ドイツにおける脳死論議の現状
――「脳死」を放棄して移植を正当化することは可能か―

黒瀬 
(近畿大学非常勤講師、哲学・倫理学)

 

1 はじめに

 今日、脳死と臓器移植について考えるとき、1997年のR.D.トゥルオグの論文「脳死を放棄するときではないのか」 [1]が提起した問題について考えるのを避けることができない。日本とドイツでは、トゥルオグの論文が出る前に、脳死が本当に人の死と言えるのかどうかで論争があった。今日から見ると、日本の脳死臨調での論争は極めて興味深いもので、そこでの少数意見は「脳死」を個体死としないとした。またドイツでの論争においても、「脳死」を全体死とは認めない意見も少なくなかった。日本とドイツで議論されてきたことを考えると、「脳死」を人の死としないトゥルオグの説は興味深いが、それほど目新しいものではない。より興味深いのは、「脳死」説が維持できないとしたうえで、彼が臓器摘出を正当化しようとしたことと、その正当化論ではないだろうか。

 ここでは雑誌『医療における倫理』所収のユルゲン・イン=デア=シュミッテンの論文 「〈脳死〉を放棄して移植を正当化するR.D.トゥルオグの論文「脳死を放棄するときではないのか」へのコメント」[2]を紹介する。副題にあるように、本論文はトゥルオグの論文にコメントを加えるかたちを取って、彼の臓器摘出正当化論を中心に多くの問題点を指摘している。トゥルオグの議論は緻密に考察されたものでなく、本論文もその点を批判的に詳しく論じていて、参考になる。イン=デア=シュミッテンは「脳死」説には批判的ではあるが、臓器移植には反対しない立場である。その点ではトゥルオグと見解を同じくする。しかし、トゥルオグが臓器摘出を「正当な殺人」として正当化するのには批判的で、それとは異なる摘出の正当化論を提示している。そこに、アメリカや日本とは違ったドイツ独自の脳死と臓器移植をめぐる議論を見ることができる。また、トゥルオグの論文のドイツでの一つの受けとめ方を見ることができる。

 イン=デア=シュミッテンの論文の構成は3章からなるが、Tでは、トゥルオグの考えやドイツでそれがどのように受け止められているかなど、議論のために必要な予備的知識といったものが簡単に述べてある。Tから引用してみよう。(以下、原文を忠実に引用した箇所もあれば、要約引用の箇所もある。)

  R.D.トゥルオグの論文「脳死を放棄するときではないのか」は、アメリカでの臓器摘出の正当化の議論の転換点となった。アメリカでは過去数十年間に全脳死基準への批判が強くなり、一方で部分脳死基準がますます人気が高くなっている。とはいえ、トゥルオグは部分脳死基準を採用しない。トゥルオグの考えでは、部分脳死基準は医学をあらたな矛盾に巻き込み、とりわけ医学における死の概念と社会での死の現象の経験の間の隔たりをますます拡大することになるからである。トゥルオグは「脳死」概念を誤った構成物としてとらえ、部分脳死基準ではなく、心臓‐血液循環の不可逆的な停止という伝統的な死の基準に戻ることを提案する。(S.61 
 「脳死」基準を放棄して、臓器摘出を倫理的に、将来的には法的にも、どのように正当化するのかという問いに関して、トゥルオグは非侵害の原理(non-maleficence)と患者の自己決定の原理を志向することを提案する。そうすると、臓器摘出は積極的な死の援助(   aktive Sterbehilfe)の特殊ケースとしての「正当化される殺人」となる。臓器摘出を「正当化される殺人」として正当化しようとするトゥルオグの考えはドイツでは受け入れられない。というのは、ドイツの議論では、「脳死」基準の支持者も批判者も、積極的な死の援助を妥協することなく拒否することでは意見が一致しているからである。トゥルオグの立場は安楽死に近づくという問題をはらんでいる。ドイツでの「脳死」支持者が述べているように、「脳死」説を拒否して臓器摘出を正当化しようとすると、必然的な結果として安楽死へ近づくことになる。
 ドイツの「脳死」批判者の臓器摘出正当化論はトゥルオグの正当化論とはきっぱり区別されるものである。(S.62

