子どもをめぐる大人の議論

――ドイツ・着床前診断論争の言説についての断想――

阪本恭子

(帝塚山学院大学非常勤講師・哲学、倫理学)

はじめに

 

 ひとつの表がある。着床前診断(Präimplantationsdiagnostik:着床前遺伝子診断を意味するPGD=Preimplantation Genetic Diagnosisが、ドイツでも略称として定着している。)の非全能細胞(nicht totipotenten Zellen)への適用に賛成または反対する立場の意見を、それぞれ要約した一覧表である。

各意見は1999年7月、ラインラント・ファルツ州生命倫理委員会で提出された。委員会での議論を受け継ぐ形で、ドイツ連邦医師会は2000年2月、「着床前診断の方針を定めるための討議案」(1)を作成する。討議案の内容をめぐって、医療、法律、倫理学、神学関係者、一般市民など多くの人々が行った議論の全容が、2001年5月、討議録(2)にまとめられた。議論の論点は、先の一覧表の論点とほぼ一致する。

本稿ではそれらの論点を参考に、討議録所収の着床前診断に関する見解をいくつか紹介する。対立の構図や意見の相違を概観して、着床前診断の方針が今後どのように定められるのかを明らかにしたい。ドイツの生殖技術と生命倫理が目指すものから、「わたしたち」のこれからの議論に向けて、新たな問題点を見つけ出せたらと思う。

 

1.賛成派「と」反対派

 

1−1.賛成派

着床前診断の賛成派は、ドイツでは少数派である。法律(後述の『胚保護法』。1991年より施行)が胚の「乱用」を規制しているため、推進派とも呼べる。ドイツ語圏三国(ドイツ、スイス、オーストリア)とアイルランドを除く他のヨーロッパ諸国では、診断が認められており、ロンドンやブリュッセル行きの「診断ツアー」に参加する市民がいるという社会の現状を受けて、法律の見直し、というよりむしろ、法律「解釈」の見直しを求める連邦医師会などが賛成派に属する。

冒頭で触れた一覧表には、三つの賛成根拠が挙げられる。

A)重い遺伝的負荷を担う一組のペア(Paar)の、健康な子どもをもちたいという願望。
B)「試しに妊娠すること」(Schwangerschaft auf Probe)後の、妊娠後期の中絶による心理的・身体的負担。
C)   胚の遺伝的障害を、妊娠開始前に診断すること。

 

着床前診断は、出生前診断(Pränataldiagnostik:PND)の技術的・時期的「前進」として語られることがある。この問題について、賛成派では意見が分かれる。

連邦医師会の会長Hoppe氏は、討議録中の対談で、着床前診断が、「出生前診断と同様、第一義的には、選別ではなく、遺伝病に苦しむ一組のペアが、健康な子どもをもつのに手を貸す(verhelfen)方法」であると説明して、それを禁止するのは「論理的な破綻」だと訴える(3)。そして、着床前診断技術が確立されるまで、そうした一組のペアは子どもを断念するよう勧められるか、もしくは拒否されて当然だったが、診断により、遺伝病を受け継ぐ胚だけを着床させないことが可能になったと説明して、「私がその立場であれば、最も好ましいことである」と後書きする。    

氏の、「もし私なら」という仮定上の「立場」は、当該の一組のペアではなく、ひとが子どもをもつのに「手を貸す」医師の立場であろう。したがって、医師の職業規定ともなる「明白な規制づくり」を進めて、ES細胞研究やクローン技術開発とは決して結びつかない、「きわめて限られた診断事由と厳密な基準」のもとで着床前診断が認められるよう求める。

ところが、同じく診断推進派で、連邦医師会の学術諮問委員会の委員長Hepp氏は、二つの診断が、診断の時期だけでなく、方法も異なる問題点を指摘する(4)。体外受精を前提とする着床前診断は、母体に肉体的にも精神的にもリスクを負わせ、そのリスクが人工妊娠中絶による負担に匹敵するという問題点である。氏はそうした診断のマイナス面を考慮に入れながら、病気の重さや治療の可能性の査定といった「限定された前提条件」つきで行われる着床前診断に賛成する。一口に「賛成派」と言っても、このように慎重な意見が多く、着眼点も異なる。

