情報の開示と「個人情報」の保護

――「病理検体」と患者の権利――

長島 隆

(日本医科大学助教授、哲学・倫理学)

 はじめに

生命倫理の議論は、数年前から、生命倫理にかかわる各専門分野での個別的な議論の段階から共通のテーブルを挟んだ討論の段階にいたり、今日更に新しいシステムを構築するための政策提示の段階に到達した。

他方で、イギリス・エディンバラにおいて1昨年開催された世界医師会総会は再びヘルシンキ宣言を修正した(ヘルシンキ宣言エディンバラ修正2000年10月)。この修正において注目しなければならないのは、個人情報の問題が大きくその修正の動因となっていることである。

特にこの個人情報の問題が大きく浮かび上がってきた要因として次のような問題が挙げられる。第1に、90年代になって「情報社会」と言われる事態が全世界規模で実現し始めてきている。とりわけ、インターネット社会の出現である。国際的に見るとイギリスは、これを先取りする形で、「医療情報」問題に取り組み始めている。またドイツは東独の崩壊から統一ドイツ形成の中で、シュタージ問題の絡みもあって、「個人情報」問題が課題として上がってきた。更にナチスの犯罪にかんするニュルンベルク裁判の資料が解禁され、特に「ニュルンベルク医事裁判」資料が大量に開示されることになった。これが、再び、1947年のニュルンベルク綱領に始まる戦後医学のあり方を問う動きとつながっている。

第2に、第1点が、社会的に波及して、生命倫理の議論と結びつき、「情報開示」が当たり前の前提になりつつあることである。とりわけ、一つの方向として、「カルテ開示」の方向として日本においても展開され始めている。他方で、「ヒトゲノム解析計画」の余波として生じてきている。知的所有権問題−特許として研究成果の囲い込みの方向として逆流を引き起こしている。

第3に、生命倫理の議論そのものが一つの頂点に達したことがある[1]。この点でまず確認しておかなければならないのは、「人権」の承認を前提として議論を組むことが共通の土台になったことである。その上で、大きな流れとして生じてきているのは、これまでの「通常の」方法そのものを全体として見直すことが要求されてきていることである。例として挙げれば、「病理解剖」の検体の取り扱い方の問題である。更に広く「疫学研究」のあり方である。

この両者とも「個人情報」の守秘にかかわる問題を生じさせていることが今日の日本でも、大きな問題となっている。

特に比較の対象としてドイツを取り上げるけれども、日本において「個人情報保護法」の存在が大きな、研究上でも支障を引き起こしていることが第1の問題点として確認することができる。

 

1.日本の「医療情報」問題――「情報開示」と「個人情報保護」

1) 日本において、「医療情報」の問題は、急激に問題になり始めた。特に「医療情報」として視野に入れなければならないのは、まず第1に、カルテの問題がある。

 すでに日本においては、「医療情報」をめぐる問題は、「カルテ等診療情報の利用に関する検討会報告」(1997年)で、前景に浮かんできた。ここで問題になったのは何よりもまず「医療情報」の開示という問題であり、しかも、それは「医療情報」が医師の側に独占されているという事態を受けて問題となったものであった。このとき何よりもまず問題となったのは「医療情報」の帰属性であった[2]。この問題は、日本的な風土においては、一種のパターナリズムを背景にして、医療情報を患者本人に知らせるべきか否かという問題として現象してくる。このとき検討会が言及した「リスボン宣言」(バリ島修正、1995年)は、まさに診療情報が患者に帰属するが故に、患者は自らの医療情報にたいしてアクセスする権利があることを明らかにしたものであった。「患者は、いかなる医療上の記録であろうと、そこに記載されている自己の情報を受ける権利を有(する)」[3]。この「情報を得る権利(Right to information)」の承認は患者の自己決定権(Right to self-determination)の承認に基づき、正当化される。「自由な決定を行うための自己決定の権利」がまず承認される。「患者は自分自身の決定を行う上で必要とされる情報を得る権利を有する」[4]。この権利は「決定のもたらす結果」をも知ることを前提する。したがって、自らの情報を受ける権利は、この決定権の論理的帰結として承認されることになる。「検討会報告」もまた、この情報の帰属性問題から「情報開示」の法制化を提起した。

