遺伝子情報異質論の批判的検討

遺伝子情報の特殊性とその他の医療情報との区別可能性

――果たして遺伝子情報は独自の特質を有しているのか?――

瀬戸山 晃一

(大阪大学大学院法学研究科博士後期課程・University of Wisconsin Law School、法理学)

 

はじめに

 

人間の生命の設計図とされる全遺伝子情報を解明する国際的プロジェクトで1990年にスタートしたヒトゲノム計画(Human Genome Project)は、2005年に解析完了という当初の目標を繰り上げる速さで解析が進み、米国のベンチャー企業であるセレラ・ジェノミクス社が2000年4月に遺伝子情報の青写真となる塩基配列のほぼ全てを解読したと発表し、同年6月にはヒトゲノム計画の主導国であるアメリカ合衆国のクリントン前大統領が、ヒトゲノム全体の初の解読(initial sequencing)がほぼ完了したと宣言した。そして、2001年2月には初の解析結果(initial working draft sequence and analysis of the human genome)が報告されたことは我々の記憶にさほど遠くはない。[1]そして、2003年春までには、より高精度な完全解読を達成する予定であるとされている。今後は、様々な病気の特定遺伝子の同定や、塩基配列の意味(メカニズム)の解明が加速度を増しながら進められていくことになる。21世紀の幕開けとともに生命科学は新たな段階に入ったと言える。

この遺伝子情報の解析と遺伝子技術の驚異的な進展は、遺伝子に起因する疾患の予防や遺伝子治療の可能性を現実のものにさせると同時に、雇用や保険契約、婚姻その他で遺伝子差別などの様々な深刻な問題を我々に突きつけはじめている。我々の遺伝子情報のプライバシーをどのようにどこまで保護していくべきなのかという難題がそこにはある。この遺伝子情報のプライバシーをめぐる様々な論争の中心にある一つの重要な争点は、医療情報の取り扱いの中で、新たに利用可能になりつつある遺伝子情報をいかに取り扱うべきであるのかという問題である。すなわち、伝統的な医療情報と遺伝子情報を異なって取り扱うべきなのか、そして遺伝子情報のプライバシーに対して、その他の医療情報に対する以上の手厚い法的保護を与えるべきなのかという問題が、それらの議論の根底にある。この問題に解答を与えるためには、遺伝子情報の特殊性と、その他の医療情報との区別可能性が考察されなくてはならない。遺伝子情報のプライバシーに対してより多くの保護を求める議論は、何らかの形で遺伝子情報の特殊性を立証せずしては、その主張を正当化することはできないといえよう。また同時に遺伝子情報の独自性を強調することは、我々の健康から性格、そして寿命や運命にいたるまで全て遺伝子によって規定されているという遺伝子決定論や遺伝子還元主義と結びつく可能性がある。

 そこで、遺伝子情報を特別視する見解である「遺伝子情報異質論 (Genetic Exceptionalism)」について批判的に考察しているトーマス・マレー(Thomas H. Murray)の「遺伝子情報異質論と『未来のダイアリー』――遺伝子情報は果たして他の医療情報と異なっているのか?」と題する所論 [2]をまず紹介したうえで、その洞察の社会的文脈や法政策的含意、さらには道徳的含意を考えてみたいと思う。

 

I.遺伝子情報異質論――遺伝子情報の特殊性[3]

 

ニューヨークのマンハッタンの先端にそびえ建っていた今はなきWorld Trade Centerが、1993年に受けたテロによる爆破事件の犯人捜査のために、米連邦捜査局(Federal Bureau of Investigation)が、送られてきた郵便の切手の裏の舐められた唾液からpolymerase chain reactionという技法でDNAを抽出することにより、容疑者の「遺伝子上の指紋(genetic fingerprint)」を割り出し、切手を舐めた者と封筒の封部分を舐めた者は別人であることをつきとめたというエピソードからマレーの論文ははじまる。(p. 60) 現在の遺伝子解析技術は、このような微量の唾液や毛根からでも、その人の遺伝子情報を割り出すことを可能にするまでに達している。

遺伝子情報異質論 (Genetic Exceptionalism)とは、マレーが委員長を務めていたThe Task Force on Genetic Information and Insurance of the NIH-DOE Joint Working Group on the Ethical, Legal, and Social Implications of the Human Genome Project [4]の定義によれば、「遺伝子情報は、他の医療関連情報と著しく異なっており、特別な保護と例外的な取扱いに値するという主張を大まかに意味する」とされている。(p. 61) しかし、同委員会(Task Force)は、この遺伝子情報異質論を結局受け入れず、遺伝子情報は他の医療関連情報と実質的には異なるものではないという結論に至っている。(p. 61) それは、以下に説明される遺伝子情報異質論の根拠となっている遺伝子情報の固有性や独自性を承認しがたいという見解によっている。

マレーは、遺伝子情報異質論の代表的な擁護論として、遺伝子情報のプライバシー・モデル法 [5]の起草者であるジョージ・アナス(George Annas)、レオナード・グランツ(Leonard Glantz)、 パトリシア・ロシュ(Patricia Roche)のフレーズを引用してくる。「・・・遺伝子情報は、ユニークにパワフルで、ユニークに個人的なので、ユニークなプライバシー保護に値する。」(p. 61) そして、このなぜ「ユニーク」であるのかの根拠は、以下の3つの懸念に由来していると彼は分析している。

