遺伝子情報を巡る倫理的・法的諸問題

―本人のプライバシー権と第三者の知る権利が衝突する場面を中心として――

稲葉一人

(京都大学大学院医学研究科博士課程・元大阪地裁判事、民事訴訟法・医療倫理学)


1 遺伝子情報を巡る倫理的・法的問題の概観
(1) 遺伝子を巡る倫理的・法的問題は、様々な医療・研究のレベルで生じ、議論されているが、本稿はこれらの問題の内、遺伝(子)情報を巡る本人のプライバシー権ないし知られたくない権利と、第三者の知る権利ないし訴訟上の防御権が衝突する場面に絞って、倫理的・法的問題を検討するものである。
 遺伝子診断や、遺伝子解析における倫理問題についての指針は、国際的倫理規範 [1]、国内 [2] [3]と、異なったレベルで作成されている。多くの倫理指針は、法律家も交えて検討され、その内容は概ね、インフォームド・コンセント、遺伝情報の保護、被検者支援等で構成され、遺伝子に関する倫理・法的問題は一応解決した(落ち着いた)かのような様相を示している。しかし、我が国での行政機関の保有する情報の公開に関する法律(以下、情報公開法という)の施行、個人情報の保護に関する法律(案)を踏まえ、遺伝情報が、生活事象の様々なレベルで利用され、また、利用しようとする動きがあり、これまで検討しなかった、遺伝子情報を巡っての本人のプライバシー権と第三者の知る権利が衝突する場面が生ずる可能性を有している。たしかに、倫理指針は、医師・研究者と被検者間等の関係が正常な場面では、期待された機能、すなわち、被検者が差別等の不利益を受けることがないようにするための巧みな配慮が生かされ得ると考えられる。しかし、一旦、法的な紛争に巻き込まれた際は、当該倫理指針がどのように扱われるのか、また、法的規律とどのような緊張関係に立つのかということについては不明である。[4]そこで、本稿は、具体的に想定されるいくつかの法的紛争に沿って、上記問題について、検討を加えることとする。
(2) 遺伝子検査、遺伝子診断、遺伝子解析の違いであるが、遺伝子検査は検査そのものを指すが、遺伝子診断は、検査前インフォームド・コンセントから遺伝カウンセリングまで含む一連の診療行為全体を指し、遺伝子解析は、遺伝子診断を含む趣旨で用いられるが、直接には本人への医療目的を有しないものを指すことが多い。[5]
 ところで、遺伝子診断を含まない、研究としての遺伝子解析については、提供された試料等は、原則として、遺伝子解析が行われる前に、個人識別情報管理者により匿名化される(ヒトゲノム・遺伝子解析に関する倫理指針4(10))。したがって、遺伝子情報管理する者が、個人の遺伝情報に開示を求められても、情報は既に匿名化されているため、開示をすることがそもそも不可能となる。しかし、診療等の目的による遺伝子診断の結果はその性質上、個人を識別して、特定情報として保存せざるを得ない。ここにおいて、遺伝子診断情報の第三者からの開示を求められる可能性が出てくる。なお、遺伝子解析情報も匿名化をしない例外的場面では、同様の問題を生ずる。
(3) ところで、2001年4月1日から施行された情報公開法では、行政文書のうち、「個人に関する情報であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの」は開示の対象から除かれている(同法5条T項本文)。[6]また、現在法案審理中の個人情報の保護に関する法律案では、個人情報取扱事業者(同法2条3項)は、一定の場合以外は、あらかじめ本人の同意を得ないで、個人のデータを第三者に提供してはならないとする(同28条)[7]ため、両法がこれまでの規律に変化を加えることはないであろう。
(4) 民事訴訟法や弁護士法には、訴訟における事実認定のために、数々の証拠収集手続が規定されており、これが事実上、情報の開示機能を営むので、まず概観する。
 弁護士法が認めている照会申出権は、「弁護士は、受任している事件について、所属弁護士会に対して、公務所または公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることができる」(同法23条の2)とするものである。これを受け、弁護士会から照会を求められた者は、報告をする法律上の義務があると考えられるが、義務に応じなくても、制裁規定はない。また、この義務も絶対的ではなく、正当な理由があれば、報告を拒絶することができるとされている。[8]

