Dr.の肖像

人の死が、未来をつくる。

幼少の頃から熱中したのはスポーツ。紆余曲折を経て医学部に入学したのは23歳のときでした。恩師との出会いにより解剖の奥深さに目覚め、「人はなぜ死ぬのか」という問いと常に向き合ってきた松本博志教授。「死者によって私たちは生かされている」と語るその真意を探ります。

松本 博志

大阪大学大学院医学系研究科
社会医学講座 法医学 教授

車いす生活が
ターニングポイント。

幼少の頃からさまざまなスポーツをやっていました。水泳を始めたのは3歳。その後は少年野球やラグビーも。ただ、中学の頃から非常にけがが多かったんです。1年のうち7~8ヵ月は医者通いという時期もありました。そんな中、スポーツのけがはどう克服すればいいのだろうと考えるようになります。日本語の文献はほとんどなかったので、高校のときは水泳のトレーニングに関する英語の論文と教科書を読んでいました。そこで食事、睡眠などにも多くのページが割かれているのに衝撃を受けます。今だったら当たり前ですが、何しろ40年前です。まだ体育学に根性論がはびこっていた日本とは異なり、手にした文献は、医学部の教授や医師によって書かれていました。

大学の医学部に入学したのは23歳のとき。ずいぶん回り道をしています。いろいろな大学の、医学部ではないいくつかの学部で入学、中退を繰り返しながら、スポーツを続けていました。学者の方や高校の先輩に将来のことを相談する中で、「身体に興味があるのなら医学では」と言われ、医学の門を叩いたのです。

ところが、和歌山県立医科大学に入って、またスポーツで大けがに見舞われます。手術をし、半年ほど車いすの生活を送ることになってしまいました。当時、大学の施設はバリアフリー化されておらず、階段教室では実習を受けるのもままならない。しかし、これが大きな転換点になりました。ほかにできることもありませんので、真剣に勉強と向き合えるようになり、英語の教科書にも取り組んだのです。それに加え、周囲の方のご支援や介助がとてもありがたかった。「自分」から脱皮し、「人の役に立ちたい」という思いが芽生えました。

もう一つの転機は、医学部4年次の基礎配属です。フルタイムで基礎研究の教室に入り、実験に勤しむプログラムであり、そこで初めてスポーツ以外に打ち込むものができたと感じられました。私が所属した教室は、保健所から提供された野犬を使って実験を行っていました。麻酔をかけて開胸し、肺塞栓症モデルを作成する。6種の不活性ガスの値を測定し、微分方程式に従って換気血流比を当時最先端のミニコンで解析する。そのモデルは、胸部外科や呼吸器内科で使ってくれました。うれしかったですね。患者さんの治療に役立つんだと実感できたわけですから。

酔っ払いも、
研究対象に。

恩師の若杉長英先生に出会ったのは大学2年次です。ご専門は法医学。人体の勉強をしたいと申し出たところ早々に解剖に参加させていただき、多くのことを教わりました。先生からは「法医学はいいぞ」と幾度となく聞かされたものです。「法律も扱うし、医学のすべての領域を網羅する。なんでも対象になるんだ」。2年次の秋、中国の大学との交流時に寝台列車で移動中、二段ベッドの上から聞こえてきた先生の言葉が、将来の選択に生きました。

刃物で刺されてとか大病を患ってというのはわかりやすい。でも、若くしてあっけなく亡くなってしまう人がいる。実験や解剖を繰り返しているうちに、「なぜ個体は死ぬんだろう」という問いを追求してみたいと思うようになりました。年齢的に出遅れている自分を快く受け入れてくれそうな診療科がなかなか見つからない中、法医学の研究室だけはウェルカムだったのがありがたかったですね。法医学の世界は、全国の研究室で人事交流が活発で、若くして教授になった方もいらっしゃる。ある種自由闊達な風土があり、学歴や年齢のハンディキャップもないだろうと。

京都大の大学院時代は司法解剖に携わったほか、アルコールの研究に取り組みました。アルコール性肝障害の病態モデルの解析などです。実はアルコールは、法医学に密接な関わりがあります。飲酒運転の事故や酔っ払いの暴行事件を思い出してみてください。重要なのはアルコールの血中濃度です。時間経過はどのように濃度に影響するのか。体重との相関はどうなのか。過去に行われた動物実験のデータをもとに、モデル式をたくさん作りました。その後、着任した札幌医科大学では自分の教室を「法医学・アルコール医学」と名付けています。アルコール摂取との関連が指摘される難病の特発性大腿骨頭壊死症について、世界で初めて動物モデルを確立したのも札幌時代です。

使命感に燃えた
被災地での活動。

法医学者として、阪神・淡路大震災と東日本大震災で検案活動に従事した体験はやはり大きかったと思います。阪神・淡路大震災では、発災3日目に神戸市の長田区に入りました。訪れた体育館では避難している方がご遺体とともに過ごされている。想像を超えるハードな状況でした。手洗いに使うのは雨水。食糧もない。現地にいた5日間で11キロ痩せました。寝る時間もありませんでしたが、大学の実験室では72時間休みなしなんてザラでしたから、なんとかなるものです。アクシデントも起きました。発災5日目に市の職員がごみの収集に来た際、棺が足りなくてやむを得ずご遺体を入れていた段ボールを誤って運んでいってしまったのです。学校の教室よりも大きな収集の山をかき分ける途方もない捜索活動の末、7時間かけてなんとか回収を果たします。やれることはやろうという一心でした。

東日本大震災の発災時は、津波が起こり始めている沖のニュース映像を見て、これはまずいと直感しました。スマトラ沖地震の際も現地に行っており、津波の怖さを知っていたからです。なるべく早く東北へ行くべきだと思いました。原発のニュースも深刻さを増す中、放射能の影響を想定して、家族の了解を得られた研究室の有志は私を入れて4人。私の研究室は全員、1人で対応できるのが強みで、1人1日、検案は100体、解剖だったら5体が可能ですから、十分な人数です。技術があるし、丁寧にやれる。札幌から陸路とフェリーで16時間かけて福島の南三陸町に赴き、2日間ですべてのご遺体を、3日目の石巻市では400体を検案させていただきました。

不幸な死を、
なくしたい。

臨床では「病気」に着目します。だけど法医学は「人」ありきなんですね。人それぞれ育った環境は違います。亡くなるときの環境もさまざまです。熱中症もあれば凍死もある。飢餓もあれば虐待もある。では社会として何ができるのか。亡くなった方を見つめ、残された側が幸せに生きていくにはどうしたらいいのかを考えるのが法医学です。

不幸な死を医学的に防ぐ。それが私のミッションです。突然、人生が遮断される事態をなくしたい。100%思い描いた通りとはいかないまでも、すべての人がゆとりをもって、人生を楽しくまっとうできるようにしたい。私たちは亡くなった人に生かされているのです。亡くなった人からの贈り物を、今生きている人に還元すること。それが法医学の責務だと考えています。