ひとは如何にして子どもを「捨てる」か
――ドイツにおける「捨て子ボックス」の現状報告――

阪本恭子
(帝塚山学院大学非常勤講師、哲学・倫理学)

 

はじめに

 子どもは騒がしい.激しく泣きながら生まれ,絶えず問いを投げかけつつ生きる子どもは,騒がしいことをまさに生業とする.なだめても無駄なとき,どうやって黙らせるか.強行手段として,家から「放り出す」,または押し入れなどに「放りこむ」,と口にしたり実行する親もいるだろう.「暗闇」は,家の外であれ家の内であれ,子どもにとって恐ろしい場所だからである.

子どもが言葉を理解できれば,親はそうして特権を示すだけですむ.言葉を知る前の子どもの「騒がしさ」に悩まされ,困窮する場合,ドイツには「捨て子ボックス」(Baby-Klappe)と呼ばれる,生後間もない新生児や乳児「遺棄」の受け皿がある.ボックスという訳語が定着しているが,言葉(Klappe)そのものは,開閉式の蓋や戸を意味する.とりあえず蓋をして子どもを捨てることができる設備,とでもいったところであろうか.

20025月,連邦議会で『捨て子ボックスおよび匿名出産に関する法律』(Gesetz uber Babyklappen und anonyme Geburten)の審議が行なわれた.審議は現在(20028月),中断されている.今後の成り行きに注目したい.

本論では,捨て子ボックスの概要と,法案をめぐる議論の動向を紹介する.そのなかで「子どもの権利と尊厳」に着目して,問題点を指摘する.法律が成立して,子どもを捨てることが広く開放されたとき,ボックスの闇のなかには,どのような光が照らされるのだろう.捨てられた子どもたち,これから捨てられるかもしれない子どもたちからの問いかけに,私たちは如何に答えるべきかを考える布石としたい.

1−1.ボックス設置の経緯

 かなりセンセーショナルな名称をもつ「捨て子ボックス」(以下,「ボックス」と略す)は,ドイツ全土におよそ30個ある.2000年はじめ,ハンブルグで託児所などを経営する社団法人「シュテルニ・パーク」(Sterni-Park e.V.[1]がボックスを開設.それがマスコミに取り上げられたのをきっかけに,「苦境に立つ母と子」(Mutter und Kinder in Notlagen)を救済するボックス設置の動きは,ドイツ各地に拡がった.以後,同じ趣旨の,新生児や乳児の受け入れ窓口を総称して「ボックス」という.

ボックスは,たとえば「シュテルニ・パーク」が,運営経費の5分の1をハンブルグ市の青少年局(Jugendamt)の補助を受けていることから分かるように,公認の設備と言える.ベルリンにあるカトリック教会付属の「子どもの家ひまわり」(Kinderhaus Sonnenblume[2]も,「母子施設」(Mutter-Kind-Einrichtung)としての営業認可を得てから,カリタス会の支援や教区民の寄付をもとにボックス運営に着手した.

こうしたボックス設置運動の背景には,新生児の遺棄数が毎年40あまりに及ぶこと,そしてその半数は死後発見されており,未発見の死亡を含めると,実際はさらに高い数値が推測されるといった現代ドイツ社会の姿がある.ボックスは,子どもの遺棄や殺害のような,女性の「犯罪」を未然に防ぐと同時に,未熟な子どもの「生命」を保護するための窮余の一策である.

ドイツ中西部Nordrhein-Westfalen州には,全部で約30個あるうちの半数に近い12個のボックスがある.200011月,ケルンでカトリック女性福祉機関(SkF[3]が「モーゼの捨て子の窓」(Moses-Baby-Fenster)を開いたのが始まりである.その運営方針は次のとおり.

@   母親は匿名で(anonym)子どもをボックスに預けることができる.
A   この行為は犯罪ではなく,刑罰を受けない(nicht strafbar).
B   窓口開閉の合図は遠隔操作で行って,受け付けは監視されていない(unbeobachtet).
C 受け付けは24時間,年中無休で行なう.
D 子どもは即座に手厚い保護を受ける.
E 子どもを預けた後でも,母親は匿名でSkFの相談所と連絡できる.(相談所は,出産後8週間以内であれば,子どもに関する相談にも応対する.)
F 2ヶ月以内に母親から連絡がなければ,子どもに養子や里子の手続きをする.