 だが、当時は、この「法制化」にたいして、日本医師会は反対していた。しかし、この日本医師会もまた何らかの形で「情報開示」をせざるを得ない状況に追い込まれ、1999年4月に「診療情報の提供に関する指針」を発表せざるを得なくなった。同じ年に、また国立大学医学部付属病院長会議もまた「国立大学付属病院における診療情報の提供に関する指針(ガイドライン)」を発表し、「情報開示」を承認する方向を示した。この両文書を分析するときわめて特徴的な傾向が浮かび上がる。すなわち、「情報開示」の根拠づけの問題が患者の自己決定権の承認に基づかず、したがって「情報の帰属性」問題に対して曖昧な態度を取っていることである。
 日本医師会の文書では、情報開示の目的として「医療の担い手である医師と医療を受ける患者とが相互に信頼関係を保ちながら、共同して疾病を克服すること」[5]を挙げている。後者の指針でもまた「診療情報を積極的に患者に提供し、医療提供者と患者とが診療情報を共有することによって、両者の良好な関係を築き、より質の高い開かれた医療を目指す」[6]ことを目的として指摘している。したがって、ここには、「情報開示」はあくまでも「患者の権利」に根拠を持つのではなく、「治療の有効性」に基づくものとして基礎づけられる。そして「情報の共同所有」という形で「情報開示」の問題を捉え返そうとするわけである。この背景にあるのは「インフォームド・コンセント」に関する次のような考え方であるだろう。すなわち、患者−医師関係を前提として、両者の関係性にこの「インフォームド・コンセント」の本質があるとする考え方である。だから、この場合、患者と医師とは対等な関係にあり、したがって治療方針は共同で決定するのだという、いわゆる「契約モデル」に基づく説明である。このとき、当然のこととして医師側にとっては、治療・治癒を両者の目的として共有するが故に、医学の専門家としてこの「治癒・治療」に支障が生じる場合は、この「インフォーム」する内容は制限できると考えられることになる。実際このとき「自己決定権」を承認する必要はない。あくまでも「治療効果」だけを根拠として判断することができる。知らせないことが両者の関係に不信感を引き起こすとすれば、信頼を確保するために情報は開示すべきだ……。今はそういう方向だから、そうせざるを得ないのではないか……このような「諦観」からの「情報開示の承認」を引き起こすことになるだろう。しかし風向きが変われば、「情報開示」はサヴォタージュされる……。

 だが、リスボン宣言が提起していることは、患者の権利の擁護者としての医師および医療関係者のあり方である。「立法、政府の行動、あるいは他のいかなる行政や慣例であろうとも、患者の権利を否定する場合は、医師はこの権利を保証ないし回復させる適切な手段を講じなければならない」[7]。インフォームド・コンセントそのものが「医療場面における患者の自己決定権の実現」を意味することになる。

2)他方で、「患者情報の守秘」問題が大きくなってきたことは、目を瞠るものがある。これは研究目的とその利用という衝動から「個人」を守らねばならないという危険性にたいする自覚である。それと同時に、いわゆるインターネット社会において、「情報の拡散」の危険性が強まったことが問題を生じさせている。後者に関しては、われわれが注意しなければならないのは、これが「無自覚」「ケアレスミス」という次元で問題が生じていることである。第1に問題になるのは、われわれが簡便さから利用する「E-メール」問題である。この問題にたいしては端的に「物理的防御」が基本的に不可能だという認識である。このことは意外に認識されていない。あるいはむしろ、知っていても「簡便さ」と「効用」から軽視する傾向が生じていることである。日本においては、この点にかんしてはほとんど議論されていないように思われる。しかし、この点にかんしてはアメリカにおいても、ドイツにおいても、共通の認識になり始めていることは重視すべきである[8]。第2に、不注意な「ケアレスミス」の問題として意外に問題にされていないけれども「情報の保存」との関わりで、パソコンなどを利用した保存の仕方が問題となる。ハードディスクに膨大な「医療情報」を蓄積し、パソコンなどの交換などのときに、この蓄積された「医療情報」を消去し忘れる、あるいは簡単な消去処理を行い廃棄することである。ここから情報は復元されるし、また漏出してしまうこともありうることである[9]。しかもこの点では今日のインターネット社会において、端的にコンピュータウィールス問題にたいして後追い的にしか対策が打てないことが示しているように、インターネットを介して情報のやりとりを行うことはつねに、個々のコンピュータが介入される危険を有していることを示していることである。