 

1−2.反対派

 反対根拠は五つある。

a)選別を目的として、胚としての人間の生命を評価する場合もあること。
b)後になっての体内での選別より安易な体外で選別の決断を下すこと。それによって、人間の生命への畏敬の念が軽減する場合もあること。
c)「基準どおりの子ども」(Kind nach Mass)を要求して、そうした子どもを一般的に受け入れることに門戸を開いてしまう。優生思想への堤防決壊(Dammbruch zur Eugenik)。
d)苦痛や障害に対する差別。連帯的共同体の後退。
e)診断処置を通じて、「余剰胚」が個体的生命になる機会が減少する場合もあること。

 

賛成根拠よりも数が多いのは、ドイツでは反対派が圧倒的に多数派であることも表す。連邦医師会は賛成派であったが、女医連盟をはじめ、各州の医師会にも反対論は根強い。教会関係者、障害者団体、一般市民など、そのほとんどが反対派もしくは慎重派に属する。そして、足並みが揃わない賛成派と対照的に、「どのような意図や考えがあっても、着床前診断は事実上、優生思想にほかならない」という意見に、反対派の声は収束する(5)。「人種衛生学」(Rassenhygiene)を打ち出したナチズムに対する、ドイツ的な歴史感覚の現れであろう。だが、「先端医療」である「実験的な」着床前診断を批判するのに、半世紀以上も前の『ニュールンベルグ・コード』(6)を引き合いに出す反対派の歴史感覚が時代錯誤であるとは言えない。

それにしても各論点を一瞥すると、両者の「対立」は「並立」のようだ。討議録を一読しても、賛成派が医科学的、法的な厳密さをもって、「積極的な」(positiv)着床前診断の正当性を主張するのに対して、反対派はどんな場合でも診断を認めるべきではないという原則的立場を崩さない。議論は平行線をたどり続けるようにも思われる。  

しかし両者の関係が対立であれ並立であれ、賛成派と反対派を結びつけて、意見を対峙させるのは「子ども」である。つまり議論の中心問題は、生物学上「胚」や「胎児」とも名づけられる子どもの「身分」(Status)、言い換えると、子どもとは「何者であるか」を法的、医学的、倫理的に位置づけることである。「子ども」に注目して、議論を見ていこう。

 

2.胚

 

2−1.保護される胚

着床前診断の法的議論は、『胚保護法』(7)の以下の四条項をめぐって行われる。

 

[第一条] 生殖諸技術の乱用(三年以下の自由刑または罰金刑)

二:卵細胞が由来する女性の妊娠以外の目的のために、その卵細胞を人工的に受精させる者。


第二条] ヒト胚の乱用

一:体外で樹立されたヒト胚、もしくは子宮内での着床が完了する以前に女性から摘出されたヒト胚を売却するもの、もしくはこの胚をその維持に役立たない目的のために譲渡、取得、利用する者は、三年以下の自由刑もしくは罰金刑に処する。二:妊娠をもたらすこと以外の目的のために、人間の胚を体外で発育させる者も、同様の処罰を受ける。


[第八条] 概念規定

一:この法律にいう胚としては、まず第一に、受精させられ成育能力をもつ核融合の時点以降のヒト卵細胞、さらには、細胞分裂のために必要な更なる前提条件が満たされた場合、個体への成育が可能になる、胚から採取された全能細胞、これが該当する。


『胚保護法』は、受精後のすべての胚を保護するわけではなかった。生物学上、両親のDNAが融合して、それが生命の決定要因になるのは二細胞期とされる。第八条の概念規定によると、「全能細胞」(totipotente Zelle)、つまり八細胞期までの前期胚子は胚の一部である。ところが、それ以降の分裂段階の胚は「非全能細胞」の集まりであり、法律的には胚と認められていない。

