ヒューム哲学の、医療哲学・倫理学における注目点

――動物の道徳的地位と、自殺(安楽死)をめぐって――

会沢久仁子

(大阪大学大学院文学研究科博士課程、臨床哲学)


 本稿では、デイヴィド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)の哲学に依拠する医療哲学・倫理学の研究動向を紹介しながら、医療哲学・倫理学の基礎として注目されうるヒューム哲学の要点を明確に示したい。今回は特に、動物の道徳的地位と自殺(安楽死)の二つのテーマを取り上げる。

参照・紹介するのは、「医療と哲学ジャーナル」第24巻第4号、1999年8月(The Journal of Medicine and Philosophy: A Forum for Bioethics and Philosophy of Medicine, Vol. 24, Num. 4, August 1999)の特集「ヒュームと生命倫理学、医療哲学」(Hume, Bioethics and Philosophy of Medicine)に掲載された論文である。この特集の編者、ロレッタ・M・コペルマン(Loretta M. Kopelman)とローレンス・B・マックロウ(Laurence B. McCullough)によると、この特集号は、生命倫理学や医療哲学、医療人文学における重要な諸論題とヒューム哲学との関係を探求する最初の出版物である。

 ヒュームは、18世紀を代表する、イギリスの経験主義を発展させた哲学者である。知性や感情、道徳、社会制度について独創的な理論を展開し、後の功利主義やカント(I. Kant)の批判哲学に影響を与えた。またヒュームの著述は、広く宗教や政治、歴史、経済学、文芸批評に及び、ルソー(J.-J. Rousseau)との交流や、経済学者のアダム・スミス(Adam Smith)への影響も知られている。

 先の特集号には6つの論文が収められ、それらはヒュームの動物論や自殺論、共感論、正義論に主に注目し、これらが今日の医療における動物の道徳的地位や、安楽死、「健康」概念、ヘルスケア改革、医師専門職の倫理規範といった論題にいかなる示唆を与えるかを論じている。以下、1.ヒュームの動物論と動物の道徳的地位、そして2.ヒュームの自殺論と自殺(安楽死)の道徳性を扱い、ヒュームの共感論や正義論と医療哲学・倫理学の諸問題との関連については機会を改めたい。

 

1.ヒュームの動物論と、動物の道徳的地位

 

 人間が動物を利用することに関連して、動物の道徳的地位(moral standing)が生命倫理学で論争になっている。トム・L・ビーチャム(Tom L. Beauchamp)は、「ヒュームの動物論」(“Hume on the Nonhuman Animal”)において、人間と人間以外の動物(nonhuman animal、以下「動物」)の類似と相違に関するヒュームの理論を検討し、その意義と、そこから動物の道徳的地位について言いうることを示している。なお著者のビーチャムは、チルドレスとの共著『生命医学倫理』でも知られる生命倫理学者でありヒューム研究者である。

 ビーチャムが認めるように、ヒュームは主に動物の認知や情動について論じたのであり、今日話題の動物の道徳的地位について論じたのではない。しかし道徳的地位は認知や情動の能力に依存するから、生命倫理学がヒュームの動物論から学ぶところはあるだろう。歴史的には、動物は道徳的地位に必要な推論や道徳的行動といった諸特性を欠くと考えられ、動物にその地位は認められてこなかった。そのなかでヒュームは早くに、動物が道徳的地位に必要な一定の認知的・情動的諸特性を持つと、もしくは通常なされているよりも多くの道徳的考慮に値すると主張した一人だとビーチャムは見る。

 ヒュームは、人間と動物の類似を類比によって論証する。ビーチャムはそれを、(1)解剖学にもとづく身体的類似(EHU9.1; cf. THN2.1.12.2 ) [1]、(2)動物の魂と類比して人間の魂も死を免れないという類似(“Of the Immortality of the Soul” 37, in ESY)、(3)人間と類比して動物にも感覚や感情、意志があるとする心理学的類似(THN1.3.16; 2.1.12; 2.2.12)、さらに(4)理知(reason)の類似(THN1.3.16; EHU9)の4点にまとめ、 (4)をとりわけ重要なテーゼとする。理知という語を、ヒュームは数学のように観念のみにもとづく論証と、経験にもとづく因果推論との二つの機能の意味で用いた。ヒュームによる因果推論の有名な説明によると、因果推論は、「或る特定の事物が互いに恒常的に結びついていることを我々が見出すとき、まったく経験から」(EHU4.6)生じる。例えば水が我々を濡らし、火が我々を焼くことを誰も経験なしには知らず、我々はこれらの事実を他の動物と同様に経験によって習う。二つの出来事の連接を経験すればするほど、一つ目の出来事に二つ目の出来事が続いて起こることを期待するようになる。この期待こそが因果推論の基礎である。この因果推論の独創的な説明にもとづいて、ヒュームは、動物も推論し、理知を持つと論じた。