  次に、訴訟前に用いられる方法としては、証拠保全手続があり、「あらかじめ証拠調べをしておかなければその証拠を使用することが困難となる事情があると認めるときは、申立により、証拠調べをすることができる」とする(民事訴訟法234条)。これまで、診療録は、改ざんのおそれがないとはいえないとして、証拠保全の対象とされてきた。[9]
 裁判上文書の提出を求める手続は多くあるが、当事者照会(同法163条)、送付嘱託(同226条)、調査嘱託(同186条)、更に文書提出命令(同220条)を検討する。
 前3者の、応答義務はあるが制裁規定のない当事者照会、提出義務がそもそも措定されていない送付嘱託、また、提出義務はあっても制裁規定がない調査嘱託は、さほど深刻な場面を導くことはないが、文書提出命令は重大である。文書提出命令が出ると、相手方が本人の場合は、拒否すると、「当該文書の記載に関する相手方の主張を真実と認めることができる」(同224条1項)し、第三者の場合は、「20万円以下の過料に処」されることがある(同225条)からである。
 なお、公開法廷における、本人尋問中で、本人の遺伝情報に関する質問の是非も見逃せない問題である。
(5) ところで、プライバシーは、判例学説におき、概念が必ずしも一致しているわけではないが、プライバシーが法的保護に値する権利利益であること、プライバシーに個人の健康、病歴情報が含まれることは一致している。[10]そうならば、遺伝子に含まれる、個人の遺伝的特質や体質を示す情報である遺伝情報は、高度な秘匿事項といえる。[11]
 米国では、早くから遺伝子診断が始まり、診断結果の利用を巡って遺伝子差別(genetic discrimination)とも言うべき社会問題を起こしている。例えば、疾患の兆候がなくとも、遺伝性疾患の保因者であることや、保因の可能性があることで、雇用、保険等で不利益を生ずることが起こっている。これが、遺伝情報を巡る、提供者本人と第三者との利益が相反する場面である。本稿では、保険契約、産業衛生、損害賠償訴訟、親族関係での法状況を踏まえて、この相反場面を検討する。[12]

 

