Dr.の肖像

臨床とサイエンスの両輪で、まひの克服を目指す。

人の役に立ちたい。岡田誠司教授の原点にあるのは、奉仕の精神です。患者さんを救うためには、「臨床と研究、どちらも欠かせない」と説き、医工連携をテーマにした新しい取り組みにもチャレンジ。未解明な部分が多く残る整形外科であっても、教授が見据える未来は、希望に満ちたものでした。

岡田 誠司

大阪大学大学院医学系研究科
器官制御外科学講座 整形外科学 教授

肩こりから骨肉腫まで。
整形外科のフィールドは幅広い。

「他人のために生きる人間」。私が在学していたミッション系中高一貫校の校訓です。将来は人の役に立つ仕事がしたいと考えたとき、「医師」という選択肢が見えてきたのは自然な流れでした。親族に医療関係者がいたわけではなく、大きな病気をした経験もありませんでしたが、高校生にとってイメージしやすい職業だったのだと思います。ただお金を稼ぐだけでない、人生をかけるに値するものがそこにはあるだろう、と。

九州大学医学部に進学し、中高から引き続きサッカー部に所属。キャプテンとしてチームを率い、大会で優勝できたのはいい思い出です。もちろん、学業も抜かりなく。文武両道の充実した日々を送りました。

医学部生が自分の診療科を決める際、まず内科か外科かで悩みます。私の場合、外科は自らの「手」で手術して患者さんを良くするという実感を得られやすいので惹かれました。さらに、整形外科なら運動器、つまり顔面や内臓以外はほぼすべてが診療の対象となります。患者さんは赤ちゃんからお年寄りまで。男女差もありません。肩こりのような日常のお悩みから骨肉腫のような命に関わる病気までを扱います。この幅広さがとても魅力的に映りました。

脊髄損傷とその回復の
メカニズムに迫る。

卒業後、地域のいくつかの医療機関で数年間、臨床に励みます。なかでも脊椎を専門とする病院で、自分の方向性が定まりました。スポーツや交通事故で脊椎の中を通る脊髄が損傷すると、予後が芳しくないことはよく知られています。若くして手足が一生動かなくなる。そんなイメージです。当時担当した患者さんで記憶に残っているのは、ラグビー試合中のけがで全身まひになった高校生。日本代表に選ばれるほど将来を嘱望されていました。本当に気の毒でしたし、医師としてある種の無力感を抱いたのも事実です。

受傷時のエネルギーの大小によって結果は大きく左右されます。1カ月もすれば動けるようになることも。こればかりは運としかいいようがありません。さらに、手術といっても、骨がグラグラしてこれ以上神経が傷付かないよう患部をボルトで固定するのが関の山。現在の医学では脊髄に直接アプローチする方法はありません。3カ月ぐらい経って回復しない場合は、一生治らないことを前提にその後を考えていくことになります。

不思議だったのは、回復の度合いに個人差があること。最初の1、2カ月が分かれ目になります。患者さん、とりわけ若い人に少しでも希望をもってもらうために、この謎を解き明かしたい。そんな思いから、基礎研究の必要性を痛感し、一念発起して大学院へ進みました。

当時の関心は、新しい治療法としての幹細胞移植。手足のまひの治療に応用したいと考えたからです。どんな細胞を何個植えればいいのか。移植したらどれぐらい生き残るのか。マウスを使い、そんなベーシックなところから研究を始めました。しかし、移植して急性期には効果があるように観察されても、メカニズムはよくわからないまま。慢性期ではほとんど効き目がありません。そんな壁に直面しつつも、神経細胞の再生を阻害するとされていたグリア瘢痕が、実は部位の修復機能を兼ね備えていることを突き止めます。その論文で一定の評価を得ました。

研究と臨床は、
ウィンウィンの関係。

修了後、母校に戻ってからの挑戦。それは、若手研究者の養成強化を図る文部科学省の事業でした。4年程度の任期で研究ポストを与えられ、成果を出せば准教授などの安定的なポジションに就くことができます。逆に言えば、クビもあり得るシビアな制度。アメリカでは「テニュアトラック」と呼ばれるものです。この事業に母校のプログラムが採択され、私も学内選考の狭き門を突破して採用されました。

厳しい環境ではありましたが、研究者としてここでさらに鍛えられた実感があります。大学院生の頃の問題意識をさらに深掘りし、研究に没頭。幹細胞の働きが移植された環境にどう左右されるのかを遺伝子レベルで解析しました。損傷を受けた脊髄では、細胞に再生を働きかける物質が出ています。しかし、そこに移植された幹細胞の反応がいまいち鈍いのです。過酷な環境下では、幹細胞も自分の身を守ることで精一杯で、組織の生存に関わるシグナル以外は受け止めないからと考えられます。修復に向けて本当はもっと働いてほしいのに、守りに入ってしまう。細胞も「生き物」ですから、それはそれで理にかなっているわけです。なかなかこちらの期待通りにはならず、もどかしい思いもしました。とはいえ、幹細胞の働きが生着環境に大きく依存していることを明らかにするなどの業績が認められ、晴れて准教授に。

その頃から、自分の使命は、臨床とサイエンスを結び付けることだと思うようになります。どちらかに専念したいという気持ちはありませんでした。臨床には研究のヒントがたくさん隠されていますし、研究成果が臨床の幅を広げてくれますから、両者はウィンウィンの関係にあるといっていいでしょう。その後、研究ポストの教授に就きましたが、それでも臨床は続けました。私のようなケースは外科系ではあまり多くないかもしれません。時間配分などの調整は可能でしたので、恵まれた環境だったと感謝しています。

新しい環境に
胸躍らせて。

阪大に移った今は、研究室の体制づくりに注力しています。ざっくばらんにいえば、若い人がわくわくするような環境にしたい。トップがテーマを与えるのではなく、若手が自由な発想で取り組める環境を作れば、おそらく20年後は後者の方が成果は上がっているはずです。

高齢化の進展を受け、リハビリテーションを含む整形外科の役割は、ますます大きくなっていくでしょう。もちろん分かっていないこともたくさんあります。整形外科学は痛みを扱う学問ですが、未だに痛みの評価は、10cmの線を引いて、右端が「死ぬほど痛い」、左端は「無痛」で、「今はどのあたりですか」と患者さんに指差してもらう超アナログな世界。現在は阪大工学部の方たちと、ウェアラブルなセンサーで脳波を計測して痛みを定量化する試みを始めています。阪大の強みの一つが医工連携。整形外科は、歴史を振り返っても工学との相性がよく、人工関節や手術ナビゲーションといった革新が起こったのもそのためです。自分にとって阪大は胸躍らせる新しい環境。今も視野が広がっていることを実感しています。