DOEFF vol5
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DOEFF Vol. 0517近代医学の歩みとともにある大阪大学医学部の180 年にもおよぶ歴史を、ビジュアルとともに読み解く。Vol.5では、大阪帝国大学の誕生からはじまる1930年代にフォーカス。大きな時代のうねりのなかで、阪大医学部が担った役割に迫ります。微生物病研究所。外来伝染病の侵入を危惧した細菌学者、谷口腆二からの要請を受け、実業家である山口玄道の寄附によって大阪府が設置した。皮膚科別館。ハンセン病の専門外来を担った病棟。「らい予防法」に基づくハンセン病患者の国立療養所への強制隔離が進むなかでも、外来での診療を貫いた。泉尾出張診療所。設立の目的は、貧困層への医療の提供だった。新聞は「大学病院が愈いよいよ々無料診療へ」と報道した。戦争中に用いられた軍陣用外科手術器具。すべて金属製で、容器ごと煮沸・殺菌した。1934年、大阪医科大学時代の竹尾結核研究所と大阪特殊皮膚病研究所を統合し、結核などの伝染病や寄生虫の制圧を目的とした研究機関、微生物病研究所が設置された。大阪特殊皮膚病研究所のあった建物は皮膚科別館と呼ばれ、ハンセン病治療の中心となった。ほかにも中之島には診療・研究施設が立ち並んだほか、泉尾にも出張医療所が設けられるなど、医学部の施設が一気に整備されていった。診療所や研究施設の整備が進む。1937年、日中戦争が勃発。太平洋戦争へと続く戦争の時代が始まる。多くの医師と医学部生が戦地へ駆り出され、多くの戦死者が出た。そのため国内は深刻な医師不足に。現地へ派遣する医師を確保するために、政府は軍医の養成を目的とした附属医学専門部を1939年に増設。医学部と並行して戦時下の医学教育を担った。附属医学専門部で学んだ学生のひとりには、すでに漫画家として活動していた手塚治虫がいる。戦争と医学部

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