部下たちに伝えたい
2000年センバツ。晴れの舞台で希望を胸に行進する選手たち
1989年6月に住友金属大阪本社から関連の鉄鋼会社常務に転じた永野元玄さんは、新入社員の面接も担当した。スポーツでは補欠でも「途中で辞めようと思ったことは一度もありません」と言い切れる高校生を好んで採用した。
「鉄鋼会社は『汚い、きつい、危険』の3K職場。補欠でやり通した方が、がんばりが利く」
永野さんは、中学から社会人まで約20年間、野球一筋。しかもその大半を日の当たるレギュラーとして過ごした。だが、晴れ舞台に立てない「補欠」のつらさも知っている。
永野さんは96年7月、鉄鋼会社の元上司に頼まれて、会社更生法の適用を申請した産業用ロボットメーカーの専務になった。負債約800億円。約2000社ある取引先を回る日々が続いた。中断していた取引を再開してもらおうと、商談中は必死で話題を盛り上げた。重苦しい雰囲気の最中でもタイミングをうかがい、野球の話にもっていくのが注文を取るコツ。現役の捕手時代には、相手ペンチや三塁走者に気を配りながら、相手打者のスクイズを外すのが得意だった。「その時の気分に似ています」
アマチュア野球の審判は93年夏、30年の節目を機に引退した。その後は野球との縁がほとんどなく、「会社再生一筋」の毎日。でも高校野球とのかかわりの中で数多くのことを学んだ。審判ならば「目配り、気配り、心配り」。永野さんは部下や若い社員たちに伝えていこうと思っている。
=おわり(2000年4月1日毎日新聞夕刊より)この連載は小栗高弘氏が担当しました。