2 保険契約
(1) 保険契約締結にあたり、被保険者に遺伝子診断を強制することはできないが、加入申込者に遺伝子診断をすることを加入の条件とすることで間接的に遺伝子診断を求めることが考えられ、これを行わない場合や、遺伝子診断の結果、保険加入できないということが考えられる。特に、被保険者の親族に遺伝性疾患の患者がいる場合は、このような間接的な強制がなされる危険が現実のものとなる。
(2) 更に、保険契約締結時に被保険者が、遺伝子診断を受けていた場合に、これをなんらかの経緯で保険者が知った場合には、この情報の開示を求められることがある。
(3) 保険契約時に、被保険者が遺伝子診断を受けていた場合に、これを告知しなかった場合に、保険会社は、商法678条の告知義務違反として、契約を解約できるか(実体法上の問題)が問題となる。被保険者ないし受取人が、保険事由が発生したとして保険者に請求し、これを争った場合に顕在化する。そして、訴訟法上の問題として、遺伝子診断に関する文書の提出を求めることができるかという点が付け加わる。
 告知義務違反について、判例は、告知義務を生ずる「重要な事実または事項」(商法678条)を、「被保険者ノ生命ニ関シ危険ヲ測定スル為ニ必要ナル事実又ハ事項ニシテ保険者ガ之ニ依リ契約ヲ締結スルヤ否ヤ又ハ約束ノ条件ニテ契約ヲ締結スルヤ否ヤヲ決スルニ付キ影響ヲ及ボスベキモノ」[13]とし、具体例として、「過去の入院歴」[14]、「(胃がんで死亡した事案で)胃の痛みのため病院で二度の診察、投薬を受けた事実」[15]、「糖尿病罹患の事実及び肝機能検査の異状結果を原因として精密検査の予定のあること」[16]、「自覚症状で大学病院で精密検査のため入院を勧告された事実」[17]について肯定している。この論理をそのまま延長すれば、保険給付原因との関連を除けば、遺伝子診断の結果を告知しないことは、告知義務違反になる。これはより自己の健康に慎重な配慮をしている者が、不利益に扱われることを意味する。
 告知義務違反となるなら、遺伝子診断情報は、訴訟における重要な証拠となる。前述のように、文書提出命令(民事訴訟法220条)の対象となるか問題となる。
 遺伝子診断の結果が診療録に記載されている場合は、「診療契約という法律関係につき作成された文書に当たる」という判例がある。[18]利益文書(同条3号前段)に該当すると考える立場もあろう。
 これは、現行民訴法は、遺伝情報といえども他の個人情報・医療情報とは区別して扱っていないからである。この点、英国保健省は、2000年10月、保険加入者のハンチントン病にかかるリスクを調べるために保険会社に遺伝子診断をすることを認めた。これにより、保険会社は、遺伝子診断を受けることを保険契約の条件とし、申込者が、予め診断を受けていた場合には、この結果の提出を求めることができることとなった。これは、被保険者のプライバシー権と保険会社の知る権利ないし訴訟上の防御権(一種の裁判を受ける権利)が衝突する一場面である。

 

3 産業衛生
(1) 使用者(雇用者)は、雇用をする際、被用者(労働者)の労働適応性を判断するため、また、雇用中に、労働安全上の観点から遺伝子診断を受けることや、その結果の開示を求めることができるかについては、議論がある。
 使用者は労働者に対して安全配慮義務を負っている。[19] [20]特定の遺伝子を有する人は、特殊な化学物質、特殊な環境に特異的に反応をすることが知られている。このような状況で、労働を提供する場合は、当該労働者が、体質的にこれらに特異に反応をするかを、予め知る必要性は高い。その意味で、遺伝子診断は、一般の健康診断に変わるところはない(労働安全衛生法66条1項)。労働者にとっても、自分の体質を知ることにより、特殊物質や環境での危険から逃れ得るメリットもある。したがって、労働者は健康診断の一貫として遺伝子診断の受診義務があるという構成もできないわけではない(同法66条5項、ただし罰則はない)。しかし、これを口実に、使用者は労働者の疾病傾向を知り、生産性の向上、交代要員の補充、疾病手当ての支払を免れる等の、経済的合理性を重視して、採用の手控え、配置転換等の手法を使い、不当な措置を行う可能性がある。[21] 
 米国では、2000年2月、遺伝子診断の結果を公務員の採用や昇進に利用してはならないとする、遺伝子差別禁止令が大統領令として出されている。
(2) 仮に、労働者が、業務上疾病に罹患したとして労災申請をした場合に、労働基準監督所側が、疾病は業務によるのではなく、本人の本来の体質によるとして、業務起因性を争う場合にも、同様の問題が生ずる。
(3) 日本の労働環境では、産業医(労働安全衛生法13条)が関与しているので、産業医が職務上知った遺伝子診断の結果を使用者(第三者)に伝える義務があるかどうかの、倫理義務も問われる。[22]
 これも、労働者のプライバシー権と、使用者(あるいは労災保険を支給する国)の知る権利ないし訴訟上の防御権が衝突する場面である。
 なお、同様の問題は、学校(医)(学校教育法16条)などでも生ずる可能性がある。

 