第一の理由としては、遺伝子のプロフィールを「未来のダイアリー」にたとえ、遺伝子情報はその人の将来の重要な健康上の諸状態を予測することができるという特質が挙げられている。そして、遺伝子情報は、安定して長期にわたって保存しておくことができ、またその本人がほとんど知らないままでもあり得る。マレーは、遺伝子情報のこのような特殊性をナンシー・ウェクスラー (Nancy Wexler)の命名を借りて「遺伝子の予言性についての懸念」と呼んでいる。(p. 62)

第二の根拠は、「血族への懸念」とマレーが呼んでいるもので、遺伝子情報は、その本人自身のプライバシーのみならず、その両親・兄弟姉妹・子供の情報まで同時に暴露するものであるというものである。そして遺伝子情報は、部分的には我々の先祖や子孫の情報でもあると主張される。これは、しばしば一定の人種や民族にも関係するものである。(p. 62)

遺伝子情報が他の情報と異なるとされる第三の理由は、「遺伝子差別への懸念」である。歴史が示しているように、遺伝子は、人々にスティグマを着せるものであるという主張であり、またある特定の人種差別を助長する可能性があるという特殊性である。(p. 62)

 

II.遺伝子情報異質論に対するマレーの反論――遺伝子情報の特殊性の相対化

 

 第一の「遺伝子の予言性についての懸念」に対するマレーの反論は、遺伝子情報は我々の将来の健康状態の予測性という意味においてユニークでも特有なものでもないというものである。例えば、発症前のB型肝炎ウイルスのキャリアや、感染初期でAIDS発症前のHIVキャリア、あるいはコレステロールの高さなどの情報も、遺伝子情報と同じく将来の健康状態に対する高度の予測性を有しているからである。(p. 64)

第二の「血族への懸念」に対するマレーの反論も、遺伝子情報の特殊性の相対化を主張することによって為されている。すなわち、遺伝子情報は、その直系の血縁関係にある家族やより大きな規模の民族共同体に対する関係という文脈においても、そのユニークさや特別な重要性を主張することは困難であるというものである。その証左として例に挙げられているのは、例えば、ある家族の構成員が結核を患ったとすると、家族や職場仲間、あるいはクラスメイトが感染する危険性があるように、結核を患った本人以外にとってもその情報は決定的な重要性を有しているというものである。同様に、夫婦の一人が性病にかかっているという情報は、もう一方の配偶者にとって重要な意味を持ち、また一家の経済的大黒柱が、障害や死に至る心臓疾患の兆候を示しているという情報は、その家族の構成員にとって極めて重要な情報であると主張する。もし一家の稼ぎ手が亡くなってしまう可能性が高いという情報を知れば、他の家族構成員は異なった職業訓練や雇用の選択をするであろうからである。したがって、「血族への懸念」という遺伝子情報の特殊性は、遺伝子情報を他の医療情報と区別し得るほどのユニークさの根拠にはならないとマレーは反論する。(p. 65) 

このマレーの反論は、少し的が外れた批判のように思われる。なぜなら、遺伝子情報が家族や血縁共同体という文脈で特殊であるという主張は、遺伝子疾患が他の家族構成員に感染するという健康上の危険性や、遺伝子欠陥をもった者が発病して失業したり死亡したりすることによってその他の家族構成員が経済的損失を被るという意味においてではなく、むしろ以下の理由がその本旨だと思われるからである。すなわち、遺伝子情報が他の医療情報と比べて特殊的なのは、それが身体的あるいは経済的危害を家族に与えるからではなく、ある家族構成員の遺伝子情報は、その当人自身のみの情報とは言えず、家族や血縁関係の者の遺伝子情報をも暴露する可能性が極めて高いということが指摘されていると思われる。つまり、ある家族構成員が遺伝子欠陥を持っているという情報は、他の血縁者もその可能性が高いということを推定させ、その可能性の高さが遺伝子欠陥を持つ本人のみならず家族や血縁共同体、さらにはある特定の人種に対する差別やスティグマを助長する危険性が高いという意味で特殊的であると主張していると思われるからである。

第三の遺伝子情報の特殊性の根拠とされる「遺伝子差別への懸念」に対するマレーの反論も、差別への懸念という要素は、別段遺伝子情報に固有のものではないという主張である。例えば、健康保険の査定 (underwriting)【保険を引き受ける際の危険選択・危険測定などの評価プロセス】において、保険加入資格や保険の適用範囲、あるいは保険料を算定する際に、保険会社は遺伝子情報であるのか、その他の医療情報かの区別に関係なく、将来の病気の予測にかかわる情報は考慮したがるのであり、実際に遺伝子情報以外の医療情報によるこのような健康保険契約上の差別化は今まで行われてきている。[6]このように健康に関する医療情報に基づいて差別的扱いをすることは保険業界の慣行で容認されてきており、遺伝子情報に基づく差別だけを禁止するべきだとする議論はフェアではないとマレーは主張する。(p. 65) [7]もっとも、保険契約上よく差別的考慮が為される喫煙習慣などの将来の健康状態に対する危険因子は本人の選択の結果であり、本人の制御下におけない遺伝子情報とは異なるという反論があるかもしれないとしながらも、空気や飲料水の汚染など我々の個人の意思の制御下におけない病気発症危険因子のように、遺伝子要因以外のものでも個人の選択の結果とはみなされない危険因子は沢山あるのでこの反論は的を射ていないとマレーは反駁している。(pp. 65-66) また、ハンチントン舞踏病のような単一の遺伝子異常が引き起こす遺伝病の情報は、遺伝子情報の一部に過ぎず、遺伝情報と呼ばれるものの多くは、病気との因果関係がストレートではなく、その他の外的環境因子との複雑な相互関係によって遺伝子疾患を発現させるのであり、遺伝子情報とその他の医療情報を区別することは難しいとマレーは主張する。(p. 66) 次にこの区別可能性についてのマレーの主張を詳しくみてみよう。

