中絶問題へのウォレンの多元論的アプローチについて

後藤博和

(関西大学非常勤講師・哲学、倫理学)

 本稿は、サンフランシスコ州立大学の哲学教授メアリ・アン・ウォレン(Mary Anne Warren)が1997年公刊の著作『道徳的地位――人々と他の生き物たちへの責務(Moral Status――obligations to persons and other living things)』(Oxford university press)で展開した、生命倫理学および環境倫理学の包括的基礎理論――「マルチ基準的道徳理論(multi-criterial moral theory)」――の概要を紹介するとともに、人工妊娠中絶(以下、「中絶」と略記)の問題へのその適用に関して吟味・検討を加えることを主眼とする。しかしまずは、この著作以前のウォレンの中絶論の足跡をごく簡単にではあるがたどっておこう。

 そもそもウォレンの名は、論文「中絶の道徳的および法的位置づけについて(On Moral and Legal Status of Abortion)」の著者として、わが国においても、生命倫理学、とりわけ中絶問題に関心のある者のあいだでは、かなり前からよく知られていた(当論文は1973年1月に The Monist, 57,No.1に掲載された後も、欧米――とりわけアメリカ――の生命倫理学の業界内で毎年おびただしく産出される中絶関連文献の山に埋もれることなく、各種リーディングズに再録されている。本稿における当論文からの引用・参照箇所も、筆者の手元にあるリーディングズ Biomedical Ethics, eds. Th.Mappes and J.S.Zemabary, 3rd ed., McGraw Hill, 1991の頁付けによる。なお、この論文については以下「73年論文」と略記)。

 ウォレンはこの73年論文で、前年秋に発表され大きな反響を巻き起こしたマイケル・トゥーリー(Michael Tooley)の著名な論文「中絶と嬰児殺(Abortion and Infanticide)」(Philosophy & Public Affairs 2, No.1、邦題「嬰児は人格を持つか」東海大学出版会『バイオエシックスの基礎』1988年所収)と足並みをそろえ、典型的なパーソン論の枠組みのもと、女性の中絶権を強く主張していた。

 いわく、たんに生物学的な意味での人間(ホモ・サピエンス)と、道徳的共同体の成員として手厚く保護されるべき人格(パーソン)とを私たちは区別して考えねばならない。後者の概念にとって「最も中心的な特性」は、(1)意識、とくに苦痛を感じる能力、(2)発達した理性能力、(3)自発的行動、(4)どんな事柄でも伝達できるコミュニケーション能力、(5)自己概念の五つであり、とりわけ重要なのは(1)および(2)である(p.440)。胎児はもちろんホモ・サピエンスではあるが、いまだパーソンではない。「胎児のパーソンとの類似性も、パーソンになる潜在性も、胎児が重要な生命権をもつとの主張に対してまったくなんの根拠も与えない。…(中略)…できるかぎり多くの子供をという圧倒的な社会的必要性が存在しない以上、中絶を受ける権利を制限したり、中絶を行いうる妊娠期間に限界を設けたりする法律は、女性の最も基本的な道徳上および憲法上の権利に対する侵害であり、まったく正当化できない。」(p.442)

 持続的な自己概念のみを要件としていたトゥーリー論文にくらべてパーソン概念の精緻化を行なっているとはいえ、そこから女性の中絶権の全面的正当化を引き出す行程はトゥーリー論文の場合とまるで同じである。しかし、嬰児殺に論を進めるとき、ウォレンはトゥーリーといささか違う道筋をたどり始める。1984年公刊のThe Problem of Abortion(ed. Joel Feinberg, Wadsworth, Belmont)に掲載された「嬰児殺に関する追記(Postscript on Infanticide)」(以下「84年追記」。これも前掲 Biomedical Ethicsに再録されており、以下の引用はここから)で、ウォレンは、予後絶対不良の重度障害新生児に対する消極的安楽死(延命治療の中止)を支持しながらも、一般論としては、「出生の瞬間は、子の運命を決定する母親の絶対的権利の終わりを徴づける」(p.443)と述べている。

 これに続く、後期中絶に関する次の発言も注目すべきである。「もし後期中絶が、胎児を殺すことなく、妊婦にとって安全に行われうるなら、(たとえばその子を養子にと望んだり、その子のケアのための経済的負担を厭わなかったりする他の人々がいる場合)妊婦には胎児の死を要求する絶対的権利はないと思われるが、それは、生存可能(viable)な嬰児の死を要求する権利が彼女にないのと同じ理由からである。」(ibid.)

 後期胎児も生まれたばかりの嬰児もいまだパーソンではないという点では同じである。とすると、末尾で言われる「理由」とは何なのだろう。もしかしてウォレンは、73年論文公刊直後に下された米国最高裁「ロー対ウェード判決」――女性の中絶権を「プライヴァシー権」として基本的に認めると同時に、胎児に「母体外生存可能性(viability)」が生じてからの州政府による中絶規制を認めた――に歩み寄ってかどうかはともかく、パーソンという基準にのみ基づいて女性の中絶権の規制をいっさい認めなかった73年論文から軌道修正したのだろうか。

ここではとりあえず後の問いに対する答のみ簡単に述べておくと、ある意味ではノーであり、ある意味ではイエスである。すなわち、ウォレンは一貫して後期胎児の「母体外生存可能性」を重視しないし、また中絶のいかなる法的規制にも反対している。しかし、後期中絶の道徳的評価に関しては、はっきりとした変化が見られる。

 Bioethics, 14, No.4, 2000所収のある論文(R.F.Card, Infanticide and the Liberal View on Abortion)で、やはり、ウォレンは73年論文のリベラルな立場を捨てて中道派に立場を変更したのではないかとの問題提起がなされたのだが、これに対するウォレンの同号所収のリプライ論文「嬰児殺と中絶の道徳的差異(The Moral Difference between Infanticide and Abortion)」(以下「00年リプライ」)の冒頭部分が興味深いので紹介しておこう。「私は、中絶に関するみずからの見方を、中絶の法的位置づけと前期中絶の道徳的位置づけに関してはリベラル派だが、後期中絶の道徳的位置づけに関しては中道派と記述したい。つまり私は、妊娠の全期間において中絶は合法的かつ安全でアクセス可能なものであるべきだが、道徳的正当化という点で後期中絶は前期中絶よりも多くを必要とする、と主張する」(p.352)。