4 損害賠償訴訟
(1) 不法行為訴訟では、被害者側の素因が、過失相殺(民法722条2項)として斟酌される場面がある。最高裁判決は、「損害の拡大について被害者の心因的要素が寄与しているときは、損害賠償額を定めるにつき、民法722条2項を類推適用して、その損害の拡大に寄与した被害者の事情を斟酌することができる」[23]、「被害者に対する加害行為と加害行為前から存在した被害者の疾患とがともに原因となって損害が発生した場合において・・・民法722条2項の規定を類推適用して、被害者の疾患をしんしゃくすることができる」[24]、「不法行為により傷害を被った被害者が平均的な体格ないし通常の体質と異なる身体的特徴を有しており、これが加害行為と競合して傷害を発生させ、又は損害の拡大に寄与したとしても、右身体的特徴が疾患に当たらないときは、特段の事情がない限り、これを損害賠償の額を定めるに当たりしんしゃくすることはできない」[25]とする。
(2) これらの判例から導き出せる基準は、心因的要因及び疾患に当たる体質的素因であるか、疾患に当たらない体質的素因であるかが、線引き基準となる。しかし、疾患と命名することができるかどうかだけを基準とすると、生活習慣に基づく因子(例えば喫煙習慣)は考慮されなくなり[26]、自己に責任のない遺伝的負荷を有する人は、発症の前後で差が出ることとなる。[27]
 そうすると、本稿の課題である、遺伝素因については、最高裁の先例からは、直ちに結論を演繹することは難しく、この作業のためには、@過失相殺において、被害者の素因はなぜ斟酌されるのか、A遺伝因子の発現の機序、発現の確率、時期、特に、単一遺伝子疾患型と多因子疾患型、phenotype、penetrance(遺伝子の浸透度)ないしexpressivity(遺伝子の発現度)等について検討を加える必要がある。
(3) そして、訴訟においては、仮に遺伝子が過失相殺の対象になるとの結論に達すれば、先に指摘した、当該遺伝子診断の開示の問題、つまり、被害者のプライバシーと加害者(保険会社)の知る権利ないし訴訟上の防御権が衝突するのである。

 

5 親族間での葛藤
(1) 妻の知る権利との関係では、事態は更に深刻である。診断結果を本人が知りたくない、または、第三者に知らせたくないと主張し、他方、配偶者(あるいは配偶者になろうとする人)が、知る権利(健康な子供を持つための前提となる権利)を主張する場合はどうであろうか。前記指針では、一部これに対応した規定を有する(ヒトゲノム・遺伝子解析に関する倫理指針9(3)細則)。
(2) まず、妻がこのような知る権利を有するか、逆に言えば、夫に知らせる義務があるかどうかである。夫婦間の権利義務は、婚姻の効果として、夫婦間に相互に、氏の共同(民法750条)、同居(同752条)、協力、扶助(同770条1項2号)、貞操(同770条1項1号)義務が生ずるとされる。しかし、これらからは、知る権利・知らせる義務は直ちに出てこないと考えられる。もっとも、判例[28]には、「夫の性交能力の欠陥」を、婚姻を継続し難い重大な事由(民法770条1項5号)としたものがあり、これを推し及ぼせば、夫の生殖能力や適合性についての情報についての、妻のアクセス権を導く解釈論も考えられる。仮にこれを肯定すれば、夫の受けた遺伝子診断の結果開示の問題が、訴訟手続上問題となる。
(3) また、親族法上、親子関係を巡って争われる場合(親子関係不存在確認の訴え、認知の訴え)でも、遺伝情報を得て関係の存否(不存在)を証明したい者との間で、遺伝情報を知られたくない本人ないし遺族の権利が衝突する場面も想定される。