 

III.遺伝子情報とその他の医療情報区別の概念的・現実的不可能性と道徳的不適切性

 

1.概念的区別不可能性

 マレーによれば、しばしば「未来のダイアリー」という比喩的表現に象徴される遺伝子情報異質論は、病気に関する「二つのバケツ理論(two-bucket theory)」を前提にしているものであるという。これは、病気や危険因子を投げ上げるとそれぞれ遺伝子のラベルが貼られたバケツか非遺伝子のラベルが貼られたバケツかのどちらかに入るという想定である。例えば、ハンチントン舞踏病は遺伝子のバケツに入り、トラックに轢かれることは非遺伝子のバケツに入る。(p. 67)

しかし、ほとんどの病気や危険因子は、どちらのバケツにもしっくりと収まらないとマレーは言う。例えば、同じ乳癌でも、ある種のものは特定の遺伝子欠陥により引き起こされ、ある種の乳癌は遺伝子異常がなくても発現する。またたとえBRCA-1 geneの変異など乳癌を起こす遺伝子を有している者でも乳癌にならない者もいる。また、心臓病を例にとってみると、コレステロールはその危険因子であるが、人のコレステロールの数値はダイエットや運動によって変えることができる。しかし、また他方で遺伝子は、環境因子や行動習慣以上に血液中のコレステロールのレベルに影響を与えたりもする。こうしてみると、乳癌や心臓病そして高いコレステロールは二つのバケツのうち、どちらのバケツに入れることができるのであろうかとマレーは疑問を投げかける。(pp. 67-68) そして概念定義上、病気や危険因子を明確に区別することは難しいと結論づける。この二つのバケツ理論の難問は、実際に遺伝子差別を禁止し遺伝子のプライバシーを保護しようとする法律を制定する時に、常にその立法関係者の頭を悩ましている問題である。

 

2.現実的区別不可能性

以上のように、遺伝子情報とその他の医療情報の概念上の区別が明白でないならば、両者を区別することは、その現実的実効性の観点からも不可能である点をマレーは指摘している。すなわち、カルテなどの医療記録の中で遺伝子情報とそうでない医療情報とを区別し、それらを異なって取り扱うことは実際問題として不可能であるとしている。(p. 68) この点は、多くの論者からも指摘されているが、カルテを書く医師の身になって考えれば容易に理解できよう。

 

3.道徳的区別不適切性

さらにマレーは、仮に両者を区別し得たとしても、遺伝子情報・遺伝子疾患・遺伝子的危険因子をその他の医療情報や病気・危険因子と区別して取り扱うのに十分な道徳的正当化理由は存在しないと主張する。人が真にヘルス・ケアを必要とするならば、病気が遺伝子異常によっていようと、その他の非遺伝子的運の悪さや事故によるものであろうと関係はないはずであろうからである。(p. 69)

もっとも、いわゆる自らが招いた病気や生活習慣が原因の病気は、本人の選択を越えた不運の産物とは言えないので本人が責任を負うべきであるとの反論があるかもしれない。しかし、我々がヘルス・ケアを必要とする病気のほとんどは、遺伝子によるものとそうでないもの、そして本人の意思や選択によるものとそうではない不運によるものとの複雑な相互作用の産物であるので、自己の責任によるかどうかという基準は、遺伝子情報とその他の医療情報を区別する決定的な根拠とはなり得ないとマレーは反駁する。(p. 69) 両者を異なって扱う議論は、遺伝子の独自性を過度に強調することによってしか成立せず、そのような議論は、遺伝子決定論(genetic determinism)や遺伝子還元主義(genetic reductionism)に至る危険性があると主張している。(p. 70) その危険性に言及しているエリック・ユングスト(Eric T. Juengst)などの主張をマレーは引用してきて、「未来のダイアリー」として遺伝子情報の固有性を強調することは、人々の間に遺伝子情報と病気の決定論的イメージを増強し、それは宿命論(fatalism)や社会的スティグマ(stigmatization)を惹起させ、ついには人々の人格を遺伝子的特性に還元するに至ると主張する。(p. 70) マレーは、エヴァリン・フォックス・ケラー(Evelyn Fox Keller)などの説明を引用してきて、全ての生物学的作用は複合的であって、通常多くの遺伝子や環境要因が複雑に相互作用しているので、実際には遺伝子と病気の因果関係は決定的であるとは言えず、遺伝子決定論や遺伝子還元主義を否定している。(pp. 70-71) しかし、同時にこのことは遺伝子情報が特別な重要性や可能性を持っていることを否定するものではなく、他の医療情報に対比して遺伝子情報が本質的に異なってはいないということであるとしている。

