ヒューム哲学の、医療哲学・倫理学における注目点(2)
――医療・保健制度の正義をめぐって―

会沢久仁子
(大阪大学大学院文学研究科博士課程、臨床哲学)

 

 本稿は、デイヴィド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)の哲学に依拠する医療哲学・倫理学の研究動向を紹介しながら、医療哲学・倫理学の基礎として注目されうるヒューム哲学の要点を明確に示す取り組みの第2回目である。前回は、動物の道徳的地位と自殺(安楽死)の二つのテーマを扱った。今回は、医療・保健制度における正義をテーマに、ラリー・R・チャーチル(Larry R. Churchill)の論文「ヒュームの正義に期待する――アメリカのヘルスケア改革に対するヒュームの正義観の効用について」(“Looking to Hume for Justice: On the Utility of Hume’s View of Justice for American Health Care Reform”)を紹介し、検討する。このチャーチルによる論文も、前回紹介した二つの論文と同じく、「医療と哲学ジャーナル」(The Journal of Medicine and Philosophy: A Forum for Bioethics and Philosophy of Medicine)第24巻第4号、1999年8月の特集「ヒュームと生命倫理学、医療哲学」(Hume, Bioethics and Philosophy of Medicine)に収められている。

 このチャーチル論文の主旨は、正義に適うヘルスケア制度への改革にヒュームの正義論が役立つと論じること、より具体的には、ヘルスケアにおける「誰もが利用する権利」(universal access)を説得的に主張するためにヒュームの正義論が有用であると論じることである。このように議論を限定することで、チャーチルは、誰もが利用する権利を保障するヘルスケア制度が、現在のアメリカにおける「市場で営まれる、価格によって制限される診療」よりも公平(fair)かどうかという問いはここでは回避し、誰もが利用する権利の保障がより倫理的であることを前提にする。そして、それにもかかわらずそれを主張する従来の議論が社会的、政治的に変革をもたらしてこなかったことを批判するのである。チャーチルが批判する議論とは、ロールズの影響を受けた社会契約論と、仁恵(beneficence)を基礎におく神学的正義論であり、これらは現代のアメリカ合衆国の生命倫理学においてヘルスケアの正義を論じる際の有力なアプローチである [1]。チャーチルは、これらの議論が人々の現実の生活から隔たった想定を行っていることを問題視し、ヒュームの理論がより現実的に通用し、それゆえ実際の制度改革につながると主張する。

 以下、チャーチル論文に従って、その内容を次の順序で紹介する。まずヒュームの哲学の特徴をいくつか大まかに指摘したうえで(1)、次にロールズ流の社会契約理論と神学的仁恵理論を素描し、批判を加える(2)。その後ヒュームの正義論を提示して、誰もが利用する権利との関連を論じる(3)。最後に、チャーチル論文の要点を再確認して、チャーチルとともにヒュームの正義論の方法を評価しながらも、ヒュームの正義論に対する補足点も述べたい。

1.ヒュームのモラル・フィロソフィーの特徴

 チャーチルは、現代の道徳理論家とはかなり異なる、ヒュームによるモラル・フィロソフィーの取り組みの特徴を4点挙げている [2]

 第一に、ヒュームは18世紀当時、聖職者による非難のために大学の職を得られなかったように、もしヒュームが現代の人であれば、倫理学者としては認められず、人間学者(anthropologist)に分類されそうである。現代ならば、宗教的逸脱よりも学問的正統性からの逸脱によって、ヒュームは学会での地位を失いそうである。

 第二に、ヒュームは倫理学の抽象的な理論化を軽蔑し、倫理学において誰もが経験と観察よりも「空想に頼る」(Hume, 1993: 348)ように見えることを心配する点で特に、倫理学において魅力的な人物である。ヒュームは、自分の考えの完全性や究極性を主張する必要を免れており、議論の余地のない倫理学体系の構築へのプラトン的渇望を免れている。そして、『人間本性論』における、形而上学を排して経験にもとづく哲学的探求を目指す野心の最中でも、経験論者にふさわしい謙遜を表現している。「我々は経験を越えて行くことはできない。そして人間本性の窮極的、根源的諸性質を発見すると触れ込むどんな仮説も、僭越で妄想的として第一に拒否されねばならない」(T intro.8; xvii [3]。 ヒュームが倫理学の土台としたのは、推理(to reason)のための諸公理ではなく、認識され反省される共通の諸経験であり、すなわち諸情感であった。道徳において理知(reason)は感情を指示する役割を果たすけれども、「道徳性は判断されるよりもより適切には感じられる」(T3.1.2.1; 470)。