@の「匿名性」(Anonymitat)は,ドイツに点在するボックスに共通した基本運営方針である.ボックスは,母親の完全な匿名性を「保証」(Zusicherung)する.Aは,子どもを「捨てる」(aussetzen)ことが,子どもをボックスに「手渡す」(abgeben)行為または「委託する」(anvertrauen)行為であって,犯罪ではないとする共通認識が,ボックスの運営者と行為者(母親)との間に成立しうることを示す.

では何故Bのように,実行現場は「監視されない」と伝えて,行為の匿名性を強調する必要があるのだろう.ボックスに子どもを手渡すことは,犯罪ではない,けれども名前を隠さなければならない行為なのだろうか.またEやFに見られる行為の打ち消し,つまり,いったん手放した子どもを引き取ることは,匿名の行為者をどのように特定して認められているのだろう.

まさにボックスのすべては闇に包まれているようだ.しかし匿名性を保証することが,ボックスに存在価値を与える.それは,ボックスをめぐる論争の中心問題でもある.

1−2.ボックスをめぐる争い

SkFがボックスを設置して以来,匿名で子どもを預けた女性は,これまでに5名いる.その後,SkFと女性たちとの接触はない.ところが200112月,連絡をしてきた女性が現れて,ひとつの訴訟事件が起きる.ケルン検察庁がSkFに,女性の「名前」を明らかにするよう求めたのだ.「身元確認」(Identitat)をして,養育義務違反および婚姻状況偽造の有無を捜査するためである.

ところがSkF側は証言拒否権に基づいて供述を拒否する.女性の匿名性と,それを基本方針とするボックスの存続を守るためである.ケルン地方裁判所は,SkFの証言拒否権を認めず,関係者数名の強制拘禁を警告する.検察庁はいまだに訴訟を取り下げていないが,とりあえずSkF300DMの罰金(Ordnungsgeld)を支払って,事件は収まった.しかしこの事件によって,数あるボックスは,女性の匿名性を完全に保証して運営されていることが世間に知れわたる.また賛否両論の世論を巻き込んで,連邦議会でのボックス法制化の議論へと発展することにもなった.

地元ケルンの大司教Joachim Meisner枢機卿は,SkFとの連帯的立場を表明している.そして一連の騒動を,「権利と生命の保護を正反対のものにする」無意味な法律論争として非難する.つまり教会は,絶望した母親に「扉を開く」ためにはあらゆる方策を尽くして,やむをえない場合は匿名で子どもを捨てることも認める.

一方SkFは,いかなる場合にも女性の匿名性は保護されるべきだと主張する.女性は,匿名性が保証されて初めて,ボックス運営者との信頼関係を築いて,子どもを「手渡す」気になるからである.

キリスト教民主同盟(CDU)の女性連合ハノーバー支部も,どんな理由であれ,自分の子どもを手元に置くことを望まない,または置くことのできない女性は,「薄情な母親」(Rabenmutter)ではなく,他に方法を見いだせない絶望的状況にある女性とみなして,ボックス設置を支持する.そして政治の使命は,そのような母親と子どもを「裁く」ことではなく,「救う」ことだと語る.

1−3.ボックス法をめぐる争い

 ドイツ南西部Baden-Wurttemberg州の法務大臣を務める自由民主党(FPD)のUlrich Goll氏は,「困窮する妊娠女性」のなかから,自分の子どもを殺したり捨てたりする者が現れるのは,「すべての妊娠女性」を考慮に入れていない現行の法的状況のせいだと指摘する.そして,安易な遺棄を誘発するのではなく,個々のケースに応じて子どもを救済するために,「匿名出産」(anonyme Geburt)が法律で認められなければならないと主張する.

氏もその一員である連邦評議会は,次のような『匿名出産法』の提言を行なった.