 73年論文では、中絶の「道徳的位置づけ」と「法的位置づけ」とはまったく一体のものと見なされていた。それはたとえば、妊娠7ケ月の妊婦がたんにヨーロッパ旅行を延期したくないとの理由で中絶を望む場合、「不謹慎(indecent)」とは言えるだろうが「不道徳(immoral)」とは言えず、「したがって許可されるべきだ(therefore it ought to be permitted)」と述べる箇所からも明らかだろう(pp.441-442)。一方、いまのウォレンなら、上のような理由での後期中絶は、法的には「許可されるべき」だが、つまり強制的に禁じることはできないが、道徳的には「不道徳」なこととして、当の女性に再考を求めるのではないかと思われる。

 こうした変化はウォレンの道徳理論の基本的な枠組みの拡充に由来する。84年追記の末尾で彼女は、中絶問題を十分に論じるためには、嬰児殺や安楽死といった生命倫理学的問題のみならず、女性問題や動物の道徳的地位の問題についても取り組まねばならない旨を述べていたが(p.444)、実際に彼女は、その後の研究の中で、女性学や環境倫理学からの刺激を受けてパーソン論の狭い枠組みから抜け出し、応用倫理学の包括的な基礎理論の構築に向かう。その成果が、冒頭ですでに紹介した『道徳的地位』である。

 同書でウォレンは、今日私たちが医療および環境の分野で直面している道徳的アポリアに対して、何らかの単一の一般的原則を立ててこれを一刀両断しようとする従来の諸見解をいずれも批判する。なるほど、こうした「単一基準的道徳理論(uni-criterial moral theory)」は、それぞれある限界内では正当な根拠をもち、それゆえ、そこから導出される「解」も、一定のケースではそれなりに強い説得力をもつ。しかし、そうした理論は、いずれもそれだけでは複雑多岐にわたる個別事例のすべてに関して適切な説明および道徳的指令を与えることはできない。そこでウォレンが提唱するのが、複数の道徳原則をバランスよく運用する「倫理学的折衷主義(ethical eclecticism)」(p.242)としての「マルチ基準的道徳理論」なのである。ウォレンは「第一部」でこうした野心的な構想を展開した後、「第二部」でコントロヴァーシャルな諸問題への諸原則の運用を実地に試み、安楽死問題および動物利用の問題と並んで、再び中絶問題を取り上げている(pp.201-223)。

 

 以下では、まず「マルチ基準的道徳理論」の概要を紹介し(T)、次いで中絶問題へのその適用を追跡し、吟味・検討を試みる(U)。なお、煩瑣になることを避けるため、『道徳的地位』からの引用・参照頁の指示は必要最小限にとどめる。

 

T 「マルチ基準的道徳理論」の概要

 

1 「道徳的地位」という概念

 

 ウォレンの道徳理論のキー・コンセプトは、著作の表題ともなった「道徳的地位」である。彼女は第一章でこの概念の解明を行っている。「道徳的地位」とは、まずもって、私たちの道徳的配慮の対象範囲に関わる概念である。つまり、ある存在者が「道徳的地位」をもっているとみなされる場合、その存在者を自分の好き勝手に扱うことは許されない。私たちはその存在者に対して何らかの「道徳的責務(moral obligation)」を負う。

 「道徳的地位」という概念には二つの重要な特徴がある。一つは、その「一般性(generality)」、つまり「道徳的地位は、ふつう、特殊な個体にのみ認められるというより、むしろあるグループの成員すべてに認められる」(p.9)という点。もう一つは、ある存在者に道徳的地位を認めることに含意されている私たちの道徳的責務は、その存在者に利害関係をもつ第三者への責務ではなく、「当該の存在者に対する責務(obligations to that entitiy)」(p.10、強調原著者)であるという点。たとえば、友人から預かった家具を勝手に売ってしまうことは、その家具そのものに対する責務ではなく友人に対する責務に反する。だが一方、友人から預かっていた赤ん坊をヤミ組織に売ってしまうことは、その友人だけではなくその赤ん坊自身に対する責務にも反することになる。

 さて、この例では、明らかに道徳的地位をもたないと私たちがみなすもの(家具)と、明らかに道徳的地位をもつと私たちがみなすもの(友人、赤ん坊)とが考えられているが、もし友人から預かったのがペットの場合はどう考えればよいのか。私たちは多種多様な存在者と関わっている。そのうちのどこまでに、またどれほどの「道徳的地位」を認めるべきなのだろうか。その際の認定基準は何なのだろう。これがウォレンの根本問題である。

 

2 単一基準的理論の二つの立場

 

 ウォレンは続く第二章から第五章までを、上の問いに対して何らかの「単一基準」でもって答える従来のさまざまな道徳理論の吟味・批判に当てている。それら「単一基準的理論」は、存在者の「内在的特性(intrinsic property)」に注目する立場と、存在者を取り巻く「関係論的特性(relational property)」に注目する立場とに大きく分かれる。

 

2−1 「内在的特性」に注目する立場

 ある存在者の「内在的特性」とは、その存在者と他の存在者との関わりをいっさい前提しなくても、その存在者に認められる特性である。こうした特性に注目して存在者の道徳的地位を査定しようとする立場として、ウォレンは以下の三つをあげる。

 

2−1−1 生命主義(pp.24-49)

 周知のように、アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer)は、生命体の内にあまねく存する(と彼が信じた)「生への意志」に対する畏敬の念に基づき、生きとし生けるものすべてに対する無制限で平等な責任を説いた。この立場では、「生きている有機物であることが、道徳的地位の唯一の確固とした基準である」(p.24)。ウォレンはこれを<生命だけで>説(Life Only view)と呼ぶ。

 ウォレンいわく、この説はまず第一に根拠薄弱である。すべての生命体の内に「生への意志」があると信ずるに足る理由はない。ポール・テイラー(Paul Taylor)が行なったように「生への意志」を「目的論的構造」と読み替えたところで大差ない。第二に、ラディカルな生物学的平等主義という道徳指針は実行不可能である。病原菌を殺すことが殺人と等価であるとしたら、私たちは石鹸で手を洗うたびに過剰な罪悪感に苦しまねばならない。

 だが、そうした極端なラディカリズムと結びつかないなら、「生命尊重」という理念は環境倫理の見地からも有用である。ウォレンは、「生命は道徳的地位の確固とした基準の一つではあるが、唯一のそれというわけではない」(ibid.)と述べ、<生命に加えて>説(Life Plus view)をさしあたりの代替案として提示する。

 

2−1−2 ネオ・ベンサム主義(pp.50-89)