 第三に、ヒュームは一般聴衆に向けて著作しようとした。ヒュームの生前、彼のモラル・フィロソフィーは歴史や政治の著作に比べて広くは人々に知られなかったが、ヒュームはそれが知的な仲間だけでなく、商人や銀行家といった実践的・市民的諸目的の専門家たち、増大する「中間階級」(middling rank)に届くことを欲した。ヒュームは次のように述べて『人間本性論』を終える。「人間本性に関する最も抽象的な思弁は、……実践的道徳性の補助となり、この後者の学の教えをより精確にし、その勧告をより説得的にするかもしれない」(T3.3.6.6; 621)。

 第四に、ヒュームは、我々が神や理性の法によってよりも、道徳的情感や経験、歴史によって深く形作られていることを見るとき、我々の生活を正しく理解すると信じた。そして道徳理論が個人の行為と公共善を向上させる手段となることによって主に正当化されると考えた。『人間本性論』第三巻をより一貫した、理解しやすいものに書き換えた『道徳原理の研究』において、ヒュームはこう宣言する。「あらゆる道徳的思弁の目的は、我々に我々の義務を教えることである。そして悪徳の醜さと徳の美しさを適切に表すことによって、対応する習癖を生じさせ、一方を避け、他方を採用するようにすることである」(EPM1.7; 172)。この点を受けてチャーチルは、自分がヒュームの哲学を役立て、ヘルスケアをより公正で人間的なものに改革するために説得的な主張を作り上げるのは、ヒュームによって是とされるかもしれないと付け加える。

2.天使的アプローチ――社会契約論と仁恵論の問題点

2.1 社会契約論とその問題点

 さてチャーチルによると、ジョン・ロールズ(John Rawls)ほど、医療・保健サービスの分配におけるより多くの人の利用権と平等とに賛成する生命倫理学者たちに大きな影響を与えた者はなかった。ロールズの『正義論』(Rawls, 1971)は、ヘルスケア分野においてその主導的解釈者であるノーマン・ダニエルズ(Norman Daniels)とともに、ヘルスケアにおける正義を考えるための正典とも認められる地位を獲得してきた。ロールズは、仮定された社会契約者たちが「無知のベール」の陰で「原初状態」において選ぶだろう社会契約諸規則を想像することによってそれらの規則を定義できると主張する。これらの契約者たちは、諸規則を考案する自由と、互いの利害の衝突を理解する合理性を授けられているが、彼らの特定の利害が何かについての知識を持たない。無知のベールは、各自が何らかの特定の状況にあって自分に有利な取り決めをしようとする人間の自然な傾向を除去する装置である。

 チャーチルによると、ノーマン・ダニエルズは、ロールズの枠組みをヘルスケアに当てはめ、ヘルスサービスの利用権が一生を通じた機会の公正な平等のための手段になると主張する(Daniels, 1985)。ダニエルズが掛ける無知のベールの向こうでは、契約者たちは自分が25歳か85歳か、郡記念病院の玄関番かCEOか、健康か、それともいくつかの慢性で費用のかかる、次第に衰弱する病にかかっているか、自分の健康状態を知らない。しかし一般的にヘルスケア資源が必要に対して不足していることを知っている。ダニエルズは、「人類に典型的な標準的機能」のための機会の等しい幅を各個人に保護するために、正義がヘルスケアに対する諸権利を必然的に伴うと結論する。さらにダニエルズと同僚たちは、機会の公正な平等という中心概念を「水準点」(benchmarks)と言い換え、現行の制度と改革のための提案の公平性を評価するために使えると考えている(Daniels, Light and Caplan, 1996)。

 チャーチルは、ロールズの社会契約理論を受け継ぐダニエルズらの功績を賞賛しながらも、この議論スタイルが社会的、政治的には人々を動かしてこなかったと観察する。合衆国のヘルスケア制度は現に、過去10年にわたる諸決定によって、今やこの議論が初めてなされたときよりも衡平(equity)ではなく、利用できなくなり、無保険でサービスの届かない市民たちを多く産み出して来た。ダニエルズらの議論は、学者たちの間では有力でも、公共政策の変革に向けた持続的運動を産むのに十分ではなかった。では、このアプローチが社会変革につながらないのはなぜか。