 

4.弱い遺伝子情報異質論

以上みてきたようにマレーは、遺伝子情報は極めてユニークであり、他の医療情報と根本的に異なっており、したがって異なった取り扱いが必要であるとする「強い遺伝子情報異質論(strong form of genetic exceptionalism)」は、遺伝子決定論や遺伝子還元主義を支持できない以上受け入れることはできないとしながらも、遺伝子情報は他の医療情報とは十分に同定できるほどには異なっているといえ、より多くのプライバシー保護に値するという「弱い遺伝子情報異質論(weaker form of genetic exceptionalism)」は容認できるとしている。そして、遺伝子情報は、特別な保護に値するためにユニークである必要はなく、それが他の医療情報に比して特徴的で、よりセンシティブであれば十分であると主張している。(p. 64) マレーのこのような立場は、論文の最後で「未来のダイアリー」の比喩を修正した以下の彼の修辞的比喩に良く現れていると言える。すなわち、未来のダイアリーの中身は、遺伝子情報によって既に埋め尽くされているのではない。その人の遺伝子によってその将来の日記の頁数は長かったり短かったりするかもしれないし、あるいはある頁は開きにくかったり、またある頁は書きづらかったりするかもしれないが、ダイアリーの中身は我々自らが書き綴っていかなければならない白紙なのであると。(p. 72)

 

IV.コメント

 

1.遺伝子と病気の相関関係の多様性と遺伝子情報峻別の不適切性

マレーの論文で注目に値する点は、遺伝子情報は他の医療情報と本質的に異なるという「遺伝子情報異質論」の根拠となっている遺伝子情報の特質は、一見すると絶対的なものと人々はみなしがちであるが、実は他の医療情報と比べて相対的なものに過ぎないということを、遺伝子情報とその他の伝統的な医療情報とされる情報の性質の多様性と、病気発症の因果関係における両者の相互作用に着目することによって、いわば両方面から明らかにしていることである。マレーが主張しているように、そもそも遺伝子疾患と言う時、ハンチントン舞踏病などのように単一の特定遺伝子異常によって引き起こされる遺伝子疾患を想定する場合と、いくつかの遺伝子異常が環境因子との相互影響の末に起こる病気を想定するのでは、遺伝子情報の持つ意味あいが大きく異なるであろう。後者を強調するならば、多くの癌や糖尿病、そして心臓病などの通常成人病と呼ばれている疾患になりやすい体質、そして肥満体質、あるいはコレステロールや血圧の高さなど、これまでは遺伝子情報とされていなかった伝統的な医療情報も遺伝子的要素を含むものとして捉えられるようになる。遺伝子医療が今後ますます凄まじい勢いで発展していくに伴って、この様な傾向が一層強まることは容易に想像できよう。実際、最近のアメリカの議論では、既に遺伝子と非行や犯罪行動の関係や、遺伝子と性格、そしてさらには遺伝子とホモ・セクシュアルの因果関係なども研究されはじめており、いろいろ論議を呼んできている。

遺伝子情報の性質を考えるにあたって、このような遺伝子と病気の相関関係の多様性に十分注意を払うことが必要であるように思われる。この点に関しては、エリック・ホームズ(Eric Mills Holmes)が遺伝子の欠陥と病気の関係を次の4つに分類しているのをここで見ておくことが有益であろう。[8]

A)単一遺伝子欠陥による病気や障害(Monogenic or Single Gene Disorders)

この遺伝性疾患は、単一の遺伝子異常によって引き起こされるもので、家系で受け継がれるのが特徴的である。代表的なものは、アメリカ黒人の約600人に1人の割合だとされる鎌状赤血球貧血症や白人約2500人に1人の割合でみられるのう胞性線維症などである。

B)染色体異常障害(Chromosomal Disorders)

 これは46ある染色体の構造異常や数が欠けていたり、余分にあったりすることによって身体的精神的異常を引き起こすもので、多くの生まれつきの身体的欠陥や精神遅滞、そして流産などがこれによっているとされている。例えばダウン症がこの部類の典型である。

C)複合的障害(Multifactorial Disorders)

 異なった染色体のいくつかの遺伝子欠陥といくつかの環境因子が相互作用することによって発現するとされる遺伝子障害で、多くの遺伝子病はこの部類に属するものであるとされる。喘息、てんかん、ある種の心臓疾患や糖尿病、多発性硬化症、精神分裂症、ある種の関節炎や肺気腫などがこのカテゴリーに分類されるとしている。

D)非遺伝性障害(Non-Inherited Disorders)

 これは生まれつきの遺伝子異常ではなく、もともとは正常だった遺伝子が、化学物質や放射能、あるいは喫煙などの何らかの外的要因によって傷つけられたり、突然変異を起こすことによって生じるもので、多くの癌疾患はこれが原因であると考えられている。

