遺伝子情報を巡る倫理的・法的諸問題
――本人のプライバシー権と第三者の知る権利が衝突する場面を中心として――
(京都大学大学院医学研究科博士課程・元大阪地裁判事、民事訴訟法・医療倫理学)
次に、訴訟前に用いられる方法としては、証拠保全手続があり、「あらかじめ証拠調べをしておかなければその証拠を使用することが困難となる事情があると認めるときは、申立により、証拠調べをすることができる」とする(民事訴訟法234条)。これまで、診療録は、改ざんのおそれがないとはいえないとして、証拠保全の対象とされてきた。[9]
裁判上文書の提出を求める手続は多くあるが、当事者照会(同法163条)、送付嘱託(同226条)、調査嘱託(同186条)、更に文書提出命令(同220条)を検討する。
前3者の、応答義務はあるが制裁規定のない当事者照会、提出義務がそもそも措定されていない送付嘱託、また、提出義務はあっても制裁規定がない調査嘱託は、さほど深刻な場面を導くことはないが、文書提出命令は重大である。文書提出命令が出ると、相手方が本人の場合は、拒否すると、「当該文書の記載に関する相手方の主張を真実と認めることができる」(同224条1項)し、第三者の場合は、「20万円以下の過料に処」されることがある(同225条)からである。
なお、公開法廷における、本人尋問中で、本人の遺伝情報に関する質問の是非も見逃せない問題である。
(5) ところで、プライバシーは、判例学説におき、概念が必ずしも一致しているわけではないが、プライバシーが法的保護に値する権利利益であること、プライバシーに個人の健康、病歴情報が含まれることは一致している。[10]そうならば、遺伝子に含まれる、個人の遺伝的特質や体質を示す情報である遺伝情報は、高度な秘匿事項といえる。[11]
米国では、早くから遺伝子診断が始まり、診断結果の利用を巡って遺伝子差別(genetic discrimination)とも言うべき社会問題を起こしている。例えば、疾患の兆候がなくとも、遺伝性疾患の保因者であることや、保因の可能性があることで、雇用、保険等で不利益を生ずることが起こっている。これが、遺伝情報を巡る、提供者本人と第三者との利益が相反する場面である。本稿では、保険契約、産業衛生、損害賠償訴訟、親族関係での法状況を踏まえて、この相反場面を検討する。[12]
〈注〉
[1] 国際的倫理規範
@ 1997年11月 ユネスコ総会「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」Universal Declaration on Human Genome and Human Rights,
UNESCO, 1997
A 1998年 WHO「遺伝医学の倫理的諸問題及び遺伝サービスの提供に関するガイドライン」Human Genetics Programme:Proposed international guidelines on ethical issues in medical genetics and genetic services,
1998
B 2000年10月 ヘルシンキ宣言・ヒトを対象とする医学研究の倫理的原則(英国、エジンバラでの第52回WMA総会での修正)
21 被験者のプライバシー、患者情報の機密性に対する注意及び被験者の身体的、精神的完全無欠性及びその人格に関する研究の影響を最小限に留めるために、あらゆる予防手段が講じられなければならない。
[2] 遺伝子診断についての国内の指針
@ 1993年4月 厚生科学会議「遺伝子治療臨床研究に関するガイドラインについて」
A 1994年2月8日 厚生省告示第23号「遺伝子治療臨床研究に関する指針」
B 2000年 日本人類遺伝学会理事会倫理審査委員会「遺伝学的検査に関するガイドライン」
14 得られた個人に関する遺伝情報は守秘義務の対象となり、基本的に、被験者の承諾がない限り、開示することは許されない。とりわけ、何らかの差別に利用されることのないように慎重、且つ特別な配慮が要求される。 C2000年 家族性腫瘍研究会「家族性腫瘍における遺伝子診断の研究とこれを応用した診療に関するガイドライン」
16 個人情報へのアクセス権
遺伝子診断で得られた個人の遺伝情報は、被検者本人に属するものであり、この遺伝情報へのアクセス権 は、原則として被検者である本人と、本人から承諾を得た医療関係者および研究者のみが有する。
17 個人情報の管理と守秘義務
遺伝子診断の研究および診断によって得られた個人に関する遺伝情報については、その厳重な保管と管理、ならびに関係者の守秘義務を徹底しなければならない。本人以外(担当以外の医療関係者、および研究プロジェクト以外の関係者、ならびに学校、雇用主、保険会社等、また原則として家系内の他の個人)への漏洩が起こらないように厳重な管理体制を整備し、安全対策を講じなければならない。
3 すべての研究者等の基本的な責務
(3) すべての研究者等は、職務上知り得た個人情報を正当な理由なく漏らしてはならない。
4 研究機関の長の責務
(3) 試料等の提供が行われる機関等の個人情報を取り扱う研究機関の長は、ヒトゲノム・遺伝子解析研究において、個人情報の保護を図るため、個人情報管理者を置かなければならない。
(10) 試料等の提供が行われる機関等の長は、試料等を外部の機関(試料等の提供が行われる機関において、同時にヒトゲノム・遺伝子解析も行う場合は、その研究部門は外部の機関とみなす。)に提供する際には、原則として試料等を匿名化しなければならない。
9 遺伝情報の開示