 この「守秘」と個人情報の保護あるいは「防衛」の問題では、更に、第3に、意図的な「医療情報」への外部からの介入、あるいは意図的な内部からの漏洩という問題がある。だが、この「意図的」な問題は、むしろ、それから個人情報を「防衛する」ことは医療システム問題として解決することが可能であるし、法的な整備に基づいて解決可能な問題であると言えるだろう。

 問題は、無自覚的な漏出の問題とインターネットの危険性にたいする鈍感さである。今日、情報機器の発展が、われわれをほとんど「素人化」していること、すなわち、われわれが「エンドユーザー」として情報機器を操っているところに問題が生じてくると言えるだろう。第1点にしろ第2点にしろ、「悪意」を持って情報を漏洩していない点にこそ問題がある。誰でもが、「情報」の漏洩の可能性を持っていることである。

 だとすれば、医療関係者の情報倫理教育が大きな課題となるが、それでもなお、この不注意、あるいは無自覚性を克服できるかどうか、きわめて疑わしいものがある。医療側にしろ、われわれ患者の側にしろ、自らの情報は自ら守ることがきわめて重要な問題となっていることを示しているだろう。そうすると、医療側にしろわれわれ自身にしろ、情報機器を操り、個人情報を操作する人間のモラルの問題はきわめて大きいと言わねばならないだろう。つまりこのモラルは、自らの権利は自ら守るという主体性の問題となる。ここに、まさしくわれわれの権利の自覚こそが問題にならざるを得ないと言わねばならない。

 この問題は、今日の前者の問題、「研究利用」という衝動から生じてくる問題において大きな問題として現れてくる。つまり、インターネット社会が可能にしたのはまさに短時間で広範囲の研究者および研究施設を結合して研究の水準を飛躍的に上げることが可能になっていることである。それと同時に研究協力が潜在的にその善意を侵害される可能性を強めていることである。医学研究に協力すれば、善意が仇で返される……このような危険がきわめて大きな問題として生じていることこそが今日単純に「医学の前進」および「社会の進歩」への貢献という「医学研究」のあり方を根本的に問うことになっている。

 

2.病理検体と「個人情報」の保護

 この点を「病理検体」を事例として取り上げて検討することにしよう。そうすると、二つの問題がここで生じていることに目を向けたい。一つは、「病理検体」に関する個人情報の「保護」の問題である。このとき、やはり、「病理検体」を使用する正当性の問題である。第2に、この正当性の問題は、科学研究としての医学研究の正当性の問題として提起されてくる。とりわけヒトゲノム解析研究において提起されている「包括的同意」論そのものの問題性が指摘されなければならないだろう。

 病理検体に関しては、これまである意味で無条件に医療者は利用することができた。すなわち、何らかの形で、手術などの際に採取した組織標本などが保存されてきており、それを利用した研究が行われてきていることである。だが、この患部からの組織採取、そして「標本」作成は、医学研究に当然の前提として、患者の同意を前提にしないでも作成されてきている。あるいは手術の同意にそのまま含まれていると考えられてきた。実際患者の側も問題にすることが少なかった。けれども、ゲノム解析研究の進展は、これらの組織標本の利用範囲を大きく広げたところに問題が生じてきている。それに加えて、「同意なくして研究なし」ということが国際的な基準となってきたことである[10]

1)周知のように、もともと「病理検体」の問題は、われわれが何らかの疾患にかかり、それにたいして手術などによって治療を行われる場合に、手術などで摘出した組織、患部などを病理学的に検討する際に、標本を作製するという形式で対象となる場合である。これは更に死亡した場合など「病理解剖」が行われ、死因となる患部などを標本として研究対象とすることになる。だがこの「病理解剖」の場合は、基本的に「解剖などに関する法律」(1996年)で、「病理解剖」にたいする規定がある。

 したがって、これは通常の病気の治療の過程に含まれてきたあり方である。われわれが自覚しないままにこのような「病理検体」として扱われてきていたわけである。そして実際のところほとんど問題は生じてこなかった。だが、それが今日「病理検体」の問題がきわめて重大な人権侵害の可能性を含む事態を産み出してきたのは、まさしく「遺伝子研究」の急激な進展の問題であり、いろいろの場面で流通させられてきている「DNA鑑定」の問題は端的にそれを示している。

 だから、「病理検体を学術研究、医学教育に使用することについての見解」(2000年11月)はこの新しい事態にあって、これまでのルーティンな流れそのものを生命倫理の原則の基に再組織しようとした。