 一口に遺伝子情報といっても以上のような遺伝子と疾患の相関関係の多様性を考慮に入れ、それぞれの遺伝子情報の性質に応じた議論を組み立てるべきであろう。またこのことは、疾患を引き起こすのが、遺伝子かそれとも環境因子かという二者択一的な思考枠組みの不適切性も意味していよう。例えば、ヘビー・スモーカーでも長寿で心臓病や肺がんにならない者もいれば、煙草をすわない人でも肺がんになったりする者もいる。このようにある外的な環境因子の悪影響をどの程度受けやすい体質かということも遺伝子で規定されている部分がある。そのように考えていくと、遺伝子医療が今後ますます発展していくとともに、今までは遺伝子欠陥による病気とされていなかった多くの疾患が、一定程度遺伝子によるものであることが解明されていくことであろう。そうすると、ますます遺伝子情報とその他の医療情報と呼ばれているものの区別が困難になっていき、やがてその区別をすること自体がそもそも意味を持たなくなっていくものと思われる。そこで次に問われなければならないことは、この事実が果たして遺伝子情報のプライバシーの要保護性を減少させるものであるのかという問題である。現実的問題として区別不可能であるという事実は、遺伝子情報に対する手厚い法的保護を与えるべきか否かの規範的問題において決定的な要素ではないように思われる。この論点が、マレーの論文で第二点目に注目したいことである。

 

2.区別可能性(事実)と要保護性(規範)

上にみたようにマレーは、遺伝子情報に特別な保護を与えるためには、必ずしも遺伝子情報が他の医療情報と本質的にあるいは決定的に異なっているという「遺伝子情報異質論」に立脚する必要はなく、遺伝子情報が他の医療情報に比して相対的なものであっても何らかの特質性を有していれば十分であるとしている。すなわち、遺伝子情報が相対的に他の医療情報に比して家族や民族共同体などの情報とより密接に関連しており、そのプライバシーが容易に侵害されやすく、差別を引き起こす危険性がより高いならば、それに対する保護要求は、遺伝子情報が根本的に異質(ユニーク)であるということを立証する責任を負わなくても主張可能であるということである。しかしながら、より手厚い保護を与えるべきであるという規範的主張に正当性が与えられるためには、実際の臨床場面などで遺伝子情報とその他の情報を区別できるかどうかは決定的な問題ではないとしたとしても、たとえ程度の差であっても遺伝子情報の無視し得ない特殊性は何らかの形で同定できなくてはならないであろう。

この点に関して、ロナルド・グリーン(Ronald M. Green)とマシュー・トーマス(Mathew Thomas)が、遺伝子情報の5つの特質を提示しているのが注目されよう。[9]彼らが遺伝子情報というとき、DNAの解析による情報を意味しており、それは研究や犯罪捜査、そして臨床(医師・遺伝子カウンセラー)や保健政策(保険・雇用)などの様々な場面において、その他の医療情報と量的にも質的にも異なっていると主張する。多くの特質は、マレーが既に言及したものと重複する部分もあるが、ここで彼らが、遺伝子情報が他の秘匿性を要する医療情報とは異なっていると考えられる特徴を以下の5つに整理しているのを見ておくことは有益であろう。(p. 571)

A)情報リスク(Informational Risks)

 遺伝子欠陥を有し治療法のない深刻な遺伝子疾患を将来発病するという情報は、その本人に極度の不安や苦悩、そして精神的危害やスティグマを引き起こす危険性が他の医療情報よりも高い。また、保険契約や雇用契約上で差別を受ける危険性もより高い。遺伝子解析技術の進歩は、微量の組織から将来の病気発症を予測する遺伝子情報を容易に取り出すことを可能にさせ、その情報はしばしば本人すら知らないところで解析されたりアクセスされる危険性が高い。(pp. 572-76)

B)DNAの長期保存性(Longevity of DNA)

 DNAデータ・バンクやライブラリーなどにコンピューターで蓄積管理される遺伝子情報は、長期にわたって保存・維持可能であり、将来新たな遺伝子解析技術が開発されると、新たに特定の遺伝子と病気との因果関係についての情報が得られたりするという特殊性がある。このDNAの長期保存性は、その本人の遺伝子情報のプライバシーが将来にわたり、あるいは死後に侵害される危険性が生じることのみならず、子孫のそれまでが侵害される危険性があることを意味している。(pp. 577-78)

C)身元証明としてのDNA(DNA as an Identifier)

 遺伝子情報は、そのDNA提供者の匿名性を維持することが難しく、身元を証明するものとして容易に利用されプライバシーが侵害される可能性が高い。(pp. 579-80)

D)家族リスク(Familial Risks)

 ある遺伝子異常を持っているという情報は、兄弟姉妹など家族の他の構成員が子どもを持つかどうかの判断に決定的な影響を与える場合があるように、遺伝子情報は他の医療情報と異なり本人以外の家族の情報でもあるという特質がある。またある種の遺伝子欠陥を特定するためには、本人だけではなく、家族の遺伝子検査への参加が必要な場合もある。このような遺伝子情報の性質は、家族内で遺伝子情報の開示義務や知る権利・知らないでいる権利をめぐって問題を起こしたりする。(pp. 580-84)

E)共同体へのインパクト

 ある者の遺伝子情報は、例えばテイ・サックス病がある種のユダヤ人に多く見られることや鎌状赤血球貧血病が黒人に多いように、その当人や家族のみならず、民族や人種共同体にまで差別やスティグマなどの深刻な危害を与える危険性が高い。また、遺伝子欠陥など文化的社会的に好ましくないとされる遺伝子構造を有する胎児は堕胎され生まれる前に選別される可能性がある。また、ある民族共同体の中でその民族によく見られる遺伝子欠陥を検査することは実際に為されてきており、その遺伝子検査により遺伝子欠陥が見つかった者がその民族共同体の中で、婚姻等で差別を受け排除されることがある。(pp. 584-87)