 以上の種をまたぐ類似点についてのヒュームの議論は、相違点の議論によって補完される。ヒュームは、人間が理知の程度において動物に優ると考え、またこの程度の違いを人間のうちでも認める(THN3.3.4.5)。すると、もし人間と動物の違いがこのように程度だけならば、動物が特別な才能を持っていたり、人間が理知を損傷したりする場合には、動物と人間の優劣は入れ替わりうる。しかしヒュームは、理知と想像の程度だけでなく種類の違いも考えているようだ。すなわち、論証という高度な推論機能や、隔たった時と状況に思考と想像を及ぼす能力、政治や法、宗教といった文化・社会制度を、ヒュームは人間にのみ認める。

 では道徳について、人間と動物の類似と相違はどうか。ヒュームは、道徳的な判断は「道徳感覚」(moral sense)によってなされると考える。それは理知でも感覚知覚でもない、「内的感覚」である(EPM1.3; 1.9)。この道徳感覚によって、人は自分の特殊な状況を離れて他人の行為を称賛したり非難したりでき、また人々は同じ道徳的判断をすることができる。それゆえ道徳感覚は普遍妥当性を持つ。ヒュームはこの道徳感覚を「人間性の原理」(EPM9.6)と呼んでおり、動物にはこの感覚が欠けていると考えているようだ。したがってヒュームは道徳において人間と動物の単なる程度ではなく種による違いを認めていると言える。

 しかし、ヒュームは、道徳的と判断される対象は心的諸性質(動機や感情)だと考えるので、動物は、道徳的判断者ではなくても、道徳的と判断される諸性質を持つ道徳的行為者であるかもしれない。ヒュームは、動物が徳に関わる自然的能力を持つと考える。ビーチャムは、これによって動物が徳の全条件を満たすかは解釈困難としながらも、確かなこととして、動物たちが道徳的性格までは持たないが、人間の道徳的動機に似た動機と、他者に注意を払う(other-regarding)本能とを持つとヒュームが考えたことを挙げる。そしてこれらによって、些細な程度であっても動物が道徳的行為者であるとヒューム理論において言えるとする。さらにビーチャムは、動物が多くの道徳的徳を持つとは言えないが、ヒュームが有徳とする(道徳的徳に限らない)友情や忠誠、勤勉、忍耐などの心的諸性質の多くを動物も持つとは十分解釈でき、それゆえ動物の道徳的行動は人間と比べて原始的だとする [2] 。以上よりビーチャムは、ヒュームが論証と道徳的判断とにおいては種による違いを認め、因果推論と道徳的行動とにおいては程度の違いを認めていると結論する。

 最後に、動物の心と道徳についての理解にヒュームはどのような貢献をしたか。ビーチャムは次のようにまとめる。まずヒュームによる理知の説明は、事実経験にもとづく因果推論と、それが動物にもあるとしたのが独創的であった。次に道徳の説明については、動物との類比は古くからなされてきたことであり、また類比をどの程度正当に進められるかは常に問題であった。それでもヒュームの類比は当時の議論に3つの明白な貢献をした。

(1)ヒュームはそれ以前の誰よりも人間と動物の心について自然主義的説明を進め、人間と動物に同一の方法とカテゴリーを使うことによって心の心理学的、認識論的調査をもたらした。ヒュームの理論では、人間も人間以外の動物も、「思考を進める本能」(EHU5.22)ないし「一種の本能的ないし機械的力」(EHU9.6. Cf.THN1.3.16.9) によって推論するのである。

(2) ヒュームは、ヒューム以前とは違い、またダーウィンに一世紀先駆けて、人間を神の似像と考えるのではなく、自然領域において他の動物と生物学的、心理学的に連続していると考えた。またそれによって、種の類似と相違を程度理論で全く自然主義的に説明する可能性を開いた。

