agent)からもたらされるものであり、その存在は考えと行動における善悪を識別できるすべての人からなると言えるでしょう。」と述べている。また非加熱製剤の投与によって患者に重大な危害が加わることを知っていた看護師は当時ほとんどいなかったので倫理的に責められることはないかもしれないが、この情報を誰が握っているべきかという点で日本の看護界は自らの倫理的立場を真剣に論議すべきであると述べている(Davis1996)。つまり非加熱製剤の有害性について当時知らされていなかった日本の看護師のありかた自体が問題となるということであろう。

 さて、日本看護科学学会倫理検討委員会は、1993年に「日本の看護婦が直面する倫理的課題とその反応」という報告を発表している。この報告では、看護職に対して臨床現場で倫理上問題と感じた状況86件が報告され、そのうち72件の内容の分析によって、6つのテーマから成る10の問題状況を洗い出している。「医療における情報提供」というテーマには、患者が十分な情報を得ていない状況や患者の個人情報が保護されない状況などが分類されている。さらに「医療への参加」というテーマでは患者が医療に参加できない状況が、「生死の決定」というテーマでは胎児や小児の生死が親の選択に左右される状況が、「快適な療養環境」というテーマでは快適な療養環境を患者に保証していない状況が、「不当な心身への侵害」では患者の身体や心理が不当に侵害される状況や死後に検査が承諾なく行われる状況が分類されている(横尾他,1993)。この報告を読むと看護師が臨床現場で直面する倫理的問題は安楽死のようないわゆる究極の人権問題だけでなく、非常に多彩な生活上の権利にまで及ぶということがわかる。このような臨床場面における倫理上の問題は、当事者達の倫理感性の鈍感さや伝統的な権威的社会の悪習ゆえに生じているということもできるが、一方では医療環境の貧困さに起因するものもある。例えば、医療施設がハード面でプライバシーが守れる空間を十分提供し、温度や湿度、騒音などの点で快適な環境を提供しようとすると莫大な費用がかかるが、現行の診療報酬制度では、そのような投資はほとんど診療報酬に反映されない。また納得のいく説明をするためには医師に十分な時間を与え、説明の後不明な点についてフォローし倫理的な判断を支援する看護師の働きが必要であるが、それを補うためには新たな雇用が必要である。当然のことながら追加した雇用をカバーするだけの診療報酬は現行制度では加算されないので費用を捻出するのは不可能に近い。

国民がどれほどの医療負担を許容するかは、その国家の経済、文化など複雑な要因によって左右されるが、我が国の場合、乱暴な言い方をすると「多少の人権侵害は我慢して、安価な医療を選択している」ということも言える。「倫理的配慮はお金で買う」というと眉をしかめられるかもしれないが、東南アジアなどの開発途上国では医療に支払われるお金は社会全体としても少なく、容易に倫理がおかされるという現象があるように思う。人権侵害の程度によるが、このような状況が良いか悪いかは相対的な判断にならざるを得ないのかもしれない。

他にも多くの倫理に関する研究が行われている。田口(2000)は、1990年代後半から急激に看護倫理を扱う論文が増えたと述べている。片田(2002)は、1990年代の看護倫理に関する文献の傾向を概観し、看護師が臨床や教育の中で直面しているジレンマや問題、あるいは看護師が看護倫理についてどのような認識を持っているかという調査が多く行われており、教育の場面では、教育状況の実態、研究倫理の総説的解説、倫理的配慮についての具体的説明や実態に関する調査結果が報告されていると指摘している。片田はこれらの研究報告を要約して、看護をする上で倫理的行為が困難になる状況を@医師との関係、A患者への情報提供、B患者のおもいと家族のおもい、C看護者間の関係、D看護者自身の能力と業務の困難さの5つの状況に分類している。そのなかで片田は、がん末期の鎮痛処置において医師の権限である薬物療法に口が出せないなど看護師が最善と考える行為が取れない状況、病名を偽って告げられた患者が誤った情報に基づいて意志決定するのを黙ってみていなければならない状況、家族のおもいが患者の希望と一致しておらず患者のおもいを尊重できない状況、看護者間の患者への思い入れの違いを調整できない状況、看護者の力不足で必要なことが出来ない状況などが報告されているとしている。

