Dr.の肖像

医学の世界に満点は存在しない。

医学部に入るつもりはなかった。そううそぶいてきた医学生は、病院という名の戦場で揉まれ、一流の外科医へと変貌を遂げます。医師としても研究者としても「満点のさらに先」を目指し研鑽を重ねる土岐祐一郎教授にお話を伺いました。

土岐 祐一郎

大阪大学大学院医学系研究科
消化器外科学Ⅱ 教授

人の死という現実が
私を変えた。

高校生の頃は医師よりも建築家や小説家に憧れていました。にもかかわらず医学部へと進んだのは、「医学部でなければ学費は出さない」と父に半ば強制されたからです。そんなことだから入学後は勉学に身が入らず、遊んでばかり。我ながらよく留年せずに卒業できたと思います。

本当の意味で医学を学び始めたといえるのは、医師免許の取得から2年後、研修医として臨床の現場に立ってからです。正直それまでは「医学の勉強なんて、試験で合格点を取れればそれでいい」と考えていました。けれど実際の医療の現場には合格点どころか、満点も存在しなかった。あるのは「自分の勉強が足りなければ、患者さんが命を落としかねない」という現実だけです。

例えば、私の専門である食道がんでいうと、当時はどんなに頑張っても10人に1人は手術後に亡くなっていました。それならせめて「全力を尽くした」と断言できるだけの努力をしなければ、私は自分を許せなかった。輸液から循環管理、透析まで、術後の全身管理を死に物狂いで勉強しました。

気がつくと「ひとりICU」と呼ばれるようになっていましたが、それは私以外に全身管理をできる人間がいなかったからでもあります。血圧をどう安定させるか。利尿剤は投与するべきか。あらゆる判断を自分で下し、朝は6時から夜は12時まで毎日働き詰めでした。そうした嵐のような日々のなかで学んだのは、医師には必ず「逃げられない瞬間」がやってくるということです。目の前に苦しんでいる患者さんがいたら、どんなに難しい治療だとしても腹を括って臨むしかない。そうした心構えを身につけたあの数年は、今振り返っても大きなターニングポイントになっています。

手術という選択を
選べる医師に。

研修医時代は上司にも恵まれました。特に影響を受けたのは、食道がんを専門としていた岡川和弘先生です。先生は、患者さんのこととなると途端に目の色が変わる情熱家。あの姿勢は今も私のお手本です。岡川先生は手術の腕前もピカイチでした。手術の上手さというのは、手先の器用さだけでは決まりません。何より大切なのは「手術をする」という判断が下せるかどうかです。難しい手術になるとわかっていても、患者さんのこれからの人生ために、手術という選択肢を選べるか。そのために絶え間なく技術を磨き続けられるか。それができる医師こそが、一流の外科医です。もちろん岡川先生もそのひとり。私も常にそうであろうと努めてきました。

現在私が所属している阪大の食道グループでも、同じように考える医師が多い。だからこそ皆で技術を磨き、難しい手術にチャレンジしてきました。幸いなことに、阪大はICUのレベルが非常に高く、心臓血管外科や呼吸器外科、形成外科など、あらゆる科のトップレベルの医師からバックアップを受けられます。だからこそ、この恵まれた環境にふさわしい仕事をしなければならない。阪大という組織の力をフル活用して、ほかの病院では手に負えない困難な手術を手がけていくことは、私たちの変わらぬ使命です。

一方で、私自身は外科医としてのピークを過ぎてしまったことも自覚しています。昔は15時間以上も立ちっぱなしで手術ができましたが、今の体力では心許ないし、視力も少しずつ衰えてくる。結局、ひとりの医師が救える人の数には限界があるのです。だからこそ今は、後継者を育てることに意識を傾けています。担い手が減り続けている外科医という仕事の魅力を発信していくことも、これからの私の役目です。

手術からの回復にも
力を尽くします。

さまざまな手術を執刀する一方で、手術後のQOL(生活の質)を高める栄養療法の研究にも取り組んでいます。食道がんや胃がんというのは、術後の体重確保がとても難しい。手術が成功しても、体重がどんどん減ってしまい、高齢者の方はそれが原因で寝たきりになってしまうことも珍しくありません。栄養状態が悪くなると免疫力が低下して、がん再発の一因にもなります。

こうした問題を解決する有効打になると睨んでいるのが、胃から分泌され、脳へと働きかけることで食欲と成長ホルモンの分泌を増進する「グレリン」というホルモンです。私たちは世界に先駆けて胃がん胃全摘術後の患者さんにグレリンを投与する臨床試験を実施し、食事摂取量や食欲、体重の増加といったポジティブな結果を得ました。さらに食道がん術後の患者さんへの投与では、食欲と体重の増加だけではなく、全身の炎症反応を抑えられることも明らかに。今後はさまざまな栄養剤などと上手に組み合わせ、グレリンのさらなる可能性を引き出すことで、手術後の栄養状態を良好に保つ術を確立したいと思っています。

私たちが培ったノウハウは、より一般的な高齢者医療にも生かせるでしょう。手術後ほど急激ではないにせよ、食欲不振による栄養状態の悪化が体重や筋肉の減少を招き、それが寝たきりの原因になっていることに変わりはないからです。栄養療法という分野を、さらに掘り下げることで、多くの人々の力になりたいですね。

医学の力を
患者さんへ届けたい。

栄養療法をはじめ、私が取り組んできたのは臨床研究です。つまり基礎研究の先生方が打ち立てた仮説を、患者さんを対象として証明するのが私の仕事。「なんだそれだけか」と仰る人もいるかもしれませんが、証明というのはみなさんが思うよりもずっと大変な作業です。仮説通りの結果が得られることが稀な上に、臨床研究での証明には膨大な時間がかかります。研究をデザインしてから結果が出るまでに、10年以上がかかることも珍しくはありません。ひとりの研究者がそれだけの歳月を費やして、ネガティブな結果しか得られないこともあるのだから残酷です。

それでも私が臨床研究に取り組むのは、医学の力が患者さんへと届く瞬間をこの目で見届けたいから。それに苦労が多い分、やり遂げたときの達成感もひとしおです。狙い通りの結果が得られたときの感動は忘れられません。これからもずっと研究を続けていきたいですね。

自ら望んで選んだ道ではなかったものの、医師になったことに後悔はありません。創造的でやりがいのある仕事です。ただ最近少し気がかりなのは、治療方針を定めたガイドラインに縛られ、医師という仕事の本当の面白さを実感できていない若手が増えていることです。ガイドラインの遵守はもちろん重要ですが、それだけでは合格点を取るために勉強しているのと変わりません。繰り返しになりますが、医療に満点はありません。9割はガイドラインを守りながらも、自分の専門分野ではその先の未知の領域へと大胆に踏み込める。そんな医師こそが、医療の未来を切り開いていくのだと確信しています。