「したがって非全能細胞を用いる着床前診断は『胚保護法』と両立する」と言うのは、前出のHepp氏である。氏は、第八条の「胚=全能細胞」に基づいて、診断は合法だと解釈する。また「個体的で人格的な存在」(individuelles personales Sein)は、「過程的」(prozesshaft) に実現されると理解する氏は、胚保護の価値を、法が実現化の過程を守るという原則的な「目的」(Zweck)と医学の「目標」(Ziel)、両方を果たした上で計ることを提唱する。すると八細胞期以降の胚は、医学の目標上、診断の「対象」(Objekt)となるが、法が保護目的を果たすべき対象にはならない。

氏はまた、『胚保護法』と『刑法218条(人工妊娠中絶法)』(8)の関係について、次のような注釈を与えて、『胚保護法』の拡大的解釈を許容する。

人工妊娠中絶は、母親の権利と胎児の生存権との「衝突」(Konflikt)に基づいて選択される。妊娠後期の中絶は、一組のペア、とりわけ母親にとって、また胎児を殺害する医師にとっても、心理的、肉体的に非常に大きな負担である。一方、着床前診断は、危険性がないと断定できない体外受精の技術を必要とするが、それでもなお診断を希望する、遺伝上きわめて危険な因子をもつ一組のペアがいる。彼らが、妊娠すらしないうちに直面する衝突は、出生前診断によって初めて出遭う衝突と比較されうるものであり、先取されうるものでもある。女性の「体外の胚」が、妊娠12週までの「体内の胚」と比べて、より保護に値するとは捉えがたい。さらに「体内の胚の殺害(人工妊娠中絶)」は「違法であるが刑は免れる」のに対して、診断に伴う「体外の胚の殺害(胚の廃棄)」が「違法でありかつ刑に処される」のは大きな矛盾である。

では、氏の胚の規定的見解を、賛成根拠Cの説明として受け取ってみよう。たしかに、個体的存在の実現過程を生物学的な「時点」で区切って、いわば測定値を保護基準にするのは明快なやり方だ。より一般的な理解が得られる。そうした「事実」を確信するなら、保護の対象外である胚の遺伝的障害を、妊娠開始前に診断することが違法ではないと主張するのも当然である。また「医学の目標」と「法律の目的」を使い分けて、両者間のジレンマを認識しつつ、後者を優先させる姿勢からは、このような医師たちが防波堤となって、反対派が懸念する優生思想への堤防決壊は防がれるだろう、と楽観させられたりもする。

しかし氏の言説を忠実に受け止めた上で、議論の次元が違うという謗りを承知しつつも、問いを投げかけてみたい。胚の存在と、その胚を保護する目的についての問いである。

胚は、ひとつの存在である。「胚」と呼ぶか呼ばないかといった法的議論の対象で「ある(存在する)」し、診断の対象でも「ある(存在する)」。ところで「個体的存在」の「個体」(Individuum)は、「不可分なもの」という意味のギリシア語「アトモン(原子)」(atomon)に語源をもつ。言葉の本来の意味で、個体として存在するものに「部分」はない。しかし胚の「一部」の非全能細胞を受精卵の分割過程で取り出すことは、法的に認められ、医療技術的にも可能である。過程的存在の一部である非全能細胞は、個体的存在へと生成する可能性をもたないという理由で保護されないのだ。たとえ一卵性双生児を生み出す可能性があるとしても、非全能細胞それ自体は、全能細胞から変化してきた過程、さらにまた、個体的存在へと変化する過程と時間的、構造的に連続性をもつ存在の一部にほかならない。「部分的」存在の実現化は、「全体的」存在の実現化を、そして胚を保護することは、分割過程のあらゆる時点で、かつ、胚のすべての部分を保護することを意味しないのだろうか。

氏は、法律の原則的な目的が、個体的存在の実現化の過程を保護することにあると言う。たとえ原則が例外を伴わざるをえないとしても、この場合の例外条件は、あまりに可変的かつ流動的だ。そのことが法律そのものの形骸化や、保護目的を果たさない『胚保護法』の空洞化を招くことのないよう、解釈をさらに重ねてもらいたい。

ところで、『胚保護法』第一条と第二条に関しても、着床前診断の合法性を認めるのは、ゲッティンゲン大学法学部長のSchreiber氏である(9)。要旨は次のとおり。

第一条・二について。胚を「妊娠以外の目的」たとえば研究のために用いる、というような「意図的な目的」は、診断に際する体外受精の時点において、事実構成要件ではない。それは事実(検査結果)確認後の「付随的な目的」である。当条項は、この目的まで禁止していない。

