看護倫理教育プログラムを考える
―ミネソタ大学カリキュラムの検討―

中岡成文
(大阪大学大学院文学研究科教授、臨床哲学)

 

 1998年のことになるが、ミネソタ大学看護学部の看護倫理教育プログラムに目を通すことができた。それは次の標題を持つ冊子であった。

MCSLBuilding: Developing a Strong Ethics Curriculum in Nursing Using, 2nd ed., ed. by Laura Duckett et al.,University ofMinnesotaSchool ofNursing,Minneapolis

 たいへん興味深いこの冊子に盛られた教育プログラムについては、大阪大学・臨床哲学の教育活動の中心をなす金曜日6限目の授業(1998年秋)で紹介をし、看護の社会人院生をはじめかなりの関心は示してもらったが、まだ論文などの形では一般向けに紹介・検討していなかった。この場を借りて、大阪大学大学院文学研究科で「臨床哲学」の分野が発足して以降四年半の経験をふまえて、若干のコメントを試みることにより、その責を果たしたいと思う。

1 プログラムの性格と作成の経緯

 ミネソタ大学の看護倫理教育プログラムは、MCSL方式を当分野に当てはめたものである。本冊子に収められた「第1版への序文」によれば、MCSL(マッスル)方式とは「多コース連続学習」Multi-Course Sequential Learningを意味し、この場合はカリキュラムのすべてのレベルにわたって、看護コースに倫理の単位が整合的構造をもって組み込まれた垂直的コースであるという。「第2版への序文」によれば、ミネソタ大学で倫理のマッスルが作られたのは1987年にさかのぼる。しかし、その後、ミネソタ大学内外とのコミュニケーションのもとに、学部教育プログラムに適合する倫理マッスルを準備する必要が感じられたのだという。

  プロジェクトの1年目(1988年)と2年目(1989年)に「倫理を教えることがみんなの責任であるとき」と題するワークショップを各1度もったと述べられている。さまざまな専門領域の臨床教員グループに、臨床領域に共通の倫理的問題をあげてもらい、そこから各グループで1つずつ事例を構成してもらったという。

 プロジェクトを充実させるためには、プロジェクトスタッフ以外のミネソタ大学教員を巻き込むことが必要であった。各コース(科目)の倫理的内容を、学生が倫理に関してそれまでに習ったことに基づいて組み立てようとすれば、学生の学習内容を教員が心得ていることが決定的に重要である。また、教員全体の倫理教育への意識を刺激するために、「大学で哲学の授業をいくつ取りましたか」とか、「どこかの機関の倫理委員会の委員だったことがありますか」などという質問も設けられた。このように多くの教官と相談したので、とってつけたような倫理教育授業ではなく、専門科目の統合性を保ったまま倫理的内容を附加することが可能になったという。ただし、「継ぎ目のないフィット」のためには、プロジェクト当初の注意深い計画だけでは十分ではなく、その後のフォローアップ、つまり学内外の反響を窺いながら、プログラム評価・修正の試みを繰り返すことが必要だったようである。

  ミネソタ大学の教員組織には、倫理教員もいれば、看護専門科目の教員もいる。専門科目教員の関与の仕方は、最初は授業のオブザーバーだったのに、やがて共同授業担当者co-teacherないし司会役(ファシリテーター)facilitatorとなったり、また専門科目教官が全責任をもち、倫理教官が指導者にして学生へのリソース(援助者)になる形へと変わったりした。すでに科目に含まれているのに、それまではそれと認識されていなかった倫理的内容を強調し、リフレームするやり方を見つけることで、教官の倫理に関する能力は高まる。本冊子の著者たちの多くは、正式な教育の一環としては倫理学研究の訓練を受けていないので、倫理の知識や技術を高めるのは個人的責任とチャレンジに基づくものだったと述べられている。

 なお、本冊子の焦点は学部レベルの倫理教育にあるが、看護教育者、管理者、研究者にも倫理教育は同じく必要だと述べられていることも、言い添えておきたい。

2 看護倫理教育の必要性と担当者の適性

 看護教育で倫理を教える意味については、次のように述べられている。「家庭におけるしつけなどで基本的な倫理教育はすでに完了しているのであり、看護学生にこれ以上哲学を教える必要はない」という意見がある。この意見によれば、看護者はこのようにしてえられた倫理的「初期価値」をただ看護倫理綱領と結びつけるだけで十分ということになる。しかしそれは正しくないのであり、初期価値がさらなる道徳的発達の基礎となるように、学生を援助してやる必要があると著者たちは論じ、次のような倫理教育の可能性をあげる。