@すべての妊婦は,匿名および身元不詳でも,子どもを病院で出産することができる.
A女性は自発的意志に基づいて,自分の身元やその他の消息を言い残すことができる.
B女性が個人情報を残した場合,子どもはその開示を求める権利を,16歳からもつ.
C女性の個人情報は市町村の戸籍役場が保管する.
D女性は出産後1年半以内は,進行中の子どもの養子手続きを中断することができる.
E以上の匿名による出産にかかる費用は,2500ユーロ(約30万円)まで国が支払う.

 このような法律案をもとに,20025月,連邦議会で『捨て子ボックスおよび匿名出産に関する法律』の審議が始まる.いわゆる『ボックス法』である.ところが予想以上の世論の反発や議会内での批判により,法案の見直しが必要となった.苦境に立つ母と子を「合法的に」救済するための最終審議は,次の選挙期間まで延期されることになったのである.

ボックスの合法化に,児童福祉団体「ひとの大地」(terre des homes[4]は,とりわけ強く反対する.同団体は30年以上にわたって,戦争や第三世界の危険地域で捨てられた3000人あまりの子どもを保護してきた.

団体所属の養子縁組の専門家Bernd Wacker氏は,匿名で子どもをボックスに捨てるのは,子どもの権利「出自を知る権利」(Recht des Kindes auf Kenntnis seiner Herkunft)と「身元確認の権利」(Recht des Kindes auf Identitatを無視して,国連『子どもの権利条約』および連邦憲法裁判所の司法に矛盾する行為だとして批判する.氏の批判は,長年にわたる「実践」(Praxis)に基づいている.言い換えると,親から他人に「手渡された存在」(Abgegebensein)であることが,どれほど深い精神的傷を子どもに与えるかを間近で見てきた実践.また彼らが苦悩しながらも,「本来の家族」(Ursprungsfamilie)や手渡されるまでの状況を知る「手がかり」(Spur)を,どれほど強く求めるかを,ともに経験してきた実践.そうした実践の立場からの批判である.

この強力な批判を,ドイツ社会民主党(SPD)のMargot von Renesse氏は支持する.氏は,「現代医学の法と倫理」アンケート委員会(Enquete-Kommision ”Recht und Ethik in der modernen Medizin“)の委員長も務める.そして,法案の見直しを求める別の根拠として,新生児の遺棄数はボックスを設置しても変化しないことや,ボックスの存在が親の責任放棄を助長する危険性を挙げる.緑の党(Grune)の議会代表Katrin Goring-Eckardt氏も,法律が規定するものの「曖昧さ」(Unklarheit)を根拠に,ボックスの法制化に反論する.

2.捨て子のゆくえ

2−1.子どもの権利

以上の論争を,「子どもの権利」とりわけ「捨てられた子どもの権利」に焦点をあてて,見なおしたい.

前出の養子縁組の専門家 Wacker氏が示した「出自を知る権利」と「身元確認の権利」は,国連『子どもの権利条約』(198911月採択)の第七条と第八条に該当するだろう.各条項を原文(英文翻訳)のまま引用する.

[第七条]
1.子どもは出生後すぐに登録される.子どもは出生時から名前をもつ権利,国籍を取得する権利をもっている.そして可能なかぎり親を知り,親に養護される権利をもつ.
2. 締約国は,特に子どもが無国籍となる場合も含めて,国内法およびこの分野において関連する国際文書に基づく自国の義務に従って,これらの権利の実現を確保する.

[第八条]
1. 締約国は,子どもが,不法に干渉されることなしに,法により認められた国籍,名前および家族関係を含む,自らの身元を保持する権利を尊重することを約束する.
2. 締約国は,子どもが自らの身元の要素の一部または全部を,違法に奪われた場合には,速やかにその身元を回復させるために適当な援助および保護を与える.

 ボックスに捨てられた子どもは,「親に養護される権利」(第七条)をもたない.さらに彼らが,「可能なかぎり親を知り」(第七条),「自らの身元を保持する」(第八条)権利をもつことすら不可能にするのが,母親の「匿名性の権利」(Recht der Mutter auf Anonymitat)である. 

