DOEFF_vol4
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16大阪公立病院外観。年間で約8400名の外来患者、1700名の入院患者を受け入れた。物理学と解剖学を重視した教育設備も整えられた。吉田 顕三1881年から府立大阪医学校長兼府立大阪病院長を務める。衛生学を中心としたイギリス医学を導入した。清野 勇1889年から大阪医学校長兼病院長(1888年に府立大阪病院・医学校から改称)を務める。ドイツの医療制度を参考に、臨床の専門分科制、基礎医学の専任教官制などを取り入れた。府立大阪医科大学病院1922年に佐多校長のもとを訪れたアインシュタイン。ノーベル物理学賞を受賞したのは、その前月のことだ。佐多 愛彦東京帝国大学選科を卒業後、ドイツで病理学を学ぶ。1902年に大阪府立医学校長・同病院長に就任。竹尾結核研究所初代所長、大阪血清薬院初代院長も歴任した。1879年、大阪の医学教育をリードしてきたオランダ人医師、マンスフェルトの任期満了に伴い、教育・診療のすべてが日本人医師の手に委ねられた。同年には中之島の旧広島藩蔵屋敷跡(現、大阪市北区常安町)に大阪公立病院を開院。ここから一世紀以上におよぶ中之島時代が始まる。1880年には府立大阪病院と改称されるともに、医学教育を担っていた教授局が府立大阪医学校として独立した。100年を超える中之島時代の始まり1902年、大阪府立医学校長(1901年に大阪医学校から改称)に若干31歳の佐多愛彦が登用され、同年には大阪府立医学専門学校と改称された。佐多は医学教育制度の統一改革に尽力。1915年には全国の医学専門学校に先駆けて大学への昇格が認められ、府立大阪医科大学と改称された。佐多は海外の研究者の受け入れにも積極的で、1915年には野口英世が、1922年にはアインシュタインが訪れた。医科大学の先駆けに

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