シンポジウム討論

シンポジスト:
岡本裕一朗(玉川大学)

小松美彦(東京水産大学)
柘植あづみ(明治学院大学)

光石忠敬(弁護士)


司会:霜田求(大阪大学)

司会:それでは討論に入ります。シンポジストそれぞれの方に他の3人へのご質問をしていただき、質問された方がそれにお答えいただくという形で進めていきます。その後、会場からのご質問をお受けします。岡本さんからお願いします。

岡本:まず小松さんにお尋ねします。第一点の問題はインフォームド・コンセントに関してです。従来は個人にとってのメリット/デメリットということに留まっている、と言われました。それに対する対案として、その人が問題を引き受けることによる他人への影響も考える、ということですが、これはきわめて難しいのではないかと思います。実際上自分自身の問題というのが非常に大きいのであり、それによって判断するのが基本的には適切ではないか、というのが一つ。それから、他人への影響を考えるということを考えますと、具体的にたとえば、「他人からの無言の圧力」などまで含めて考えるとすると、インフォームド・コンセントというのが形骸化してしまわないか、ということです。

第二点目は優生思想の問題です。この点に関して、「優生思想へつながる」というのではなくて、「まさに優生思想そのものだ」と言われたと思います。これに関しまして、たとえば、二十世紀の前半にヨーロッパで広がった優生政策との違いというのは、基本的にはお考えになられているのでしょうか。この点でしばしば言われますのは、「自己決定」というものを排除しない形で、優生思想が二十世紀前半にも広がった、という点です。そのように、優生思想が広がるときに自己決定を排除しなかったとしても、だからといって自己決定から優生思想が生じるとか、あるいは優生思想そのものだという形にはならない、と思います。たとえば、ナチス・ドイツであれ、「個人的な自由」というのをもちろん全部排除するものではなく、ある一定程度それを組み込んだ形で持ってきたとは思います。とすると、「個人的な自由を利用してナチスがファシズムを作っていった」とは言えても、「個人的な自由がファシズムを生んだ」というふうには言えないと考えられます。問題は何かといいますと、現代の「個人的なレベルでの選択」という形で基本的に動いている優生思想というものと、二十世紀前半の優生政策というものは、基本的に区別する必要があるのではないかということです。

優生思想の方をもう一回確認いたします。優生思想というのは、現在個人レベルで言われておりますけれども、個人レベルでの優生思想というのは、二十世紀前半の国家的政策として行われた優生政策とは区別すべきではないかということ、これが第一のポイントです。もう一つのポイントは、「自己決定というものが優生思想につながる」ということは基本的には言えないのではないかということ、この二点です。

次に、柘植さんにお尋ねしたいのは、今日お話をお聞きしまして基本的なポイントというのは、「先端医療技術」推進に関する再考というときに、いったい「先端医療技術」にたいして「ノー」と言おうとしているのか、それともどのような立場で言おうとされているのか、実際お話をお聞きしていてはっきりわからなかったということです。具体的な問題に即して考えられていたわけですけれども、たとえばクローン技術でも結構ですし、あるいは受精卵の着床前診断でも結構ですけれども、こうした問題に関して、柘植さんでしたらどのような形でお考えになるか、ということをお伺いできたらと思います。

光石さんの発表に関してですが、「「先端医療」に関する基本からの逃避」ということについて、少しお伺いしたい。光石さんが「基本からの逃避」と言われる場合、逆に、基本に忠実であれば「先端医療技術」は推進してもよい、という形で理解してもよろしいのでしょうか。それとも、「先端医療技術」そのものが、じつは行政にとっても、あるいは産業にとっても「基本に忠実」にすることそれ自体が都合が悪いという性質のものなのかどうか。つまり、「先端医療技術」そのものが本質的に「基本から逃避」するようにできているのかどうか、それとも日本だけの特殊な事情と考えてよいのか、この点についてお伺いできればと思います。

