DOEFF_vol3
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DOEFF Vol. 0317近代医学の歩みとともにある大阪大学医学部の180年にもおよぶ歴史を、ビジュアルとともに読み解く。Vol.3では、緒方洪庵が天然痘予防のため設立した除痘館と、本学の直接の源流となった大阪医学校にフォーカスします。『衛生新論』。1872年に出版された惟準の著書。健康を保持するための生活習慣が説かれた指南書。『ボードウィン袖珍方叢』。1869年に出版された惟準の著書。ボードウィンが治療に用いた薬剤の処方を、惟準がまとめたもの。大阪医学校が開校した1869年から1870年まで教鞭をとったボードウィンの教えを記した11冊の講義録。ボードウィンが医学校を辞した後は、1870年から1878年まではエルメレンスが、1877年から1879年まではマンスフェルトが、オランダ語で当時の最先端の医学を講義した。彼らふたりの講義もそれぞれ「日講記聞」として出版された。日講記聞緒方洪庵の第二子。長崎でオランダ人医師ポンぺとボードウィンから蘭医学を学ぶ。1863年に父の死を受けて江戸に戻り、西洋医学所で教授を務めた。オランダへの留学などを経て、1869年に大阪仮病院・医学校の責任者に。ボードウィンとともに、仮病院・医学校の運営にあたった。1918年には陸軍軍医学会長兼近衛軍医長に任命。1920年に陸軍を辞し、大阪で緒方病院を開設し、院長を務めた。緒方惟これよし準A. F.ボードウィンオランダ人医師。1862年に来日すると、1870年に帰国するまで日本各地でオランダ医学の普及に努めた。C. J.エルメレンスボードウィンの後任として、医学校で教鞭を執る。帰国後、38歳の若さで急逝。大阪の関係者は中之島公園に記念碑を建てた。今は医学部講義棟前にある。C. G. van.マンスフェルト長崎、熊本、京都で日本人に医学を教えたのち、大阪医学校に。熊本時代の教え子には北里柴三郎がいる。

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