第二条・一について。診断に伴う検査、そして検査結果に基づく胚の廃棄が、胚の維持に役立たない目的のための「利用」に該当するかという問題は、着床または廃棄の選択は母親が行うので、医者による診断は「中立的な行為」であり、その後の廃棄も、胚利用を目的とした医師の主体的な行為ではない。

 以上が氏の解釈である。氏は着床前診断に賛成、というよりは診断論争における『胚保護法』の誤った位置づけを批判して、氏が医師について表現した「中立的な」立場をとる。また診断に際して、法的に正当な前提条件を設けることが最も重要だと指摘する。論点の主眼が、胚の診断を特定の「時点」で捉えて、その時点の目的だけに置かれるのは、Hepp氏の議論と共通する。

このように着床前診断に賛成する立場の意見はいずれも、胚を診断する医師と、診断される胚を「保護する可能性」をもつ女性の立場から述べられる。次に、『胚保護法』に保護されない胚についての議論を見てみよう。

 

2−2.保護されない胚

 「保護されない胚」は着床前診断の「対象」となり、体外受精の後、診断結果によって、子宮に移植または廃棄される。『胚保護法』の第一条・二と第二条・一があるため、廃棄されるはずの胚を「余剰胚」として利用する「消費的研究」は、原則的に禁止である。ただ実際は、「輸入された胚」を用いた研究は行われている。原則はここでも例外を伴う。そうした現状を知りつつも、あるいは現状を熟知するからこそ、反対派の声は高まる。

「診断の禁止を断固として主張する」のは、ハンブルグ医師会代表のMontgomery氏である(10)。氏の反対意見は、美と画一性を追求し、病気を忌まわしいものとして隔離する現代社会の批判に始まる。氏は、連邦医師会の「着床前診断の方針を定めるための討議案」が、技術を投入して、多様な個性に社会規範との同調を求める現代社会の好例だと指摘する。

 氏の批判は政治にも及ぶ。先述の討議案をはじめ、SPD(ドイツ社会民主党)を中心に、着床前診断を全面的に認めるための『胚保護法』の改正や、ES細胞研究を解禁する法律の作成が、シュレーダー政権の懸案となっている。氏は、政治家の経済最優先の「動機」(Motiv)が、「楽園」への扉を開くのか、と揶揄的に非難する。また着床前診断の禁止は女性の権利(自己決定権)を制限しない、と診断に関わる女性の数の少なさを理由に断言して、『刑法218条(人工妊娠中絶法)』と『胚保護法』が矛盾しないと解釈する。着床前診断を禁止する一根拠に体外受精の危険性を挙げ、それを強調するところは診断賛成派のHepp氏と同じである。

最新の研究では、胚が全能性を失うのは、八細胞期ではなく四細胞期とされる。時期はさらに早まる見通しもあるという。保護されない胚は増え続けるわけだ。氏は、このような「胚移植による研究領域の拡大」が、「研究者の欲求」(Forschertrieb)に基づくと見る。それに連動するのが、着床前診断を推進する医師と、一組のペアの「子どもをもちたいという願望」(Kinderwunsch)で、この願望は「あらゆる手段を神聖化する目標」(alle Mittel heiligendes Ziel)となって、「無分別でグロテスクな社会」を発展させていると批判する。とりわけ厳しく批判されるこの社会とは、「品質保証された子ども」(qualitätsgesichertes Kind)を生み出す社会である。着床前診断は、反対根拠 c)に挙げられる「基準どおりの子ども」とともに、子どもの「選別」(Selektion)を可能にする。

 ここで、「子どもがほしい」という願望を「あらゆる手段を神聖化する目標」として批判する氏の意見にも問いを投げかけてみたい。

 なぜ「子どもがほしい」と願うのか、ひとによって答えはさまざまだ。「本能だ」と一言で片づける者もあれば、「自己実現のため」と考える者もいる。しかし生殖行為の結果得た子どもを、「自然の成り行き」として養育する大多数の者にとって、「なぜ」という問いは「なぜだったのだろう」と、結果に対して後付けの原因を探るものでしかない。