6 今後の検討の方向
(1) まず、実体法のレベルでの問題についての議論が先行する。保険契約上では、遺伝子診断の結果を告げないことが告知義務違反となるのか、使用者の労働安全衛生上の責任が検討する場合に、労働者の遺伝子診断受診義務ないし診断結果告知義務があるといえるのか、損害賠償請求において、被害者の遺伝的素因が過失相殺の対象になるのか、妻には、夫の生殖に関する情報を持つのかについて、遺伝情報の持つ性質を踏まえて、更に民法商法の実体法学者や実務家による検討がなされる必要がある。
(2) 次に、実体法のレベルでの各問題が積極的に解釈された場合には、各遺伝子診断の結果は、当該訴訟では、重要な証拠となり得ることから、次は、訴訟法上の問題として、文書提出命令等の要件が、訴訟法学者や実務家により検討されることとなる。
(3) このいずれのレベルでも、安易に積極的に解されると、遺伝情報の開示を巡って遺伝子診断・解析でうたわれている倫理原則は、これらの法的場面での規律とは整合性を保てなくなる。これまでの遺伝情報という問題を想定してこなかった、法的場面の規律を、無批判にそのまま遺伝情報開示に適用すれば、遺伝子診断・解析の倫理指針は実質的には骨抜きになってしまう。倫理指針が対象とする範囲では、倫理指針が、法的規律に優先するという理屈は無理としても、科学技術の早い発達に即して迅速に対応できるガイドラインにより、自主的にかつ様々な角度から検討された工夫を、無視することはできない。法学者は、ガイドラインを受け継ぎ、法的解釈の安定性と整合性を目指しながらも、解釈運用論として採り入れる努力をすることが必要となる。
(4)  今後、遺伝子診断や解析は、高血圧症、糖尿病、高脂血症といった生活習慣病全般にも頻繁に行われることとなると考えられ、遺伝情報の開示の問題は、上記場面に限らず生ずることも考えられる。そうすると、この問題は、倫理指針と法的場面の衝突という問題、すなわち、法的場面で、倫理指針(で考慮された諸価値や規律の工夫)を法的解釈論にどのように採り入れていくのかという新しい問題を提起するもので、今後法哲学、法社会学等も含めて、更なる検討が必要であるといえる。
(5) そこで、手続法レベルでいくつかの工夫を検討しておこう。これまで、文書提出命令の対象(「引用文書」「引渡・閲覧文書」「利益文書」「法律関係文書」「自己使用文書」)となるかは、当該証拠の訴訟での重要性・必要性、挙証者と所持者との関係、当事者間の公平、当該証拠の秘密保持といった複雑な衡量を必要とするといわれながら、これらが必ずしも十分に議論されてこなかった(命令の理由中にも十分にこれらを意識した記載がなされてこなかった)。
 この点、本人と第三者との情報を巡る紛争の調節をする際に参考となる判例[29]が最近現れた。これは、銀行の貸出稟議書が自己利用文書(民事訴訟法220条4号ハ)に該当するかについての判示ではあるが、「ある文書が、その作成目的、記載内容、これを現在の所持人が所持するに至るまでの経緯、その他の事情から判断して、専ら内部の者の利用に供する目的で作成され、外部の者に開示することが予定されていない文書であって、開示されると個人のプライバシーが侵害されたり個人ないし団体の自由な意思形成が阻害されたりするなど、開示によって所持者の側に看過し難い不利益が生ずるおそれがあると認められる場合には、特段の事情がない限り、当該文書は民訴法220条4号ハ所定の自己利用文書に当たる」とした。
 つまり、これを本稿の課題に沿って考えると、遺伝子診断の結果を文書提出命令の対象となるかを判断する際には、@ 当該結果は他の証拠では代替できないのかについて厳密に検討し、A 作成され現在の所持人が所持するに至った事情、つまり、遺伝子診断は、本人が前記倫理指針に則って医者等から説明を受け、そのプライバシーを保護されると約束され、検査者との信頼関係を育んだ上でなされたということを十分考慮に入れる必要があること、B 遺伝子診断が差別的な取扱に結びつくことを考え、請求者の求める意図をより明確にさせ、当該訴訟以外での利用を許さないとの条件を付けること、C 一部開示(民事訴訟法223条1項)や、証拠のイン・カメラ(裁判官室)での審査(同条3項)を経る等、実質的に倫理指針を訴訟上も尊重する取扱が必要となる。
 更に、秘密保持の利益を守るために証拠の収集に応ずる必要のない秘匿特権の範囲を明確化し、証拠の収集により侵害されるべきでない正当な利益を保護できるようにする必要がある。秘匿特権の根拠は、守秘義務(国家公務員法100条、地方公務員法34条等)や証言拒絶権(民事訴訟法196、197条)であるが、文書提出命令の可否を考えるに当たっても、これらは重要な考慮事項となると考えるべきである。[30]特に、遺伝子診断は、検査者(通常は医師であろう)との信頼関係を育んだ上でなされたものであり、秘匿特権を認める必要は高いといえる。[31]
(6)  そして、もし、倫理指針が訴訟においては解釈上の限界があり、その結果実質的に指針の趣旨が、訴訟上生かすことができないとなれば、倫理指針自体の見直しをする方向と、訴訟上の法的規律自体を根本的に見なおす考えが選択肢として出てくる。「いわば完全な人(遺伝的疾患の遺伝子をまったく持っていない人)はこの世には一人もいないということであ(り)・・・遺伝病を特別視することが如何に愚かであるかを・・・知ってもらい、遺伝病に対する偏見を取り除かなければならない」[32]というような実践的な点を強調すれば、第三者からの開示請求は、裁判を巡る全ての法的手続を含めて、法律によって原則として禁止すべきとし、倫理指針を法的規制のレベルまで高める選択肢である。この意味で、倫理指針が作成された現在、法律家は、倫理指針の生まれた経緯や趣旨を理解し、いかにその趣旨を法的手続の中で生かしていくのか、そのためには、どのような実践的工夫ができるのかということが問われている。
(7)  また、この問題は、指針・ガイドラインが、どのような手続(市民の参加等も含めて)で作成された場合に、このような真の意味で指針として尊重されるのかを議論すべき時期に来ていると考えられる。