「近年、遺伝子研究を中心とする医学研究の新しい展開に伴い、病理検体(診断および治療の目的で生検、外科手術、剖検などによって患者から採取された組織・細胞を言う)を学術研究や医学教育(研究・教育)に用いるにあたっての対応の見直しが求められている」。

これがその基本的な認識である。1980年代後半から始まったヒトゲノム解析計画とそれによって促された遺伝子研究は、医学研究に新しい可能性を切り開いた。疾病観の転換はその端的な衝撃であるだろう。病気とはすべからく遺伝病である。何らかの病気にかかるとき、遺伝子の変化・変質が生じていることが明らかにされてきた。根本的な治癒はこの遺伝子の変化・変質を抜本的に直すことによって可能だと言えよう。遺伝子治療の可能性が開かれるとともに、遺伝子診断、ほんの少しの組織からの遺伝子解析の可能性が生じてきている。そして親子鑑定などに遺伝子解析が利用され始めてきている。

 このような事態が、これまでルーティンの作業として行われてきた「病理検体」などに関しても、そこから遺伝的な状態を明らかにされてしまう危険が生じてきていることである。そのため、この「病理検体」に関してもまた「個人情報」の保護は大きな問題となってきているわけである。

2)そのさい、第1に問題となるのは「プライヴァシーの保護」である。遺伝情報に関しては、周知のように、患者本人ばかりではなく、患者の兄弟、親子など遺伝的につながりを持つ人すべての「プライヴァシー」に関わっている。したがって、この漏洩はきわめて重大な侵害を引き起こす可能性を持つものである。この点で「プライヴァシーの保護」の見地から「病理検体」のあり方を見直す必要が生じてきた。

 「見解」で重要なのは、このプライヴァシー保護のシステムが「透明性」を持って第3者が検証できることを課題として指摘していることである。そしてその検証の基準が「倫理綱領」になるわけであるが、このような「倫理綱領」の明記と公開が前提とされている。この点で、これまでの「プライヴァシーを保護する」という断言と、それを信じるか否かの決断を迫る同意のあり方から一歩水準が高まっていると言わねばならない。

 これまでのあり方は、「プライヴァシー保護」がどのように保護されるのかが明らかにされないまま、鵜呑みにすることを要求する、依然としてパターナリスティックな態度が目についていたのにたいして、部外者、あるいは第3者もまたこの言明がどの程度内実を伴ったものなのかを検証することができる方向を打ち出したわけである[11]。そしてわれわれは、この点に「情報開示」と「個人情報の保護」が相即するものであることを見ることができる。われわれ自身今日われわれ自身にたいする「情報」の重要性を理解できない状況にあることを自覚しなければならないだろう。少なくとも「遺伝情報」を知ることが何を意味するのか、また個人情報が漏洩することがわれわれにとって何を意味するのか。われわれにとって個人情報は何を意味しているのか。こういう情報の持つ意味と意義について全般的な不安と全般的な無自覚とが今日「医療情報」についても存在すると言えるだろう。

 したがって、実に「医療情報」に基づく研究というのは、敢えて言えば患者教育を前提すると言えるだろう。「情報開示」はまさに患者が「知ること」によって「個人情報の重要性」を自覚化することを促す。そして、この過程性こそが重視されるべきであるだろう。実際のところ「自律的主体」たりうるのはこのような過程においてであり、われわれは一定の年齢になれば「自律的である」というのもまた、それは「自律的として遇される」べきであるという規範的性格を持っており、しかもこれはこのように遇されることによって自律的に判断し行動できるようになるという意味を持っていると言えるだろう。

 それと同時に「見解」が持つ積極的な意味が問題となるだろう。それは医学の科学性に関わっている問題である。「見解」はこの点でまず、病理検体を利用する研究が「その計画の実行にあたって病理診断業務を阻害してはならない」ことを前提とすることを指摘している。このことは「病理検体」の性格を示唆する重要な規定である。そもそも「病理検体」に関しては、厳格にその利用目的が明らかにされている。これは端的には「病理解剖」にかんする法的規定を参照すればわかりやすいだろう。A.死因の確定、B.疾病の状態および治療結果の究明、C.障害又は病気の経過に関する知識の獲得が、目的とされている[12]