しかし遺伝病に苦しむ少数者の場合、生殖の結果を悲観的に予測してしまう。そして、楽観的な願望が必要以上に作用して「『健康な』子どもがほしい」という目標をもち、危険を知りながらも、生殖技術を目標達成の手段にするのであろう。そうした少数の願望を、社会で一般化される欲望と同一視して、政治家の動機や研究者の欲求と並べて論じることは、弱者である「保護されない胚」の側に立ちながら、強者の論理を展開しているように見える。

たしかに「健康な子ども」への願望は、「品質保証された子ども」や「基準どおりの子ども」への願望と、人間の欲求という意味では連続しているかもしれない。しかし着床前診断を、厳密な条件を満たした上で受けようとする、少数の一組のペアの願望を「原因」とするならば、診断技術の発展により、多数の一組のペアがもつかもしれない欲望は「結果」であろう。前者の切実な願望が技術を求め、そうして確立された技術は、後者の欲望を新たに生み出す。この循環のなかで個々の欲求にはたらく動因力の、わずかな違いを見逃すことなく論じてもらいたいと思う。   

また「子ども」は、他人とペアを組むすべての個人にとって、願望の目標だけではなく、他人と自分を結びつける手段となる役割も担う、それ自身ですでに「神聖な存在」だとは言えないだろうか。続いて、神聖なものと関わりの深い人たちの意見を聞いてみよう。

 

3.子ども

 

3−1.健康な子ども

「健康な子どもを要求する権利はあるのか?」と問うのは、プロテスタント神学のM.ZimmermannとL.Zimmermann両氏である(11)。氏たちは、「健康な子どもへの願望」という「根拠」を、着床前診断に合法性を与える正当な理由と認めない。第三者(医者や生物学者)が関わって、女性の「体外」で行われる診断に、一組のペアの遺伝的危険性や母体の負担といった「主観的な苦境」は、条件にならないと見る。

討議録では、一組のペアと子ども(胚)の権利の衝突についての法的議論が、くり返し行われる。反対派は、一組のペアや女性の権利を「生命に関わる諸利害」(Lebensinteressen)と同一視する。そうしたあくまでも暫定的なものを、胚が受精の瞬間に獲得する「生存権」(Lebensrecht)に優先させて、「病気の」胚を廃棄する危険性のある着床前診断を、刑法218条で規定される人工妊娠中絶と同じく、「違法であるが刑は免れる」矛盾した行為として認めて良いのかと問いかける。

しかし、どちらか一方または両方が重い遺伝病に苦しみ、場合によっては障害者として生きていて、せめて子どもは健康にと人一倍強く望む一組のペアに、面と向かって、法律を根拠に異論を唱えるのには痛みが伴う。彼らの苦悩に共感しても、共に苦しんでいるとは言えないからだ。

ところが反対派は彼らに同情しない。絶対的弱者である子ども(胚)の立場に立って、断固とした姿勢を崩さない。それは反対派が、遺伝病をもつ一組のペアだけでなく、現実社会で「親」となる可能性をもったすべてのペアにも向き合うからだろう。「健康な子ども」への願望から「健康でない子ども」に対する失望へ、さらに「病気をもつ(かもしれない)子ども」の否定へと転換しやすい現実。その現実を背負う人々が生きる社会。現在、一般に「生きるもの」と、反対派は闘おうとする。

同じくプロテスタント神学のEibach氏は、「健康は最高の財産(Gut)ではない」という着床前診断の反対意見を出す(12)

氏が注目するのは「人間の尊厳」(Menschenwürde)概念である。『基本法』の第一条で、「不可侵」(untastbar)なものと規定される尊厳は、具体的には、第二条の「自由、生命、肉体的無傷性の権利」を意味する。ところが氏は、人間を本質的に規定するのは、生命、人格、また尊厳でもなく、それらは神に授けられると信じる。「神の似姿」をもって生きる「被造物」である人間の尊厳を、神が人間に与えた「超越的な偉大さ」と理解する。  