 イン=デア=シュミッテンも含めて、「脳死」を人の死と認めないが、臓器移植には反対しないドイツの論者たちは、臓器摘出に至る過程では、患者の生命が延長され死が延期されているとして、臓器摘出は積極的安楽死や嘱託殺人と区別されると主張する。これに対して、脳死を人の死と考える論者は、脳死を人の死とせずに臓器摘出を実行すれば、積極的安楽死に門を開くことになると批判する。脳死に関しては意見が違っていても、両者は積極的安楽死・積極的な死の援助を認めない点では一致している。[3]

 以下、論文の主要部分であるUとVでのイン=デア=シュミッテンの議論について本文を紹介しつつ、論評していく。Uでは「非侵害の原理(nil nocere)と患者の自己決定の原理による臓器摘出の正当化への批判」、Vでは「臓器摘出正当化のための代替案」という主題が取り扱われている。     

2 非侵害の原理と患者の自己決定の原理による臓器摘出の正当化への批判  

トゥルオグは、移植の条件としての「脳死」説を捨て、同意の原理と非侵害の原理を根拠にして臓器摘出を正当な殺人の一形態として正当化することを提案する。そして、臓器摘出によって侵害されることのない個人として、トゥルオグは二つのグループをあげる。一つは、「脳死」患者、遷延性の植物状態(PVS)の患者、無脳症の新生児のような持続的で不可逆的な意識喪失状態の患者である。二つめは、死が切迫していて、不可避である人たちである。

 イン=デア=シュミッテンは非侵害の原理に関するトゥルオグの議論が不十分なものであるとして批判していく。まず最初に、次の二つの点で批判する。

    (1)トゥルオグは「侵害(Schaden)」概念の規範的性質を無視している。二つのうちのどちらが人に害になるかどうかは、評価あるいは尺度の問題である。命を終わらせる措置(Eingriff)によっても「侵害され」えない人たちを指定することができると考える者は、どのような基準にしたがって、どのような審級で、またどんな根拠で、「侵害」と「非侵害」を評価するのかを説明するのを避けることはできない。ところが、トゥルオグはこの努力をしていない。彼が侵害されることがありえないと考えた人たちのグループから、根拠となっている基準を再構成し、その根拠の確実性を熟考するのは、読者に任されているのである。[4]

    (2)これと関連して、トゥルオグが注目しなかったが、より根本的な問いがある。倫理的な観点からすると、臓器摘出、他人には有益ではあるが、本人の生命を終わらせる措置を正当化するのに、その個人が侵害されるかどうかが決定的なのか。言い換えると、臓器摘出という生きた人間への措置は、個人が経験するかもしれない侵害の評価とは独立して、正当化する義務のある行為を構成するのではないのか。(S.63) 

 (1)でイン=デア=シュミッテンが指摘しているように、トゥルオグは、どのような基準や根拠で、一部の人々が臓器摘出によっても「侵害されない」とするのか、まったく説明していない。また(2)で指摘しているように、トゥルオグの論文を読んでも、なぜ非侵害の原理が臓器移植の正当化の根拠になるのか、説明がない。さらに、そもそも「侵害」とは何かについて、トゥルオグは説明していない。こうした基本的なことを考察していないので、トゥルオグの議論は緻密さに欠け、粗雑なものとなっている。[5]

 侵害に関して基本的なことを考察していないので、次の問題点が生じてくる。不可逆的な意識喪失者として、「脳死」の患者、遷延性の植物状態(PVS)の患者、無脳症の患者の3つをトゥルオグはあげているが、これですべて網羅されたのか。それとも、もっと多くの中から、具体例として3つがあげられたのか。この3つがどの程度まで完全なリストになっているのか、それがはっきりしない。 