 「病理検体」とは、まさに一定の疾病を患う患者の診断のための検査および病気治療のための侵襲を前提として、行われる組織、細胞などの標本であり、それは特定の患者の特定の病気の究明のための素材であることが第1義的な意義を持っている。したがって、これを利用しようとする研究と言えども、この「病理診断業務」に優先するものはない。したがってこの限り「病理検体」の採取とは、診断−治療という患者にとってルーティンな業務の一環として位置づけられることができる。あくまでも診断の正確さと明証性のための検査という位置づけを持っているわけである。この限り、ここに患者がこれまで無自覚的であれ、特に同意をしないでも、組織採取の目的は明確であり、患者もただちに理解することができるが故に、問題としなかった理由もあると言えよう。

 けれどもこれを研究あるいは教育利用に供しようとするとき、この治療上の目的から分離され、ルーティンな業務の一環から切り離されることにより、あらゆる利用の可能性の前に晒されるという独自の意義を持つことになる。このことは患者の意図に反した利用の可能性を含んでいると言わねばならないだろう。しかも、今日「病理検体を用いた遺伝子解析」[13]の可能性も大きくなっていることを視野に入れれば、また本来の位置づけとは異なって一挙に「プライヴァシー」の侵害の可能性が大きくなっていることは否定できない。

3)だから、「見解」が提起した問題は、まず第1に、「同意」こそがこのような研究の前提であるということである。あくまでも組織採取という診断―治療目的を離れた利用が医学研究として成立する前提だという認識を示していることは重視すべきである。個人情報に関係する研究なるものがつねに漏洩と拡散の危険と相即しているとすれば、もはや研究者の生命倫理的な訓練とシステム的な整備だけではこの危険に対応することはできない[14]

むしろ研究協力者−「病理検体」の提供者の自覚と自己防衛こそが研究者の努力を鼓舞し、「プライヴァシー保護」に関してより成果を上げるだろう。この点に、まさしくリスボン宣言が指摘した「患者の自己決定権」の承認が、研究の阻害要因ではなく、医学研究を科学たらしめる前提条件として登場してきていることを示している。

 第2に、「病理検体」を利用する研究がヘルシンキ宣言が示した「ヒトに関わる研究」の前提として示した「医学と社会の進歩」という基準を満たす条件はまさにこの研究の科学性にあることである。この点にかんしても「同意」要件はかかっていると言わねばならないだろう。少なくとも近代科学が示したのは、方法が対象を措定するということである。この点から見て目的が研究としてきわめて重要な要件となるだろう。研究目的にしたがって、患者の組織が対象として措定されること。このとき「同意」要件は方法的な意義をも持つことになる。研究目的−同意−対象措定、これが「病理検体」を利用した研究を研究たらしめることになるのではないだろうか。

 だからこそ「病理検体」を扱う研究者が「医師資格」を持つということは、それは必要条件であっても十分条件ではありえない。十分条件は「研究目的の明確さ」と「同意」ということになるだろう。

 第3に、この研究の科学性が「倫理性」の審査の要件をなして「倫理委員会」の審議を経て研究が遂行され、その結果報告がなされることを要求している。これは、まさしくこのような「病理検体」を使用する研究の過程が透明性を確保することによって、提供者自身が自己の決定の結果へのアプローチの可能性が保証されることである。

 今日の医学研究のあり方から見て、この「透明性」はその科学的性格を維持する要件として示されることになる。

 

3.包括的同意と医学の科学性

 ところで、上述の「明確な研究目的」の問題に関して、「同意」要件をはずす方向の議論もまた登場していることには注意しなければならないだろう。ヒトゲノム解析研究において提起されたいわゆる「包括的同意」論の問題である。 

 最後にこの「包括的同意」の問題性を「個人情報」との関連で検討しておこう。この「包括的同意」はすでに言及したように、ヒトゲノム解析研究に関する基本原則において提起された。それは次のように定義されている。原案の文章と決定案との文章を並べてみる。

「一つの研究計画の中でゲノム解析研究を目的として提供される試料は、提供の同意が与えられる時に同時に、他のゲノム解析研究または関連する医学研究に使用することを認める旨の同意が与えられていれば、それら他の目的の研究に使用することができる。」[15](下線は筆者)

この特定の研究目的についての「同意」を得る際に、現在は予定されていない他の研究のために利用することに関しても、同意を得ておくことを「包括的同意」という名前で新しく提起されたものである。これは「研究の多様性」と効率性の観点から「説明の簡略化」を目指す提案となっている。だが、このときにも、患者の権利としての「説明」を要求することは否定されることができない。この点は、やはりこの「基本原則」でもやはり、患者が要求すれば、インフォームド・コンセントの原則に戻ることを確認している。この点は、この案が提案された段階と確定した段階での大きな相違点であるとともに、案の段階で最も批判を浴びた部分でもあった[16]