こうして氏は尊厳を、生物医学的な有機体としての人間において、「経験的に」確認することのできないものと定義する。しかし「単なる細胞の集合体」である胚の尊厳までを、不可侵として放置せず、胚の「保護権利」とともに以下のように説明する。

生物学的定義によると、「生きもの」(Lebewesen)は、遺伝的な個別性(Individualität)と生物的な全体性(Ganzheit)を備える。遺伝的に個別性をもつ胚は、初期分裂段階での細胞の「全能性」において「全体性」にも関わる生きものである。つまり胚には、すべての段階で「肉体的無傷性」を保って「生きる権利」(das Recht auf Leben)が与えられる。この権利は、理性をもつ人格的存在だけでなく、あらゆる「生命の担い手」(Lebensträger)にとって超越的なものであり、尊厳と同じ価値をもつ。

ここで描き出される尊厳と権利は、法律が明文化する以上の意味を反映しているだろう。しかしその意味は捉えがたい。あるいは把握可能な実質をもたず、『基本法』が記すように、まさに人間の手で探ること(tasten)を拒むのが尊厳なのだろうか。生きものの多様性と、生きることの普遍性を、衝突かつ融合させる理念のようにも思える。子どもや胚を含めて、神聖なものを扱うのは難しい。安易に論じることは慎み、氏が「ドイツの法(権利)概念を決定的に特徴づけた」とする哲学者カントの言葉を記しておこう。

 

 目的の国では、すべてのものは価格(Preis)をもつか、あるいは尊厳をもつかのどちらかである。価格をもつものは、他の同じ価値のものと置き換え可能である。それに対して、あらゆる価格を超えているもの、したがって他の同じ価値のものを許容しないもの、そうしたものは尊厳をもつ。(13)

 

ドイツ政府が作った『胚保護法』と医学者が進める着床前診断は、厳密な意味での原則的見地に立つと、矛盾すると判断せざるをえないだろう。矛盾回避のための八細胞期以降の非全能細胞の診断が胚や母体に及ぼす危険性を考えると、早急に解決されるべきである。しかし両者の矛盾は、法律と医療技術、どちらを優先させるかといった比較や、どちらに正当性を与えるかといった選択の問題と置き換えて済むものではない。

もし同じ比較や選択を行うとすれば、子どもや胚は「わたしたちの国」で、価格をもつのか尊厳をもつのかという比較、どのような価格あるいは尊厳をもつのかという選択を、一人一人が「わたしのこと」として考えて、意見を交換しあうしか他に方法はないだろう。目的や目標をもって「国」を動かすことは、法律や医学だけに与えられた特権ではないはずである。

 

3−2.基準どおりの子ども

以上、着床前診断の賛成派「と」反対派の意見を概観した。ものごとを二項対立的に捉えるのは、簡易な方法である。それが事実を把握するには、安直な方法でもあることは、混迷する診断論争についても明らかであった。しかしわたしたちは日常、健康「と」病気の関係を、そうした二項対立的な価値観で所与的に捉えがちである。言わばわたしたちは無自覚ではあるが診断賛成派に属して、遺伝病に苦しむ一組のペアが「健康な子ども」への願望をもつよう促しているのではないだろうか。したがって連邦医師会・学術諮問委員会代表部は、そうした一組のペアの願望を、「社会の規範」(eine sittliche Norm)と同一視する(14)。そしてこの規範は、生命の質の選別と優生思想的な危険性が指摘されていても、なくなることはないと説明する。

つまり「基準どおりの子ども」は、規範を作り上げて、自らそれに縛られるわたしたち一人一人の固定観念の産物とも言えるだろう。遺伝子技術を操る人々が、それをどこまで真に受けて、さらに実行可能なものとするかは、わたしたち自身の反省と決断にかかっている。

ところで前出の連邦医師会・学術諮問委員会代表部は、着床前診断を「責任」(Verantwortung)を伴う行為と見なしている。社会の規範に従いながら生きる「健康ではない」一組のペアの願望に応じる責任である。ただし診断を行う医師は、次の前提条件を満たしていなければならない。

 

