Dr.の肖像

千日の勧学より、一日の学匠。

世界の免疫学を牽引してきた大阪大学が誇るオーソリティ、熊ノ郷淳氏のこれまでに迫るインタビュー。免疫学の世界ではトップの研究者である岸本忠三を師に、決められたレールから外れながらも現在のポジションへと至った氏の研究への思いや、今後の展望などを紐解きます。

熊ノ郷 淳

大阪大学大学院医学系研究科
内科学講座 呼吸器・免疫内科学 教授

超一流の先生との出会いは、
僕を研究へと向かわせた。

僕は高校生のときに父を亡くしたことをきっかけとして医者を目指しました。医者に対する憧れもありましたが、脳腫瘍だった父の病状について理解したかったのが主な志望理由です。だから脳外科医になるつもりで大阪大学の門を叩きました。しかし入学してすぐの頃、脳外科の先生が空っぽのウイスキーの瓶に細いピンセットを突っ込んでプラモデルを組み立てる姿を見たのです。あの器用さには参りました。「これは僕には無理だ」と脳外科医になることは挫折(笑)。大きな声では言えませんが、大学入学当初はあまり勉強熱心ではありませんでした。

そんな僕にとって転機になったのが、当時大阪大学の医学部に特別講義で来られたりしていた岸本忠三先生と本庶佑先生がサイトカインという白血球から出るホルモンを発見したこと。あの時点では詳しいことは理解できませんでしたが「すごいことが起きている」「阪大では免疫の研究が盛んなんだ」と感じ、改めて授業に出るようになりました。実際、阪大では免疫研究がものすごく盛んで、現在も阪大の免疫研究ランキングは世界1位です。

当時の阪大には、超一流の先生が年に何回かは特別講演にいらしていました。岸本先生に学生が質問をすると「説明がややこしい。そのうちわかるよ」となんとも型破りなご返答(笑)。一方、ノーベル賞候補にもなっている本庶先生なんかは「そんな高尚な質問に私ごときが答えられますかね」といった調子。身体がウイルスに感染したときに作られるウイルスをやっつけるインターフェロンを発見した谷口維紹先生は、世界的なチェリストのヨーヨー・マとご友人で、授業の半分は彼の話でした。ノーベル賞を取られた利根川進先生も、机に片膝立てて座っていてすごかったな。学問よりも、そんな印象的なエピソードばかりが記憶に残っています。

僕はそういった出会いをきっかけに免疫学や研究職に憧れを抱きました。「三年勤め学ばんより、三年師を選ぶべし」という言葉があります。「3年勉強するなら、遊んでいてもいいから師匠を探しなさい」という意味です。「千日の勧学より、一日の学匠」ともいいます。「1000日間の独学より1日の出会いが運命を変える」という意味です。僕もその通りだと思います。

セマフォリンに関する研究で
一気にブレイクした。

6回生の秋に、憧れの岸本先生が本学第三内科の教授になられたことは僕にとって幸運でした。僕は内科臨床研修を経て、岸本先生のもとで大学院の4年間を過ごします。しかし残念ながら、研究成果が上がらず不完全燃焼でした。だから同じキャンパス内にある微生物病研究所(微研)に移って研究を続けます。これは教授の命に背いて医局を離れることを意味していて「医者としての出世コースからは外れた」ようなもの。岸本先生からも「何考えとんねん!」と怒鳴られました。けれども最終的には先生からも「しっかり頑張ってこい」と背中を押されます。昔から阪大にはそんな自由で大らかな雰囲気があったのですよね。

微研は、ウイルスやバクテリア、がんに関する基礎研究で有名ですが、医学について勉強してきた僕は、とっかかりとして病気に関する研究をしたかった。そこで目を向けたのが「ある免疫が低下する病気に関連した遺伝子」を探すこと。そのときに見つけた遺伝子のひとつが「セマフォリン」です。当時セマフォリンは母親の胎内にいる子どもの神経が伸びる方向を決めるガイダンス因子だと考えられていました。なのに、なぜ免疫の病気に関わってくるのか。これが不思議でね。簡単にいうと、生まれるときに神経に関わっていたものが、生まれた後には免疫に関わっていることを発見したわけです。免疫の病気に関わるセマフォリンがひとつあるなら、ほかにもあるだろうと調べると、次々と見つかって全部で20あるうちの10を発見しました。なかには骨の保護作用のあるものや、アトピーとかぜんそくに関わるものも含まれます。

これらの成果は国際的ジャーナル『Nature』に発表され新聞にとりあげられたり、雑誌で特集が組まれたほか、英文書籍『Semaphorins』も出版されました。蛋白質研究所の高木淳一先生との共同研究でも『Nature』にも論文が掲載されました。このあたりを境に僕の研究には弾みがつき一気に広がったのです。

僕にとって
研究は麻薬です。

長らくいた微研を離れ、あらためて呼吸器・免疫アレルギー内科学の教授として医学部に戻ってきた理由は主にふたつあります。微研では研究だけで臨床からは離れていましたが、僕は親をがんで亡くして医者を目指したので、微研での研究成果を踏まえて、あらためて病気に向き合いたいと思ったからです。もうひとつは、研究所では学生との触れあいが少ないけれど、医学を志す若い子にいろんな道を提示して応援したかった。そういった思いから始まったのが「100人面談」です。これは1年間に100人の学生が僕のオフィスに来て、将来のよもやま話をする活動。ひとり1~2時間。内科志望の学生に限りません。外の病院の人にも会います。この6年間で600人以上と会いました。僕も「医局を離れる」というレールから外れる経験をしているから、型にはまらない若い人の挑戦や夢を応援したい。影響力では僕が憧れたスターには及びませんが、ときに週末やお盆を返上して若者の相手をするほど、この時間に賭けています。

僕にとって研究は麻薬です。本当に楽しい。学生を見ていても同じです。研究を始めた当初は「しんどい、できない」と後ろ向きな彼らが、卒業間近になると決まって「もう少し続けたい」と言い出す。僕自身もそうでした(笑)。いずれにしても大それたことを成し遂げようと研究に向かうというよりは、動物や薬品の匂いのする研究室に何となく心惹かれるものです。それは研究者なら誰しも持っている感覚。そんな風に感じる一方「病気を何とかする」ことが医学の意義だから、患者さんの支えになるのはもちろん、病気のメカニズムを解明したい。それが次なる医学や科学の発展へとつながります。

阪大には免疫研究で世界トップクラスの先生が歴任してきました。僕も先生方からは少なからず影響されました。「太陽に向かって歩けば影を踏むことがない」という言葉がある通り、憧れの存在を見ていれば、人生における節目で、先人の背を追うような選択ができます。このことは幸運でした。これからも治せない病気にアプローチし続けながら、同じような思いを共有できる仲間を増やしていきたいと思います。