いかなる場合も、提供者から個別に説明を求められるときは、インフォームド・コンセントの基本に立ち返って、個別の説明に応じなければならない。また、説明が簡略な形でなされる場合であっても、同意は個別に文書で行われなければならない。同意の簡略化は認められない。」[17](下線は筆者)

この原則の確認とともに、第1に、この研究計画に基づく「包括的同意」を採用する場合には、倫理委員会における審議と承認を必要とすること、第2に、「連結不可能匿名化」の処理が行われる資料であること、第3に、「他の研究目的」にかんして「その時点において予想される具体的研究目的を明らか」にすることが前提とされている。
 そしてこのような「包括的同意」のような説明の簡略化の手続きは、あくまでも「特例」であり、第2の「連結不可能匿名化」の処理は個人情報に保護に関わる概念と方法であるが、この「基本原則」は、個人情報の保護に関しては、次のように規定し、むしろ「個人情報の保護」こそが研究の前提であることを明らかにしている。

「提供者の遺伝情報を含む個人情報が、その匿名化の可能性も含めて、どのように管理されかつ保護されるか説明されなければならず、それらの情報の厳格な保護が保障されなければならない。」[18](下線は筆者)
「いずれの方法を採るにせよ、個人の遺伝情報の保護は十全に行われなければならない。この保障がなければ、研究計画は認められず、したがって研究を実施することは許されない。」[19]

この「包括的同意」論がまさしく「原則」の簡略化の措置を示しながら、研究を研究たらしめる「絶対的要件」として「個人の遺伝情報の保護」が挙げられ、しかも患者が自己の権利として「説明」を要求する際には原則に立ち戻って患者が理解でき納得できるように説明することが明記されたことは重要である。研究者側の便宜から提出されるべきではないこともまた、明記されることになった。そして重要なのは医学研究にとって「患者の権利」こそが原点であることが確認され、この患者の権利の擁護者としてのみ、医学研究者は研究者たりうることを、リスボン宣言の精神こそが研究を可能にすることが明らかになったと言えるのではないか。
 このような「説明の簡略化」に関係する手続きはあくまでも例外であり、「原則」の重要性こそが課題であることを示すものになっている。

 

おわりに――残された課題

 今後情報を媒介にした研究は更に広範に、医学研究の基盤を形成することになるだろう。そのような新しい時代における医学研究のあり方こそがわれわれにとって課題であるだろう。

 最後に本稿でも言及した「透明性」の問題は、国際的にも大きな課題となっている。実際ドイツではそのような法制化も問題となっている[20]。この透明性の問題は、本稿でほとんど議論できなかった研究終了後の「データ処理」すなわち蓄積されたデータの取り扱いの問題が存在していることは注意されなければならない。今日の日本の状況では、医療情報は、「商業化」の渦に巻き込まれる状況があり、更に終了後の処理の問題は曖昧なままに置かれているのが実態であると言えるだろう。

 E-Commerceやインターネットによるホームページ検索やウィンドウショッピングは記録として蓄積されていくことになる[21]。そして医療倫理場面でも、「臨床試験」に関してはアメリカではインターネットを介して「治験対象者」を公募しているけれども、この公募者のデータは蓄積されることを明言する業者もいることは重要である。だが日本においてはこのようなあり方すら明らかにされていない[22]

 情報の流れを「医療場面」で透明にしていくことは情報倫理の今後の重要な課題であると言えるだろう。そしてこの透明性に関しては「データ」の処分の問題である。すでにこれにかんしては、本稿注9でも示したようにこの問題の無自覚からの情報の散逸が問題となることを示している。この点もまさに「透明性」の課題、とりわけ「透明なシステム」の形成という課題を提起していると言えるのではないだろうか。

    

 