女性を尊重して,あるいは子どもを捨てるさいの状況に配慮して,ボックスは「匿名性」を保証する.しかし「母と子の苦境」を救済するための保証としては,不十分であろう.  

まず母に関して.その救済保証は,行為者の身元「不明性」,当人の自発的意思による行為かどうかの確認「不可能性」,後戻りできない「不可逆性」というように,否定形でしか与えられない,という過度の限定つきの保証である.そして子どもに関しては,身元確認の「不可能性」によって,後に「問いと疑問符の連続の生」[5]を余儀なくする,期限つきの保証である.

 親の「名前」を知り,自分の「出自」を知ることと「アイデンティティ(身元確認,身元保持,自己同一性)」.両者の結びつきが,切実なかたちで見いだされるのは,ボックスに捨てられた子どもに限らない.生殖医療の場でも,第三者の精子や卵子の提供によって生まれた子どもは,「親の名前を知ること」を阻まれている.

ひとは「わたしは誰か」という哲学的問いを共有するだろう.しかし,そうした子どもたちにおいてこの問いは,現実的な不安であり,「(父・母)親は誰か」という謎とひとつになる.「誰が親であろうと,あなたはあなた」といった言葉で安易に触れられるのを固く拒むほどに,強く結ばれる.親の名前を知らない,また知ることができないことは,「自らの身元の要素の一部または全部を奪われる」(第八条)ことに等しいからである.

ボックスが子どもに与える権利もある.第五条と第六条の権利である.実際のところ,捨てられる子どもに関しては,これらの権利を与えられるかどうかのほうが,より深刻である.

[第五条]
 締約国は,子どもがこの条約で認められる権利を行使するにあたって,親あるいは適切な場合には,地方の慣習で認められている拡大家族あるいは共同体の構成員,法定保護者,そのほか子どもに対して法的責任を負う者が,子どもの能力の発達に応じた方法で,適当な指示や指導を行なう責任,権利および義務を尊重する.

[第六条]
1. 締約国は,すべての子どもが,生命に対する固有の権利をもつことを認める.
2.締約国は,子どもの生存および発達を,可能な範囲で最大限確保しなければならない.

「生命」(life)に対する固有の権利と「生存」(survival)の権利(第六条).ボックスが子どもに確約する権利である.

たしかにボックスは,母親に匿名性を保証する一方で,子どもには,出自を知ることができない苦境をもたらす.一面的で一時的な救済措置である.けれども,生きのびてこそ子どもは,親の名前を知りたいという欲求や,捨てた親への怒り,憧憬を抱く.これらを,捨てられた子どもは生きる権利とともに得た.彼らが,隠された母親の名前と引き換えにして生き続けていることの,鮮明な「証拠」である.

ボックスの外と内に分かたれる母と子の「苦境」.子どもはそれを,生きのびる権利と同じく固有の(inherent)ものとして母から受け継ぐ(inherit)ことのないように.子どもが,不幸は,捨てられたことではなく,生きていなかったかもしれないことだ,と自分の「必然性」[6]を肯定できるように.ボックス運営者には,そうした配慮のもとで子どもを養護する責任がある.子どもにとってボックスはいわば「拡大家族」(第五条)の入り口である.

母親にも,匿名性の権利を得るからには,果たしてもらいたい義務がある.

ひとつは,子どもを捨てざるをえない状況の説明.これをボックス運営者は,子どもの要求に応じて告知する.母と子が「苦境」を分かちあったことの確認である.その確認が,母や自分の生い立ちへの怨恨ではなく,母との共感として,子どもが生き続ける力の源になればと思う.

もうひとつは,自分の名前を伝えられないならば,せめて自分の「後継者」(inheritor)である子どもに名前を与えること.「命名」である.名前を通じて子どもは,「名前をもつ権利」(第七条)と,親が名づけた子どもであるという「存在」証明を得ることができる.名前にこめられた「意味」によって,親との「個別的関係」(personal relation)(第九条)を感じながら生きることもできる.