 次に取り上げられるのは、「動物解放(Animal Liberation)」を唱えるピーター・シンガー(Peter Singer)のネオ・ベンサム主義的道徳理論である。ある範囲内の動物たちは快苦の「感覚能力(sentience)」をもっているのに、ただ人間ではないという理由からのみ、それらの「利害(interest)」を無視することは「種差別主義(speciecism)」であるとシンガーは断じ、感覚能力をもつすべての存在者の利害に関する平等な道徳的配慮を道徳原則として立てる。

 <感覚能力だけで>説(Sentience Only view)とウォレンが呼ぶシンガー理論は、これまでにも多くの批判を浴びてきた。第一に、環境倫理学的観点からすれば、感覚能力をもたない自然物や生物種、生態系等にいっさい道徳的地位を認めない点で、シンガー理論はあまりに狭い。第二に、「感情」による結びつきを重視するヒューム的あるいはフェミニズム的道徳理論からすれば、たんに「感覚能力」という観点から人間と他の動物を功利主義的計算の中で等価物として扱うのは不当である。第三に、「人権」の非功利主義的性格――「人権」はいかなる効用計算をもってしても凌駕されてはならない――を強調するロナルド・ドゥオーキン(Ronald Dworkin)からすれば、シンガーの選好功利主義的道徳理論から個人に与えられる権利は、感覚能力をもつ他の動物の場合と同様、「利害に関する平等な道徳的配慮を受ける権利」のみであり、これでは「人権」としては弱すぎる。

 ウォレンは、以上の三点に加え、さらに進化生物学や神経生理学の知見に基づく独自の視点からも批判を加える。すなわち、シンガーは、軟体動物や昆虫など非脊椎動物は感覚能力をもたないというが、それは根拠薄弱であり、むしろ、ある程度神経系が発達し、動き回る生き物はみな快苦を感じていると考えるべきである。とすれば、感覚能力をもつすべての存在者の利害に関する平等な道徳的配慮という原則は、家の掃除も畑の耕作も正当化困難なものとしてしまう。

 しかし、ウォレンは一方で、感覚能力をもつ動物をまっとうな理由なしに殺したり苦しめたりすること、つまりは冷酷さを悪とみなす私たちの常識的道徳観を支持する。したがって、道徳的地位の査定において感覚能力のもつ意味が一概に否定されるわけではなく、<感覚能力に加えて>説(Life Plus view)が代替案として示される。

 

2−1−3 人格主義(pp.90-121)

 次にウォレンが吟味するのは、イマヌエル・カント(Immanuel Kant)の周知の義務論的道徳理論である。パーソン論者としての出自をもつウォレンは、「目的それ自体」としての人格に「尊厳」を見、きわめて高い道徳的地位を保証するカントの道徳論に、基本的にはもちろん賛同する。ただ、カントの立場からは、「合理的な道徳的主体性(rational moral agency)」を本質とする「人格性」が「(1)何らかの道徳的地位の必要条件であり、かつ(2)完全な道徳的地位の必要十分条件である」(p.90)となるが、こうした<人格性だけで>説(Personhood Only view)は支持しない。

 まずウォレンは、<生命に加えて>説および<感覚能力に加えて>説の立場から(1)に反対する。道徳的主体となることのけっしてない生き物たちにも、私たちは何らかの道徳的責務を負うのである。ウォレンはさらに、カントの厳格な「人格性」の定義に従うなら、嬰児・幼児や知的障害者など多くの人々に「完全な道徳的地位」が認められないことになるので、(2)も支持できないと述べる。

 それならばと人格性の垣根を極端に低くしたものとして、ウォレンは、動物権運動(Animal Rights Movement)の理論的指導者トム・リーガン(Tom Regan)の道徳理論をも、<人格性だけで>説の一つに数える。

 リーガンは、欲望、知覚、将来の感覚、目標追求行動を行なう能力などをはじめとする一定の諸能力の所有者を「生活の主体(subject-of-a-life)」と呼び、一歳以上の哺乳類の正常な個体が「生活の主体」であることは明らかであると述べる。そして、人間にせよ他の動物にせよ、「合理的道徳的主体」でなくても「生活の主体」でさえあれば、「道徳的受苦体(moral patient)」として、功利主義的価値のように比較考量することの許されない「内在的価値(intrinsic value)」をもち、そこから生命権、自由権などの基本的な道徳的権利が生まれると主張する。

この議論にも多々弱点がある。第一に、この立場からすると、狼が鹿を襲うといった自然な捕食関係も、権利の侵害として、人間がそこに介入しなければならなくなる。第二に、<感覚能力だけで>説の場合と同じく、この立場では自然環境全体を保護することはできない。第三に、ネズミの駆除など、人間が生活していく上で必要な行為も正当化困難となる。第四に、どこからこの「生活の主体」の枠内になるかといういわゆる線引き問題は解決困難であり、疑わしきは罰せずの方針で臨むとすると、「生活の主体」の枠ははるかに拡大してしまい、やはり<感覚能力だけで>説の場合と同様の困難に陥る。とはいえ、たんに「感覚能力」をもつだけでなく「生活の主体」でもあることが明らかな動物たちは、肉体的のみならず精神的に苦しむこともあるだけに、いっそう慎重な道徳的配慮が必要なことも忘れてはならない、とウォレンは述べる。

 さて、カントのマキシマムな「人格性」基準が厳しすぎ、リーガンのミニマムなそれが緩すぎるのなら、中道をとればよいという声が出てくるかもしれないが、これには望みがないとウォレンは言う。私たちは、すべての人間が基本的な道徳的権利を平等にもつことを望むと同時に、ネズミのような動物にはそうした権利を認めたくないと考える。しかし、あらゆる人間が満たすと同時に、ネズミのような動物には満たしえない、そんな都合のよい「人格性」基準を設定することなど、とうてい不可能なのである。

 そこでウォレンがさしあたり提唱するのは、<人格性に加えて>説(Personhood Plus view)である。この立場では、「生活の主体」であることは、「生命」や「感覚能力」と同じく、ある種の道徳的地位の十分な基盤とはなりうるが、「完全な道徳的地位」の十分条件でも必要条件でもない。一方、「道徳的主体」であることは「完全な道徳的地位」の十分条件であるが、必要条件ではない。

 