 その一つの理由を示すものとして、チャーチルは、チャールズ・ドハーティ(Charles Daugherty)による社会契約のなぞらえを引く。ドハーティは、ロールズ的アプローチを推奨する目的で、ベールの陰の原初契約者たちを天使になぞらえた(Daugherty, 1998:405)。これらの天使的契約者は、精神的存在として身体を持たず、したがってジェンダーや年齢、人種、エスニシティも持たず、さまざまな社会的、経済的状況も持たない。彼らの天上での権限は、受肉の超自然的くじ引きによって神が彼ら各自に肉体を割り当てる時を予想して、ヘルスケア制度のための正義の諸規則を整えることである。天使たちは、将来どの特定の身体をたまたま割り当てられてもよいように、誰にとっても最高に可能な社会契約をしようとするだろう。そして衡平と誰もが利用する権利とを備えたヘルスケア制度を契約するだろう。この空想的練習問題の要点は、我々の本性のうちの天使が、自己利益(self-interest)の知識と不可避に生じるバイアスとから切り離されれば、我々がより倫理的な異なる選択をするだろうと論証することである。

 しかしチャーチルは、このような議論は実際性がないと批判する。チャーチルは、我々の社会的、歴史的状況こそが我々を道徳的、政治的存在者にするのだと指摘する。その社会的、歴史的諸様相を剥ぎ取り、利害関心のない合理的契約者あるいは天使的存在者として選択することは、道徳的選択の理想的設定ではなく、首尾一貫した選択のための道具と資源を我々から奪うことになる。我々がよりよい人であろうとして倫理的に優れた選択を想像するとき、我々は天使的態度を想定するのではなく、自分が知って賞賛する現実の人々の徳を見習おうとするのであり、我々が彼らを賞賛するのは彼らの天上的無知ゆえではなく彼らの生活が示す徳ゆえなのだ [4]

 あるいは、ロールズ的契約場面は人々の動機からかけ離れており、そのような理論はトマス・ネーゲル(Thomas Nagel)が指摘する意味でユートピア主義であるともチャーチルは言う(Nagel, 1991:21)。

 さらに、天使主義の努力は誠実であっても危険であるとチャーチルは断じる。バイアスのない諸規範を得るためのロールズ的な高度の理論的プログラムは、我々の抽象能力と中立性について誤った過大評価をしがちである。そして現実には我々の動機を用いるよりもそれに盲目になり、バイアスを減らすどころか、隠れたバイアスを作ることになる。天使的自我は、契約理論の論理的強みと考えられているが、実践的弱みであり、さらには危険である。

2.2 仁恵論とその問題点

 自己利益が不可避にバイアスをもたらし、正義に対する障害になるとの考えは、ロールズとその後継者たちに限らず、ヘルスケアにおける分配の正義に対する宗教的アプローチにおいても基本的構成要素である。そのアプローチは、人類に対する自己犠牲的愛のような諸規範や、貧者や弱者を優先する倫理学に基づこうとする。それは自己利益の根絶と利他主義の勝利を要求する。チャーチルはこれを、社会契約論の知的天使主義とは別の、動機の天使主義と呼ぶ。動機の天使主義は、人間が利己主義の動機と普遍的仁愛への神的熱望との間の動的闘争の場であるとの想定に基づいてはいる。だが、全くの仁愛を実践できるのは聖人のみであり、我々のほとんどは自分の周りの人々に対して一貫して仁愛的であるのは難しいし、見知らぬ人や自分から隔たった人に対して愛の態度と行動をとるのは超人的要求である。またチャーチルは、ジェーン・マンスブリッジ(Jane Mansbridge)を引いて、自己利益を道徳的に受け入れない規範体系は、存在し続けている自己利害衝動を認識して対処することを困難にするとも指摘する(Mansbridge, 1990: xii)。