小松:まずインフォームド・コンセントをめぐる二点についてお答えします。一点目は、「従来のインフォームド・コンセントは、個人のメリット/デメリットだけが説明されて、そして決定していく。しかし、個人の決定が、周囲の人々、社会へと影響していくということまでインフォメーションされるべきだ」と私が言ったことに対して、それは実際には難しいのではないか、というご批判でした。私も難しいと思います。けれども、私の主眼は、医療現場の一対一のインフォームド・コンセントということよりも、社会的なレベルでのインフォメーションということに重きを置いています。常日頃から、情報というものが残念ながら推進の方に偏りがちである、しかも他者への影響ということがほとんど語られていない、そのことを社会的に議論する状況を作り出した上で、医療現場での個人対個人のインフォームド・コンセントの方が今のインフォームド・コンセントよりもましなのではないか、と考えてきたわけです。それから、他者への影響関係を入れるとインフォームド・コンセントが形骸化してしまうのではないかという質問の趣旨がよくわからなかったのですが、形骸化の意味をもう一度ご説明願えますでしょうか。

岡本:わかりました。インフォームド・コンセントというのは、自分にとっていかなる決定をするかということが基本的な問題だと思います。そこに他者に対する関係ということが入ってくるとどうなるか。具体的に考えますと、「どのような治療をするか」、あるいは「どのような形で最後を迎えるか」というときに、たとえば「家族のことを思って」決定していくということが起こるのではないか、ということです。つまり、患者本人の気持ちよりも家族の考えによって決定していくということになりはしないか。それが、よい方向に導くかどうかという風には必ずしも言えないように思います。

小松:私自身は、家族の気持ちであるとか、他者への影響まで考えて個人が決定を下すのは当然だと思います。ですからそれはインフォームド・コンセントの形骸化というよりも、インフォームド・コンセントがさらに活性化することになると思っています。自己決定について具体的に申しますと、大きな決定になればなるほど他者へと影響するので、先端医療から外れますが自殺を例にしましょう。むろん、個人が自殺を決定するまでに、「誰々からいじめられたから、自分が死ぬことによって他者に復讐してやろう」とか、「自分が自殺したら、今まで誰もわかってくれなかった自分の苦しみをわかってくれるだろう」とか、そうした他者との関係を基にして個人の決定はなされるわけですけれども、とりあえず自殺に至るまでの動機・要因は措いておきます。むしろ私が強調したいのは、自殺の結果です。実際にその個人が自殺した後に、残された人間がいるということです。自殺者は、死んでしまった後に、残された人びとの気持ちのとりようだとか、その後の人生に対しては、具体的に手を差し伸べたり緩和したりはできないけれども、決定的にその後の人たちの生き方を決めかねない、これが自己決定の忘れてはならない一面だと思っています。

今わかりやすいように自殺を例に述べましたが、先端医療でも、今後大きな問題になればなるほど、家族はもちろんのこと、見えない他者の生き方までをも決定することになりうる。そうである以上、医療現場・研究現場でのインフォームド・コンセントと個人の決定というのは、より広い範囲での影響を含めて判断するのは当然だと思います。たしかに、自己決定に際して、周囲からの眼差しを慮って死を選ぶということも起こりかねません。その意味で他者への影響を考慮して自己決定するということには、二つの方向性があります。しかし、それに対して私が愚直に言い続けてきたことは、「人は死んではならない」という願いを大切にしよう、ということです。患者当人も周囲の者もそうあって欲しいという願望のもとに私は語っているに他なりません。ですから、周囲の者の視線を引き受けて死を自己決定するのなら、そうした自己決定が同種の重篤な人々や社会一般にまで影響することに配慮してしかるべきだと、私は考えているわけです。ちなみに、少しずれるかもしれませんけれども、私はインフォームド・コンセントというあり方に全面的に賛成しているわけではありません。なぜかと言うと、それは決定するということを大前提にしているからです。決定を大前提としない、ともかく情報を伝えていってそこで考えるという時空間の創出が重要だと思っています。

