人の役に立ちたい。岡田誠司教授の原点にあるのは、奉仕の精神です。患者さんを救うためには、「臨床と研究、どちらも欠かせない」と説き、医工連携をテーマにした新しい取り組みにもチャレンジ。未解明な部分が多く残る整形外科であっても、教授が見据える未来は、希望に満ちたものでした。親族に医療関係者がいたわけではなく、大きな病気をした経験もありませんでしたが、高校生にとってイメージしやすい職業だったのだと思います。ただお金を稼ぐだけでない、人生をかけるに値するものがそこにはあるだろう、と。九州大学医学部に進学し、中高から引き続きサッカー部に所属。キャプテンとしてチームを率い、大会で優勝できたのはいい思い出です。もちろん、学業も抜かりなく。文武両道の充実した日々を送りました。医学部生が自分の診療科を決める際、まず内科か外科かで悩みます。私の場合、外科は自らの「手」で手術して患者さんを良くするという実感を得られやすいので惹かれました。さらに、整形外科なら運動器、つまり顔面や内臓以外はほぼすべてが診療の対象となります。患者さんは赤ちゃんからお年寄りまで。男女差もありません。肩こりのような日常のお悩みから骨肉腫のような命に関わる病気までを扱います。この幅広さがとても魅力的に映りました。卒業後、地域のいくつかの医療機関で数年間、臨床に励みます。なかでも脊椎を専門とする病院で、自分の方向性が定まりました。スポーツや交通事故で脊椎の中を通る脊髄が損傷すると、予後が芳しくないことはよく知られています。若くして手足が一生動かなくなる。そんなイメージです。当時担当した患者さんで記憶に残っているのは、ラグビー試合中のけがで全身まひになった高校生。日本代表に選ばれるほど将来を嘱望されていました。本当に気の毒でしたし、医師としてある種の無力感を抱いたのも事実です。受傷時のエネルギーの大小によって結果は大きく左右されます。1カ月もすれば動けるようになることも。こればかりは運としかいいようがありません。さらに、手術といっても、骨がグラグラしてこれ以上神経が傷付かないよう患部をボルトで固定するのが関の山。現在の医学では脊髄に直接アプローチする方法はありません。3カ月ぐらい経って回復しない場合は、一生治らないことを前提にその後を考えていくことになります。不思議だったのは、回復の度合いに個人差があること。最初の1、2カ月が分かれ目になります。患者さん、とりわけ若い人に少しでも希望をもってもらうために、この謎を解き明かしたい。そんな思いから、基礎研究の必要性を痛感し、一念発起して大学院へ進みました。当時の関心は、新しい治療法としての幹細胞移植。手足のまひの治療に応用したいと考えたからです。どんな細胞を何個植えればいいのか。移植したらどれぐらい生き残るのか。マウスを使い、そんなベーシックなところから研究を始めました。DOEFF Vol. 1113脊髄損傷とその回復のメカニズムに迫る。
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