2−2 「関係性」に注目する立場

 シンガーのような功利主義的道徳理論も、シュヴァイツァーやカントやリーガンのような義務論的道徳理論も、個々の存在者の「内在的特性」にのみ注目する「個体主義(individualism)」の立場であるという点では同じである。これとは正反対に、存在者を取り巻く何らかの「関係性」にのみ注目して、その存在者の道徳的地位を査定しようとする立場――<関係性だけで>説(Relationships Only view)――がある。

  

2−2−1 バイオソーシャル理論と混合共同体理論(pp.123-137)  

 この立場のものとして、まずウォレンが取り上げるのは、J・ベアード・キャリコット(J. Baird Callicott)の「バイオソーシャル理論(biosocial theory)」および「混合共同体(mixed communities)」理論である。

 キャリコットは、アルド・レオポルド(Aldo Leopold)の「土地倫理(land ethic)」の強い影響のもと、人間は本来「社会共同体(social community)」および「生物学的共同体(biological community)」という二つの共同体に属していると考える。そして、ある存在者の道徳的地位、あるいは私たちのその存在者への道徳的責務は、その存在者がどちらの共同体における私たちの「仲間(co-member)」であるか、そしてその共同体においてそれがどんな役割を果たしているかによって決まるとされる。さらにキャリコットは、メアリ・ミジリィ(Mary Midgley)の「混合共同体」理論も取り入れる。これによると、人間は古来、多くの動物たちを家畜として自分たちの共同体の中に引き入れてきたのであり、そうした家畜たちの道徳的地位を野生動物たちと同じ基準で査定することはできない。

 キャリコットは、こうした複眼思考的理論構成によって、シンガーやリーガンの立場からは何の道徳的地位も認めることのできない自然物、つまり植物や(生物)種、それに川や海、山といった無生物に対しても道徳的地位を主張できると同時に、一部のラディカルな環境中心主義に見られるような人権無視の極論にも陥らないですむ。また、工場畜産を批判する際も、動物たちを苦しめるからという理由にのみ基づくのではなく、この畜産形態が伝統的に培われてきた家畜と人間とのある種の契約関係を損なうからだという興味深い視点に立つこともできる。

 ウォレンはバイオソーシャル理論および混合共同体理論の利点を高く評価しつつ、やはり批判も忘れない。すなわち、キャリコットの<関係性だけで>説は、人間であれ生物であれ、「仲間」に甘いが「よそ者(stranger)」には厳しい。たとえば、ペットとして輸入された動物が逃げ出して野生化してその地域の生態系に大きな悪影響を及ぼしているとしよう。捕獲して動物園で飼う、あるいはせめて苦痛を与えないしかたで“処分”する――どちらの発想も、この理論からはまったく出てこないのである。

 

2−2−2 ケアの倫理(pp.137-146)

  ウォレンが最後に取り上げる「単一基準的道徳理論」は、ネル・ノディングズ(Nel Noddings)の「ケアの倫理(ethic of care)」である。ノディングズは、「ケアする者」と「ケアされる者」との関係性が、そしてこれのみが、私たちのあらゆる道徳的責務の源泉であると考える。ケアリングの関係に入るために、何らかの道徳原則など必要ない。ケアリングは、潜在的な場合はあっても人がみなもっている「感情移入の能力(empathic capacities)」に基づくものだからだ。そして、私たちはその痛みや苦しみがわかるがゆえに、ある種の動物たちをもケアする。しかし、自分がケアされていることを「ケアされる者」がわかっているということがケアリングの関係の本質的な構成契機であるため、動物とのケアリングの関係は不十分であり、彼らに対して負う道徳的責務は人間に対するそれよりも小さい。

 このようなノディングズの道徳理論は、キャリコットのバイオソーシャル理論に反駁する際に用いられた「よそ者」論に対してはいくらか強い。それが人間の場合はもちろんだが、あそこで例に出した野生化した外来種の動物にしても、それが私たちの「感情移入の能力」を強く刺激するようなタイプの動物であるなら、動物園で大事に飼ってもらえるかもしれない。

 だが、人間の「感情移入の能力」の普遍性というノディングズの論理基盤はあまりに脆弱である。また、いっさいの道徳原則を拒否するというのも、あまりに極端である。うまくケアリングの関係に入れない者の処遇を決定する際にも、また逆にあまりに多くの者を同時にケアしなければならないときにも、何らかの理論的ガイダンスがわたしたちには必要なのである。

 このようにウォレンはノディングズの「ケアの倫理」に対しておおむね批判的であるが、ある人が大切に思っている事柄は、たとえそれが自分にとっては無意味な事柄であっても、基本的に尊重すべきであるとの洞察に関しては高く評価している。

 

3 マルチ基準的道徳理論の七原則(pp.149-172)

 

 さて、以上概観してきたように、ウォレンは、存在者の「内在的本質」に着目する立場であれ、存在者を取り巻く「関係性」に着目する立場であれ、何らかの単一基準をもって、私たちが関わる多種多様な存在者の道徳的地位を査定することはできないと考える。しかしウォレンは同時に、それぞれの道徳理論は、それぞれ異なったしかたで、私たちの多元的な道徳感覚を正しく反映しているとも考える。そこで彼女の採る戦略は、新たな単一基準の探索ではなく、従来の諸基準の統合である。以下に、ウォレンが提案している「道徳的地位の七原則」を訳出する。 

 

一 生命尊重原則(The Respect for Life Principle)

 生きている有機体を殺したり、他のしかたでそれに害を与えたりすることが許されるのは、原則二−七を侵さない適切な理由がある場合のみである。

二 虐待反対原則(The Anti-Cruelty Principle)

 感覚能力をもった存在者を殺したり、痛みや苦しみにさらしたりすることが許されるのは、(1)原則三−七と合致し、かつ(2)人間や、感覚能力にのみ基づくよりも高い道徳的地位にある人間以外の存在者にとって重要な目標を追求するため他にしかたがない場合のみである。

三 道徳的主体の権利原則(The Agent's Rights Principle)

 道徳的主体は、生命権および自由権を含む完全で平等な基本的道徳的権利をもつ。

四 人権原則(The Human Rights Principle)

 感覚能力はあるが道徳的主体としての能力はもたない人間は、彼ら自身の能力および原則三の制限内で、道徳的主体と同じ道徳的権利をもつ。

五 エコロジー原則(The Ecological Principle)

 道徳的主体ではないが、所属する生態系にとって重要な役割を果たしている生き物は、原則一−四の制限内で、それらの内在的特性にのみ基づいてみた場合よりも高い道徳的地位にある。種や生息環境のような、それら自身は生きてはいないがエコロジー的に見て重要な役割を果たしている存在者に対して、それらの内在的特性が指示するよりも強い道徳的地位を与えることが正当な場合もあるだろう。

