生命は謎だらけ。
だからなんとか解明したい。
はじめは京都大学の薬学部に進学しました。薬学という学問は、生物、物理、化学といった科目を一通り押さえる必要があります。生命現象に迫るにあたり、そこに潜むメカニズムを理論立てるのが物理、関係する物質を見つけるのが化学。そこからお薬の開発につなげていこうとするのが薬学です。こうして学ぶ中、生物は謎だらけという事実を痛感するようになりました。人間も謎だし、病気も謎。ならば、人の体のことをもっと勉強したい。そう考えて、薬学部で4年学んだ後、医学部に学士入学しました。私の医学の道は、「謎」に導かれてスタートしたというわけです。
早い段階で、病気の原因や成り立ちを探る病理学に進もうと決め、ほとんど迷いはありませんでした。学部生ではなかなか経験できない病理解剖に何度も参加させてもらい、多くの学びを得ます。まずここに病気が発生し、それが別の箇所に派生して、その結果、呼吸不全で亡くなった、と時系列で追うことで、その方がなぜ亡くなったのかというストーリーが克明に浮かび上がるからです。巡り巡って、事ここに至る。そんな病理学の奥深さに魅了されました。
ワインの「おり」のように
たまったイメージを活かす。
臨床研修が義務化される前に医学部を卒業し、大学院に進んで、4年後に博士号を取得。病理は実際に患者さんに接することはほとんどないので、聞き馴染みのない臨床科です。患者さんから採取された組織や細胞を顕微鏡で観察し、疾患の状態を判別するのが病理の基本業務であり、毎日診断を行っています。「ドクターズドクター」といわれる私たちの役割は、臨床の先生から相談を受けて、治療方針の決定に役立つ診断をすること。病理診断が最終診断になります。近年、その責任の重さから若手医師に敬遠され、人材確保に苦労しているのも事実です。
あらゆる診療科から依頼がありますから、それこそ頭のてっぺんから足の先まで、すべて分かっていなければなりません。それを、デューティー(義務)として日々こなすことになります。そうすると、知らず知らずのうちに経験が積み上がる。これがポイントです。
そんなプロセスの一例をご紹介しましょう。観察に際しては、採取した切片を染色して病変を捉えようとするのがベーシックな方法です。例えば、子宮内膜のがん細胞は、茶色の粒のように見えます。ところが、日々観察と診断を重ねていくと、茶色に染まっていない細胞の存在に、あるとき気付くのです。これはどういうことだろう。たまたま染色に失敗したのだろうか。しかし、そういうケースに何度か遭遇すると、偶然ではないと悟ることになります。つまり、がんは100%同じ顔つきをしているようでも、細胞レベルでは多様性をはらんでいるのです。未熟な細胞に反応するマーカーを使うと、これまで染まっていなかった部分が赤くなります。正常な細胞と同様に、がん細胞にも成熟したものと未熟なものがあるのです。
日々デューティーをこなしていると、少しずつ、それこそワインの「おり」のように、ある種のイメージが自分の中にたまります。「妄想」といってもいいかもしれません。それが正しいどうかを確かめるために、実験を行います。目の前で見えていること、ここは茶色でここは茶色でないという現象は揺るぎません。そこから、さらに深掘りするには、「妄想」の力が必要です。
現在は、スポットごとにRNAを抽出するなど、遺伝子を解析する方法が登場しています。ひとつのがんでも、場所によって遺伝子の発現レベルが全然異なることが分かってきました。ここまでつまびらかにされてしまうと、人間の「妄想」が働く余地がかえって少なくなるのも確かです。しかしながら、そうなったらそうなったで、別の「妄想」が湧き起こってきます。というのも、これまでに報告されていないような遺伝子がたくさんリストで表示されるからです。たまたま発現しただけかもしれませんし、実は隠れた主役なのかもしれません。新たにかき立てられた「妄想」を起点に、また探究していけばいいのです。

恩師から学んだのは、
信念を貫くこと。
そのような心持ちになれたことには、恩師たちとの出会いが大きく影響しています。まず北村幸彦先生。学部生の頃から先生がリタイアされるまで12年ほどお世話になりました。あの方は、フラットに物事を見て、既成概念を打ち破っていくタイプ。衝撃的だったのが、ある医学雑誌の「なぜ病理医が足りていないのか」というアンケートに、「単価が低いから」とお答えになったことです。病理医が本当に必要とされているのであれば、もっと単価は上がる。つまり、病理医は必要とされていないのでは、という挑発的な問題提起でした。当然、同業者から強い反発が起こるのは目に見えていますが、北村先生には信念があり、発言に躊躇がない。忖度せず、ちゃんと意志表示して、みんなと意見を交わそうとするわけです。
もう一人の師匠が、北村先生の後に師事した青笹克之先生です。とにかく、病理診断に対する姿勢がすごかった。診断が正しかったかどうかは、患者さんの予後がすべてです。先生は、リンパ腫のタイプ分けが正しかったどうかを検証するため、患者さんの転院先まで追跡するほどでした。そのフィロソフィーと行動力に畏敬の念を抱いたものです。北村先生の研究室にいた頃は、大所帯だったので与えられた役割を果たせるよう心がけていましたが、青笹先生がおっしゃったのは、「自分にしかできない仕事をやりなさい」ということ。日々の病理診断でがんを見ている経験を活かして、自分らしい発想で研究に取り組もう、と心が定まりました。ビッグラボから離れて独り立ちできたのは、青笹先生のおかげです。
千に一つの可能性を
諦めない。
流れるがままここに来たという気持ちがあります。とりあえずデューティーをこなしてきました。ときには嫌々だったかもしれません。でも、そういう仕事の一つひとつが、あるときに結びついて新しい発想が生まれる。興味のあることだけをやっていたらたどり着けない場所がある。これらもまた、真理だと思います。
「大発見をしたい」といった大それた目標はありません。ただ、「妄想」が湧き起こり、それが的中したときは心底楽しく、自然界の一端が分かったみたいな思いになります。「当たり」は千に一つぐらいではありますが、そういうのを見つけていきたいな、と。それが目標といえば目標でしょうか。その先で、「楽しい人生やったな」と気持ちよく死ねれば本望ですね。