 さらに、仁愛のみを採用する道徳体系は、個人レベルで自己知の欠如を生むだけでなく、社会レベルでいっそう悪い結果をもたらしうる。すなわち、仁愛の命令が神学の後援を受けるとき、その命令は宗教の外にいる人々への敵意を時に産む。ヒュームもまた、仁愛的規範であっても一枚岩の規範に対する宗教的熱狂が宗教戦争の歴史のような好戦的な態度と行動をもたらす仕方に鋭く気づいていた。

 チャーチルは、仁恵が重要であり、また我々のほとんどが時に仁恵をなすことは認めるが、仁恵が正義のための適切で安定した土台にはならないと主張する。ヘルスケアの供給のような複合的な社会制度のための公正な規範を制定する際に、無私の動機が広く適用され、一貫して効果があるだろうとの希望に賭けるのは、ユートピア的に見える。ヒュームが観察したように、もし仁愛が人間の強力な感情であり、幅広い射程を持つならば、公正な制度の必要は目下の場合よりずっと少ないだろう(EPM3.6; 184-5)。

 まとめると、ロールズ流の社会契約論は、正義の諸条件を自己利害の無効化と関連づけて、一種の知的天使主義を要求する。また神学的生命倫理学は、自己利益衝動を非合法化し、根扱ぎにする、動機の天使主義を要求する。両観点では、自己利益は乗り越えられるべき問題である。しかし、正義と自己利害の無効化ないし克服との結合こそ、ヒュームが断とうとしたものである。

3.ヒュームの正義論と、公正なヘルスケアについての人間的な論究

3.1 ヒュームの正義論

 ヒュームの正義論の特質は、自己利益を悪徳ではなく徳にすることであり、そのようにして人間の道徳的関心と能力についてのより現実的な描写を提供することである。そして、なぜ誰もが利用できるケアの制度へと人々が動機付けられるかを想像するための、より具体的で歪みのない方法をヒュームの正義論が提供するとチャーチルは論じる。

 ヒュームは、人類が基本的な社会的本能と、限られた利他主義、慎重な利己心によって特徴づけられると考えた。ヒュームは先ず、個人的および市民的道徳性のための基礎単位としての社会生活の自然さを強調する。そしてホッブズの社会契約論における自然状態の想定については、「単なる哲学的フィクション」(T3.2.2.14; 493)として理解される限りで、無害な余興と見る。あるいは彼は、哲学諸学派とその帰依者たちの奇癖を評して、「宗教における錯誤は危険であり、哲学における錯誤は滑稽なだけである」(T1.4.7.13; 272)とも言っている。実際の人間生活の最初の状態は家族であり、家族は人類の存続に役立つだけでなく、社会的結合のための我々の習癖と傾向を形成して、有益な規範的影響力を持つ。

 ヒュームはまた、人々が一般に互いに共感し、しばしば仁恵をなすが、限られた程度であると考える。我々の関心はほぼいつも我々に最も近いものに向かう。我々は自然に自分自身と家族、友人を偏愛し、この愛情の不平等は我々の行為と正邪の感覚とに影響する。しかもヒュームは、この偏愛を問題と見るのではなく、適切と見る。家族や友人以上に見知らぬ人をひいきする人は、徳を欠いていると見なされる。したがってヒュームは、生物学的、社会的に位置づけられた自己、道徳的情感が自然に親族と友人をひいきするような自己を出発点に置く。チャーチルはこの自己を「負荷のある自己」(encumbered self)とも表現する [5]

 ヒュームは正義を「人為的徳」(artificial virtue)と表現するが、この表現には注意が必要である。正義が「人為的」であるとは、正義を生じさせる自然な感情がないという意味である。ヒュームの心理学では、仁愛のように自然に生じる感情で有徳なものと、正義のように理知と反省の産物で有徳なものとがある。したがって「人為的」とは、気まぐれや恣意的の意味ではなく、本能的ではない発明されたものを意味する。正義は、我々の自然な共感の限定を矯正するものとして生じる。