・遺伝的に危険性が高いこと。

・チャンスとリスクおよび選択肢を助言すること。

・一組のペアの同意があること。

 

「生きる」ことは誰にとっても危険性を伴う。それは遺伝子に左右されるものだけではない。たしかに遺伝子は身体の性質と特徴を方向づける。しかし身体をどのように「生かす」かに、遺伝子は影響を与えない。それでもやはりリスクを承知で診断を受け、「健康な子ども」を得るチャンスを願うのかどうか。

こうした「対話」を時間をかけて行うならば、上の条件は着床前診断の前提条件となるだろう。そして対話形式でのインフォームド・コンセントとカウンセリングを実行して、一組のペアが診断について下した決断を、長期にわたって支えてもらいたいと思う。その場かぎりで、また同意を誘導、強要するような助言、不安を煽る否定的な表現による助言はせずに、一組のペアの「自由」を尊重してほしい。

『胚保護法』では、胚を乱用する者に「自由刑」が規定されている。「自由を奪う」刑罰である。しかし診断の決定に際して「自由を与える」こともまた、一組のペアにとっては、自由刑に匹敵する重みをもつだろう。連邦医師会会長Hoppe氏は、着床前診断を「子どもをもつのに手を貸す方法」と捉えていた。その手がもつ「責任」と、一組のペアの「自由」の重さは、今後も多方面から検討され続けるべきである。

ユダヤ人としてドイツに生まれ、ナチスの時代を生きぬいた哲学者ヨナスは、『責任という原理』の「子ども−責任の原初的対象」という節で、責任を次のように語る。長いが引用しておきたい。

 

 …時代を超えたあらゆる責任の原型へと戻ろう。それは、子に対する親的な(elterlich)責任である。[中略]責任という概念は、当為(Sollen)という概念を含意する。含意される第一の当為は何かの存在当為(何かがあるべし:Seinsollen)である。次に、この存在当為への応答(Respons)として、何者かの行為当為(Tunsollen:何者かが、しかじかすべし)が出てくる。つまり、先行するのは対象の内的な権利(Recht)である。まず特定の存在に内在する要求(Anspruch)があり、これが客観的な根拠となって初めて、複数の存在の間の因果関係に対する義務が生じる。客観性(客体性)は、現実に客観(客体)から出てくるのでなければならない。(15)

 

おわりに

 

 「子ども(胚)」をめぐって、さまざまに発言する人々がいた。「名前」と「身分(地位)」を記して、彼らの「言葉」に耳を傾けた。ドイツでは今後も着床前診断論争は続くだろう。そうした議論のくり返しこそ、多様な解釈とともに、統一見解を作り上げるのだと思う。そのとき子どもたちは、どのような名前と身分を手にしているのだろうか。

人々によく使われる言葉がいくつかある。尊厳、価値、責任、選別など、いずれも重要な「概念」だ。賛成派にせよ反対派にせよ、それらに「関する」正当な理論が展開されていた。概念ではなく「ひと」を表す言葉で、「子ども(胚)」に次いで多かったのは「一組のペア」である。通常「カップル」や「夫婦」と訳される „Paar“もまた、子ども(胚)と同じく着床前診断論争のもう一方の「主役」である。しかし両主役に、議論の場で発言する機会は与えられていない。

「子ども」を前にして、選択と決断の苦悩を抱えるさまざまな一組のペアがいるだろう。着床前診断は、まず彼らの問題として捉える必要があると思う。ただしその一組のペアには、彼ら以外の者とも「ペア」を組む可能性をつねに開いていてもらいたい。夫婦「と」医者、夫婦「と」その周りの人々、もし夫婦が子どもを生んだなら、子ども「と」周りの子どもたちなど、ペアは誰とでも組むことができる。しかしその可能性を実現させるためには、遺伝病などに関して、正しい知識と認識を伝える「わたしたち」の教育が不可欠だ。「一組のペア」は、言い換えると、着床前診断に関わり、また関心を寄せる者すべてが、共同して結ぶべき、そしてまた結びうる対話と対面の関係である。この関係のなかでこそ、子どもをめぐる議論は続けられるべきだと思う。