けれども捨てられた子どもには,一定の年齢に達したとき,「改名」の自由を与えるべきだろう.「親の責任」(第十八条)を放棄した者の「権力の発現」[7]に対する「意見表明の権利」(第十二条)と「表現の自由の権利」(第十三条)の行使を,特別に認めることである.言い換えると,命名権とともに,生きる「権利」を自らに与えること.自己命名か名付け親(Pate)を指名するかの選択は自由にする.いずれにしても,自分で根拠づけた生を作り上げて,「ひとの尊厳性」(human dignity)(第二十八条)を,誰よりもまず自分自身に見いだすこと.そのための教育的配慮が必要であろう.

それにしても,何故ひとは子どもを捨てるのか.「何故」と理由を問いただす権利をもつのは,不妊に悩むカップルでも,傍観する私たちでもなく,捨てられた子どもだけである.私たちは「共同体の構成員」(第五条)として,「子どもの養育および発達に対する責任」(第十八条)を放棄する者(親)の状況を知った上で,それを解決する方法を考えるしかない.そのさい,「子どもの最善の利益」(第三条)が何を意味するかという流動的な問題に,つねに応じられるように心がけたい.

 2−2.これからのボックス

 ボックスには他にどんな問題点があるのだろうか.ドイツの世論を見てみよう.

前出のRenesse氏が指摘するように,ボックスによって,親の無責任性が増大するのを危惧する意見が圧倒的に多い.しかしSkFは,母親に関する供述を一切していないので,預けた子どもを引き取りに来た母親や父親がいたのか,またその人数は,という事実確認ができない.どのような「困窮」が行為を促したのか,事後確認もできない.したがってボックスが,子どもを無責任に放棄するのを助長しているとは断言できない.  

そもそも親の責任感の欠如は,ボックス設置を促した「原因」である.「結果」ではない.たとえボックスが撤廃されても,子どもに対する親(大人)の無責任性は,新たな「場所」を探し出すだろう.ボックス廃止を目指す前に,親になる「資格」を養成・審査する教育・社会体制を整える必要がある.誰が教育にあたるか,親の資格をどのように審査するか,子どもにも問うべきだろう.

ボックスは「ポイ捨て社会」(Wegwerfgesellschaft)の象徴だという意見も多い.ゴミと同じように子どもを「処理」(Entsorgung)する装置として,ボックスは受け止められている.しかしたとえばボックス賛成論が示すように,たしかにトイレや森の中での出産,遺棄という事態は免れて,子どもの生存は確保される.この点で,ボックスにはゴミ箱とは異なる「価値」がある.ただしこの価値は,そのような最悪の事態よりマシだという,あくまでも相対的な価値である.それは,困窮した母親を支えることのできない「社会の無能の証」(Armutszeugnis der Gesellschaft)から生じた価値とも言えるだろう.

以上のような意見は大抵,子どもを捨てる親の「モラル」(Moral)の低下や,困窮する女性(母親)と子どもを見捨てる社会の「モラル」の喪失など,いずれも「モラルの変化」を嘆く声に収束される.そして変化の防止またはモラルの原状回復のための解決策には,学校や地域での避妊教育の徹底や,困窮する女性のための相談窓口を増やすことの重要性が挙げられる.そのなかで,ボックスの漸次廃絶を目指そうというわけだ.たしかに正論である.

しかしボックスは,捨て子を増やしたと非難される中世ヨーロッパの「回転箱」[8]を彷彿とさせるものであれ,現実に機能している.ボックス論争に加わることはなくても,ボックスの外と内に分かれてそれぞれ生き続けられた「母と子」が現にいる.ボックスによって生き延びた者がいるのだ.無能な現代社会の産物であるボックスにも活路はあった.ボックスに捨てられた子どもの気持ちを再び見捨てることなく,ボックスを活かし続けることはできないだろうか.ボックスがもつ「価値」を現在役に立っているという基準で測って,これまでとは異なる新しい「モラル」を求めるのは無意味な試みであろうか.