 正義の生じる条件としてさらに、我々が自分の安全と自己保存に必要な物質的事物を獲る自然な熱意と強力な衝動に取り付かれており、これが我々にとって支配的な特性であることをヒュームは観察する。最後に、ヒュームに特有な評価として、人間は少なくとも反省と理知、協力の能力を考慮するまでは、あらゆる生物のうちで最も自分の必要を満たす力を持たないことがある。正義は、人間の以上の特徴から可能かつ必要になる。まとめると、(1)ヒュームが「限られた寛大さ」(T3.2.2.18; 495)と呼ぶ、家族と友人をひいきする仁愛の弱さと不均衡、(2)ヒュームが「飽くなき、永続的、普遍的で社会を端的に破壊する」(T3.2.2.12; 491-2)と描写する、自分自身や家族、友人のために財産と諸有利を獲得したいとの強力な衝動、(3)ヒュームが「我々に対する自然の乏しい備え」(T3.2.2.18; 495)と称する、我々の必要と欲求がそれらを保障する個人的能力を上回る仕方。理性的動物は啓蒙された自己利益によってこれらの条件から正義の制度を創造するとヒュームは信じた。正義は、人間の苦境についての理解からその有利に気づかれるという意味で人為的である。

 ヒュームは『人間本性論』において正義の起源を次のように記述する。「私は、もし他人が私について同様に行動するならば、他人の財を他人に所持させておくのは私の利益に合うだろう、と観察する。他人は、彼の行為を規制することに似た利益を感じる。利益のこの共通感覚が相互に表現されて、両者に知られると、適切な決意と行為とが生まれる」(T3.2.2.10; 490)。正義を始めるために、知性や仁愛に対して特別なことは要求されない。要求されるのは単に、自分の脆弱さと他人も同じ状況にあることの認識、自分の最大の利益についての各自の反省とその互恵的表明である。正義はこうして始まり、次第に社会で力を得ていく。正義の諸規則は成文化される。正義の諸規則によって生活の利便と安定、予測可能性は大いに増す。また正義に対する道徳的感覚も他人への共感と社会的習慣や個人的習癖を通じて育まれる。正義は、自己利益を図る最初の動機を越えて賞賛を得るようになる。「自己利益は正義を設立するための根源的な動機であるが、公共的利益への共感は正義の徳に伴う道徳的賞賛の源である。」(T3.2.2.24; 499-500

 チャーチルは、以上のヒュームの正義論を「高度の低い」正義論と呼び、その実質性を評価する。ヒュームは、想像の飛躍や理想主義的な動機を導入する必要よりも、共通の経験をもとに取り組む。だからヒュームの議論は、「中間階級」にとって知的にも経験的にもより近く、よりたやすく利用できる。ヒュームの正義は、特定の個人的関心への盲目や放棄よりも、それらの関心にもとづいてなされ、欲望の直接的な充足のみが長期の利益のために阻まれるに過ぎない。反省的な人なら誰でも、ヒュームによるこの経験への反省についていくことができるだろう。ヒュームの正義論のこの一般的な近づきやすさについて、ヴィンセント・ホープ(Vincent Hope)による次のような強調もチャーチルは援用する。ホープは、幼い子どもでも家庭生活の状況から道徳を習うことができるように、優れた道徳理論は正義を「心理学的にもっともな仕方」(Hope, 1989: 147)で提示しなければならないと述べる。最大多数の最大幸福を目的とする功利主義や、普遍的立法に訴えるカント主義は、「心理学的に非現実的」(ibid.)である。チャーチルも、ロールズ的社会契約論と神学的道徳論の非現実的特徴に対して類似の主張を行い、さらにこの主張が、哲学者でない聴衆に広く、有意義に語ろうとのヒュームの願望に重なるものだと述べる。

 哲学者ヒュームは、法律の訓練を受け、商売の経験があり、さらに将軍の秘書、行政司書、大使としての地位を得た。ヒュームは、20世紀後半のほとんどの哲学者たちよりはるかに世界的な思想家であり、聴衆についてより野心的であり、彼の著作が人々を広く説得しなかったり、変化をもたらさなかったとき、自分により批判的であった。チャーチルは、ヒュームの哲学スタイルと特有の正義論の両方ゆえに、ヒュームが生命倫理学者にとって研究に値すると評価する。