〈注〉

[1]  国際的倫理規範
@ 1997年11月 ユネスコ総会「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」Universal Declaration on Human Genome and Human Rights, UNESCO, 1997
A  1998年 WHO「遺伝医学の倫理的諸問題及び遺伝サービスの提供に関するガイドライン」Human Genetics Programme:Proposed international guidelines on ethical issues in medical genetics and genetic services, 1998
B 2000年10月 ヘルシンキ宣言・ヒトを対象とする医学研究の倫理的原則(英国、エジンバラでの第52回WMA総会での修正)

21 被験者のプライバシー、患者情報の機密性に対する注意及び被験者の身体的、精神的完全無欠性及びその人格に関する研究の影響を最小限に留めるために、あらゆる予防手段が講じられなければならない。

[2]  遺伝子診断についての国内の指針
@ 1993年4月 厚生科学会議「遺伝子治療臨床研究に関するガイドラインについて」
A 1994年2月8日 厚生省告示第23号「遺伝子治療臨床研究に関する指針」
B 2000年 日本人類遺伝学会理事会倫理審査委員会「遺伝学的検査に関するガイドライン」

14 得られた個人に関する遺伝情報は守秘義務の対象となり、基本的に、被験者の承諾がない限り、開示することは許されない。とりわけ、何らかの差別に利用されることのないように慎重、且つ特別な配慮が要求される。 C2000年 家族性腫瘍研究会「家族性腫瘍における遺伝子診断の研究とこれを応用した診療に関するガイドライン」
16 個人情報へのアクセス権
遺伝子診断で得られた個人の遺伝情報は、被検者本人に属するものであり、この遺伝情報へのアクセス権  は、原則として被検者である本人と、本人から承諾を得た医療関係者および研究者のみが有する。
17 個人情報の管理と守秘義務
 遺伝子診断の研究および診断によって得られた個人に関する遺伝情報については、その厳重な保管と管理、ならびに関係者の守秘義務を徹底しなければならない。本人以外(担当以外の医療関係者、および研究プロジェクト以外の関係者、ならびに学校、雇用主、保険会社等、また原則として家系内の他の個人)への漏洩が起こらないように厳重な管理体制を整備し、安全対策を講じなければならない。