 (3)さらに、もしヒュームが考えたように動物も意図や知性、情動、選択、信念、思考を持つならば、動物は人間と同じか類似の特性を持つとの理由で、ことによると人間が享受するどんな道徳的保護にも値するだろう。ヒュームは動物の道徳的保護までは論じなかったが、彼の心理学と道徳哲学とともにこの結論へのドアを開き、動物の使用をめぐる今日の道徳論争への遺産を残した。

このビーチャムの結論には、我々が動物へと道徳的保護を広げる論理的構造が明確に示されており、付け加えることはほとんどない。動物に対する道徳的保護が人間の利害や生存と厳しく対立するときに、動物に対する道徳的保護をどこまで維持すべきかが、我々の次の問題ではないだろうか。

 

2.ヒュームの自殺論と、自殺(安楽死)の道徳性

 

 人生の或る状態において死を自律的に決定するのは道徳的に容認されるか。安楽死あるいは自殺とその幇助の道徳性について考えるとき、ヒュームによる試論「自殺について」(“Of Suicide”)は、今も参照される古典的論文の一つである。R・G・フレイ(R. G. Frey)は、「ヒュームの自殺論」(“Hume on Suicide”)において、18世紀の、神学を基礎にしない倫理学を打ち立てる試みのなかにヒュームの自殺論を位置付け、そこに現在の議論の出発点を見出す。フレイに従って、まず当時の理神論およびジョセフ・バトラー(Joseph Butler)の理論を押さえ、次にヒュームの自殺論とその意義を示そう。

 

2.1 理神論とバトラーの道徳論

 近代自然科学の発展と宗教抗争とを契機に、18世紀の啓蒙の時代には、既成宗教の教義や制度を批判し、宗教を理性によって根拠付けようとする理神論がイギリスで起こった。これとともに、道徳性をキリスト教に根拠付けることも疑われるようになった。それに対して正統派神学者たちは、理神論がキリスト教への疑いを招き、無神論と同様に害をもたらすと激しく反発した。フレイはこの状況を、「宗教懐疑論者や無神論者さえも道徳的でありうるか?」という問いにまとめている。

そのうえでフレイは、ジョセフ・バトラーを取り上げる。バトラーは、正統派の聖職者でありながら、キリスト教を道徳性の根拠としなかった。バトラーは、イギリス道徳哲学の古典の一つである『ロールズ教会での15の説教』(Fifteen Sermons Preached at the Rolls Chapel, 1726)において、人間本性の秩序に従って行為することが道徳的であり、行為の正しさは自分自身に問うことで明らかになると論じた。またバトラーはその人間本性を作ったのが神だとした。このようなバトラーの主張には理神論に通じる要素がいくつかあるが、そのうちでフレイが強調するのは、理神論が宗教を道徳性と同等視し、道徳性の理解のために理性のみを必要として啓示の介入を必要としないことである。バトラーにおいても同じく、人は人間本性と道徳性を内省や観察、理性によって知ることができる。(キリスト教懐疑論者であってもそうである。)そしてたとえ神が人間本性を作ったと主張したとしても、その神は理神論者の神と同じで、啓示や教会の必要性を説明しないし、人間本性の分析は信仰から独立にそれ自身で展開可能である。したがってバトラーは、道徳性のために啓示宗教が不可欠なことを証拠立てることはできなかった。さらに、宗教が道徳性に役立つとの議論に対しても、バトラーは、来世の如何に関わらず人間本性に従う責務があり、また自己利害が責務を果たすための動機になると考えている。

 当時、正統派の人々は、理神論が宗教懐疑論や無神論をもたらし、さらにこれらが不道徳をもたらして、国を不安定にすると論じた。そしてこの見方は強力だった。しかし、バトラーがしたように宗教懐疑論と不道徳とのつながりを断ち、懐疑論者や無神論者も道徳的でありうるとするならば、彼らに対して有神論者たちは寛容であるべきだし、社会的・政治的不安定はキリスト教から道徳を切った結果では必ずしもない。バトラーは、道徳性を人間本性に根拠付けることによって、理神論者たちと同じく、神抜きの倫理学へと踏み出す。ヒュームもまた、道徳性を宗教ではなく人間本性の情感に根拠付けた。ここにフレイはヒュームの自殺論の重要性を見る。なぜならそれによってヒュームは自殺が許されうる可能性を提起できたからだ。