     とりわけ、トゥルオグが非侵害の原理を具体化するグループとした人たちに関して、具体例が問題になっているのか、それとも潜在的ドナーの完全なリストが問題になっているのか、未解決のままである。(S.63 

 後でも言われるが、基準に関する考察があいまいで不十分だと、該当する対象の範囲が恣意的に拡大される可能性が出てくる。その結果、重度の精神障害者などから臓器を摘出することが許されかねない。

 「臓器を摘出されても、侵害されることなく」、同意があれば、ドナーになりうるとした二つのグループそれぞれについて、イン=デア=シュミッテンは問題点を詳しく論じている。

 (1)「残り少ない寿命という(死が切迫して不可避である)基準」について。

 死期が確実に迫っている人が、なぜ侵害を受けないのか。イン=デア=シュミッテンは幾つかの疑問を提出している。 

    トゥルオグが「切迫して不可避である」と特徴づける死の接近は、かなり自由に動かすことのできる範囲をもっている。医者の判断でわずか数週間の命とされた人も、「死が切迫して不可避の人」ではないのか。また、「死が切迫して不可避である人」の集団を必然的な正確さで決める時間の境界をだれが設定するのか。
 このように、残り少ない命の基準は量的に無限定であるだけでなく、質的にも、なぜその人が「侵害され」えないのかを根拠づけるのに適していないと思われる。ここには「脳死」賛成論者の考え方を想起させるものがある。つまり、「脳死」になれば、ごく短い時間のうちに有機体が崩壊するので、「脳死」は人の死であるとする考え方を想起させる。トゥルオグは、こうした考え方は予測と診断を混同するものであると反対したではないか。しかし、死が切迫して不可避である人にはもはや侵害はありえないというトゥルオグのテーゼに対しても同様のことが言える。
 悲しい出来事や喜ばしい出来事の主観的な持続時間や意味は、時間的な長さから独立しているのではないだろうか。一般的に、生の最後の瞬間での体験と認識には特別な質が与えられるのではないのか。短い間だけ感じられるとしても、加えられた侵害は侵害である。なぜ、よりによって、生の最後の時間(あるいは日々)が身体的にも感情的にも傷つかない期間と言うべきか、根拠づけるのは難しいだろう。(S.64 

 次は、(2)不可逆的な意識喪失の基準についてである。

 まず第一に、不可逆的な意識喪失者として、「脳死」、植物状態(PVS)、無脳症の患者の3つをトゥルオグはあげているが、完全なリストなのか、それとも具体例なのか。どの程度まで完全なリストになっているのか、それがはっきりしない。これらの患者に欠けているのは、意識、認知能力の喪失、関心の喪失などであるが、基準が厳密でないと、解釈上の幅をもたらすことになり、該当する人たちが拡大される可能性もある。 

    トゥルオグがどのような基準と根拠を用いていようが、例えば、重度の精神障害や重度の痴呆にまで拡大することに反対して、彼が説得的な論拠を提示するのは難しいだろう。(S.65 

 重度の精神障害や痴呆にまで拡大される可能性を否定できないことを指摘するとき、イン=デア=シュミッテンはナチスの安楽死犯罪のことを考えている。次の引用箇所では、イン=デア=シュミッテンはトゥルオグの不可逆的な意識喪失の基準とナチスの安楽死犯罪を思想内容的に関連づけ、その問題点を指摘している。ドイツでは、ナチスによる犯罪を考慮に入れず安楽死議論を行うことはできない。 

    人間の身体統合への侵襲(Eingriff)は、その人の利益が害される度合いに応じて正当化の必要があるとする点で、トゥルオグの立場は功利主義的である。こうした考えは人間社会の病気で弱い多数の構成員の無条件の保護要求(Schutzanspruch)を相対化することになるので、重大な倫理的問題をともなう。こうした功利主義的な立場に対して、他人の身体が存在していることだけで根拠づけられる保護要求がある。この保護要求は認知能力もしくは他の能力の証明からは独立したものである。ドイツ基本法(第2条第2項)の身体統合の保護はナチスの安楽死犯罪の影響を強く受けたものであり、あらゆる認知能力、あるいは意識レベルから独立したものだと構想されている。(S.66 