 第一に、看護実践における倫理的決定は、たんに個々の看護者たちがその場かぎりの形で、各人なりにばらばらにしてよいものではない。その決定はしっかりした理論に基づいて、「形式的」にきちんと基礎づける必要がある。そのためには、看護学生はもっともよく知られ、影響力のある道徳理論を勉強する必要がある。

 第二の点として、「批判的思考」critical thinkingも習得可能である。批判的思考は看護科学の一部としても発達すべきものだが、それを倫理的実践において強化することができる。

 第三にいえるのは、看護者は価値、義務、権利、原則、ニーズなどが対立している状況で的確に判断し、行動できなければいけないが、そのための自覚は学習によって身につけ、高めることが可能だということである。他者の権利や価値についての感受性をすでに看護者は獲得してはいるだろうが、それは事例研究などにより、強化することができる。とくに、看護学生やナースが臨床の場で、はっきりと定義できない、何か本能的な「具合の悪さ」discomfortを感じている場合、その状況がどんな「倫理的含意」を持っているのかを分析し、倫理性についての自覚を高めてあげることは、たいへん重要である。

  第四に、道徳的決定を道徳的に擁護可能な仕方で実行することが重要であり、しかもそれは学習により身につけられるものである。たとえば所属する組織が不正なことをしているとき、それを外部に「内部告発」whistle blowingすることは、適切な仕方で行えば、倫理的・道徳的に正しいことであるが、その適切な仕方は習得しうるものである。

 それでは次に、看護倫理の授業が誰が受け持つのがふさわしいのだろうか。哲学・倫理学の専門家が看護倫理の授業を担当すると、内容がどうしても抽象的に流れやすい。ヘルス科学の訓練を受けていないので、学生が学習する他の看護専門カリキュラムと直接関係ない内容を教えることになる。もちろん、広い人文的教養を与えるという意味ではそれも悪くないが、学生の直接的経験と目に見える関連がないというのは、やはり痛い。

 それでは看護倫理の授業は看護教育カリキュラム全体の中に統合され、看護専門教員によって担当されていることが望ましいのであろうか。著者たちはこの場合にも問題が残ると指摘する。つまりえてして教員相互の連絡が不十分で、内容が重複したり、ある内容が触れられずに終わったりして、倫理教育としては総合性に欠ける結果になりやすい。

 以上のような従来の問題点をふまえて、このマッスルの方式が開発されたのだという。たんにある学年のある時期に単発的あるいは散発的に倫理教育を済ませてしまうのではなく、カリキュラム横断的に各コースにわたってコンテンツが振り分けられ、実習などと有機的に組み合わされている様子は、本冊子に図で示されている。

  再び授業担当者の適性に話を戻せば、道徳哲学(倫理学)と看護学の両方の専門的知識があればそれに越したことはないものの、それを1個人が体現するのはしばしば困難である。そこで最低限、片方のディシプリンで専門的知識をもち、他方のディシプリンに関しても(専門的知識には及ばないものの)十分に精通していることが必要だと指摘されている。

  倫理教育が実をあげるためには、一部ではなく、すべての教官が「道徳的知のあり方」a moral way of knowingについて、通り一遍でない心得を持っていることが必要である。倫理が特別科目として教えられていようと、統合的なアプローチの中に組み込まれていようと、臨床の教官は学生の倫理的感受性を高めさせる責任を自分で負わねばならないのであって、それを他人に任せることはできないと述べられている。

3 どんな理論をどんな仕方で教えるか

 本冊子では、看護倫理の基本となる理論は、道徳哲学、道徳心理学、看護学の3つだとされている。注意すべきこととして触れられているのは、アメリカの社会構造の基礎となっている哲学的倫理学は、異なった神学的伝統に由来する道徳的確信をもつ諸個人に対して寛容だということである。すると、いかに他の点で優れていようと、多元性を認めない道徳神学は採用するわけにはいかないということになる。