〈注〉

[1]  現在の到達点として確認できるのは、今日議論の場として「生命医学倫理」と「臨床倫理」が大きく浮かび上がっていることである。この点に留意されたい。Bioethicsは今日4層に分けられる。すなわち、bioethical, biomedical-ethical, medical-ethical, clinical-ethicalである。この中で、1)biomedical-ethicalな議論ではやはり焦点は、「クローン」、「ヒト胚」「ヒトゲノム」という三つの話題との関連で生じている。このとき議論は両極分解を引き起こしている。一方で、「生物学還元主義」とでも言うべき方向である。この方向は、ヒトゲノム解析が明らかにしたように、人間とほかの生物との差がわずかしかないという事実に依拠しながら、したがって、「クローン」や、「ヒト胚」を禁止する理由はないとする議論である。この方向が日本では強く、「クローン」や「ヒト胚」作成の禁止とは社会的に承認されないこと、安全性に欠けることあたりに求められる。他方で、対極にあるのが「人間還元主義あるいは医学還元主義」という方向である。典型的な例としてはオーストラリアの生命倫理学者Peter Singerの議論である。すなわち、人と他の生物の遺伝学上の差は極めて僅少であり、その中でも大型類人猿と人とを比較するなら、ほとんどないといって良い。そうすると人に人権を認めながら大型類人猿に認めないのはおかしいのではないかという議論の仕方である。つまり大型類人猿を人間に引きつけて「大型類人猿」の「人権」を認め、人間と同じく遇するべきであるという方向である。この方向が、シンガーほど極端にはならないとしても「動物倫理」として議論が大きくなり始めている。ともに「医学」の存立基盤がどこにあるのかが曖昧になり始めている現状を追認してなされている議論である。だが、第3の方向とも言うべき方向が明確にあることを忘れてはならない。すなわち、医学は生物学の一分野であるけれども、医学が独立に学問領域として成り立つのかという疑問に答えていく方向である。これは実に戦後医学の基本線であったことは確認して置かねばならない。ニュルンベルク綱領(コード)からヘルシンキ宣言への道である。拙稿「科学研究の自由と人間の尊厳」『理想』668号1-12ページ参照。2)第2に、「臨床倫理」の問題である。バイオエシックスの洗礼を受けたところで成立してきている、いわゆる「医の倫理」の問題である。これは1978年と1995年のEncyclopedia of Bioethicsの第1版と第2版の差として現れている。ここでの主体は医師をはじめとして医療関係者が中心となるが、彼らの道徳的な態度こそが問題となる。つまり「自律への尊敬」という形で捉えられることになる。今日バイオエシックスの原則として広く承認を受けている「自律」の理解の仕方もまた、承認されていることに注意されたい。「同意なくして治療も研究もない」ということが、現在の基本的了解である。ただしこの点で、アメリカバイオエシックスの「同意があれば何でもあり」的な方向にたいして、明確に「規範性」を主張する方向は、すでに国際的には、「患者を自律的主体として遇する」方向が「臨床」場面では提起されている。

[2]  これは知的所有権問題として展開されることになる。本文中ですぐ下の事例を参照されたい。

[3]  「患者の権利に関するWMAリスボン宣言」(日本医師会訳)

[4]  同上「3自己決定の権利−b」

[5]  日本医師会「診療情報の提供に関する指針」「1.基本理念、1−1。この指針の目的」から。 

[6]  高等教育局医学教育課・国立大学医学部附属病院長会議常置委員会「国立大学付属病院における診療情報の提供に関する指針(ガイドライン)」「1.目的」から。

[7]  前掲「リスボン宣言」序文。

[8]  例えば、ドイツに関してはドイツ医師会のガイドラインの提起、またアメリカの状況にかんしては次の論考を参照されたい。Leitlinien für einen E-Mail-Versand von personenbezogenen Patientendaten( in: Regeln für die sichere digitale Kommunikation),in Deutsches Ärzteblatt 96, Heft 38, 24. September 1999 A-2350. ;吉永敦征「アメリカの大学における計算機上の情報に対するプライバシーの保護」『生命・環境・科学技術倫理研究VI-2』(千葉大学)、2001年、250-278ページ、特に「4.3 E-Mailのポリシー」269ページ以後。

[9]  最近この「漏出」は新聞でも報道された。「……診療データが残っていたのは名古屋市内の大学生が購入した中古パソコン。パソコンの画面上ではデータが消去されていたが、大学生が市販のソフトを使ってハードディスクのデータを復元したところ、レセプトの画像データが見つかった……」(朝日新聞2002年1月17日付)