    生きた人間の身体統合への侵襲は、意識レベルから独立して、無制限に正当化する必要がある。こうした考えは、ドイツでは、あえて議論する余地のないものであることを認めるなら、臓器摘出と結び付き、利他的で、事情によっては、生命を終わらせる措置は、不可逆的な昏睡状態にあるドナーの場合においても、厳格に個人的な同意を必然的に前提にすることは明らかである。もし臓器摘出を正当化するのに同意だけで十分とするなら、「正当化された殺人(嘱託殺人)」の特殊例が問題になっていることになる。ドイツの議論の大半は嘱託殺人に対して懐疑的であるから、代替の臓器摘出正当化への問いが提起される。(S.67 

 時代的にはナチスよりも少し前に現れたビンディングとホッヘの思想を見れば、なぜイン=デア=シュミッテンが個人の身体統合を「あらゆる認知能力、あるいは意識レベルから独立して」保護する必要があると考えたのかがわかる。また、なぜ彼がトゥルオグの不可逆的な意識喪失の基準を問題にするのかがわかる。米本昌平氏の『遺伝管理社会』によると、ビンディングとホッヘは「生きるに値しない生命」、つまり、社会にとっても本人にとっても生きることがあらゆる価値の浪費でしかない生命があると考え、そうした生命として「精神的に完全に死んでしまった者」をあげた。そして、「精神的な死者」の特徴を「自己意識を欠いていること」としたのである。ビンディングとホッヘの思想はナチスによる障害者の組織的殺害に対して論理的正当化を与えた先駆とみなされるほど、ナチズムに酷似している。[6]

 さらに、イン=デア=シュミッテンは次の疑問を出している。「侵害を受けない」とされた人々の例から、トゥルオグが侵害を肉体的苦痛によって知覚されるものと理解していることは確かである。しかし、侵害は肉体的苦痛の知覚によって生じるものだけでない。精神的なものもある。トゥルオグが侵害されることはないとした意識喪失者の中にも、かりに肉体的苦痛を感じなかったとしても、宗教上の理由から摘出によって侵害を受けたと考える人もいるだろう。アメリカのニュージャージー州では、宗教上の理由で「脳死」を拒否する人たちに対して脳死宣告をするのを禁じている。 

   基準の不明確さに加えて、肉体的な苦痛の知覚がもはや意識に達することはないので、不可逆的な昏睡状態にある人は侵害を受けることはありえないというテーゼが根拠のあるものかどうか疑わしい。意識の現象を脳の作用に還元するのは、現代の脳研究の観点からすれば、維持できない。さらにまた、患者本人の視点からすると、侵害は苦痛の知覚によってのみ生じるものか。宗教上の理由から、多くの人にとって、自分の死を経験するとき意識を失っている場合にも、死ぬときの状況が重要であることから、侵害が生じないのか。アメリカの一部の州では、宗教上の理由で「脳死」説に反対の人には脳死宣告をするのを禁じているではないか。(S.65 

 これまで「非侵害の原理」に関するトゥルオグの考察がかなり問題の多いものであることを見てきた。もう一つの原理である自己決定、同意の原理についてはどうか。この原理についても、トゥルオグはそれほど厳格に考えていない。トゥルオグは同意は代理でもいいとして、緩やかなものと考えている。イン=デア=シュミッテンはなぜそうなるかについて説明している。 

   「脳死」説の機能は不可逆的な昏睡状態の患者を死んだと宣告することで、その患者に対する倫理的な義務から私たちを解放することであったし、今もそうである。確かにトゥルオグは「脳死」説を捨てたが、「脳死」説の根本となる前提、つまり、不可逆的な昏睡状態にある患者を「侵害すること」はできないという前提を断絶することなく継続している。定義によって、臓器摘出という措置の命を終わらせる性質が意味を失うだけでなく、「脳死」説の場合と同様に、侵害する可能性がないので、同意(Zustimmung)の条件が丁寧な容認(Zugestandnis)になる。トゥルオグが厳格に個人的な同意を求めずに、正当な代理人の同意を許すのは偶然ではない。(S.66     

 利益が大きく、生じる侵害が小さければ小さいほど、本人の同意への要求は小さくなる。逆に、利益が小さく、措置による侵害が大きければ大きいほど、本人の同意への要求は大きくなる。(S.65f. 