 道徳心理学では、ピアジェとコールバーグの理論が重視され、なかでも道徳的推論能力を育てる役割を期待されている。コールバーグの道徳的推論moral reasoningの6段階論は一般にもよく知られているが、本プログラムでは、その理論を継承する学者レストJames RestDITDefining Issues Test)モデルに高い評価が与えられている。レストの理論(4構成要素モデル)の具体的な適用法も示されている。たとえば、その一端を示すと、「倫理的分析を刺激する質問」の文脈では、構成要素1(道徳的感受性)のところで、テクストにあげられている状況で「利害当事者」stakeholderは誰であり、またどのような倫理的原理が相互に対立しているかなどを答えさせるようになっている。

 なお、コールバーグの道徳理論とその「正義のアプローチ」に対しては、近年C・ギリガンなどがフェミニズムの立場から反論を加えて、そのジェンダー・バイアスを批判し、さらにベナーなども合流して「ケアリングのアプローチ」を対置しようとしている。本冊子はそのような議論の両サイドに目配りしつつ、ケアリングと正義とを総合する統合的な看護倫理理論が必要だとまとめている。

 しかし、この冊子を具体的に導いているのは、レストの理論だといえる。「倫理教育の理論モデルとしてレストの4要素モデルを適用する」と題された箇所では、レストの掲げる4要素(道徳的感受性、推論、コミットメント、行為)がこの倫理マッスルthe ethics MCSLのコンテンツ構造化の指針となったことをはっきり認めている。理解は学年を追って深まるように工夫されている。たとえば、1年生のときに4要素モデル全体が紹介されるが、なかでも感受性と推論の要素がもっとも強調される。ついで2年生における学習経験では、感受性と推論が引き続き強調される一方で、それらに加えてコミットメントと行為(つまり残りの2要素)についても考察するよう、学生たちは促されるのである。

4 扱われている倫理的トピックとその手法

 本冊子でどんな具体的トピックが扱われているかを見てみよう。パターナリズムとインフォームド・コンセント、対人コミュニケーション、食のトピック(食べない・食べられない人に食べさせるべきか)、病院の規則を破って家族の面会を許すかどうか、無脳症の幼児から臓器を摘出してよいかどうか、などを学生に考えさせるようになっている。

インフォームド・コンセント

 たとえば、パターナリズムとインフォームド・コンセントの問題。インフォームド・コンセントを中心に、法と倫理の類似性、相違、接点について弁護士役のナースnurse-attorneyと倫理学者役のナースnurse-ethicistとがおのおのプレゼンテーションを行うという形で授業は進んでいく。

対人コミュニケーション

 それから対人コミュニケーション。病を持った人、死にゆく人に嘘をつくことの問題について、医師や看護婦の葛藤を描くビデオを受講生に見せる。

食べる・食べさせる

 食のトピック(食べない・食べられない人に食べさせるべきか)も取り上げられている。末期患者に経管栄養をすべきかどうかとか、重態の新生児への栄養供給・補液の問題について考える。さらに、骨折のため入院している女性が朝食を食べたがらないとき、「何か食べないとだめですよ。食事を抜くと骨がちゃんとよくなりませんよ」とナースが彼女に言ったとすれば、それをどう倫理的に判断するかという問いかけもある。考察は次のような論点を含む。この場合に適用すべき倫理原則は何か。患者の利益になるようにと意図していても、ナースは嘘(少なくとも不正確なこと)を口にすべきではないという原則がある。看護婦の倫理綱領や、患者の権利などのうち適当と思うものをあてはめてみる。「患者の生命は現在危険ではない」、「ナースと患者の間には善の定義(何がよいことなのか)に関する対立がある」、「ナースは夫人のいうことを注意深く聴いていない」、「患者は広い意味では食べるのを拒んでいるわけではない」などの指摘が次々となされる。最終的には、「患者が完全に能力のある大人ではないということを示すデータはない」からには、「自分の食事を自分で決める権利がある」という方向が浮かび上がるように構成されている。