それから、優生思想と優生政策の違いの問題です。私は、優生思想、優生学、優生政策の三つに分けて考えることが必要なのではないか、と提起しました。それに対してご質問は、「現在の個人レベルの優生思想なるものと、かつての優生政策とは違うのではないか」というのが一番目ですね。私も違うと思います。二番目の、「自己決定が優生思想に必ずしもつながらないのではないか」というご質問ですが、この主旨をもう一度お願いします。

岡本:二十世紀前半の優生政策と現在の個人レベルでの優生思想とは、基本的には区別されるということでしたね。そのように今お伺いしましたから、そうすると二番目の問いは消えてしまいますけれども。

小松:個人から発せられていって、それが量的に勝っていった場合に質に転化するとか、それをうまい具合に利用されるとか、そういう可能性はいくらでもあると思っていますが。

岡本:それは間違いないことだと思います。私の場合も単純に、自己決定だから優生政策に結びつかない、というふうに考えるほど、そんなにお目出度くはできないだろうと考えています。問題なのは、個人的なレベルでの優生思想というのが、国家的な優生政策と結びつくのかどうか、あるいは、結びつくとすればどのような形でなのか、この様々な形での媒介過程というのがおそらく大きい問題なのだろうと思っています。

小松:私自身も個人的におそらく優生思想と規定されるような意識を持っています。多くの人もおそらく持っているのではないかと思います。それが国家的な政策に結びつく可能性がいつも問題になるのだと思います。

司会:では柘植さんお願いします

柘植:「先端医療技術に対して、私・柘植はノーと言っているのか、反対と言っているのか」というご質問だったと思いますが、それについてお答えする前に、私がお話したかったポイントが伝わっていないのかなというご質問だと思うので補足したいと思います。私がお話したかったポイントというのは、先端医療技術が進むことが「良い」とか「悪い」ということではなくて、「どうして進むのだろう」、「どうしてその方向に進むのだろうか」ということをもっと考えてほしい、そして、「それは良いことだ」といってそれが進む方向・速度に対して、「その論理はおかしくないですか」ということなのです。たとえば「治すべきである」ということにしてもそうなのですが――不妊治療でもES細胞でもいいですが――、どんな技術を進めるにも「治すべきである」という考えで、「治さなきゃかわいそうでしょ」というふうに医療技術が進むのであれば、「ちょっと待ってください」というのがひとつです。それから、その進むことによって、――小松さんの発言とも繋がるのかもしれないのですが――治せるようになったことによって「どうしてあなたは治さないの」、「治さないとそれは劣っていることじゃないの」というような価値観がもし進むのだとすれば、それは待ってほしい。そうではなくて、そのオルタナティブ、つまり治さない人もいて、治したいという人もいて、治さない人もそれはそれでその人の生には価値があって、治した人、治したいと等価なものとして存在しうるのであれば、私は反対しない。

また、先端医療技術で、「治せるようになる」という論理の中で治せなかった人たちもたくさんいる、失敗する人たちもいるということが、すごく見落とされていると思います。そして成功例ばかり出てくるのですが、失敗した人たち、「これを使えばうまくいくんです」と言われて失敗していったいわゆる「落ちこぼれ」的な人たちが、どういうふうに医療のなかで扱われているのかということを見ていただきたい。医療の中ではやはり「失敗例」なのです。先端医療技術を選択してきてもうまくいかなかった人たちの生、もしかしたら死かもしれないのですが、それについての視線がまったくない。そういう論理のなかで技術を進めるのならば待ってほしい。もし進めるのだとしたら、そういうものをすべて考慮した上で、そしてどうしても必要だと考える、それは他の「治したくない」という人たちの論理、そして失敗するかもしれない人たちの状況・権利も含めて考えられるような医療であったら、やってもいいと思っています。

代理出産のときにマスコミなどに私はよく「反対派」として出されるのですが、代理出産に関して、私は十年以上前から「これだけの条件がそろっていたらやってもいいと思います」と言って、いくつかの条件を出してきました。その条件のどれもぜんぜんクリアされていないのです。クリアされていないまま代理出産は進んで行っている。そういうところでは結局、「反対派」にされるのかもしれませんが、「代理出産について賛成ですか、反対ですか」といったら、「これだけの条件がクリアされたら賛成してもよいです」、そして、「やりたい人だけがやってやりたくない人はやらないですむ、そういう社会だったらやっていいです」というお答えしかできません。