 侵害する可能性がなければ、あるいは小さければ、患者本人の同意に対する要求は厳格なものでなくなる。トゥルオグは同意の原理を言いながら、徹底することなく、「同意」を「容認」へ緩めている。

  これまで見てきたように、臓器摘出正当化の根拠とした二つの原理についてのトゥルオグの考察は不十分で、かつ徹底しないものであった。トゥルオグが臓器摘出の正当化に成功しているとはとても言えない。

 それではイン=デア=シュミッテンが提示する代替の臓器摘出正当化論はどうか。

3 臓器摘出の正当化のための代替案

 1で述べたが、イン=デア=シュミッテンは「脳死」を人の死と認めないが、臓器移植には賛成する立場をとる。そして、立場を同じくするドイツの他の論者と同様に、本人自身の確かな意思が必要だとする。 

      ドイツでの「脳死」論争では中間の道が提案された。臓器提供は次の二つの条件でのみ許される。(1)不可逆的な全脳の機能不全が確定されていること、(2)臓器提供証明書のかたちで、本人の確かな同意があること。(S.67 

 こうしたドイツの「中間の道」は以下の2点でトゥルオグの提案とは異なる。次の1については、非侵害の原理に拠るトゥルオグを批判し、「脳死」説をとらないイン=デア=シュミッテンからすれば、当然の主張である。 

    1.臓器摘出は身体の統合への侵襲であり、不可逆的な脳の機能不全にある患者の不可避の死への侵襲であるので、原理的に正当化する必要がある。トゥルオグとちがって、臓器摘出の侵襲の性質をもはや隠さないときにのみ、臓器「提供」の議論が意味をもつ。

    2.不可逆的な脳の機能不全は、自発呼吸の停止、深昏睡、確実に予後の見込みのない状態を表し、その状態では、患者にすぐに死をもたらす延命治療の停止は必要というわけではないにしても、倫理的に、医学的に、そして法的に基本的に許容されるものして認められている。死の援助に対する連邦医師会の現行の指針も(これまでの指針と同様に)、死の診断ではなく、神経学的に回復の見込みのない状態の確定を延命治療の停止の条件とした。
 臓器摘出への同意は、<生命の短縮>でなく、<生命の延長>をもたらす。非ドナーの場合、脳の不可逆的な機能不全が診断されるとすぐに死ぬことが可能になるのに対して、ドナーの場合、臓器摘出のために、有機体としての、また技術的な前提が満たされるまで延命装置につながれる。それゆえ、臓器提供への同意は積極的な死の援助に対するあらゆる要求から原理的に区別される。というのは、後者はつねに生命の短縮を目的とするからである。
 死に至る病気は、ドナーの場合も非ドナーの場合も、不可逆的な脳の機能不全である。非ドナーの場合、直接的な死の原因はICUでの呼吸装置のスイッチを切ることである。ドナーの場合、内部臓器の摘出が装置のスイッチを切ることと平行して(同時に)行われる。事情によっては、摘出はスイッチを切る数秒先になる。全脳の不可逆的な機能不全の場合に、臓器提供の準備を承認することは嘱託殺人の先例を受け入れることではなく、臓器提供で他人を助けるために、自分の死を延期して、不可避の死の到来の状況を変更してもいいと容認することである。(
S.67f. 