真実を語る

 たとえ善意から出たことにせよ、患者にうっかりした言葉のかけ方をすべきではないという教訓は、これとは別の次のような事例からも学ぶような仕組みになっている。63歳のJ・スミスさんがきのう結腸癌の手術を受けた。朝早く歩行するように医師の指示が出ている。しかし、スミスさんは「きのう腹を切られたばかりで、ベッドを降りて歩けるわけがない。それにどうせ死ぬんだろう」云々という。そこにスタッフ・ナースの一人がやってきて、スミスさんの担当でもないのに、あなたが何かいうまえに、「まあまあジョー、ガンを取ったのよ。今朝起きあがって歩かないと、合併症を起こすわよ」と彼に言った……。この事例については、じっさい様々な倫理原則が動員できる。たとえば、「真実を語ること、ないし正直さ」の原則に関連して、「今朝起きあがって歩かないと、合併症を起こしますよ」という発言は、完全に正直といえるかどうか。「善良ないし正当であること」の原則に関連して、そのスタッフ・ナースは害を予防しようと意図したのかもしれないが、じっさいには心理的な害を患者に与えたのではないかという指摘がなされる。また、「生命の価値」原則に関して、多数の学生の判断では、「スミスさんが歩行しないと合併症が出て、生命を脅かすことになるかもしれないが、ただちに危険ということはない」。やや意外な指摘であるが、スタッフ・ナースが患者と親密な関係を築いているわけでもないのに、なれなれしく「ジョー」と呼びかけたことも問題視されている。

時間外面会のトピックとカンファレンス

 さらには、病院の規則を破って家族の面会を許すかどうかというテーマも取り上げられる。事例は次のとおりである。自宅で心臓発作を起こし、救急車で病院に運び込まれ、意識のないまま心臓ケアユニット(CCU)に入れられている、72歳のDさん(男性)。初期の心肺蘇生処置でも脳に十分な血流が行かなかった恐れがあるが、いまは確たることはいえず24時間以内に神経学的な評価がされることになっている。かれの息子と娘がさっそく飛行機で駆けつけてきたが、いつ帰れるとはわからないまま家族や仕事から離れるためにいろいろ複雑な手配をしなければならなかった。Dさんの奥さんは、午後と夕方いつでも好きなときに足音を忍ばせて短時間ずつDさんの様子を見に来て、夕方の担当ナースはそれを認めていた。しかし、真夜中ごろ息子と娘が到着してCCUDさんの小部屋(壁で区切ってある)に静かに入ろうとすると、夜間の担当ナースは、面会規則(面会は8:00am-8:15pmの間に15分以内)を説明しはじめた。それに対し、娘は、「父の予後がかなり悪いことに気づいている。もし父が反応するチャンスがあれば、母と自分たち子どもに必ず反応するはずである、兄と自分は遠方から到着したばかりで、しばらくは父のそばにいたい」と訴える。ナースは、「面会に関する方針はとても大切である。たとえば隣の小部屋で緊急事態が起こると、家族は動転してしまうかもしれないから」と説明する。しかし、娘は父のそばにいるという意図を再び表明する。ナースは小部屋を去って、スーパーバイザーに相談しに行く……。

 かなり長く紹介したこの事例を素材として、次のような授業方針が立てられている。カンファレンスの準備がなされる。学生を23人のグループに分けて、各グループに異なった倫理学的観点(たとえば義務論的、権利論的、徳論的、功利主義的)を割りあて、それを代弁させる。そして、学生は、宿題として出される次のような問いに答え、そのうえその答えに関して自分のグループの人々と討論する準備をしなければならない。つまり、a.あなたが臨床経験をつんでいるICUの訪問に対する公式の方針は何ですか。b.その方針はどの程度厳格に守られていますか。c.その方針は厳格に従うように意図されているのか、それともクライアントとその家族のニーズに応じて変えてもよい一般的なガイドラインとして使用されているのか、どちらでしょう。d.ユニットで働くナースたちは家族が来ることをどう感じているのでしょう。それについてどう言いますか。どういう行動をとりますか。そこに言行の不一致はありませんか。

無脳症の幼児のトピックと構成的論戦

 次のトピックに移ろう。「無脳症の幼児から臓器をもらうことに関する法律は変えるべきか」を考えることが課される。ミネソタ州北部からきた若い夫婦に子どもが生まれたが、その赤ん坊は無脳症であることがわかった。それを知らされて2週間後に夫婦は赤ん坊の臓器を必要な人に提供したいという強い希望を医師に電話で伝えた。このような事例である。学習は、「構成的論戦」structured controversyを用いて大グループで行われる。目標は、生きている無脳症の(しかし脳死ではない)幼児から臓器をもらうことを許す法律を変えるべきかどうかに対して、賛否の論拠を提出することである。構成的論戦は次のような手順に従う。まず、メンバーのひとりをタイム・キーパーに任じる。第2に導入部(5分)で、各自に1番から4番までの番号をつける。最初奇数番の人たちが賛成の立場をとり、偶数番の人たちが反対の立場をとる。従うべき手続きを復習する。第3に、命じられた立場をとる(25分)。そのうち、パートナーとプレゼンテーションを準備することに10分、論拠を提示するのに各サイド5分づつ、計10分かけ、反対側がプレゼンを終わったら、明確化clarificationのための質問をした後で一般的討論に入るのである(5分)。第4に、それまでとは逆の立場を擁護する(20分)。そのうち、パートナーとプレゼンテーションを準備するのに10分使い、論拠を提示するのに各サイド5分づつ、計10分かける。以上が構成的論戦の手順である。