以上のような遺伝子情報の一応の特殊性が承認されるならば、遺伝子情報とその他の情報の現実的な区別可能性の如何に関係なく、遺伝子情報のプライバシーの要保護性は認められるべきではなかろうか。

 

3.道徳的公平性の問題

以上のような遺伝子情報の相対的特殊性によってそのプライバシー保護の必要性が一応正当に主張し得るとしても、今まで遺伝子情報以外の医療情報とされてきたものに比して遺伝子情報により手厚い保護を与えた場合の道徳性が次に問われなければならない問題であるように思われる。マレーは、この点について十分考察してはいないが、上にみたように遺伝子差別について論じている文脈で、保険契約等で今まで伝統的に遺伝子以外の医療情報は差別的に取り扱われてきたのに遺伝子情報のみを差別から保護することは道徳的に正当化できないとし、両者を区別することの道徳的不適切性を主張している。これは例えば、伝統的な医療情報は、保険加入や雇用契約の際に考慮されてきているのに、なぜ遺伝子情報だけをそれが特殊性を有するという理由で一律に保護しなければならないのかという道徳的公平性に関する問題である。実際のところ、米国では、多くの州で保険契約や雇用契約の場面での遺伝子差別禁止法が制定されてきているが、現在それらは多くの強い批判にさらされてきている。[10]その批判の根拠の中心にあるものは、通常の医療情報は保険契約上で考慮されるのが伝統的に正当化されてきているのに、何ゆえ遺伝子情報のみを法的保護の対象とするのかという素朴な道徳的公平感覚に基づく疑念である。遺伝子情報に特別な独自性を見出すことに反対する論者の多くは、遺伝子決定論や遺伝子還元主義という幻想が人々の間で流布することを懸念しているというよりも、むしろ遺伝子情報だけをその他の医療情報から区別し特別扱いすることに対する道徳的不公平感を覚えているに他ならないと思われる。このような道徳的公平性を求める感覚と、深刻な遺伝子差別などを防ぐために遺伝子情報のプライバシーを保護する必要性があるという道徳的直観に基づく社会的要請との間に対立した道徳的ディレンマ構造があり、そのディレンマを回避あるいは覆い隠す一つのレトリックとして「遺伝子情報異質論」が主張されるというのが社会的文脈における本質ではないかと私には思われる。

 

おわりに

 

マレーが主張しているように、遺伝子情報がその他の医療情報とされるものと本質的に異なっているかどうかは、遺伝子情報のプライバシーやその取り扱いをめぐる法政策を考察する際に決定的に重要な論点ではないと私は考える。もし遺伝子情報が今までにない、より深刻なプライバシーの侵害の可能性や深刻な遺伝子差別を惹起する可能性があるのであれば、遺伝子情報がその他の医療情報と本質的に異なっているかどうか、あるいは現実問題として両者が区別できるかどうかという問いとは関係なく、遺伝子情報のプライバシーを保護しなければならない社会的要請がそこにはあるということである。ここで真に問われなければならない問題は、むしろ通常の医療情報とされてきているものと遺伝子情報は、そもそも明確な区別が困難であり、今後遺伝子医療が日常の医療に統合され、ますます両者の区別が困難になっていくなかで、遺伝子情報にのみ特別なプライバシー保護を与えることにより生じる道徳的不公平の問題である。そして、上にみてきたように遺伝子情報とその他の医療情報の概念的かつ現実的な区別可能性を疑問に付す十分な根拠が存在するならば、真剣に議論されなければならない究極の問いは、保険や雇用契約、あるいは教育やローンの貸付などの場面で、遺伝子差別を防ぐために、遺伝子情報に与えられるプライバシー保護とつりあうように、今まで差別的取扱いが容認されてきた伝統的な医療情報と呼ばれるものの秘匿性の保護要求をも同様に高めることを承認するべきか否か、そして仮にそうした場合に生じる保険市場や雇用者等に与える短期的・長期的な効果や帰結を検討することではなかろうか。例えば、アメリカの健康保険制度は一般に社会保障としては提供されておらず、市場に任されているので、もしプライバシー保護のために医療情報を保険契約の査定で考慮しないということにすれば、保険会社と被保険者との間で、情報の非対称性(不完全情報の問題)が生じ、いわゆる逆選択という現象を生み、やがて保険市場自体が崩壊する可能性がある。それは、現在日本で議論されている医療費の自己負担率を3割に引き上げるかどうかという議論レベルとは全く次元の異なった、医療制度全体のパラダイム・シフトをアメリカ社会では意味している。[11]

遺伝子情報異質論という言説が、社会的文脈で遺伝子決定論や遺伝子還元主義という虚偽意識を人々に気づかせないようにさせるイデオロギーとして機能する可能性だけではなく、遺伝子情報とされたもののみのプライバシー保護を強化し、それ以外の医療情報とされたもののプライバシーが忘れ去られる道徳的不公正の問題など真に議論されなければならない重要な論点を曖昧にしたり、覆い隠すものとして機能するのであるならば、なおさら異質論は問題視されなくてはならないのではなかろうか。