 

2.2 ヒュームの自殺論

 ヒュームは、試論「自殺について」を1755年に書いたが、正統派の反発に配慮して出版を差し控えた。初めて出版されたのはヒュームの死の一年後、1777年である。しかしヒュームのキリスト教批判は、彼の死に先立って知られていた。

<A.神に対する義務違反> ヒュームは試論で、「もし自殺が罪ならば、自殺は神か、隣人か、または自分自身に対する義務違反でなければならない」(“Of Suicide” 4 in ESY)と提起する。そして第一に、自殺が神に対する我々の義務違反ではないと論じる。正統派の人々は、自殺が人間による神の領域の侵犯だと主張する。この神学的自殺禁止を、ヒュームは神が創った自然法則を妨げることの禁止と解釈する。そして、もし自殺が自然法則の妨げであり反対されるべきならば、同じく自然法則を妨げるどんなものも反対されねばならないと述べる。しかし、「これは不条理と思われる。全ての動物は、この世における彼らの行動に関して彼ら自身の思慮と熟練に任されており、彼らの力の及ぶ限りにおいて自然の一切の作用を変更する全権を持っている。この全権の行使なくしては、彼らは一瞬も生存できないであろう。」(ibid.) では、なぜ自殺だけが特例的に禁止されるのか。人間の生命は非常に重要だからか。ヒュームは、「人間の生命は宇宙にとってそれほど重要ではない」(ibid.)と答える。また、もし人間生命の処理が神の領域にあるなら、例えば頭上に落ちてくる石を避けるような、生命を延長し維持する行為も、生命を破壊する行為と同じく罪になってしまう。さらに、例えば川を付け替えたり、天然痘の種痘をしたりして、神が我々に与えた力を利用することは不信心ではない。ならば自殺も同様である。こうしてヒュームは、消極的には自然法則の中断のうち自殺だけが例外的に禁止される理由の説明を求め、積極的には自殺が神に対する義務違反でないことを示して、特定の状況では自殺が許されうることを示唆する。もし自殺が不正だと主張するなら、その非神学的根拠が必要である。

 <B.社会に対する義務違反> ここでの問題は、私が社会の利益を増進しなければならないこと、すなわち私に対する社会の要求である。私は自分の利益や状況と、私に対する他人の要求とを比較考察してよい。そして他人の要求が私の利益に勝ると考えるのは行き過ぎである。というのも、もし他人の福祉に役立つことが私の生存を要求できるなら、それは私の死を要求できることにもなるからだ。「公共の利益を増進することがもはや私の力の及ばないことだと想定しよう。私が公共の負担になると想定しよう。私の生が他の人を妨げて、公共に対してはるかに有益であることを阻止していると想定しよう。このような場合、私の人生放棄は単に無罪なだけでなく、賞賛に値するにちがいない。かくして生存をあきらめる誘惑を受ける大部分の人々は、何らかそのような立場にいるのである。健康や権力、権威を持っている人々は、世の中と仲良くしていくより良い理由をもっている。」(“Of Suicide” 7 in ESY) ヒュームはここで、他人の福祉のための自殺が正当だと主張しているのではない。そうではなく、もし人が自殺の道徳性を自殺の帰結に関連させるならば、自殺は容認される場合があると主張する。

 <C.自分自身に対する義務違反> ヒュームは、「自殺がしばしば利益や我々自身に対する義務に一致しうることを、年齢や病気や不幸が人生を一つの重荷と化し、消滅以上に悪くすることを認める人は、誰も疑問としない」(“Of Suicide” 9 in ESY)と断言する。さらにそのような人生の状況で自殺を自発的、自律的に決定することが、決して卑劣ではなく、状況への適切な応答として気高くありうるとヒュームは考える。「自殺が犯罪でないとすれば、思慮と勇気の二つは、生存が負担となるや直ちに生存から我が身を解放するよう勧めるはずだ。自殺は、まねされた場合に各人にこの世での幸福の機会を与えて、またあらゆる悲惨の危険から効果的に各人を解放するだろう一例を示すことによって、そういうときに我々が社会にとって有益でありうる唯一の方法である。」(ibid.) こうして死の決定は、神のものから我々自身の手にある最終的な道徳的行為となる。