がんの終末期における倫理的課題については、小島(1997)が終末期医療に携わる看護師23名への調査結果をもとに見解を述べている。この報告によると、がん看護の領域では、自己決定に関わる倫理的課題が多く挙げられており、患者に与えられている情報が制限されているために自己決定自体ができないこと、自己決定したとしても聞き入れてもらえないこと、せっかく行った自己決定が守られないことなどが例示されている。また、知る権利に関わる倫理的課題として病気について真実が知らされないこと、治療や処置について十分知らされないことが挙げられ、ケアにまつわる倫理的課題として疼痛・苦痛のコントロール不良、コミュニケーション不足、プライバシーの侵害が挙げられている。がんという病気の特色も影響しているが、癌医療に携わる看護師が、基本的な人権が侵される多くの場面に立ち会っていることがわかる。

看護の専門領域の中でも特に母性、小児、がん患者を対象とする領域は、近年新たな倫理的課題を抱えるに至っている。分子生物学をはじめとする最近の生物学の進歩によって、新たに発生した倫理的課題は、遺伝情報の開示の問題である。遺伝子の変異によっておこる病気の一部は、発症する前もしくは出生以前に診断が可能になっている。遺伝子の異常が明らかになると、中絶が選択されたり、結婚が制限されたり、保険への加入で差別を受けたり、予防的手術を受けるといった選択を迫られる。治療法のない病気の場合は、診断名の告知はなんら治療などの前向きな方策に結びつくことはなく、重大な心理的負担を個人に与えることになる。遺伝子検査を受けることによって、患者の周囲には様々な状況が展開されることになるが、そのことを患者は知らされて遺伝子検査を受けているのだろうか。またある確率をもって血縁者へ遺伝することがわかっている場合、血縁者にその遺伝情報を知らせるかどうかを決定する権利は誰にあるのか。看護師は、遺伝子検査を受ける患者やその血縁者が十分な情報を与えられないまま、あるいは正確に理解できないまま遺伝子検査を受けていることを知っているが、引き留めて説明を行う権限を与えられていない。第21回看護科学学会学術集会のシンポジウムの報告(高田,内布,2002)では、研究費が付きやすいということで研究がはじまり、それが見え隠れする現場で看護職に何ができるだろうかと、看護師が不当に行われている遺伝子研究に知らないまま荷担しているのではと危惧する発言や産業や生物学、医学研究の世界で競争にさらされている人々の価値観とどう戦うべきかという段階に来ており、患者は科学のふきっさらしの中にいて何のケアも受けないままハイテク医療にさらされているという意見があったことを紹介している。いずれも看護師は、倫理的実践を行うにはあまりにも力がなく、気づいていながらもしくは気づかないまま、医師とともに加害者になっている可能性がある。

また、看護の研究倫理について述べた論文も多く、対象者への承諾の取り方や、診療記録を用いる場合の手続きなど、研究対象となった患者や家族、医療従事者の権利を侵害しないための倫理的配慮の方法について述べられている。特に精神障害者や痴呆老人、小児など自分自身の権利を主張することが難しい対象の扱いは十分な配慮が必要である。看護研究の場合は医学研究のように身体への有害事象の発生の確率は低く、むしろ面接調査を通して対象が癒されることもあるが、場合によっては面接調査によって過去の悲惨な体験を想起せざるを得なかったり、自己を見つめることで強い罪悪感を持つことになるなど、思わぬ副作用を併発することもある。看護研究における倫理的配慮についての詳細は雑誌「看護研究」342号(2001)に特集されているので参照されたい。