しかし、また同時に、遺伝子情報異質論の限界(区別不可能性)は、遺伝子情報が有するプライバシーの毀損性や差別へのバルネラビリティー(虚弱性)が必ずしも遺伝子情報特有のものではなく、通常の医療情報とされてきた情報もそのような性質を有していることを示唆している。それは、データ・バンクに蓄積される医療情報のコンピューターによる管理とアクセスの低コスト化がますます進んでいく現在にあって、医療情報全体のプライバシーの要保護性を改めて問い直す必要があることを我々に喚起してくれているといえよう。[12]その意味で遺伝子情報異質論をめぐる言説の限界性(遺伝子情報と他の医療情報の区別不可能性)は、それが当初意図していなかった新たな社会的文脈を提供してくれているとも言えるのではなかろうか。

 

 

〈注〉



[1]  ヒトゲノム計画の概要については、次のURLを参照されたい。[http://www.ornl.gov/hgmis/]

[2] T. マレーの論文Thomas H. Murray, Genetic Exceptionalism and “Future Diary”: Is Genetic Information Different from Other Medical Information? は、マーク・ロスシュタイン(Mark A. Rothstein)が編者である『遺伝子の秘密:遺伝子時代におけるプライバシーと秘匿性の保護』GENETIC SECRETS: PROTECTING PRIVACY AND CONFIDENTIALITY IN THE GENETIC ERA (Yale Univ. Press 1997) xvi+511, pp. 60-73に収められており、その寄稿者一覧によると、マレーはCase Western Reserve University School of MedicineProfessor of Biomedical Ethics and Director of Center for Biomedical Ethicsであり、その他の遺伝子に関する論文としてThomas H. Murray, Genetics and the Moral Mission of Health Insurance, HASTINGS CENTER REPORT 22, no. 6 (1992); Thomas H. Murray, Assessing Genetic Technologies: Two Ethical Issues, 10 INTERNATIONAL JOURNAL OF TECHNOLOGY ASSESSMENT IN HEALTH CARE 573 (1994) などを発表している。

[3] なお表題は、筆者が便宜上付けたもので、原文には表題はつけられていない。

[4] NIHNational Institutes of Health(米国立衛生研究所)を、DOEDepartment of Energy(米エネルギー省)をそれぞれ意味している。

[5] George J. Annas, Leonard H. Glantz  &  Patricia A. Roche,  Drafting the Genetic Privacy Act: Science, Policy, and Practical Considerations, 23 JOURNAL OF LAW, MEDICINE AND ETHICS 360 (1995). [http://www.ornl.gov/TechResources/Human_Genome/resource/privacy/privacy1.html].

[6] この様な健康状態を考慮した差別的取扱いは、米国では保険数理上の公正(actuarial fairness)の観点から公正な差別(fair discrimination)として伝統的に正当性が与えられてきている。

[7] アメリカ合衆国では、ごく一部の低所得者層や高齢者を対象としたメディケイドやメディケアを除き、健康保険は一般に社会保障としてではなく、私的市場によって運営されてきているので、健康保険契約上の遺伝子差別の問題は極めて深刻な社会問題であり、既にほとんどの州で保険契約において遺伝子検査を強制したり、遺伝子情報に基づいて差別的扱いをすることを禁止・制限する立法が制定されている。また、米国では通常、健康保険は雇用主を通じて提供されるので、保険契約上の遺伝子差別は、雇用契約上の遺伝子差別に拍車をかける構造がある。遺伝子欠陥を持つ労働者を雇うと、雇用主はそれだけ多くの保険料を保険会社に支払わなければならないようになるからである。日本においては、現在、医療改革で本人負担の割合が議論されてはいるが、健康保険は基本的に国民全員に社会保障として提供されているため、この様な健康保険の上での医療情報に基づく差別や遺伝子差別が問題とされることはないが、生命保険等では問題になり得る。日本における保険上の遺伝子差別や逆差別の問題を考察した文献としては、例えば立岩真也「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」(同『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』青土社、2000年)198-220頁、宮地朋果「遺伝子情報と生命保険事業」(『文研論集』財団法人生命保険文化研究所、2000年)225-75頁、武藤香織「逆選択の防止と『知らないでいる権利』の確保――イギリスでのハンチントン病遺伝子検査結果の商業利用を手がかりに――」(『国際バイオエシックスネットワーク』第30号、2000年)11-20[http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/2000/001000mk.htm]遺伝子研究会『遺伝子検査と生命保険――遺伝子研究会報告書――』(1996年)などを参照されたい。遺伝子情報のプライバシーの問題については、例えば蔵田伸雄「成人に対する遺伝子スクリーニングと遺伝情報のプライバシー――自分の遺伝情報を知る権利、知らない権利、知らせない権利」(加藤尚武編『「ヒトゲノム解析と社会との接点」研究報告集 第2集』京都大学倫理学研究室、1996年)、茂木毅「ヒト遺伝子をめぐる科学技術とその倫理的・法的諸問題――プライバシー保護の現状を中心として」(『ジュリスト』1017号、有斐閣1993年)125-34頁、同「遺伝子プライバシー――第三者による遺伝子診断の利用とその制限」(『ジュリスト増刊:情報公開・個人情報保護』有斐閣)249-53頁などを参照されたい。その他の文献は、さしあたり立岩真也先生作成の[http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/0p/gt-bib.htm]や、蔵田伸雄先生による遺伝情報のプライバシーに関する文献のリスト[http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1990/980000kn.htm]などを参照されたい。 

[8] 以下の説明は、Eric Mills Holmes, Solving the Insurance/Genetic Fair/Unfair Discrimination Dilemma in Light of the Human Genome Project, 85 KENTUCKY LAW JOURNAL 503 (1996-1997) pp. 527-29によっている。

[9]  Ronald M. Green & Mathew Thomas, DNA: Five Distinguishing Features for Policy Analysis, 11 HARVARD JOURNAL OF LAW AND TECHNOLOGY (1998) pp. 571-91.