(1) 提供者が自らの遺伝情報に開示を希望している場合には、原則として開示しなければならない 。
(3) 研究責任者は、提供者本人の同意がない場合には、提供者の遺伝情報を、提供者本人以外の人に対して、原則として開示してはならない。
細則 3 研究責任者は、提供者が自らの遺伝情報の血縁者への開示を希望していない場合であっても、次のすべての要件を満たす場合には、提供者の血縁者に、提供者本人の遺伝情報から導かれる遺伝的素因を持つ疾患や薬剤応答性に関する情報を伝えることができる。
1) 提供者本人の遺伝情報が、提供者の血縁者の生命に重大な影響を与える可能性が高いことが判明し、かつ、有効な対処方法があること
[4] この点は、ガイドラインと法的規律は、趣旨・目的やdimensionが異なるので、両者が抵触することはなんら問題はないと割り切る考え方もあるだろう。しかし、ガイドラインの作成に法律家が関わり、法的規律もにらみながら作成した以上、指針を法的規律と全く無関係と考えることはできない。仮に様々な法的解釈の限界からガイドラインの趣旨を生かすことができないとなれば、改めて、ガイドラインを見なおすなり、また、場合によっては、ガイドラインを法律として格上げすることを考えることが必要となる。その意味で、本稿は、ガイドライン(の趣旨)を法的解釈として推し及ぼすことができるのか、その限界はどのあたりにあるのかを見極めるための準備作業である。
[5] 福嶋義光「遺伝子診断の現況」日本医事新報No.3986 2000.9
[6] 個人に関する情報には、「個人の思想、信条、身分、健康状態、その他一切の個人に関する情報」が含まれると解される(宇賀克也「情報公開法の逐条解説」42頁、有斐閣、1999年)。また、第三者からの開示請求だけではなく、本人からの開示請求も同様に考えられている(同51頁)。
[7] 本人からの個人情報取扱事業者への開示請求は、一定の場合を除くほか、認められている(同法30条1項)。
[8] 高中正彦「弁護士法概説」88頁、三省堂、2001年、小林秀之「新証拠法」125頁、弘文堂、1998年。遺伝子診断の不開示は「正当な理由」によるものと考えられるであろう。
[9] 証拠保全には従う法的義務があるが、従わなかった場合の制裁規定はない。なお、具体的な保全の必要性(改ざんの具体的な危険性)をどの程度要求するのかについては、証拠保全の証拠開示機能の是非を巡って、従前から争いがある(伊藤眞「民事訴訟法・補訂版」382頁、有斐閣、2000年ほか)。
[10] 東京地裁判決昭和59年10月30日判時1137号29頁など
[11] 病歴等の医療情報と、遺伝子情報には、その間に質的差を認めるのかについては、議論があろう。これによって、従前からのカルテ開示の議論との整合性が問題となる。
[12] 位田隆一「ゲノム医科学における倫理規範の策定と倫理審査制度」実験医学Vol.18 No12.2000
茂木毅「ヒト遺伝子をめぐる科学技術とその倫理的・法的諸問題」−プライバシー保護の現状を中心として ジュリスト1017.125 1993.2
同 「遺伝子プライバシー」−第三者による遺伝子診断の利用とその制限 ジュリスト増刊情報公開・個人情報保護249 1994.5丸山英二「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する最近の政府指針」ジュリスト1193.49 2001.2
[13] 大審院判決大正4年4月14日・民録21輯486頁
[14] 大阪高裁判決平成11年11月11日判時1721号147頁
[15] 浦和地裁平成8年10月25日判タ940号255頁
[16] 東京地裁判決平成3年4月17日判タ770号254頁
[17] 東京高裁判決昭和61年11月12日判時1220号131頁
[18] 東京地裁決定昭和47年3月18日・下民集23巻1~4号130頁
[29] 最高裁昭和50年2月25日・民集29巻2号143頁、同58年5月27日・民集37巻4号477頁。同59年4月10日・民集38巻6号557頁
[20] 労働安全衛生法は、労働基本法とあいまって、職場における労働者の安全と健康を確保するため、様々な法規制を行っている(菅原和夫「労働法第5版」317頁、弘文堂、1999年)。
[21] 使用者の「労働者の国籍、信条又は社会的身分」による差別的取扱にあたる場合がある(労働基準法3条)。
[22] 藤野昭宏「産業保健活動におけるインフォームド・コンセント」生命倫理、通巻10号、1999.9
[23] 最高裁判決昭和63年4月21日・民集42巻4号243頁
[24] 最高裁判決平成4年6月25日・民集46巻4号400頁
[25] 最高裁判決平成8年10月29日・民集50巻9号2478頁
[26] 尼崎公害訴訟判決(神戸地裁判決平成12年1月31日・判タ1031号91頁)では、慢性呼吸器疾患について、アトピー素因による3分の1の減額、喫煙による4割減額を認めている。
[27] 因果関係についての下級審の判決であるが、「副腎白質ジストロフィー(ALD)で死亡した被害者につき、ALD発症の遺伝子が存在していたこと自体を否定することは困難であるが、頭部外傷U型の受傷によってALDを発症させたもので推測するのが相当であり、事故と発症との間に因果関係があるとし、事故の寄与率を4割とした」ものがある。京都地裁判決平成6年1月27日・交通民集27巻1号128頁
[28] 最高裁判決昭和37年2月26日・民集16巻2号206頁
[29] 最高裁決定平成11年11月12日・判時1695号49頁