3.2 公正なヘルスケア制度のために

 ではより精確に、ヒュームの正義論は、合衆国における衡平で利用できるヘルスケア制度の創造に、いかに役立つだろうか。チャーチルは、ヒュームによる財産についての正義の議論を現在のヘルスケアに当てはめて次のように述べる。ヘルスサービスの利用権は、我々が願望するものであり、他人も願望すると我々が明白に理解するものである。そのような利用権を保障する医療保険は、食、住、その他の生活に必要な重要財と同等に財産である。必要なヘルスサービスの安定的な利用権に対する、認識され互いに承認されたこの自己利益はまさに、人間の一種の脆弱さ(vulnerability)を示すものであり、ヒュームの正義のシナリオが引き合いに出し、公正な規則と制度を創る動機を与えるものである。誰もが利用権を持ち、したがってどんな時でも自分の健康状態や権力にかかわらず自分の利用権を確実にするシステムを擁護することは、単純に私の自己利益である。[6]

 アメリカ人たちがまだ誰もが利用する権利の制度創設を選択していないことについて、チャーチルは、ヘルスケアに対する来るべき自分のニードを過小評価する傾向と、そのような制度を組織するに十分な唯一の権威としての政府に対する軽蔑、長期よりも短期の自己利益の優先があると指摘する。そして、ヒュームを用いることはこのような文化的障壁を矯正することにはならないが、それでもヘルスケア改革についての次の会話を始めるべき地点を示すことができるとチャーチルは述べる。すなわち、仮定的契約者や仁愛的立法者を熱心に見習おうとするよりも、批判や反省を自分たち自身の経験に向けることである。

 チャーチルの考えでは、誰もが利用する権利にとって第一のつまずきの石は、公正の感覚の欠如ではなく、公正が自己利益と一致しないとの信念である。ほとんどのアメリカ人は、どの人も含む、特に貧しい労働者を含むヘルスケア制度が、現在の市場で営まれるヘルスケア制度よりも公平であることに賛成するだろう。しかしほとんどの人が確信していないのは、そのような制度が自分にとって個人的にいかに有利かである。そこで、自己利益の問いをはぐらかしたり無効化しようとするよりも、自分たちの利益を探り、明らかにすることによってヘルスケアの利用権についての政治的議論を始めるようにと、ヒュームは我々を励ます。ヒュームによる反省的理論化のアプローチにおいては、我々はヘルスケアの制度について「私にとってそこに何があるか」と尋ねる。これは、わがままや利己主義のしるしではなく、実践的な道徳的熟考に適切な、自然な思慮のしるしである。また、この質問は特殊な状況にある私の場所から提起されるが、我々は誰も自分のニードと利害だけを満たすことはできないので、「私にとってそこに何があるか」との問いは、承認される共通利害に訴えることによって答えられなければならない。反省的な人は、自己利益と社会福祉を競合する財ではなく補完的な財と見る。他者を犠牲にして個人や小グループの福祉を促進しようとする者は、たいてい短期の利益に焦点を合わせ、また社会的相互依存を認識しないゆえに、財のそのような関係位置を理解しそこなう。相互依存の状況における財のこの関係位置は、勝者と敗者を作るプログラムよりも相互に有利なプログラムを促進する政治的行動に味方する。そのように考える啓蒙された政治学では、ヘルスケアを誰もが利用する権利は、個人の自己利益と共同体の善との巧妙な結婚、ほとんどの西洋の民主主義国家が採用するが、アメリカではこれまで曖昧にしか考えられてこなかったアイディアに見える。以上がチャーチルの主張である。

結語 

 最後に、チャーチルの議論を振り返りながら、ヒュームの正義論に対する評価と補足を加えたい。

この論文においてチャーチルは、無保険者の存在が問題となっている合衆国のヘルスケア制度の状況を踏まえて、ヘルスケア制度を誰もが利用する権利を、ヒュームの正義論を用いて従来の議論よりも説得的に、主張することを意図した。したがってチャーチルは、ヒュームの正義論が従来の議論より説得的であり、かつ誰もが利用する権利を擁護できることを示さなければならない。

チャーチルが、誰もが利用する権利の正義ないし倫理性を始めに前提することについては、疑問が生じるかもしれない。すなわち、どのような正義論を採用するかによって正義の内容が変わるのだから、誰もが利用する権利は正当化されるとは限らないし、正当化される場合でもその方法と内容は異なる。だから誰もが利用する権利は、正当な前提ではなく、正当化されるべきものである。だがこれについては、ヒュームの正義論によってより適切に正当化されるはずの前提と考えよう。

 しかし、ヒュームの正義論がより説得的であることと、誰もが利用する権利を擁護できることとは、区別されるべき事柄であり、チャーチルは前者については論証したが、後者については不十分ではなかったか。