モラル.フランスのモラリストに倣えばそれは,社会生活を送る人間ひとりひとりの考えが具体化して定着したもの,と言えるだろう.個々人がどこに観点を置いて,どのように社会を観るか,その集合体とも言える.けれども「この」社会を見る「私」の観点と「あなた」の観点は,決して重なることはない。つまりドイツのモラルと日本のモラル,大人のモラルと子どものモラル,男のモラルと女のモラル,というように,モラルは多種多様あることになる.   

ではボックス問題を、以上のように,ドイツにおける母親と同年齢以上の年長者の観点に固定するのでなく,子どもに近い年齢の観点からも検討してみよう.新しいモラル,すなわちボックスを見据える新たな観点を探る試みである.そこで,ボックスをどのように捉えるか,日本の学生にも聞いてみた[9].すると次のような興味深い意見が出た.

@母親には,名前と個人情報を言い残す義務がある.
Aただし預けられた子どもの立場に立つと,それらを「知りたい」と同時に「知りたくない」.
B結局,ボックスは子どもの「生命」は保証しても「幸福」は保証しない.

 @について.手がかりは何も残さない(残すことは許されない)という覚悟をもって,子どもを捨てるべきだという反論も出た.「子ども」とは「親としての自分の存在」であり「親として存在した証」だから,捨てたなら「親として」何もする資格はない,というのが反論の根拠である.

Aの「知りたくない」理由は,「捨てられた」過去を再確認したくない,「自分の親」は「生みの親」より「育ての親」だから,である.(自分を捨てた親を何故知りたいのか理解できない,という意見も多かった.)「知りたい」という欲求と「知りたくない」という欲求が同時に現れるという意見は,捨てられた子どもの親に対するジレンマを指摘している.これは,生殖医療の場での子どもが親(精子提供者など)を「ぜひ知りたい」と願う単純明快さとは違う点であろう.

Bの「幸福」の内容は,親を「知っている」,さらに親に「愛されて育つ」ことだという.それに対して,「親を知り,親に育てられる」ことは必ずしも「幸福」を意味しないという反論があった.意味深長である.また「捨てられて,拾われた」ことから始まった人生は,後に得るすべてが「あり難い」ものと感じられる「幸福な生」だ,という意見があった.これも味わい深い.

以上のように女子学生は,@ではドイツの年長者同様に母親や社会のモラル低下を批判しているが,同時に彼らはAやBで子どもの身になってその幸福を思いやってもいる.

そして後者の観点から,ボックス法の草案については,次のような代替案が出された.

@子どもに名前を与えて施設(病院,ボックス)に預けるべきである.
A施設側は,子どもの情報(出生年月日など)を確認する.そのためにも監視は必要.
B養子手続きの中断は認めないことを,事前(出産前,預ける前)に伝えるべきである.

 ボックスはやはり匿名性を保証しなければ機能しないだろう,という意見にまとまった.しかし@のように,親の「唯一の愛情表現」として「名前」を子どもに与える「交換条件」の義務づけが必要だという.(親の「命名」義務と,子どもの「改名」の権利に関する上記2−1の提案は,学生との意見交換のなかでできた.着想は学生たちの恩恵を受けている.)

Aの「監視」について.子どもを捨てるときの「罪」の意識を喚起するためにも,監視すべきだという.また監視装置に映写機能をつけて,映像に残る「親の姿」を子どもに見せることで,子どもは「親を知る」ことができるという案が出た.子どもに関する情報については,親の国籍や病歴といった「遺伝情報」を,質問用紙などを置いて確認すべきだという意見,逆に過去の情報は一切必要ないという意見もあった.

Bについて.匿名の出産費用を国が負担することも含めて,ボックス法の草案は,女性の権利を拡大して認めすぎだという意見がほとんどであった.女性や男性が,自分たちのことだけを考えて子どもを産み(あるいは「生産」して),捨てることを,むやみに正当化すべきではないという意見である.

