DOEFF_vol2
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DOEFF Vol. 0213医師であり憧れの存在でもあった従兄弟が27歳という若さで亡くなったのは、僕が高校2年生のときです。交通事故でした。人はこんなにも簡単に死んでしまうのか。その事実が許せなくて、本気で医師を志しました。けれども、いざ大阪大学の医学部に入学してみると、どういうわけかスイッチが切れてしまって……(笑)。スキーやテニスに夢中でした。僕は子どもの頃からオンオフの落差が激しい。代わりにオンになったらトコトンです。6年生の夏に国家試験合格に向けてオンになってからは、今日まで一日たりともスイッチを切ったことはありません。卒業後は阪大の第一外科に入局して心臓外科医研究と手術。心臓外科医の両輪です。になる道を選びました。人の命を直接的に救える分野だと思ったからです。それに当時どこよりも忙しいとされていた第一外科は、体力には自信がある自分向きだとも思いました。実際、心臓外科医は体力とやる気です。このふたつが何よりも重要な資質だと、今でも本気で感じています。第一外科での研修を終えると、神戸の川崎病院を経て、大阪府立母子保健総合医療センターで子どもの心臓手術に携わります。当時の手術は一度心臓を停めてから行うものでしたので、子どもの身体には大きな負担がかかりました。僕にとって最初の研究テーマになったのが、この負担を減らすこと。これに関する論文はアメリカの心臓病学会の学会誌にも掲載されて話題になりました。これこそが研究の面白さと大切さを教えてくれた出来事です。研究と手術とを両輪にしてキャリアを重ねる出発点となりました。ドイツへの留学を経て、1992年に阪大に戻ってからは人工心臓や心臓移植の手術に携わりながら「心不全」の研究に取り組んできました。心不全とは、心臓の機能が低下して、十分な血液を送り出せなくなる症状全般のことです。心不全にはA~Dまでのステージがあって、ステージDまで悪化すると人工心臓を装着するか心臓移植しか打つ手がなくなります。ところが、人工心臓には年齢規定などの制限があるため、誰もが装着できるわけではありません。心臓移植に至ってはドナー数が全然足らない状況です。医療技術ではなく「社会」が心不全の増加に追いついていないのです。だからこそ、ステージDに至る患者さんをひとりでも減らすことが現時点では最優先課題になります。ステージCまでの患者さんの心臓を回復させる新たな手段として、今期待を寄せ心不全治療に再生医療という手を。

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