六 間生物種原則(The Interspecific Principle)

 混合した社会共同体の人間以外の成員は、原則一−五の制限内で、それらの内在的特性にのみ基づいてみた場合よりも高い道徳的地位にある。

七 相互尊重原則(The Transitivity of Respect Principle)

 道徳的行為主体は、原則一−六の制限内で、かつ、実行可能であり道徳的に許容できるかぎりで、何に道徳的地位を認めるかに関して互いに尊重し合わなければならない。

 

 「一 生命尊重原則」はシュヴァイツァーに、「二 虐待反対原則」はシンガーに、「三 道徳主体の権利原則」はカントに、「四 人権原則」および「五 エコロジー原則」はキャリコットに、「六 間生物種原則」はミジリィおよびキャリコットに、「七 相互尊重原則」はノディングズに、それぞれ対応する。 

 しかしウォレンは、これらの諸原則を諸家の道徳理論のパッチワークとして考えているのではない。いわく、これらの諸原則は「常識的な道徳観を潜在的に構成している諸要素」であり、「経験的事実から、あるいは道徳言語や道徳概念に関する分析的真理から演繹できるものではないけれども、いずれも常識的なしかたで擁護できる」、と(p.149)。

 このようなウォレンの「常識」へのある種の寄りかかりを、私たちはどう評価すべきだろうか。たしかに、私たちの常識的な道徳観は多元的なものである。同様の存在者に対する同様の取り扱いに対しても、文脈が異なればまったくちがう道徳的評価を下し、しかもそのことに何ら違和感を感じないということはよくある。それは、私たちがその存在者の道徳的地位の評価に関して、無意識のうちに、いくつかの原則を一定の序列のもと文脈に応じて使い分けていることを意味しよう。

 しかし、そうすっきりいかないことも、また、自分ではすっきりしていても、他人と著しく意見がくいちがって当惑したり立腹したりすることも、ままある。その原因は、文脈つまりは問題の置かれた諸状況に関する具体的な知識の有無など、究明および解決が比較的容易な場合もあるだろうが、一方、諸原則の内容あるいは諸原則間の序列の付け方の曖昧さや違いのような、それ相当の理論的反省を必要とする場合も、少なくなかろう(上述のウォレンの諸原則の定式の中にさえ、その序列に関して混乱が見られる)。ともあれ、私たちの常識的道徳観がけっして一枚岩ではなく、また万能でもないことは、あらためて述べるまでもない。

 もちろんウォレンもそんなことは重々承知だろう。序でもふれたように、ウォレンは『道徳的地位』第一部で上述「マルチ基準的道徳理論」を展開した後、第二部では三つのコントロヴァーシャルな問題への諸原則の運用を実地に試みるのだが、具体的な議論を始めるに先立って彼女は、「私の目的は、これらの複雑な問題に対して、完璧に裏づけられた解決案を提示することではなく、第六章〔=第一部の最終章〕で示された諸原則がこれらの討議に貢献しうるしかたを例証することである」(p.182、強調引用者)と述べている。これは単なる謙遜の言葉ではないだろう。むしろ彼女はここで、「マルチ基準的道徳理論」とは“いま・ここ”を生きる私たちの“さしあたりの常識”の暫定的な分節化にすぎないということを示唆しているのだと思われる。「折衷主義」というその本性からしても、「マルチ基準的道徳理論」は普遍的な諸原則の固定化した体系、すなわちメタレベルでの新たな「単一基準」とはなりえないのである。ウォレンは、さしあたり上述の七原則を考えているが、その数にしても、またその運用法(諸原則間の序列)にしても、私たちに現れる諸状況の推移とともにたえず変化しうるものだろう。「マルチ基準的道徳理論」は、常に“途上”にあり、“討議=対話”に向かって開かれているのである。

 

 さてそれでは、人工妊娠中絶という難問をめぐって、ウォレンの信じる常識はどのようなメッセージを私たちに語りかけてくるのだろうか。

 

U 『道徳的地位』の中絶論とその検討

 

1 三つの立場

 

 ウォレンはまず、中絶問題に対する従来の諸々の立場を、ごく大まかに以下の三つに区別している。

 「保守的」な立場では、受精の瞬間から人の命は始まるのであり、中絶は殺人となる。この立場の人たちの中には、レイプや近親相姦による妊娠、母体の生命が危険にさらされるといったケースは例外と認める人たちもいるが、いっさい例外を認めない人たちもいる。

 「中道的」な立場は、脳の形成や母体外生存可能性の発生など胎児の成長過程のどこかで線を引き、それ以前の中絶は許容できるが、それ以後の中絶は原則的に不可とする。例外となるのは、妊婦の生命や健康が脅かされる場合、胎児に重大な異常がある場合などである。

 「リベラル」な立場では、出生時か、もう少し後になって初めて人間は強力な生命権をもつのであって、したがって妊娠後期の中絶も正当化可能とされる。この大まかな区別にしたがうなら、ウォレン自身の立場はリベラル派となる。

 

2 胎児の成長過程

 

 マルチ基準的道徳理論に基づいて行なわれる胎児の道徳的地位の査定と、そこから引き出される中絶問題への実際的な指針を見る前に、まずは、受精から出生にいたるまでの胎児の成長過程の要点を、『道徳的地位』におけるウォレンの論述を部分的に補いつつ整理しておこう(補った部分に関しては、森岡正博「人間の生命のはじまりと生命倫理学」、『法哲学年報 1993』19-24頁を参照した)。

 受精において精子と卵子の染色体が混合し、受精後4〜6日目頃にこの受精卵に固有の遺伝子配列が決定する。受精卵は細胞分裂を繰り返しながら子宮までゆっくりと降りてきて、同6〜9日目頃に子宮内膜に着床する。着床した受精卵はさかんに細胞分裂を繰り返し、組織分化を行う。受精後14日目頃(妊娠4週目頃)に受精卵の表面に原始線条が走り、これが体軸となる。すなわち、この時点で胎児は身体の自己同一性を獲得する。原始線条は脊髄となり、つづけて中枢神経と心臓の形成が始まる。さらに眼、手足、耳、歯、口、生殖器などが次々にできはじめる。妊娠8週目頃から12週目頃にかけて、脳が形成される。脳機能の開始に伴って身体運動(=胎動)も始まる。だが、まだ妊婦には体感されない。16〜19週目になると、妊婦がようやく胎動を感じるようになる。各臓器の形成もほぼ完了する。22週目前後から胎児に母体外生存可能性が生じ、この可能性は以降、漸次高まっていく。これは、胎児の神経と脳の新皮質が結合し、感覚能力を胎児がもっている蓋然性が高まっていくと考えられている時期とちょうど重なり合う。そして、妊娠40週前後に胎児は出生する。