岡本:そうすると、二つの選択が可能になるのであれば、別に先端医療技術に関しては問題ない、と理解してもよろしいのでしょうか。

柘植:そうですね。ただその二つの選択というものも文化的・社会的問題なのですが。今までに、先端医療というのが可能になったときに、古い医療が可能ではなくなっていくというのがたくさんありました。つまりオルタナティブが確保されていかなかったということです。効率性とか経済性とか、医者が新しい技術を使いたがる、新しい技術を使いこなせる医者の方が優秀だと評価される、患者もそっちの方を向くとか、色々な条件はあると思うのですが、結局、選択肢というものは、ひとつの選択肢が「より新しい」、「より進んでいる」というふうにされると、古い選択肢はなくなってしまう、それを確保するのはとても難しいのだ、ということをも含めてお答えします。

岡本:そうすると、必ずしもそれは先端医療だけにかかわる問題ではなくて、医療全体にかかわる問題だと考えてよろしいのでしょうか。

柘植:もちろんそうです。

司会:では光石さんお願いします。

光石:質問ありがとうございます。私がそもそも「先端医療」を括弧でくくった理由を先ほど落としてしまいました。私は「先端」という言葉と「医療」という言葉、いずれも中立的な言葉ではないと思っています。「先端」というのは私の解釈ですと、「実験的」ということです。それから「医療」といっているのも「医療になってくることは望ましいけれども、すくなくとも現段階では医療の限界に位置する」、本当にそれが合法か違法かはっきりしないものである、それを「医療」と呼ぼうとするところに私はある方向性を感じる。そしてそれは健全ではないと思います。

いわゆる「脳死」論議のときにも最初に専門家が「脳死は個体死か」という問題を立てました。市民である私は「個体死とは一体何だろう」と思いました。そしてそれが生物学用語であり解剖学用語であるということがわかってきました。そして私は「人間の死」というふうに言葉を置き換えて議論するようにしました。ことほど左様に「先端医療」という言葉を使いますと、「ずいぶんアドバンストなメディシンである」と、そういうふうに普通の市民は思います。またARTAssisted Reproductive Technology)という言葉を「生殖補助医療」とみんな訳していますが、これは誤訳だと思います。アシステッド・リプロダクティブ・テクノロジー、つまり「技術」なわけです。医療ではないかもしれないのです。もちろん中には医療に入ってきているものもあるでしょう。そういう具合に専門家が言語操作、広い意味での情報操作ですが、そういう言葉を使って惑わしてほしくない。私たち市民が最初に用心するべきことがらとして、まず言葉の問題を挙げたいと思います。

そういう意味でカッコつきの「先端医療」について、「基本に忠実であれば推進していいと理解していいのか」という御質問ですけれども、私は、「先端医療」に対してアクセルもブレーキも踏んでいるつもりはないのです。ただ、はっきり言えるのは、使う言葉の問題から始まって専門家が必ずしも中立ではない、なんとかそれをやろうとしているというのが、「衣の下の鎧」のように感じられるということです。その問題を最初に処理しなければならない。もし「先端医療」なるものが実験であるならば、実験対象になる人の保護、これを法律で明文化しないでなんでやれるのだろうか、それが基本中の基本なのに、というのが私の基本的な立場です。

いま日本国憲法には「個人の尊厳」という言葉はありますが、「人間の尊厳」という言葉は落ちているわけです。これは残念なことなのですが、国際人権規約には――これは国際人権法の中核にある条約なのですが――、前文で「人間の固有の尊厳」ということをはっきり言っておりまして、この「人間の尊厳」から人権とか自由というものが由来するのだと、つまり人権や自由の大本に「人間の尊厳」があるのだと言っています。しかし、その論議をしたのだろうか。「人間の尊厳は個人の尊厳と一緒だ」というのが、日本の憲法学の通説です。私は、憲法学者は怠慢だと思います。もうそんなことを言っていられない。クローン法を勉強してみれば、「種としての人類」のアイデンティティという問題まで含んでしまっている。したがって「個人の尊厳と人間の尊厳が同じだ」という能天気なことを言っているのでは、今の状況には対応できない。そういう意味では、人間の尊厳論――たしかに、人間の尊厳論というのは中身が抽象的で非常に曖昧だという批判はありますが――についてまず議論をするべきだ。そうすれば、市民としても憲法を手がかりにして、国際人権法を手がかりにして、考えるよりどころができるだろう。