以上のように,日本社会にとって可能的親とも呼ぶべき学生たちも,ABではまだ子どもの立場に重心を置いている.しかし@Aを見れば分かるように,親の立場への移行期にも生きている.その彼らが口をそろえて言う.「日本に『ボックス』は作ってはならないし,法律もいらない」と.理由は,産んだ子どもに障害があった場合に,簡単に捨てる親(女性・男性)が現れるかもしれないから.また子どもをモノ扱いして,生命の大切さを理解できない者が増えるから,である.

意見発表を,人工妊娠中絶と出生前診断という判断の難しい授業の延長上で行なった影響もあるだろうが,彼らの断定の仕方は印象的だ.年長者の観点や子どもの観点など,周囲をよく観察して,それぞれの状況に共鳴した多様な意見,価値観を披露してくれた.しかし,そうした多様性のなかにも普遍性が見いだせることを,彼らの主張が示している.つまり,それは母親だけでなく子どもの年齢にも近いという二つの観点からのボックス問題の考察である.彼らは,年長者の観点からは捨てた親へのモラル批判を,子どもの観点からは捨てられた子どもの幸福を守る提言を行ってくれた.

彼らが断言するような社会.ボックスを断固として認めない社会.仮にボックスがあればそこに預けられたかもしれない子どもを,すべて受け入れる社会.そのような社会は日本やドイツで実現するのだろうか.「私たち」しだいであろう.

 2−3.これからの子ども

ひとは,子どもを産み,所有することには熱心である.子どもをもつ意味を語り,さまざまな生殖医療の是非を問い,それらの方法の研究にも励む.そうして「待ち望まれる」子どもがいる一方で,粗末に扱われたり、捨てられたりする「望まれない」子どもがいる.

捨てられる「子ども」は,ドイツではこれからも増え続けるだろう.妊娠中絶における「胎児」や,体外受精のさい生じる「余剰胚」.それぞれ,「妊娠中絶法(刑法218条)」と「胚保護法」によって,中絶や廃棄が許容される.それらは皆,「捨てる」というひとの行為に,沈黙と従順というかたちでしか関与できない子どもたちである.

彼らについて語るのに,権利や保護を「与える」といった言説を用いるのは,なにやらそぐわない気がする.子どもを「捨てる」者の姿勢と大差ないようにも思える.子どもに権利を与えるにせよ,子どもを捨てるにせよ,自己正当化と自己防衛化に余念がない大人の傲慢が,露わになって見えるからだ.「子どもの尊厳」も同じである. 

尊厳.ドイツの基本法第一条は「人間の尊厳は不可侵である(unantastbar).それを尊重して保護することは,あらゆる国家権力の責務である」と定めている.成長の段階や能力,主観的または客観的状態にかかわらず,受胎から死のときまで,すべての人間的存在に備わる尊厳.それを尊重,保護するための禁止(Verbot)と命令(Gebot)が法律となって,ひとの行為を規定する.

子どもの尊厳.それを手にしている「はず」の子どもたち.私たちは彼らに,尊厳をどのように説明しよう.子どもを取り巻く状況に合わせるかのような,硬質な言葉.子どもの頭上高く飛び交う,厳格な言葉.誰のために交わしているかを忘れた言葉では,子どもは理解しない.関心をもたず,近寄りすらしないだろう.しかし尊厳の「不可侵性」は,ひとを「寄せつけない」という意味であってはならないはずである.手垢のついていない言葉.私たちの身近にある,生きた言葉.そうした言葉が,子どもの目を尊厳に向かわせるのではないだろうか. 

尊厳を語ることは,尊厳の近寄り難い荘厳さを示すことではない.たしかに,捨てられた子どもの幸福と同じく,尊厳は「あり難い」.自ら求めて初めて実感される.ただ彼らのつましい幸福と違って,尊厳が見いだされる「場所」は限られているのが現状だ.国連『世界人権宣言』(1948年採択)が明記せざるをえないように,「法の下で,人として認められる権利をもつ」(第六条)ことのできる場所は,いたるところにあるわけではない. 