 

3 『道徳的地位』の中絶論の骨子

 

 さて、ウォレンのマルチ基準的道徳理論では、感覚能力を獲得する以前の胎児(以下、前期胎児)の道徳的地位は、「生命尊重原則」および「相互尊重原則」に基づく。一方、感覚能力を獲得して以降の胎児(以下、後期胎児)には、「生命尊重原則」「相互尊重原則」に加えて「虐待反対原則」も適用される。したがって、後期中絶を行なう際には、胎児をいたずらに苦しめないよう、事情が許すかぎり配慮しなければならない。しかし、「人権原則」は出生以前は適用されない。「生命尊重原則」も「虐待反対原則」も「相互尊重原則」も、妊婦に適用される「道徳的主体原則」に凌駕される。したがって、前期胎児に対する中絶はもちろん、後期胎児に対する中絶も、それを行なうか否かの決定は道徳的主体である妊婦の手に委ねられるべきであり、女性の中絶権に対する法的規制はいっさい認められない。ただし、後期中絶は、前期胎児よりも後期胎児の方が道徳的地位が格段に高い分、道徳的正当化のために必要な条件も高くなる。したがって、すべての女性のリプロダクティヴ・フリーダム/ライツが法的のみならず実質的にも保証されている社会にあっては、「医学的に必要な場合と胎児に深刻な異常がある場合を除いて」(p.223)後期中絶を避けようと努める社会政策が擁護可能となる。

 このように議論の“肉”に当たる部分をそぎ落として、その“骨格”だけを取り出してみると、「マルチ基準的道徳理論」に基づく『道徳的地位』の中絶論は、「パーソン論」に基づく73年論文のそれと基本線を同じくすることがよくわかる。すなわち、先に見たように73年論文ですでにウォレンはパーソン概念の五つの「中心的な特性」のうち「(1)意識、とくに苦痛を感じる能力」と「(2)発達した理性能力」を重視していたが、『道徳的地位』の中絶論でも、(1)は前期胎児と後期胎児の道徳的地位の決定的差異の根拠とみなされ、また(2)は女性の全面的中絶権を支える「道徳的主体原則」の基盤である。

 したがって、73年論文の理論的枠組みの狭さに反発した保守派や中道派の論者たちは、『道徳的地位』の中絶論に対しても、やはりかつてと同じ疑問や不満を覚えるだろう。すなわち、なぜ感覚能力や理性能力ばかりを重視するのか、他にも重要な胎児の内在的特性はあるのではないか、と。

 

以下、こうした声にウォレンがどう答えるか順次見ていこう。そうすることによって、先には意図的にそぎ落とした“肉”のうち重要なものを拾うことができ、同時にウォレンの議論の問題点も明らかになっていくだろう。

 

4 胎児の内在的特性

 

4−1 遺伝子型と原始線条

 繰り返すが、ウォレンのマルチ基準的道徳理論では、感覚能力のみが胎児がその成長過程で獲得するさまざまなの内在的特性のうち重視すべきものである。一方、保守派の論者は、しばしば受精後4〜6日目頃に受精卵の遺伝子型が確定することを重視する。一卵性双生児を除けば、私たちはみな異なる遺伝子型をもつのだから、これが確定して以降の胎児の生命はもうすでに「特殊な人間個体の生命」(p.203)であり、それゆえごく初期の中絶も殺人であるというわけである(ウォレンは言及しないが、この立場からすると、受精卵の着床を防ぐIUDも避妊具というより殺人器具となるだろう)。

 この主張に対してウォレンは、先に見たように原始線条が走る前の受精卵は遺伝子型が確定していてもまだ分裂して一卵性の多胎になる可能性があるのだから、「特殊な人間個体の生命」とはいえないと指摘する。この指摘はまったくもって正しい。正しいが、しかし、保守派が遺伝子型確定時から原始線条確定時に線引き基準を変更してもよいと切り返してきたなら、ウォレンはどう応じるのだろうか。ウォレンの議論はこの点に立ち入らない。

 

4−2 潜在性

 保守派の論者がよく引き合いに出すもう一つの胎児の内在的特性は、「潜在性(potential)」である。彼らは、ウォレンの議論を逆手にとって、嬰児や重度の知的障害者のような、「道徳的主体」ではないけれども「感覚能力」はもっている人々も人間社会の「仲間」として「人権原則」を適用するなら、彼らに準じる存在として、感覚能力の「潜在的」所有者としての前期胎児からしてすでに同様に遇すべきと主張するだろう。

 これに対するウォレンの駁論も、上の場合と同じく、成功しているとは言いがたい。彼女はまず、潜在的人間などということを言い出したら、生物学的には未受精の卵子も潜在的人間なのだから、中絶はおろか避妊や禁欲すら潜在的人間に対する道徳的不正となる、と述べる。そして、受精以降の話をしているのだと保守派論者が切り返してきたなら、受精卵はいまだ「一人」の人間の潜在的存在とは言えないと返り討ちにできると続ける。だが、これもまた先と同様、保守派論者が前期胎児の「潜在性」の発効を原始線条形成時以降と限定するなら論駁が困難となるはずであるが、ウォレンはやはりこの論点には立ち入らず、プラグマティックな観点からのもう一つの論駁を始める。

 それは、嬰児や知的障害者らすでに生まれて存在している者たちに「人権原則」を適用しないのは「人間的な道徳性の心理学的な基礎を脅かす」(p.207)ことになるが、前期胎児の場合はそうはならない、というものである。だが、この論駁も保守派の人々にとってはまったく説得力をもたないものだろう。彼らに言わせれば、こうした論駁を思いつくこと自体、中絶を容認することで「人間的な道徳性の心理学的な基礎」が崩壊した結果に他ならないということになるのかもしれない。

 