私は、先ほど申し上げたようにインフォームド・コンセントとかIRBというのは、あくまでも到達すべき目標でこそあれ、完全なものには現実にはならないだろうと思っています。インフォームドという状態にはならないだろう。たとえば佐藤孝道さんが著書『出生前診断』(有斐閣選書)でお書きになっていますが、本当に医学生が6年間勉強して学んだこと、そしてその後のプラクティスを通じて学んだこと、それを30分間の説明で患者が本当に理解できるか、それは無理だ、と言っています。それはたしかに極論でもあるでしょう。私はだからインフォームド・コンセントをやめろとは決して言いません。インフォームド・コンセントは方法としては正しい、しかし、当分の間は理念なんだということを冷静に考えると、私はインフォームド・コンセントに過大な役割を課すべきでないと思います。

たとえば、自己決定権について、ミルの本などを読んでみますと、それは愚行権だと言っている人、つまり愚かなことでも決定する権利だと言っている人がいますけれども、私はもう少しインフォームド・コンセントの現実を見るならば自己決定権に限界を設けるべきだと思っています。いくら同意書にサインしたからといってそれですべて合法、という考え方は現実を見ない空理空論なのだと、私はむしろ思っています。したがって、どちらに都合が良かろうと悪かろうというのが私の考え方です。かつ、これは日本だけの特殊事情かと言えば、そうでもありません。アメリカでは、たとえばいわゆる治験の被験者にならないかぎりそもそもお医者さんにすら見てもらえない人が何千万といるんです。その人たちは州のメディカル・センターに登録して、そして登録することによって、つまり被験者の候補群としてリストされることによって初めて、日常の診療でお医者さんに診てもらえる。それくらい、国民皆保険がないこと、私的保険が高価であること、私的保険に仮に入っていてもそれがカバーする範囲が少ないこと、それによって、被験者になることによってしか医療を受けることができない人が大勢いる。それをしかし、「インフォームド・コンセントでいいじゃないか」、「サインしたらそれですべて合法だ」、などというのはとんでもない話です。だからそれぞれの国で少しずつ事情は違うにせよ、日本と同じような状況はあるに違いないと思っております。以上です。

小松:それぞれの方に一点ずつ伺います。

まず岡本さんです。岡本さんは御本でも、今日の発表でも軸になっているのは基本的に同じだと思いました。それは、「生命倫理学に何ができるのか――何もできない」ということです。そこで私が疑問に思うのは、そのときに岡本さんがおっしゃっている「生命倫理学」というのは、果たしてどういう生命倫理学のことを指しているのか、おそらく既存の生命倫理学でしょう。さらに、既存の生命倫理学に何ができるのか、と言ったときに、「生命倫理学が何かしなればいけない」という大前提があると思うのです。しかもそのときにしなければいけない事柄は、具体的な先端医療をめぐる問題に関して裁量を下すということでしょう。今まではお墨付きを与えるだとか、歯止めをかけるだとか、なんらかの裁量を下さなければならない、そういった大前提があるように一般的に思われてきたわけです。けれども、今日の岡本さんのお話を伺って、じつは岡本さんのおっしゃっていることの中には、岡本さんの御自覚の度合いはわかりませんけれども、既存の考えを超え出た側面があるのではないか、という気がしました。私は生命倫理学というのは裁量を下すものではなくて、議論をする場だと申し上げましたけれども、たとえばこの私の考え方についてどう思われるのか、岡本さんがイメージしている「生命倫理学」というのが狭いのかそうではないのか、以上の点に対してお答えいただきたいと思います。

