DOEFF_vol4
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DOEFF Vol. 0417近代医学の歩みとともにある大阪大学医学部の180年にもおよぶ歴史を、ビジュアルとともに読み解く。Vol.4では中之島へと移転してからの約40年間にフォーカス。医学校から大学への昇格、大火からの復興という激動の歴史に迫る。炎上する大阪医科大学病院病院が焼失したため、屋外で診療が行われた。塩見理化学研究所。多くの理学者を外部から招いた。そのなかには後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹がいた。山口厚生病院。設立者の山口玄洞は「大正・昭和の寄付金王」として有名な人物。大阪帝国大学時代に至るまで多額の資金援助を行った。竹尾結核研究所。結核研究の拠点として多くの業績を上げた。また大阪特殊皮膚病研究所とともに、現在の大阪大学微生物研究所の母体となった。再建後の大阪医科大学病院大火からの再建と呼応するように、研究所や病院が大阪医科大学に寄付された。1916年には卒業生の塩見政次の寄付によって財団法人塩見理化学研究所を、1917年には大阪の竹尾治右衛門の寄付によって竹尾結核研究所を設立。1918年には山口玄洞が設立した財団法人山口厚生病院の管理を、寄付金とともに医科大学へと託した。民間の支援が、研究を支えてきた1917年2月、大阪医科大学病院からの出火によって、病院全館約3000坪が全焼。大学舎、大学本部、周辺家屋にも被害は及んだが、幸いにも入院患者や住民に負傷者は出なかった。大火をきっかけに中之島からの移転を巡る議論が紛糾。郊外への転居を反対する佐多学長の強い意向もあり、中之島での再建が決定した。翌年には仮病院が建設され、1922年には大阪医科大学病院が再建された。大火という試練

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