4−3 母体外生存可能性

 中道派の重視する胎児の内在的特性としてウォレンが論及するのは、母体外生存可能性である。先に見たように、胎児に母体外生存可能性が発生する時期は感覚能力の発生時期と重なると思われる。したがって、ウォレンの立場からしても、この時期の胎児はそれなりに高い道徳的地位にある。しかし、母体外生存可能性を重視する論者たちは、出生までは「人権原則」の適用を認めないウォレンの議論に不満をぶつけるだろう。たとえば妊娠22週に超未熟児として生まれた嬰児を殺すことは殺人だが、同じく妊娠22週の胎児を中絶手術で殺すことは女性の権利として正当化されうるというのは不合理ではないか――この議論は私たちの素朴な道徳的直観にも強く訴えるものがある。「ロー対ウェード判決」やわが国の母体保護法もこの基準を重視している。

 ウォレンは胎児の母体外生存可能性を、(1)「高度に集中的な医療ケア」に支えられるものと(2)「現時点で存在する最高の医療ケア」に支えられるものとに区別し、目下のところこの区別は概念上の区別にとどまるが、将来、両者のあいだにズレが生じてくる可能性があると指摘する。そして、人工子宮の開発などによって先端医療テクノロジーが受精から“出生”にいたるまでの“胎”児の成長をすべて子宮外で可能にするあかつきには、(2)の意味での母体外生存可能性を基準にした場合、中絶はいっさい認められないことになると危惧する。中絶を望む女性は、たんに妊娠の継続を避けたいと考えているのではなく、子供をもつこと自体を避けたいと考えているのだから(00年リプライp.353)。

 したがって、序で引いた、妊婦には致死的な後期中絶を要求する「絶対的権利」はないと主張する84年追記の一節は、最後の「それは、生存可能な嬰児の死を要求する権利が彼女にないのと同じ理由からである」(強調引用者)というくだりがミスリーディングであったと言える。00年リプライで明言されるように、ここでの最大のポイントは、後期胎児が母体と離れても「生存可能」であるということではなく、後期胎児には「感覚能力」がある蓋然性が高いことなのである。

 ウォレンが『道徳的地位』で吟味する、感覚能力以外の胎児の内在的特性は以上の三つのみである。「脳死(brain death)」をもって「人の死」とするなら胎児の「脳生(brain life)」開始をもって「人の生」の始まりと見なそうとするマイケル・ロックウッド(Michael Lockwood)の説(「生命はいつ始まるか」、晃洋書房『現代医療の道徳的ディレンマ(1990)』所収)など、今日有力視されている論点は他にもあるのだが、ウォレンは軽く言及するのみで立ち入ろうとしない。それが4−1、4−2で指摘した議論の不徹底さとともに『道徳的地位』の中絶論の弱点の一つとなっていると言えよう。

 

5 関係論的視点

 

 73年論文でのウォレンには、いたずらに保守派や中道派の人々を怒らせるような過激な言辞――たとえば、「たとえ十分に発達していようと、胎児は、重要な点では哺乳類の平均的な成獣よりもはるかにパーソンに似ていない。実際のところ、平均的な魚類並みである」(p.441)――を弄するところがあった。また、84年追記でのウォレンは、致死的な後期中絶を求める妊婦の「絶対的権利」を否定するとともに、中絶のみならず嬰児殺も、これを「殺人(murder)の一形式」と見なすのは適切ではないとの物騒な発言も行なっていた(p.443)。これに対して『道徳的地位』でのウォレンは、関係論的視点の導入によって、胎児に「相互尊重原則」の適用を、嬰児に「人権原則」の適用をそれぞれ認め、その主張をより穏健な方向に近づける努力をしているように見える。

 たとえば、受精の瞬間から胎児を「いまだ生まれざる赤ちゃん(unborn baby)」と見なす保守派の人々の存在によって、ごく初期の胎児の道徳的地位も、「生命尊重原則」にのみ基づく場合よりいくらか上積みされる。あるいは、先にふれた「脳生」開始時(妊娠12週)を基準線として、それ以降の中絶を規制しようとする中道派の主張の支持者は、この基準が中絶手術による女性の身体的負担の飛躍的増大期と合致するということもあって、保守派の信奉者にくらべて圧倒的に多い。したがって、妊娠12週を境に胎児の道徳的地位は、「相互尊重原則」によって格段に高くなるはずである。

 だが、「相互尊重原則」には「原則一−六の制限内で、かつ、実行可能であり道徳的に許容できるかぎりで」という厳しい条件がついており、したがって保守派/中道派の論者がこの原則を楯に中絶の全面的/部分的規制を要求してきても、リベラル派ウォレンはこの要求を即座に拒否できるしくみになっている。

 それでもしかし、たとえば、近所に住む女性の日に日にせり出してきた腹部を見て、いつごろ生まれるのだろうか、男の子だろうか女の子だろうか、ウチの赤ん坊の遊び相手になってくれるだろうか、などと考えたことのある者にとって、後期胎児の道徳的地位は「そうした胎児が自然に喚起する感情によって」働く「相互尊重原則」に基づき上積みされるというウォレンの議論(p.214)は、「虐待反対原則」による前期/後期胎児の道徳的地位の相違に関する議論よりも、強く訴えかけてくる力をもっている。保守派および中道派のコアな支持者からすれば、ウォレンは依然として基本的にはパーソン論の枠組みに準拠するリベラル派ということになるのだろうが、それでも上のような視点を手放さないかぎり、ともあれ一緒に話のできるリベラル派と見なされることだろう。

 さて次に、嬰児に対する「人権原則」の適用について見ることにしよう。嬰児は、後期胎児と同様、「感覚能力」をもつが、いまだ「道徳的主体」ではない。このように重要な内在的特性に関して差がないのに、なぜウォレンは嬰児にのみ「人権原則」を認めるのか。(超)未熟児として生まれてきた新生児には、生命権をはじめとして「道徳的主体がもつのと同じ道徳的権利」が保証され、きわめて高い道徳的地位が与えられるのに、同じ妊娠週の後期胎児には「生命尊重原則」、「虐待反対原則」、「相互尊重原則」しか適用されず、その道徳的地位は前者と比べると格段に低くなる。これは私たちの素朴な道徳的直観からすると、あまりに不釣り合いではないか。

 この批判に論駁するためには、後期胎児に「人権原則」を適用しないことと、嬰児に「人権原則」を適用することの両方の根拠づけに成功しなければならない。前件に関してウォレンが論拠とするのは、胎児と妊婦との「ユニークな生物学的一体性」(p.202)である。すなわち、胎児は女性の身体の中にあって、それに生理学的に依存している。このことが女性と胎児との双方に「完全な道徳的地位」を与えることを不可能にするのである。母体から分離した嬰児に生命権を与えることは女性の権利の侵害を引き起こしはしないが、一方、後期胎児に生命権を与えることは、たとえば、国家による強制的な母体管理を正当化するかもしれない。こうした干渉が「道徳的主体」としての女性の尊厳を傷つけ、その自由権の侵害となることは明らかである。