4.臨床現場での現実的な倫理感覚

さて、いわゆる倫理原則のような原理原則的な記述とは別に、実際に見たり接したりして、なにか侵害されたと感じ不愉快な感覚を呼び起こす場面というものが臨床には多々ある。それは患者や家族の権利が侵害される場面であったり、看護師自身の権利が侵害される場面であったりする。このような臨床の場面の中には倫理的な問題としてはっきり認識される場合もあるが倫理感覚が洗練されていなければ、何か得体の知れない不快な感覚として長く看護師の気がかりとして残る。倫理原則に反するかどうかの点検能力は、倫理についての理論的な学習や事例を通して倫理的判断を行う訓練を経て身に付くものであるが、現在我が国の看護教育で倫理の教育は、それほど充実しているわけではない(片田2002)。したがって、看護師が倫理的問題を察知するときは、それは「倫理的問題」として察知されるのではなく、いわゆる「これでいいのだろうか?」という曖昧で不愉快な感覚として察知される事が多いのではないかと思われる。

例えば、患者が病名を知りたいと申し出ているにもかかわらず、医師と家族との話し合いで、患者に病名を告げないと決定される場面に立ち会う。例えば、十分な説明や確実な患者の同意がないまま終末期の患者に鎮静をかけるという指示を医師からだされる。例えば、リスクの高い医療処置を受けるように勧められ、断ると医師に今後の診療を暗に断られる患者がいる。例えば、看護師の経験では不必要と思われる検査や医療処置を「必要である」と説明されて信じている患者がいる。例えば、説明は十分にしたからあとは自分で決めてもらうと医師は突き放しており、だれも口を挟めない雰囲気があるが、患者も家族も混乱している。例えば、医師は必要十分な説明を行ったと言っているが、患者は説明を受けたという認識がないまま承諾書を書いた。例えば、明らかに診療技術の未熟な医師であるにもかかわらず、上位の医師が十分な指導や監督がないまま行う診療行為をはらはらしながら看護師がカバーする。例えば、救急患者が来院したが、医療の必要性のない患者が退院を拒否しているために、すぐに処置をすれば助かるであろう患者を入院させられない。例えば、患者の医療情報記録(看護記録を含む)を無断で医師が研究用のデータに使用して学会に発表している。等々である。

看護師は、自分自身の権利が侵害される場面にも遭遇する。例えば、患者に暴力を振るわれ、けがをする。例えば患者から呼び捨てにされ、暴言を吐かれる。例えば、診療の目的ではなく研究用の採血をさせられていることが後になってわかる。新鮮血が必要であると看護宿舎に呼び出しがかかり、看護師なのに・・・と提供を断れないような雰囲気にさせられる。例えば、患者にセクシャルハラスメントを受け不愉快だが、患者に抗議することを管理者に止められた。例えば、男性看護師であることを理由に受け持ちをはずされた。男性看護師であることを理由に就職できなかった。等々である。

また、看護師自身が直接的に患者の権利を侵害し、倫理的に不適切な行動をとっている場合もある。例えば規則だからという理由だけで面会時間以外の面会の希望を受け入れない。同室の患者が不穏状態で他の患者の睡眠が著しく妨げられているのに、何の対策もとらず、同室者に我慢を強いている。無理に食べさせる。食事介助が必要な患者に介助を行わない。患者が希望しているのに不当におむつの交換を待たせる。患者のためといううたい文句のもとにリハビリテーションを強要する。痛みを訴えているのに不当に鎮痛処置を遅らせる。等々である。

このような臨床上日常的な出来事は、解決されないまま看護師の感情をいらだたせ、日々内的エネルギーを消耗し、ひいては看護の意欲を低下させる原因になるので、倫理上の問題に終わらないという複雑な側面も持っている。また、被害を受ける患者や家族、他の医療従事者も同じく不快感をつのらせ、看護師を信頼することができず、看護を提供してもケアとして受け取れなくなるので、看護は成果を上げることができなくなる。多くの病棟で発生している患者との行き違いは、このような出来事に端を発しているのだが、私たち看護師は、このような問題を明確に感知または認知する能力に欠けており、問題解決どころか問題の認知さえもおぼつかないというのが現状ではないだろうか。

