DOEFF vol15
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基礎研 究を叩き込ま れた細胞工 学センター時 代。手術のスキルを身に付けることばかり考えていた新米の頃。憧れの師から意外な言葉をかけられたことが、ユニークな研究者人生の起点となりました。内科も外科も面白い。手術も研究もわくわくする。そんな好奇心をエンジンにして、眼の再生医療に取り組んできた西田幸二教授。今は、専門の枠を越えた新しい医療の構築にチャレンジしています。術には、機能を再建する志向があるところに惹かれました。最終的に眼科に決めたのは、そこに「美」があったからです。眼球自体が美しさをはらんでいて、顕微鏡による精密な手術「マイクロサージェリー」には芸術的な要素があります。理屈ではなく感覚的な印象ですけどね。1988 年に卒業し、阪大病院で研修医として勤め始めました。そんな駆け出しのときに出会った師が、国立大阪病院(現・大阪医療センター)におられた田野保雄先生です。のちの阪大の眼科教授であり、当時から眼科の世界的なサージャン(外科医)として知られ、私の憧れでした。ある会合で初めてお会いし、「先生のような手術の達人になりたいです」と伝えたところ、「手術は浅い。だから研究をしなさい」と返されたのは今でも忘れられません。励ましてくれるかなとひそかに期待していたのに肩透かしを食らった格好です。若輩の私がその発言の真意を即座に理解できるはずもありませんが、「それはどういうことでしょうか」とは聞きにくい。ただ割と単純な人間なので、「田野先生がそう言うんだったら」と素直に受け止めました。振り返ってみれば、「手術はあくまで技術の追求であり、研究にこそ本当のイノベーションがある」ということだったのかな、と。こうして、夕方 6 時頃に研修医の勤務が終わった後、大学の研究室に移動して夜 12 時まで研究を手伝う日々が始まりました。主には動物実験で、ウサギを押さえて麻酔を打って毛を刈ったり、組織を切って染めて発現しているタンパク質を特定したり。見習いとしての簡単な作業ですが、1年目からテーマを与えられたことでやりがいを感じ、研究の面白さにも目覚めました。当時の眼科では、眼球の表面を覆う透明な膜である角膜が注目されていました。カメラにおけるレンズの役割を果たす重要な部位ですが、角膜ヘルペスなど重篤な疾患になると、失明に至ることも。だからマイクロサージェリーによる角膜移植は眼科手術の花形でした。早く自分も手掛けてみたいという気持ちが、臨床に向かうエネルギーになっていたのは確かです。臨床と研究の「二足の草鞋」は、今に至るまで私のコアを形作っています。スター級の研究者が勢ぞろいしていた細胞工学センターに所属したときは、角膜に発現している遺伝子を探索するプロジェクトに参加し、黎明期だった分子生物学の熱気を体感しました。基礎研究のなんたるかを叩き込まれた、大変厳しい環境だったのも事実です。ゲノムの解読は今みたいに容易ではなく、ゼリー状の試料をガラス板で挟み込んだゲル板を手作りするところから始まりますが、結構難しくてミスするたびに咎められました。翌日が締め切りという厄介な宿題を課されるのは日常茶飯事。しかしだからこそ、研究者としての体幹が鍛えられたと思っています。その後に留学した先が、複数種類の細胞に分化する能力を持つ幹細胞(ステムセル)の研究で名を馳せていたソーク研究所です。1980 年代、角膜上DOEFF Vol. 1515

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