[10]「同意なくして研究なし」Keine Forschung ohne Einwilligung.この問題は、ドイツでもやはり90年代に大きく議論されてきた。とりわけドイツでは東独を吸収することによって成立した統一ドイツの下で、1990年にDatenschutzgesetzが成立し、それ以後いくつかの「医療情報」にかんするガイドラインが作成され、「安全性が持続的な課題」であることを明らかにしてきている。Vgl. Klaus Pommerening, Sicherheit -eine dauerhafte Aufgabe, in: DeutschesÄrzteblatt, Jg.98, Heft 33,A2085-87, 17. Ausgabe 2001; Hauk GerlofSicherheit hat Priorität, wenn sensible Daten online gehen, in: Ärzte Zeitung 24. November 2001.そして、とりわけ「疫学的研究」などの医療情報に関わる分野に関して、上述の原則が確認されている。Medizinische Ethikkommissionen, Keine Forschung ohne Einwilligung, in: DeutschesÄrzteblatt, Jg.98, Heft 51-52, 24 Dezember 2001, A 3417.

[11]  筆者はこのような「プライヴァシー保護」を断言することの不毛に関しては、以前に「治験」の公募の例を日本とアメリカとで比較し、アメリカの場合にはやはり「治験対象者のプライヴァシー保護」が「倫理綱領」に基づいて、応募者が検証できるシステムを持っていることを指摘し、それにたいして日本では「守ります」という一片の言葉で、内実が伴っていないことを指摘した。伊藤高司・長島隆「臨床試験のモニターシステムと情報倫理」『情報倫理研究資料集III』(京都大学文学研究科・広島大学文学部・千葉大学文学部「情報倫理の構築」プロジェクト)、2001年6月、133-146ページ。

[12]  「解剖にかんする法律」第6条。

[13]  「見解」第3項。

[14]  今日の疫学的研究から生じてきているほぼ共通の認識として、次の点は確認することができる。「個人情報」の保護のためには、まず「個人情報」の発信点における「匿名化」しかないことである。この点にかんしては、ドイツの「信託モデル」が参考になる。Cf.イェルク・ミヒャエリス(拙訳)「連邦癌登録法の実施とその長期間の諸結果の評価」厚生科学研究費補助金・厚生科学特別研究事業『疫学的手法を用いた研究等における生命倫理問題および個人情報保護のあり方にかんする調査研究』平成12年度総括報告書(主任研究者・丸山英二)平成13年4月、97-106ページ。それに加えてデータを蓄積するコンピュータは孤立させておくこと、つまりインターネットから切断しておくことが基本であることである。だが研究終了後の蓄積されたデータの処分問題も生じてくることは忘れてはならない。

[15]「ヒトゲノム研究に関する基本原則」(2000年6月)第8条(包括的同意と非連結匿名化資料)第1項。

[16]  同上第7条解説。

[17]  拙稿「『ヒトゲノムに関する基本原則』解読」日本医学哲学倫理学会国内学術交流委員会ホームページにて発表。

[18]  「ヒトゲノム研究に関する基本原則」第8条第3項。

[19] 同上第7条解説末尾。

[20]  この点では次の論考を参照されたい。Thomas Gerst, Datentransparenzgesetz-Zunächst nur partieller blick, in: Deutsches Ärztesblatt, Jg.98. Heft 36, 7. September 2001, A2225-6.

[21]「医療現場」ばかりではなく、この点にかんする「情報の流れ」と、「情報の蓄積」が知らないうちになされていってしまう危険は、我々の消費行動そのものにおいても問題となっている。半田正樹「情報化と流通−消費・購買行動の変化と課題」『都市・地域の社会変容と生協』CRI協同組合総合研究所・研究討論集会報告書、2000年11月、21-43ページ。また半田報告に対する筆者の「指定質問」もこの点に言及している。結局のところ「透明性」問題は、この「情報の流れ」が一般に理解できるシステムの形成を志向することになるだろう。注20のドイツのDatentransparenzgesetzをめぐる論争はきわめて刺激的である。

[22]  特筆すべきは、朝日新聞社のデータ検索asahi.comはこの点で検索に関して利用者のデータを蓄積しないことを次のように明記していることである。「asahi.comのプライバシー・ポリシー/asahi.comは、プライバシーを尊重すべき大事なものとして認識しており、個人情報の取り扱いに関して以下のような方針を決め、それに従って行動しています。

(1) asahi.comでは、ユーザーの方に無断で、個人情報を集めることはありません。ユーザーの方に対して、サービスの向上や改善、新サービスの開発などの利用の目的をあらかじめ明らかにした上で、任意に個人情報を提供していただきます。集めた個人情報は、その目的以外の用途には利用しません。詳しくはこちら。

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