そこで,そうした場所を確保することが重要になる.それには,子どもの目が「よく」見えて,たしかな観点を築く基盤となる場所を,より広く開くことであり,何より,そこが暗闇になってしまわぬように,たえず光をあてることであり,それ以外は干渉しないことである.それこそ,私たちが,子どもの尊厳の尊重と保護のために為すべきことであろう.また,尊厳に出遭う場所を,私たち自身が体験しておかなければ,子どもは迷うだけである.目を開いて,私たちと子どもの居場所を見失わないでいたい.

おわりに

 近年,生殖技術や先端医療の名のもと,くり広げられている行為や議論は,子ども以上に騒がしい.今いちど振り返り,見なおすべき事柄は多いだろう.しかし,その「今」すら技術の進歩は待たず,議論のあいだも子どもは問いかけてくる.優先順位を如何につけるか.誰の最善の利益を考慮に入れて,何を取捨選択するか,その判断が問われている.さらには,かつては子どもでありながら,今や広い意味での親となる可能性をもつ者の「ひと」として存在する資格が,逆に審査されているのかもしれない.

 なお,ボックスについては後日,立法化の過程も含めて,未確認事項を現地で調査するつもりである.限られた資料に基づく今回の考察を,少しでも補いたい.

〈註〉

[1] シュテルニ・パーク(Sterni-Park)のホームページ:http://www.sternipark.de/ 捨て子ボックスを初めて取り上げた新聞記事:Deutsches Allgemeines Sonntagsblatt, 10. Marz 2000. Nr.10/2000. 記事の内容は次に詳しい:http://www.sonntagsblatt.de/artikel/2000/10/10

[2] 子どもの家ひまわり(Kinderhaus-Sonnenblume)の活動状況はカトリック教会新聞で知ることができる.カトリック教会新聞ベルリン支部のホームページ:http://www.gemeinden-in-berlin.de/public_html/rubriken/kirchenzeitung

[3] SkFSozialdienstes Katholischer Frauen)ケルンのホームページ:http://www.baby-fenster.de

[4]  ひとの大地(terre des homes)のホームページ:http://www.tdh.de

[5]  Susanne Maja Wilhelmという35歳の女性が,自らの養子体験からボックスに疑問を投げかけている.彼女のホームページ(http://www.erwachsene-adoptierte.de)は,生きることと問うことが結びつかざるをえない状況を物語る. ボックス反対グループのホームページ:http://www.baby-klappe.de/

[6]  「困窮(Not)した状況(Lage)」という意味での「苦境(Notlage)」は,同じ困窮が「転向(Wende)」した「必然性(Notwendigkeit)」となって,生きることに最も価値を与えうると,ニーチェは捉える.彼は,困窮を肯定する「主観的転向」の力に,「価値を測る者」という意味の「人間」の卓越性を見いだす.F. Nietzsche, Zur Genealogie der Moral (Kritische Studienausgabe, 5, Berlin, 1988), S.261ff. ニーチェ『道徳の系譜』(木場深定訳,岩波文庫)岩波書店,1990年,25-29頁.

[7]「名づけること(Namen zu geben)」を,あらゆる事物や事象を「所有(Besitz)」しようとする権力行為だとニーチェは見る.Ebd., S.260. 同書,23頁.

[8] 荻野美穂『ジェンダー化される身体』勁草書房,2002年,273頁.18世紀ヨーロッパでは,各地に,ターンテーブル式の箱を備えた養育院が,行政の指導下で設けられたという.監視なし,親の匿名性保持など,運営方法はボックスとほぼ同じである.そのように子どもを捨てる方法の簡便化が,捨て子の数が増加した一因であった,と荻野氏は指摘する.つまり「捨て子の増加が施設の増進を促したというより,施設が捨て子をひき寄せた」(同書272頁)という問題である.

[9] 非常勤先である帝塚山学院大学,四条畷学園短期大学,香里が丘看護専門学校の学生たち.彼らに最新の話題を提供しようとして,捨て子ボックスに出遭った.授業を通じた彼らとの交流が,怠惰と逃避から筆者を拾い上げる.彼らには心から感謝している.

付記:本稿は、日本医学哲学・倫理学会関東支部『医療と倫理』第4号(2003年3月)に掲載されたものである。


雑誌オンライン版目次
HOME