「健康でない子ども」や「基準どおりでない子ども」、「親に望まれなかったが法に守られたために生まれた子ども」が今後、生まれてくるかもしれない。彼らが自らの存在を、マイナスの価値で捉えることのない、あるいはマイナスをプラスに転換できる、そのような議論を続ける社会。また仮定的に、「もしわたしなら」遺伝的障害をもつと診断されても、やはり生まれたいと願い、生まれてきて良かったと思える社会。そのような社会の一員、社会における議論の「手段」の一人でありたいと思う。

 

 

〈注〉

(1) Diskussionsentwurf zu einer Richtlinie zur Präimplantationsdiagnostik, Bundesärztekammer, 24.02.2000

(2) Dokumentation: PID, PND, Forschung an Embryonen. Aufsätze, Berichte, Diskussionsbeiträge, Kommentare im Deutschen Ärzteblatt seit Veröffentlichung des „Diskussionsentwurf zu einer Richtlinie zur Präimplantationsdiagnostik“ am 3.März 2000 ( Heft 9/2000) bis zum 18.Mai 2001 ( Heft 20/2001)

(3) 討議録(注2)4−5頁。

Prof. Dr. med. Jörg-Dietrich Hoppe: Eine Sieger-Besiegten-Stimmung darf nicht aufkommen. (Heft 20, 18.Mai 2001)

(4) 討議録(注2)32−39頁。
Prof. Dr. med. Hermann Hepp: Präimplantationsdiagnostik- medizinische, ethische und rechtliche Aspekte. (Heft 18, 5.Mai 2000)

(5) 討議録(注2)39−41頁。

Gisela Klinkhammer: Absage an jede Art eugenischer Zielsetzung. (Heft 22, 2.Juni 2000)

(6) 『ニュールンベルグ・コード』

1947年8月、ナチスを裁いたニュールンベルグ国際軍事裁判で、人体実験の普遍的な倫理基準を明文化した判決文の一節:「許可できる医学実験」の別名。10項目から成る。判決文の内容および背景については、大阪市立大学教員・土屋貴志氏ホームページhttp://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~tsuchiya/vuniv99/exp-lec3.htmlに詳しい。

(7) Embryonenschutzgesetz (ESchG)
『ドイツ胚保護法』(長島隆訳)の訳を参照した。
[『生殖医学と生命倫理』(長島隆・盛永審一郎編、太陽出版、2001年)252−258頁。]
同書には、『胚保護法』に関する詳しい見解が収められている。
[盛永審一郎「着床前診断に対する倫理的視座」70−99頁。]

(8) Strafgesetzbuch (StGB) §218: Schwangerschaftsabbruch

『刑法典』218条 人工妊娠中絶法。1998年に改正。

(9) 討議録(注2)27−28頁。
Prof. Dr.Dr. med.h.c.H.-L. Schreiber: Von richtigen rechtlichen Voraussetzungen ausgehen. (Heft 17, 28.April 2000)

(10) 討議録(注2)30−31頁。
Dr. med. Frank Ulrich Montgomery: Muss man alles machen, was man kann? (Heft 18, 5.Mai 2000)

(11) 討議録(注2)58−60頁。
Dr. theol. Mirjam Zimmermann/ Dr. theol. Ruben Zimmermann: Gibt es das Recht auf ein gesundes Kind? (Heft 51-52, 25.Dezember 2000)

(12) 討議録(注2)78−79頁。
Prof. Dr. theol. Ulrich Eibach: Gesundheit ist nicht das höchste Gut. (Heft 14, 6.April 2001)

(13) Immanuel Kant, Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, Stuttgart, 1984,S.87.(篠田英雄訳『道徳形而上学原論』岩波文庫、1988年、116頁)

(14) 討議録(注2)29−30頁。
Der Vorstand des Wissenschaftlichen Beirates der Bundesärztekammer: Präimplantationsdiagnostik als Verantwortung. (Heft 17, 28.April 2000)

(15)  Hans Jonas, Das Prinzip Verantwortung: Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Frankfurt am Main, 1979, S.234.(加藤尚武監訳『責任という原理−科学技術文明のための倫理学の試み』東信堂、2000年、221−222頁)


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