重態新生児のケースと利害当事者の範囲

 本冊子の事例分析がたんに臨床の観点からではなく、ヘルスケアの多側面にわたってきめ細かく行われていること、受講生に対するその要求度の高さには、しばしば驚きを禁じ得ない。たとえば、上述した重態の新生児への栄養供給の事例については、次のような観点をとるように要求されている。1.誰がこの状況で利害当事者であり、その各人がどのように影響されているか。そのなかには、乳児、プライマリー・ナース、乳児のケアをする他のナース、主任ナース(看護スタッフのメンタル・ヘルスに関心をもつ)、医師たち(この子どもがユニットの統計・評判の一部となることに関心をもつ)、ヘルスチームの他のメンバー(呼吸セラピストなど)、病院倫理委員会、病院、両親、州、裁判所、裁判所任命の代理人、納税者、連邦政府などが含まれている。2.誰の義務・権利・価値が互いに対立状態にあり、それらの義務・権利・価値とは何か。たとえば、.乳児の生きる権利は病院、ヘルスケア労働者、急上昇するヘルスケア経費を抑えようとする連邦政府の権利・義務と葛藤を起こす、というふうに。   

未成年者による避妊薬使用

 社会性が強い事例に看護者はどのような関わりを持つべきだろうか。本冊子は、それについて、「社会的・政治的環境に影響を与える一方、クライアントの福祉に影響を与える行動を、ナースはどのように道徳的な仕方でとりうるか」と問うている。具体的には、未成年者による避妊薬使用の是非について、議会の公聴会(legislative hearing)が開かれるというケースを想定している。公聴会で演じられるべき役割には、16歳の女性(両親とうまくいっていない、両親に知らせることなく避妊の情報・手段を与えてもらいたいと思っている)、28歳の女性(10代のとき両親とうまくいっていて、母親の避妊についての話が役立ったと思っている)、家族計画クリニックのナース(避妊に関して親とは独立に援助を求める10代の若者の権利を強く支持しており、10代の母親が無知などのために望まぬ妊娠をして、不十分な出生前のケアや未熟な出産の結果どうなるかを目撃したり、親としてのスキルが不適切で児童虐待する母子関係を知っていたりする)、原理主義的グループの40歳の人物などが含まれている。

ヘルスケア制度や資源配分への批判的視点

 たんに臨床現場だけではなく、広くヘルスケア制度全般に目を配らせ、倫理的感受性を養成するという教育方針は、たとえば「現行のアメリカのヘルスケア資源分配システムのいくつかの側面を論評せよ、またそのシステムをより正義にかなったものにするための変更点を示唆せよ」という、受講生への要求となって現れる。その背景にはアメリカ看護界の危機感もあるようだ。全米看護協会の社会政策に関する声明によると、看護の権威はひとつの「社会的契約」に基づくものだが、ここ何十年かのヘルスケア・システムの激変のため、ヘルスケアの意思決定に対する(看護の)職業上の権威は減少し、マクロ・レベルでは政府の、ミクロ・レベルでは消費者の影響力が増大したという。

  ヘルスケアをちゃんと倫理的な形で実践することは、当の臨床家にとって大切であるだけではなく、消費者、政策立案者、そして第三者たる納税者にとっての関心事でもある。患者の人種や社会的地位・経済的状態により看護ケアが左右されるようなことは、当然ながらあってはならない。

 ICUのベッドをどう割り当てるかは、資源配分のうちでも倫理的複雑さが大きい問題であろう。平等や機会均等、正義や公正が基準にならねばならぬことは言うまでもないとしても、それでは多くの場合、希少資源としてのICUのベッドを配分する助けにはならない。本冊子は、J.ロールズの正義論などをも検討するかたわら、ICUのベッド割り当ての決定を現場でしばしば左右する要因をリストにすることを学生に求めている。そのうえで、どの要因が倫理的に適切であり、どの要素がそうでないかとか、倫理学的立場(義務論的、権利中心的、功利主義的など)によってそれらの要因の優先順位がどのように変化するかとかに、考察を向けさせている。