臨床現場の倫理的問題は、ベッドサイドレベルではこのように倫理原則や人権という問題ではなく、一種の不快な感情として体験されるので、不快な感情を体験したときに、状況の中でそれを流してしまわない工夫をまず始めなければならないのではないかと思う。倫理学を学ぶことや倫理的判断のトレーニングを受けるといったより高度な段階の教育も確かに必要であるが、現場で実践するあまたの看護師がミニマムエッセンシャルズとして修得するには多少高度すぎるかもしれない。むしろ現実的な対応策として、不快な感情に気づき、その問題を明確化すると行った実践レベルの訓練が求められるように思う。

5.看護師は倫理的問題にどれほど介入できるのか

看護師は、医療の現場でもっとも患者に近く、しかも長い時間を共有しているにもかかわらず、患者の権利が脅かされるなど倫理上問題であると感知した場面において介入できる機会を持っているわけではない。例えば患者家族の希望で患者に病名や予後を伝えないような状況では、最悪の場合、家族と医師との完結した取り決めとして堅く守られ、看護師の意見は全く無視されることもある。何も知らない患者に権利を主張するように勧めることもできないので、問題にはなり得ず、患者は悶々としたまま死に至ることになる。そしてその延長線上で、「少し楽にしましょうか?」と鎮静を意味する質問をされ、患者が「はい」と言ったことをもって、セデーションの承諾を得たと勘違いしている医師もいるのだ。もちろんこの場合は、鎮静剤を用いてコミュニケーションが取れなくなり、自分の意思も表示できないまま死に至る可能性については説明されない。医師は倫理教育を全く受けていないわけではないが、このように当事者だけで倫理に関わる決定を行う場合、往々にして倫理感性が鈍磨になるという現象があるようだ。看護師には患者が鎮静処置の結果起こることを十分知る権利があるのに知らされていないと判断したら、その表明をする義務がある。しかし、そのような発言の場や役割の認知が社会的に保証されているわけでないので、行動を起こすことはむずかしい。一方で医師は過剰とも思える決定権を社会から認められている。倫理的問題は倫理をおかす側とおかされる側の2者間で気づいたり解決するのは難しく、その状況の中にいる看護職は倫理の番人として活躍したいところであるが、介入の場の保証も力も与えられていないのが現状である。

6.看護師(医療者)の権利も侵される

 倫理的課題は患者の権利が守られていないということに集中しがちであるが、医療者である医師や看護師の権利が侵されることもある。医師が患者に対して行う病気や治療の説明を看護師として聞いていると、十分意を尽くして行っている良心的な説明も多く見受ける。病気が深刻であればあるほど患者はそれを受け止められず、医師が説明していることが正確には理解されないことが多くある、癌で転移もあり、現時点で治癒は望めないことや年単位で生存する確率は低いということを説明しても、患者や家族はかならずしも医療者の理解と同じように理解しているわけではない。つまり、癌ではあるがすべてが死ぬわけではない(生存の確率が低いが生存することはあると理解する)と理解している場合もあるし、奏功率は低いが自分には効果があるといった具合である。このような否認とも言える誤認は、人間の自己防衛機制として正常な反応であり、その患者が意図して医療者をおとしめようとしているわけでないことは明らかである。しかし、結果的には医師や看護師への攻撃という形になって現れる。進行癌のように疾病の性質上、治療をしても悪化を止めることはできない場合は、患者は悪化することに不信感をおぼえ、誠実な説明を尽くしている医師に対してさえも暴言を吐く場合がある。