 2からわかるように、イン=デア=シュミッテンは、積極的安楽死や嘱託殺人と区別するために、臓器摘出まで患者の生命を延長し、死を延期しているとする。ここで注目したいのは、「内部臓器の摘出が装置のスイッチを切ることと平行して(同時に)行われる。事情によっては、摘出はスイッチを切る数秒先に行われる」という部分である。この箇所に、イン=デア=シュミッテンが志向するものがよく現れている。[7]

  臓器摘出が装置のスイッチを切ることと平行して(同時に)、あるいは数秒先に(ほとんど同時に)行われているので、摘出行為によって、患者は死ぬのではないとイン=デア=シュミッテンは言おうとしている。「脳死」を人の死としないのだから、臓器摘出が死の原因になると、殺人になる。だから、同時に延命治療の停止もなされたことから、摘出行為が直接的な死の原因ではないと言おうとしている。とはいっても、イン=デア=シュミッテンは治療停止が患者の死の原因であるとまでは言っていない。非ドナーの場合、直接的な死の原因は装置のスイッチを切ることだとはっきり言っているのに、ドナーの場合の死の原因については明言していない。なぜ明言できないのか。[8]

 もし、ドナーの死の原因を治療停止とし、摘出行為は死の原因を構成しないとすると、イン=デア=シュミッテンがトゥルオグの非侵害の原理を批判し、臓器摘出は身体への侵襲であるから正当化する必要があると言っているのに矛盾することになる。だから、彼は呼吸装置の取り外しをドナーの死の原因であると言い切ることができない。イン=デア=シュミッテンは死の原因として治療停止を志向しながら、その志向を徹底すれば自分の主張に矛盾することになるというジレンマに陥っている。

 摘出と装置のスイッチを切ることが平行しているのなら、まだ生きている体から臓器を摘出していることになる。また摘出が「数秒先」の場合も、生体に対して臓器摘出行為を開始したことになる。わずか「数秒」といっても、軽視することはできない。トゥルオグの「死が切迫して不可避である」基準に対する批判で、イン=デア=シュミッテン自身、生の最後の瞬間には特別な質が与えられるのではないか、と言っていた。心臓の摘出が装置の取り外しより「数秒」先行した場合、第一に考えるべき死の直接的な原因は心臓の摘出である。そして、わずかでも作為による生命の短縮があった場合、ほぼ同時に延命治療の停止(不作為)があったとしても、作為による生命の短縮という事実がなくなるわけでない。数秒後に不作為があったからといって、それ以前の作為による結果や影響を無視することはできない。死の直接的原因として(あるいは原因の一つとして)、心臓摘出を考えるのが理にかなっている。

 臓器移植を実行するとき、脳の不可逆的な機能不全が確定された後に、適切なレシピエントの選出など移植の準備のために、装置のスイッチを切らず、ドナーの生が延長され、死が延期される。臓器提供を申し出ることは、「臓器提供で他人を助けるために、自分の死を延期して、不可避の死の到来の状況を変更」するのを許可することである。自分の死を選択する権利から、他人への臓器提供のために自分の死の状況を変更するのを許すことである。こうした「脳死」を否定しながら臓器移植を認めるドイツの論者の考え方を、違法性阻却よりも「尊厳死」論に立脚するものとする中山研一氏の指摘は正しいと思われる。中山氏の指摘はイン=デア=シュミッテンにも妥当する。[9]

 一般にドイツの「脳死」否定論者の臓器摘出正当化論には、生体からの臓器摘出が許されるのかどうかの議論がない。イン=デア=シュミッテンの正当化論にも、その説明がない。延命治療の停止は法的にも倫理的にも許されていると述べているのに、彼は臓器摘出が生きている患者に対して本当に許されるのかという問題を取り上げていない。この問題を正面に見据えて議論しないかぎり、臓器摘出を正当化することはできない。作為による生命の短縮(生体からの臓器摘出)があったのに、患者の死に至る過程を不作為(治療停止)で説明することは事の実態をカモフラージュすることである。他人に臓器を提供するために、患者の死期を作為で早めることがあったのなら、嘱託殺人とは言わないまでも、利他的な生命短縮が行われたことは認めるべきであろう。[10]