 この議論はある程度、成功していると言えよう。たとえば、監禁のうえレイプされて妊娠し、後期に入ってようやく解放された女性に後期胎児の生命権云々と説き、それでも被害女性が妊娠の継続および出産を拒否する場合には強制的に外科手術(帝王切開)にかけてでも胎内の生命を守ろうとする――こんなことは想像するだにグロテスクである。しかし、こうしたケースはないとは言えないがごく稀であろうから、実際問題としては後期中絶は道徳的に正当化可能なものだけを認めるべきだという適応規制の主張も当然出てくる。こうした主張に対してウォレンは、00年リプライでこう論駁している。すなわち、そうした議論は「あまりに早く道徳的判断から法的強制へと横滑りする。困難な道徳問題に関する最良の決定がすべて立法者によってなされるとは限らない」(p.358)。

 後件、つまり嬰児に「人権原則」を適用することの根拠づけに関してウォレンが述べるのは、「まだ子宮の中にいたときには不可能なしかたで、嬰児は、すぐに人間社会の一部になる」という点である(pp.217-218)。これはいささかわかりにくい。先に見たように、すでに後期胎児も、たとえば「ウチの赤ん坊の近い将来の友だち」というかたちで赤の他人にすら受け入れられることはありうる。「まだ子宮の中にいたときには不可能なしかた」とはどのようなものだろうか。この点に関しては、00年リプライが参考になる。ウォレンはそこで、嬰児がすでに「パーソンに特徴的な精神的、情動的、社会的諸能力の大半」を萌芽的なかたちではあれ示していること、この意味で嬰児は後期胎児とは異なり「パーソンにきわめて近い」存在であることを主張している(p.355)。

 しかし、00年リプライにおけるこの議論は、その発達心理学的な意味での怪しさについては措くとしても、そもそもおかしい。『道徳的地位』でのウォレンは、内在的特性にのみ注目していたのでは嬰児の道徳的地位を正しく査定することはできないとして、関係論的特性をも重視するみずからのマルチ基準的道徳理論の卓越性を誇っていた(p.218)。それなのに、関係論的視点から見た後期胎児と嬰児の差異を論じる中で、彼女は再び、「パーソンに特徴的な精神的、情動的、社会的諸能力」といった内在的特性に依拠してしまっているのである。

 

結語

 

 以上『道徳的地位』を中心にして概観および検討してきたウォレンの近年の中絶論について、最も魅力を感じる点と、逆に最も不満を感じる点について、それぞれ簡単に私見を述べて本稿を閉じることにする。

 まず、マルチ基準的道徳理論を適用してのウォレンの中絶論の最も魅力的な点は、やはり最後に検討した関係論的視点の導入という点にあると思われる。従来の中絶論の大半は、何らかの「内在的特性」を基準に胎児と女性それぞれの「道徳的資格」を査定し、両者を比較考量するという作業に終始してきた。こうしたやり方では、中絶というコントロヴァーシャルな問題の性格からして、いきおい、最初に基準となる「内在的特性」を設定する際にすでに論者のバイアスがかかり、硬直化した議論となりがちである。ウォレン自身もかつてはパーソン論者としてそうした議論を行なっていた。

 そもそも、中絶論文の熱心な読者の多くは、最終的に保守派、中道派、リベラル派のいずれに傾くにせよ、なにかしらアンビヴァレンツな思いをこの問題に対して抱いているものである。それなのに読者を著者との“対話”へと誘うような論文はきわめて少ない。それだけに私は、女性の中絶権の擁護という基本線は堅持しつつも、「人権原則」および「相互尊重原則」に見られる関係論的視点の導入によって、かつての頑なさを脱したウォレンの態度に強く共感する。

 たとえば、保守派ないし中道派寄りのポジションにいる人々は、後期中絶をも認めるウォレンの結論的見解のみを聞けば強い反発を覚えるだろう。しかし、そうした人々も、『道徳的地位』を第一部から読むなら、ウォレンが「相互尊重原則」の導入によって、胎児の命を大事にしたいという自分たちの思い――それはおそらくウォレンを含めて他の多くのリベラル派の人々の思いとも多分に重なり合うものだろう――をも汲み取ろうとしていることを知り、後期中絶の適応規制すらやはり拒むべきとウォレンに判断させた社会状況――周知のようにアメリカの女性をめぐる中絶事情は日本のそれとは比較にならないほど厳しい――の改善に、リベラル派寄りの人々とともに取り組むようになるいうことすらあるかもしれない。よく指摘されるように、中絶問題をめぐって論争を繰り広げる各派がただ一つ一致できる点は、誰も中絶など望んでいないこと、一件でも多くの中絶を減らしたいと考えていることなのだから。

 このように、関係論的視点の導入は『道徳的地位』の中絶論で私が最も魅かれた点だが、せっかく導入されたこの視点が、中絶問題にとって最も重要であるはずの「胎児−妊婦関係」の分析に十分活かされていないことには深く失望した。ウォレンがこの二者関係について述べているのは、後期胎児に「人権原則」を適用しない論拠としての「ユニークな生物学的一体性」のみなのである。胎児と妊婦との関係性がそのように単純なものに尽きるわけがなかろう。

胎児が妊婦にとってどのような存在として立ち現れるかを、妊娠週の進行に則して、また、レイプによる妊娠の場合、胎児診断でハイリスクと診断された場合、望んだ妊娠だったが事情の変化で中絶を考えざるを得ない場合等々、さまざまなケースに即して細やかに見ていく必要がある。こうした現象学的な視点からなされる「胎児−妊婦関係」への着目から、バーバラ・K・ロスマン(Barbara K. Rothman)が『母性をつくりなおす』(勁草書房、1996年)所収の論考「中絶再考」の末尾で示唆していたような、妊婦の胎動初感時というかつて最も重要視されていた基準の倫理学的再評価の可能性が生じるだろう。また、これと連関して、ウォレンがほぼ等閑視している選択的中絶の問題に関しても新たな視野が開けてくると思われる。だが、もはやこれらの論点に立ち入る余裕はない。稿を改めて論じることにしたい。



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