[10] 現在のアメリカの州レベルでの様々な遺伝子差別禁止立法は、一方でその遺伝子情報とその他の医療情報とされているものの概念的・現実的区別困難性に起因するプライバシーの法的保護の不十分性に対する批判にさらされ、他方でそれらの立法が保険市場や雇用主に与える深刻な経済的打撃や、医療情報の中で遺伝子情報のみを手厚く保護することに対する道徳的不平等性への批判が投げかけられており、いわば遺伝子情報のプライバシー保護政策推進派と反対派双方から批判にさらされてきている。

[11] 近年さまざまな論者から、アメリカの州レベルでの遺伝子差別禁止法の根本的問題性が指摘されるとともに、市場に任されてきた健康保険制度自体の限界性が主張され、健康保険制度の国家(連邦)レベルでの統一的医療保険政策への転換という抜本的なパラダイム・シフトの必要性なども主張されはじめてきている。

[12]  例えば、本稿最後の〈関連文献〉であげた、ジタ・ラザリーニ(Zita Lazzarini)(2001年)は、遺伝子情報異質論をめぐる論争を振り返り、そこから得られる知的洞察は、遺伝子情報が他の伝統的な医療情報と区別可能かどうかではなく、全ての医療情報の取り扱いのあり方を改めて見直す必要があることを示唆していることであり、伝統的な医療情報のプライバシーに対する見解のパラダイム・シフトがまさに求められていると主張している。また、ソニア・スーター(Sonia M. Suter)(2001年)も、遺伝子情報異質論の不適切性を指摘するとともに、現在の遺伝子差別禁止法の問題点を詳細に検討し、議論されなくてはならないことは、遺伝子情報の特別な法的保護の是非というよりも、むしろ医療情報全体のプライバシー保護のありかたを問い直すことであるとしている。また、レイニー・フリードマン・ロス(Lainie Friedman Ross)(2001年)も、遺伝子情報異質論を否定した上で、今まさに我々に求められているものは、遺伝子情報を異なって取り扱うことではなく、センシティブな医療情報全体のプライバシー保護のありかたを根本から考え直すというパラダイムの転換であると主張している。

 

〈関連文献〉

 

George J. Annas, Genetic Prophecy and Genetic Privacy, 32 TRIAL 18 (1996).

 

ROGER B. DWORKIN, LIMITS: THE ROLE OF THE LAW IN BIOETHICAL DECISION MAKING (Indiana Univ. Press 1996).

 

Lawrence O. Gostin & James G. Hodge, Jr., Genetic Privacy and the Law: An End to Genetics Exceptionalism, 40 JURIMETRICS JOURNAL, pp. 21-58 (1999).  

 

Lawrence O. Gostin, Genetic Privacy, 23 JOURNAL OF LAW, MEDICINE AND ETHICS, pp. 320-30 (1995).

 

Zita Lazzarini, What Lessons Can We Learn From the Exceptionalism Debate (Finally)?, 29 JOURNAL OF LAW, MEDICINE AND ETHICS, pp. 149-51 (2001).

    

Glenn McGee, Foreword: Genetic Exceptionalism, 11 HARVARD JOURNAL OF LAW AND TECHNOLOGY, pp. 565-570 (1998).     

 

Thomas H. Murray & Norman T. Mendel, Introduction: The Genome Imperative, 23 JOURNAL OF LAW, MEDICINE AND ETHICS, pp. 309-11(1995).

 

Lainie Friedman Ross, Genetic Exceptionalism vs. Paradigm Shift: Lessons from HIV, 29 JOURNAL OF LAW, MEDICINE AND ETHICS, pp. 141-46 (2001).    

 

Karen H. Rothenberg, Genetic Information and Health Insurance: State Legislative Approach, 23 JOURNAL OF LAW, MEDICINE AND ETHICS, pp. 312-19 (1995).

 

Sonia M. Suter, The Allure and Peril of Genetics Exceptionalism: Do We Need Special Genetics Legislation?, 79 WASHINGTON UNIVERSITY LAW QUARTERLY, pp. 669-748 (2001).

 

CHARLES J. SYKES, THE END OF PRIVACY (St. Martins Press 1999).

 

〈関連するインターネットのサイト〉

 

Human Genome Project   

http://www.science.doe.gov/ober/hug_top.html

 

National Human Genome Research Institute

http://www.nhgri.nih.gov/ELSI/

 

Ethical, Legal, and Social Issues

http://www.ornl.gov/hgmis/elsi/elsi.html

http://www.ornl.gov/TechResources/Human_Genome/elsi/elsi.html

 

Privacy and confidentiality of genetic information & Genetics Privacy and Legislation

http://www.ornl.gov/TechResources/Human_Genome/elsi/legislat.html



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