以上のように、ヒュームは安楽死になりうる或る特定の自殺行為が道徳的でありうると述べたに過ぎず、どの特定の自殺行為が道徳的かについては何も解決していない。しかしフレイは、自殺を全く許容しない有神論が外観を変えて今でも現れ続けており、ヒュームが考えた問題をなお我々が議論していると指摘する。フレイは、ヒュームの遺産として、道徳の問題について我々は権威や伝統に無批判に頼ることができず、自分自身で懐疑し、考える必要があるとまとめる。

日本の人々にとっては、このような欧米におけるキリスト教の伝統に基づく自殺への強い非難と、これに対抗して特定の場合に自殺を容認しようとする理論的熱意は、なかなか理解しにくい。しかし、日本でもどこでも、自殺の道徳的容認可能性について理論的根拠が必要なことには変わりがない。上に見たように、自発的で自律的に決定された自殺(安楽死)が最終的には道徳的に容認されるとの理論は、今のところ最もうまく根拠づけられている。我々は、一方でこの理論に沿って自殺(安楽死)をめぐる諸問題を検討していくとともに、もしそれでもやはり自発的で自律的な決定による自殺(安楽死)を最終的に認めることができないならば、別の理論的根拠を見出さなければならない。

 

動物の道徳的地位をめぐっては、人間と動物の認知や情動と、それらの道徳との関係について、また自殺(安楽死)の道徳性をめぐっては、道徳性を我々自身に根拠付ける必要性と仕方について、ヒュームの根本的思考は、我々に示唆を与える。

 

 

〈注〉


[1]  ヒュームの各著作の参照は、その著作の略記号の後に、巻や部、節の段落番号を示す。

[2]  ビーチャムは、動物に道徳感覚の基礎的条件まで認めるアネット・ベイアーの解釈を批判する(Beauchamp 1999: 330, Baier, 1985: 147)。

 

〈文献表〉

Baier, Annette C., 1985, “Knowing Our Place in the Animal World”, Postures of Mind, Minneapolis: University of Minnesota.

 

Beauchamp, Tom L., 1999, “Hume on the Nonhuman Animal”, The Journal of Medicine and Philosophy 24, 322-335.

 

Beauchamp, Tom L. and Childress James F., Principles of Biomedical Ethics, 2001, New York: Oxford University Press, 5th ed.(ビーチャム、チルドレス 永安幸正、立木教夫監訳『生命医学倫理』成文堂、1997年 なおこの翻訳は、第3版(1989年)にもとづく。)

 

Butler, Joseph, 1726, Fifteen Sermons Preached at the Rolls Chapel, London: James and Joseph Knapton.

 

Frey, R. G., 1999, “Hume on Suicide”, The Journal of Medicine and Philosophy 24, 336-351.

 

EHU: Hume, David,1999. An Enquiry Concerning Human Understanding, T.L. Beauchamp (ed.), Oxford: Oxford University Press.(渡部峻明訳『人間知性の研究 情念論』晢書房、1990年)

 

EPM: Hume, David,1998, An Enquiry Concerning the Principles of Morals, T.L. Beauchamp (ed.), Oxford: Oxford University Press.(渡部峻明訳『道徳原理の研究』晢書房、1993年)

 

ESY: Hume, David, 1964(1882),Essays: Moral, Political, and Literary; Vol.2 (The Philosophical Works; Vol.4), Thomas Hill Green and Thomas Hodge Grose (ed.), Aalen: Scientia Verlag.

[“Of the Immortality of the Soul” in ESY: 399-406.(福鎌忠恕、斎藤繁雄訳「魂の不死性について」『奇蹟論・迷信論・自殺論』法政大学出版局、1985年、82-93ページ)]

[“Of Suicide” in ESY: 406-414.(福鎌忠恕、斎藤繁雄訳「自殺について」『奇蹟論・迷信論・自殺論』法政大学出版局、1985年、68-81ページ)]

 

THN: Hume, David, 2000, A Treatise of Human Nature, David Fate Norton and Mary Norton (ed.), Oxford: Oxford University Press.(大槻春彦訳『人性論』全4巻、岩波文庫、1948-1952年)


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