 また、患者が療養法を守れないことはしばしば経験することであり、服薬行動や食事の制限についても正確な報告が医療者に対してなされないことがある。虚偽の申告にもとづき次の薬剤を処方し、医療的介入を行うと、患者にとってマイナスになるだけでなく、医療者も責任を問われ、場合によっては職業の危機におちいることもある。このような場合、医療者の正当に診療を行う権利は侵害されたとは言わないのだろうか。

 看護師はこの他にセクシャルハラスメントという被害を受ける。看護師が提供する日常生活ケアは身体への密着度が高く、患者に不要に接触されたり、言葉によるセクシャルハラスメントを受ける場合もある。多くの看護師は、看護師としての患者に逆らうわけにはいけないと考えており、逃げるようにその場を去るのがやっとで、患者の行為を批判することもできず、ましてや訴訟を起こすということなどできないのが普通である。この他に看護師に対して差別的な発言をする患者、他の患者がナースコールで呼んでいるのに無視して自分のそばにいるように要求する患者、うそをつく患者、明らかに回復し入院の必要がないのに退院を拒む患者など様々な患者がいるが、看護師がケアを放棄することは許されていない。特に精神科看護においては、精神障害という疾病の本質そのものが、他者との関係をうまく調整できないことにあるので、倫理的問題は看護者、患者双方に大きく降りかかってくることになる。

6.看護倫理のこれから

このように看護の現場で生起する現象の中にある倫理的な問題を洗い出していくと、結局の所、患者の権利を尊重することは看護師(医療者)の権利を守ることと同義であるように思えてくる。まずは、倫理的な問題に敏感になること、そのためには倫理的な問題のありかを論理的に学習する必要があるだろう。看護学のカリキュラムに組み込まれている教育機関もあるが、必修として要求されているわけではない。倫理学が教養科目で設置されているが選択科目である場合が多い。学校教育だけでなく家庭や社会で倫理を学ぶ仕組みをどのようにして作っていくかも課題である。医療者だけでなく、一般の人々の倫理的な感性や思考が促進されることが重要である。

看護師としてできることは、看護の重要な役割と言われているアドボカシーの機能を個々の看護師が十分認識し、医療の現場で患者に代わって発言していくことである。患者が権利を主張したり、意志決定において不利益を被らないように、環境を整えることも看護職の重要な役割である。小島は、医療者が理念をもつこと、コミュニケーションを密にすること、チームで対応すること、看護のケア能力を高めることが倫理の問題を解決することにつながるとしている(小島,1997)。

看護職はいつまでもサイレントプロフェッショナルグループであってはならない。社会に対してもまた患者の権利を擁護することを仕事の一部として行えるような意識改革が必要であると思う。

〈引用文献〉

Davis, A.1996HIV混入血液製剤に関するいくつかの倫理的問題:日本の場合,看護,48(15)32-38

・片田範子他(1991)看護倫理から見た東海大学病院事件―報道が問わなかった問題を問う―,日本看護科学学会誌,11(2)76-79

・片田範子他(1992)臨時脳死及び臓器移植調査会の最終答申 脳死及び臓器移植に関する重要事項について 日本看護科学学会倫理委員会の見解,日本看護科学学会誌,12() 84-87

・片田範子(200221世紀に問う看護の倫理性,日本看護科学学会誌,22(2)54-64

・小島操子(1997)終末期医療における倫理的課題,ターミナルケア,7(3)192-199

・高田早苗,内布敦子 (2002) 看護実践における倫理性―遺伝子診断・治療における看護の役割―,日本看護科学学会誌,22(2)65-75

・田口玲子,宮坂道夫,藤野邦夫(2000)わが国における〈看護倫理〉の動向,新潟大学医学部保健学科看護学専攻,7(2)239-248

・日本看護協会(1988http://www.nurse.ne.jp

・横尾京子他(1993)日本の看護婦が直面する倫理的課題とその反応,日本看護科学学会誌,13(1)32-37



雑誌オンライン版目次
HOME