[3]  遺伝子解析研究についての国内の指針
@ 2000年5月 厚生科学審議会「遺伝子解析研究に付随する倫理問題等に対応するための指針」後記倫理指針の施行により廃止)
A 2000年6月 科学技術会議「ヒトゲノム研究に関する基本原則」
B 2000年8月 文部省「大学等における遺伝子解析研究に係る倫理問題について」
C  2001年3月29日 文部科学省、厚生労働省、経済産業省告示第1号「ヒトゲノム・遺伝子解析に関する倫理指針」
3 すべての研究者等の基本的な責務
(3) すべての研究者等は、職務上知り得た個人情報を正当な理由なく漏らしてはならない。
4 研究機関の長の責務
(3) 試料等の提供が行われる機関等の個人情報を取り扱う研究機関の長は、ヒトゲノム・遺伝子解析研究において、個人情報の保護を図るため、個人情報管理者を置かなければならない。
(10) 試料等の提供が行われる機関等の長は、試料等を外部の機関(試料等の提供が行われる機関において、同時にヒトゲノム・遺伝子解析も行う場合は、その研究部門は外部の機関とみなす。)に提供する際には、原則として試料等を匿名化しなければならない。
9 遺伝情報の開示
(1)  提供者が自らの遺伝情報に開示を希望している場合には、原則として開示しなければならない 。
(3)  研究責任者は、提供者本人の同意がない場合には、提供者の遺伝情報を、提供者本人以外の人に対して、原則として開示してはならない。
細則 3 研究責任者は、提供者が自らの遺伝情報の血縁者への開示を希望していない場合であっても、次のすべての要件を満たす場合には、提供者の血縁者に、提供者本人の遺伝情報から導かれる遺伝的素因を持つ疾患や薬剤応答性に関する情報を伝えることができる。
1)  提供者本人の遺伝情報が、提供者の血縁者の生命に重大な影響を与える可能性が高いことが判明し、かつ、有効な対処方法があること


[4]  この点は、ガイドラインと法的規律は、趣旨・目的やdimensionが異なるので、両者が抵触することはなんら問題はないと割り切る考え方もあるだろう。しかし、ガイドラインの作成に法律家が関わり、法的規律もにらみながら作成した以上、指針を法的規律と全く無関係と考えることはできない。仮に様々な法的解釈の限界からガイドラインの趣旨を生かすことができないとなれば、改めて、ガイドラインを見なおすなり、また、場合によっては、ガイドラインを法律として格上げすることを考えることが必要となる。その意味で、本稿は、ガイドライン(の趣旨)を法的解釈として推し及ぼすことができるのか、その限界はどのあたりにあるのかを見極めるための準備作業である。

[5]  福嶋義光「遺伝子診断の現況」日本医事新報No.3986 2000.9
[6]  個人に関する情報には、「個人の思想、信条、身分、健康状態、その他一切の個人に関する情報」が含まれると解される(宇賀克也「情報公開法の逐条解説」42頁、有斐閣、1999年)。また、第三者からの開示請求だけではなく、本人からの開示請求も同様に考えられている(同51頁)。
[7]  本人からの個人情報取扱事業者への開示請求は、一定の場合を除くほか、認められている(同法30条1項)。
[8]  高中正彦「弁護士法概説」88頁、三省堂、2001年、小林秀之「新証拠法」125頁、弘文堂、1998年。遺伝子診断の不開示は「正当な理由」によるものと考えられるであろう。
[9] 証拠保全には従う法的義務があるが、従わなかった場合の制裁規定はない。なお、具体的な保全の必要性(改ざんの具体的な危険性)をどの程度要求するのかについては、証拠保全の証拠開示機能の是非を巡って、従前から争いがある(伊藤眞「民事訴訟法・補訂版」382頁、有斐閣、2000年ほか)。