 ヒュームの正義論が、ロールズ流の社会契約論や神学的正義論に比べて、人間の現実をかなり踏まえていて、人々により受け入れられることは、チャーチルが論じたとおり、道徳理論としてより正当であることの徴でもある。ヒュームは、人間の観察と経験にもとづくモラル・サイエンス(人間の、そして道徳の科学)に取り組み、利益が徳である、あるいは効用が善であるとの道徳の因果法則を提示した。そして正義もまた、人々の効用ないし社会の便宜であり、社会の発展のなかで次第に生じたとヒュームは考える。このように道徳が経験科学ならば、それは人間に依拠することによって正しい。

 ヒュームの道徳論はその経験科学的方法によって説得性を持ちうる。しかし、道徳の科学はヒュームによってはまだ十分確立されていなかったのではないか。それは、チャールズがヒュームの正義論にもとづいて誰もが利用する権利を擁護できたかを見れば、明らかになるだろう。チャーチルは、ヒュームの正義論に符合して、誰もが利用する権利は各自の自己利益だと述べる。しかし、チャーチルが同時に強調するように、人々はそれぞれの特殊な状況に位置づけられている。健康な人や病気の人、富める人や貧しい人がいて、誰もが利用する権利を自分の利益とは感じない人もいる。それゆえ、少なくとも合衆国の現状では、誰もが利用する権利は設立されていない。では、そのような現状にかかわらず、誰もが利用する権利が個人の利益であり、それとして擁護されるべき規範だとはどのように主張できるのか。またもし各自にとっての個人の利益でなければ、誰もが利用する権利は必要ないのか、それともそれはやはり公共の利益としては擁護すべきなのか。ヒュームの正義論に即して表現するなら、個人の利益と公共の利益は常に一致するのか。個人の利益とは何か。そして、個人の利益と公共の利益とが一致しないとすれば、個人の利益とは別に公共の利益を擁護する必要はあるのか。その場合、公共の利益とは何か。これらの問いに答えなければならない。

 ヒュームは、正義が最初は各自の直接的利益として創設され、一度広く確立すると直接は個人の利益と一致しないと見える場合もあるが、それでも間接的には一致すると考えている(T3.2.2.24; 499)。だが、ヒュームは利益ないし効用の意味については定義してはいないため、現に設立されていない正義を語ることが困難に見えるし、各人が様々な利益を持つとしてそれらの重要性を評価することも困難に見える。

 道徳の科学の考え方に沿うなら、個人の、また社会の目指すべき利益とは何だろうか。L・スティーブンは、科学的道徳が心理学と社会学を含まねばならず、また社会は個人の単なる集合ではなく一つの有機体として考えねばならないと指摘する。そのうえで、道徳と社会学との関係を衛生学と生理学との関係に例え、道徳的規則とは社会有機体の機構に依拠してそれらの健康を実現するものだと述べる。すなわち、道徳の規則の正しさは、「有機体の活力を最高度に維持しようとする傾向がその最終的基準となる」(スティーブン, 1969)。

この考え方を取れば、ヒュームの議論をかなり補うことができるだろう。個人の、また社会の目指すべき利益とは、それぞれの有機体の維持と成長と考えることができる。また、社会の利益を個人の利益の観点だけから語ることは無理であり、個人の利益とは区別して公共の利益を議論しなければならない。さらに、誰もが利用する権利については何が言えるだろうか。誰もが利用する権利も他の制度と同様、社会の維持と発展にとって有益かどうかによって擁護されるべきかが決まることになるだろう。我々は社会学を確立してはいないので、社会の動きを見ながら制度を検証し、社会学の探求に努めつつ、制度を変えていくことになるだろう。


〈注〉

[1]  功利主義も有力な理論の一つであるはずだが、チャーチルによる明確な言及はない。ただしチャーチルは後に見るとおり、功利主義に批判的な論者(V・ホープ)の意見も引用しており、功利原理の非現実性に対しても批判的であるようだ。ヒュームの倫理学は功利主義と重なる部分があり、それらの異同および長所・短所の検討が必要である。

[2]   モラル(moral)には、現在通常使われる「道徳」という狭い意味だけではなく、「精神」という広い意味があり、ヒュームは広義で用いている。ヒュームの倫理学だけでなく認識論を含む哲学全体がモラル・フィロソフィーである。