 最後に、これまで見てきたことを振り返ると、イン=デア=シュミッテンが明らかにしたように、トゥルオグの臓器摘出正当化論は緻密に考察されたものでなく、それによって摘出が正当化されたとはとても言えない。イン=デア=シュミッテンの臓器摘出正当化論に関しては、肝心の問題を説明していないという難点があった。他では、違法性阻却論による摘出の正当化があるが、これについても多くの問題点が指摘されている。[11]現在のところ、「脳死」を人の死とせずに臓器移植を肯定する議論で、十分に納得できるものはないようだ。

 

〈注〉

[1] R.D.Truog, Is It Time To Abandon Brain Death?, Hastings Center Report, vol.27, no.1, 1997.  脳死に関して、トゥルオグは死の定義、死の基準、死のテストの3つのレベルに区別して考え、テストを満たした者は基準も満たし、基準を満たした者は定義も満たさなければならないとする。ところが、トゥルオグの考えでは、現在の脳死の定式化では、テストと基準の間に矛盾があり、また基準と定義の間にも矛盾がある。脳死テストを満たした者が「全脳の機能の永久的な停止」という死の基準を満たさない証拠がある(脳下垂体ホルモンの分泌、臓器摘出によって心拍数や血圧が上昇するなど)。また、「全脳の機能の永久的な停止」という基準を満たしても、「全体としての有機体の機能の永久的な停止」という死の定義を満たさないことがある。過去においては、脳死判定テストを満たしたら、人工呼吸や集中治療を与えても、患者は短期間に心停止に至るとされていた。ところが最近では、脳死と診断された妊婦の生命をその胎児が生命を維持できる状態に達するまで延長することが可能となるなど、短期間で不可避的に心停止に至ることに基礎を置いた死の定義は不十分なものとなっている。こうしたことなどから、トゥルオグは人の死としての脳死説を維持するのは困難であると主張する。なお、トゥルオグに関しては、参考文献2および参考文献9の第1章を参照。

[2]  Jurgen in der Schmitten, Organtransplantation ohne "Hirntod"-Konzept ? Anmerkungen zu R.D.Truogs Aufsatz "Is It Time To Abandon Brain Death?", Ethik in der Medizin , Bd.14, Heft 2, Juni 2002. 

[3]  ドイツの脳死と臓器移植をめぐる論争については参考文献1を参照。この本には12の論文とトゥルオグの論文のドイツ語訳が収録されており、ドイツでの議論を知るのに便利である。
 ドイツでの脳死と臓器移植をめぐる議論で、「脳死」を人の死とは認めないが、臓器移植には賛成する論者は、臓器摘出を積極的安楽死や嘱託殺人と区別するために、臓器摘出に至るまでの過程では患者の生命を延長し、死を延期していると考える。ここで参考までに、トレンドルとリュッツの言葉を要約引用する。
 脳死の場合に、潜在的なドナーが臓器摘出まで装置の取り外しを延ばすことを進んでするのと積極的安楽死には共通点はまったくない。というのは、臓器提供の意志によって、不可逆的な死のプロセスを同意のもとに意図的に延ばすこと(Verlangern)、したがって、基本的に死ぬのを困難にすること(das Erschweren des Sterbens)を安楽死あるいは殺人の「明白で真摯な要請」と同一視することはできないからである。(H.Trondle, Keine Organentnahme ohne Einwilligung des Spenders,参考文献1所収、S.54
 臓器提供を決心した人は、自発的に死を延期すること、したがって、もっぱら臓器提供を可能にする意図で、生を延長することに同意する。これに対して、殺人の場合は純粋な生の短縮が前面に出てくる。(M.Lutz, Die Diskussion zum Transplantationsgesetz,参考文献1所収、S.30) 
  これに対して、脳死を人の死と考える論者は、脳死を人の死と認めずに臓器摘出を実行することは、積極的安楽死に門を開くことになると批判する。ここで、シュライバーの言葉を引用してみよう。 
 生きている脳死者から、本人の同意によって臓器を摘出するのを許可することで、法律は利他的な積極的安楽死に門を開くことになるだろう。/脳死を拒否しながら狭い同意方式というやり方で臓器摘出を正当化するのは、一貫性に欠け、基本法1条および2条2項に反する抜け道である。/私の考えでは、いかなる等級づけも許されない人間の生命が問題となっているとき、 臓器摘出が直接に死をもたらすのに、本人の同意によって生者からの臓器摘出をどうして正当化することができるのか。(H-L Schreiber, Wann ist der Mensch tot?,参考文献1所収、S.51