[10]  東京地裁判決昭和59年10月30日判時1137号29頁など
[11]  病歴等の医療情報と、遺伝子情報には、その間に質的差を認めるのかについては、議論があろう。これによって、従前からのカルテ開示の議論との整合性が問題となる。
[12] 位田隆一「ゲノム医科学における倫理規範の策定と倫理審査制度」実験医学Vol.18 No12.2000
 茂木毅「ヒト遺伝子をめぐる科学技術とその倫理的・法的諸問題」−プライバシー保護の現状を中心として ジュリスト1017.125 1993.2
 同 「遺伝子プライバシー」−第三者による遺伝子診断の利用とその制限 ジュリスト増刊情報公開・個人情報保護249 1994.5丸山英二「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する最近の政府指針」ジュリスト1193.49 2001.2

[13] 大審院判決大正4年4月14日・民録21輯486頁

[14] 大阪高裁判決平成11年11月11日判時1721号147頁

[15] 浦和地裁平成8年10月25日判タ940号255頁

[16] 東京地裁判決平成3年4月17日判タ770号254頁

[17] 東京高裁判決昭和61年11月12日判時1220号131頁

[18] 東京地裁決定昭和47年3月18日・下民集23巻1~4号130頁
[29] 最高裁昭和50年2月25日・民集29巻2号143頁、同58年5月27日・民集37巻4号477頁。同59年4月10日・民集38巻6号557頁
[20]   労働安全衛生法は、労働基本法とあいまって、職場における労働者の安全と健康を確保するため、様々な法規制を行っている(菅原和夫「労働法第5版」317頁、弘文堂、1999年)。
[21] 使用者の「労働者の国籍、信条又は社会的身分」による差別的取扱にあたる場合がある(労働基準法3条)。

[22] 藤野昭宏「産業保健活動におけるインフォームド・コンセント」生命倫理、通巻10号、1999.9

[23] 最高裁判決昭和63年4月21日・民集42巻4号243頁

[24] 最高裁判決平成4年6月25日・民集46巻4号400頁

[25] 最高裁判決平成8年10月29日・民集50巻9号2478頁
[26] 尼崎公害訴訟判決(神戸地裁判決平成12年1月31日・判タ1031号91頁)では、慢性呼吸器疾患について、アトピー素因による3分の1の減額、喫煙による4割減額を認めている。
[27] 因果関係についての下級審の判決であるが、「副腎白質ジストロフィー(ALD)で死亡した被害者につき、ALD発症の遺伝子が存在していたこと自体を否定することは困難であるが、頭部外傷U型の受傷によってALDを発症させたもので推測するのが相当であり、事故と発症との間に因果関係があるとし、事故の寄与率を4割とした」ものがある。京都地裁判決平成6年1月27日・交通民集27巻1号128頁

[28] 最高裁判決昭和37年2月26日・民集16巻2号206頁

[29] 最高裁決定平成11年11月12日・判時1695号49頁

[30] 前掲小林130頁
[31] 本稿は直接には民事訴訟法の解釈論を展開するものではないが、新法では、文書提出義務が一般義務化されたが、民事訴訟法220条4号イないしハが、同条1号ないし3号にも係るのかは明確ではない。これは、民事訴訟法220条4号の新設により、同条1号ないし3号の意味内容が変わったかどうかという民事訴訟法上の一つの重要な論点であるが、学説は@旧法と同じとする説、A旧法より狭くなったとする説に分かれるが、本文に述べたところを生かせば、後説を支持したい。

[32] 松田一郎「遺伝病のDNA診断」日本医事新報3460号10頁


なお、本稿作成にあたっては、京都大学医学研究科医療倫理学・赤林朗教授に様々なご示唆をいただいた。ここにお礼を申し上げる。



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