[3]   ヒュームの『人間本性論』と『道徳原理の研究』への参照は、その著作の略記号の後に、巻や部、節の段落番号によって示し、さらにその後にSelby-Bigge/Nidditch版のページ数を付す。

[4]   有徳な人を見習おうとする道徳のあり方の指摘は、ベルクソンの道徳論における指摘を思い出させる(ベルクソン, 1969:245-6)

[5]   チャーチルは明言しないが、「負荷のある自己」や「状況に位置づけられた自己」とはもちろん、共同体主義(communitarianism)がロールズらの自由主義における自己を「負荷なき自己」(unencumbered self)と批判して、これに対置させる自己概念である(Sandel, 1982)。確かに自由主義的自己概念に対する批判の点では一致するとしても、ヒュームの倫理学と共同体主義や徳倫理学との整合性は、さらに検討すべきだろう。

[6]   チャーチルはこの一般線で議論をさらに発展させて、可能な反論と反駁を探求しているそうだ(Churchill, 1994: 44-63)。今回はその検討まではできなかったので今後の課題にしたいが、チャーチルの議論に対しては本論の結語で一応の検討を行った。

〈文献表〉

Churchill, Larry R., 1994, Self-Interest and Universal Health Care: Why Well-Insured Americans Should Support Coverage for Everyone, Cambridge, Mass: Harvard University Press

Churchill, Larry R., 1999, “Looking to Hume for Justice: On the Utility of Hume’s View of Justice for American Health Care Reform”, The Journal of Medicine and Philosophy Vol. 24, No. 4, 352-364.

Daniels, Norman, 1985, Just Health Care, Cambridge: Cambridge University Press.

Daniels, N., Light, D. and Caplan, R., 1996, Benchmarks of Fairness for Health Care Reform, New York: Oxford University Press.

Daugherty, Charles, 1998, “Equality and inequality in American Health Care”, Health Care Ethics: Critical Issues for the 21st Century, J. Monagle and D. Thomasma (eds.), Gaithersburg, MD: Aspen.

Hope, Vincent M., 1989, Virtue by Consensus: The moral Philosophy of Hutcheson, Hume, and Adam Smith, Oxford: Clarendon Press.(ヴィンセント・M・ホープ『ハチスン、ヒューム、スミスの道徳哲学合意による徳』奥谷浩一・内田司訳、創風社、1999年)

Mansbridge, Jane J., 1990, “Preface”, Beyond Self-Interest, J. Mansbridge (ed.), Chicago: The University of Chicago Press.

Nagel, Thomas, 1991, Equality and Partiality, New York: Oxford University Press.

Rawls, John, 1971 (rev. ed. 1999), A Theory of Justice, Cambridge, Mass.: Harvard University Press.(ジョン・ロールズ『正義論』矢島鈞次監訳、紀伊國屋書店、1979年)

Sandel, Michael J., 1982 (second ed. 1998), Liberalism and the Limits of Justice, Cambridge: Cambridge University Press.MJ・サンデル『自由主義と正義の限界』菊地理夫訳、三嶺書房、1992年(第2版1999年))

EPM: Hume, David, 1998, An Enquiry Concerning the Principles of Morals, T.L. Beauchamp (ed.), Oxford: Oxford University Press. 1975, Enquiries Concerning Human Understanding and Concerning the Principles of Morals, L. A. Selby-Bigge (ed.), third edition revised by P. H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press.(『道徳原理の研究』渡部峻明訳、晢書房、1993年)

T: Hume, David, 2000, A Treatise of Human Nature, David Fate Norton and Mary Norton (ed.), Oxford: Oxford University Press. 1978, L. A. Selby-Bigge (ed.), second edition revised by P. H. Nidditch, Oxford: Clarendon Press.(『人性論』全4巻、大槻春彦訳、岩波文庫、1948-1952年)

Hume, David, 1993, “A Kind of History of My Life”, The Cambridge Companion to Hume, David Fate Norton (ed.), Cambridge: Cambridge University Press.

アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』森口美都男訳、『世界の名著 ベルクソン』中央公論社、1969

L・スティーブン『十八世紀イギリス思想史(中)』中野好之訳、筑摩書房、1969


雑誌オンライン版目次
HOME