 このように現実の意思決定の難しさを認めたうえで、それでも決定の倫理的基準を明らかにしようとする堅固な姿勢を、融通を利かせすぎる日本的習慣を持つ者たちは見習ってもいいと思われる。

5 コメント

 いくつかの点について、とくに臨床哲学の経験をふまえた立場からコメントを試みたい。

 第1に、看護倫理の授業担当者について。本冊子(ミネソタ大学の倫理マッスル)の考えでは、看護と倫理学とのどちらかを専門とし、他についてもよく知っている人が望ましいということだった。大阪大学の臨床哲学では倫理学を専門としてきた教育スタッフが看護(あるいはそれ以外のヘルスケア専門職や教育関係者)を専門とする社会人院生や市民とじっくり話し合ってきたし、看護事例検討会への定期的参加なども経験した。社会人院生の方からいえば、哲学・倫理学にたんなるアマチュア(愛好者)として望むのではなく、専門職の知見を生かしつつ、じっさいに哲学的訓練を受け、論文を書いているのである。このような意味では、臨床哲学という新しい場は、臨床家(看護など)と哲学・倫理学者という二分法を超えようとしている。臨床哲学で訓練された人々は、理想をいえばであるが、倫理マッスルの要求する看護倫理科目担当者の像にぴったりのはずである。

 第2に、看護倫理の内容や方向性について。今述べたとおり、臨床哲学では看護者・看護学生に接するさい、たんに人文的教養を教授するにとどまらない。たしかに、あまり看護に密着しすぎては看護を冷静に見直すきっかけがかえって与えられないし、またいわば精神衛生の点でも、ある程度看護のテーマを離れることが有益だという見方もあろう。その点では、看護者・看護学研究者が文学や歴史を学ぶことも、看護・看護学の知見を豊かにすることに十分に貢献するといえよう。とはいえ、看護者・看護学研究者の哲学的要求によりフィットした授業を提供する努力は、やはり欠かせないと思われる。筆者(中岡)の授業では、たとえば医療倫理に関して具体的事例を扱うこともするが、それだけではなく、「ひとは何を欲求するか」をテーマとして、看護教育で取り上げられるストレートなニード論を超えて、より掘り下げた柔軟な人間論を展開しつつ、それを看護の次元に戻って関係づけるように努めている。本冊子では、看護倫理の基本となる理論は、道徳哲学、道徳心理学、看護学の3つだとされているが、それは大まかにいえば妥当かもしれないものの、現在この名称で呼ばれている学問や論文などの内容を思い描いてみると、やはりずいぶん看護倫理の可能性を狭めていると言わねばならない。

 第3に、倫理マッスルの「原理原則」(プリンシプル)主義に関して。本冊子は事例を、しかもよく練られたものを多数提示しており、それは学生の理解を大いに助けると思われるが、ただそれをいちいち、既成の倫理原則に引きつけて考えさせようとする点、倫理原則の図解のように扱っている点には、疑問を持たざるをえない。ナースが倫理的に考え、行動するとは、はたして現場での出来事を倫理原則に当てはめることを意味するのだろうか。それで事例を生かしたことになるのだろうか。事例への多角的で、感受性を生かしたアプローチは容易ではないということを、臨床哲学では肝に銘じるようにしており、その点でおおかたの応用倫理の立場とはやや距離があるかと考えている。本冊子でいくつか登場する食に関連する事例は、臨床哲学ではほぼ一年間かけて多彩な論文集にまとめたことがある。ただし、翻って言えば、レストの4要素(道徳的感受性、推論、コミットメント、行為)を倫理マッスルは構造化の指針として採用しているのだが、このように柱を明確に立てることは、とりわけ教育スキルの面では有用ないし必要だと評価できる。この点は、臨床哲学の教育プログラムを作成するにさいして、考慮に入れたいと思う。

 第4に、そして最後に、看護を看護スキルなど狭い臨床の場に限定せず、いわば「社会の中の看護」を実感させようとしていることには、賛同したい。日本の看護教育にはこの視点がどの程度反映しているのか、気になるところである。


雑誌オンライン版目次
HOME