[4]  ドイツ語の単語Eingriffについては、使われ方に応じて「措置」と「侵襲」に訳しわけた。

[5]  自分の見解の正しさを主張するために、トゥルオグは医療者の意識調査を引き合いに出している。
  調査からわかったことは、内科医と看護師の3分の1が脳死の患者を本当に死んでいるとは思っていないのに、その患者は意識のない状態が続き、そして、もしくは死が切迫しているゆえに、臓器摘出してもかまわないと考えていることである。言い換えると、すでに多くの臨床医は、患者が本当に死んでいるという信念よりも、非侵害と同意にもとづいて、自分たちの行為を正当化するようだ。(参考文献1、S.97
 医療の現場にいる人たちの意見は傾聴すべきであるが、体験に基づく意見が慎重な倫理的考察を経て形成されたものとはかぎらない。

[6]  参考文献7164ページ以下、参考文献8参照。

[7]  当該箇所のドイツ語原文を引用しておく。"im Fall des Spenders geht die Entnahme der inneren Organe mit dem Abschalten der Apparate einher, unter Umstanden diesem auch um Sekunden voraus."S.68

[8]   実際、脳死を人の死とせずに臓器移植を認める論者の中には、トレンドレのように、臓器摘出は決して死の原因ではなく、最終的な死の原因は延命装置の取り外しであると 明言する者もいる。「臓器の摘出はいかなる場合にも死の本来の原因ではなく、むしろ多くの原因のうち、最終的な死の原因は、大抵は心肺機能の人工的な維持を司る医療機器の遮断である。」(参考文献365ページ)しかし、心臓の摘出が装置の取り外しに先行する場合、(数秒先であろうが、数分先であろうが)、摘出がいかなる場合も死の原因を構成しないとするのには賛成できない。
 なお、トレンドレについては、注3も参照。

[9]  「トレンドレはむしろ、死の過程を引き延ばすことによって臓器摘出を可能にし、他人に役立つ死に方を選択する権利として構成する方法をとったことである。これは一種の『尊厳死』として処理する方向を示唆するものといえようか」(参考文献357ページ)。シュミット・ヨルツィッヒについても、中山氏は「基本的に『尊厳死』論に立脚するもの」と述べている(参考文献476ページ)。

[10]  ドイツの「脳死」否定論者における「作為」と「不作為」の問題については、中山研一氏も指摘している(参考文献477ページ)。

[11]  参考文献6、第6章「臓器移植と違法性阻却説」参照。

〈参考文献〉

1 Firnkorn,H.J.(Hrsg.), Hirntod als Todeskriterium. Schattauer.Stuttgart 2000.
2 中山研一「アメリカにおける脳死否定論」、『北陸法学』第5巻第3号、1997
 中山研一「ドイツにおける脳死否定論(一)トレンドレの論文の紹介」、『北陸法学』第7巻第2号、1999
4 中山研一「ドイツにおける脳死否定論(二)シュミット・ヨルツィッヒの所説の紹介」、『北陸法学』第7巻第3号、1999
5 中山研一『脳死・臓器移植と法』成文堂、1989
6 中山研一『臓器移植立法のあり方』成文堂、1995
7 米本昌平『遺伝管理社会』弘文堂、1989
8 カール=ビンディング/アルフレート=ホッヘ『「生きるに値しない命」とは誰のことか』森下・佐野訳、窓社、2001
9 森岡正博『生命学に何ができるか脳死・フェミニズム・優生思想』勁草書房、2001


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