二番目、柘植さんです。申し訳ないのですが、今日の発表ではなくて、柘植さんの基本的なスタンスについて伺いたいと思います。今から申し上げることは、会場にもいらっしゃるフェミニストの方々から批判叱責・罵詈雑言を浴びせられるかもしれませんが、あえて申し上げたいと思います。生殖医療をめぐる問題というのは、日本の場合には主要にはフェミニストの人々が検討してきたわけです。そのときに大半の場合は「女の問題」として扱ってきました。そこで、フェミニストではない女の人だとかあるいは男性は、どうもそこのところに、従来の生殖医療に対してフェミニストの人々が厳しいということで、入るのが怖いとか、そこから逸脱することを言いにくいという状況があったわけです。そのときに生殖医療をめぐる問題でどういうことがこぼれ落ちてきたかといいますと、私の見方では二つあります。第一は、今後一番重要な問題になると思われる、人体の資源化・商品化とくに市場化の問題、この問題への対処が遅れてきたのではないかということです。もう一つは、「何が生命か」という問題です。たとえば受精後14日以降、胚に原始線条という中心線が入って、外胚葉・中胚葉・内胚葉が分かれてそこから神経系が出てくるからそれ以降は人間と呼べる。対してそれ以前はどう扱ってもよいのだという、線引き議論に終始してきた。線引き議論に対してフェミニストの人たちも応酬してきたと思うのですけれども、そのときの生命の捉え方というのが、非常に科学的な生命観の土俵の上に完全に乗ってしまっていて、これは批判的な立場からするとあらかじめ負けざるをえないような、そういう構造に入ってしまっている。

従来「脳死が死か、心臓死が死か」ということが言われてきましたが、私の捉え方からすると、どちらも「死の判定基準」に他ならない。死というのはもっと広い問題であって、死ぬ人もいれば死なれる人もいる、死にゆく人もいれば看取る人もいる、そういう様々な関わりのもとに喜怒哀楽を伴って成立するのが死であるということを述べてきました。それと同じように、生殖医療問題における生命の扱い方でも、たとえば生まれる前の胎児と母親との関係で、苦しむだとか語りかけるだとか、あるいは子供が生まれてくることを待ち望むじいさんばあさんだとか、「しまった」と思う伴侶だとか、様々な関わり合いのもとに生命は存在しているにもかかわらず、そちらの方へはあまり眼差しが向けられてこなかったように思います。このことをどう考えるのか伺いたいと思います。

光石さんに対してはこう思いました。今日のルール作りでこれまでもれ落ちてきた問題の御指摘について、すべて私は諸手を挙げて賛成します。なぜそういうことが回避され遠ざけられてきたかということに関しても、私は共感します。その上で伺いたいことがあります。光石さんは先ほどの御発表でおそらく二度ほど「私は市民である」と自己規定されました。しかし、やはり光石さんは市民であると同時に弁護士であり法律家でいらっしゃるわけです。ですから、医療をめぐる様々な問題のなかでも「ルール作り」というところに主要な力点を置かれたと思うわけです。私は、できるだけルールというのはない方がいいと個人的には思っています。ルールがなくてもやっていけるような人間関係・社会が望ましいのでしょうけれども、しかし現時点ではルールは最低限必要だと思います。そのときに肝心なことは、誰がどういう経緯でルールを作ってゆくかという問題だと思うのです。先ほど光石さんのレジュメに挙がっていることが仮にルール作りのなかに入ってきて、もしいいルールができたとしても、一般的な人々がルール作りの過程から除外されていて、特定の集団だけが民主的に真っ当なものを作ったとしたら、それはやはりよろしくないと思っています。大変なことを悩んで苦しんでいる人が多ければ多いほど、そこに先端医療に対する価値判断や倫理性が社会的にせり上がってくると思います。ルールが作られるまでのことが光石さんに対する意見の一点です。

次にルールが作られた後についてです。少しずれるかもしれませんし、様々な考え方の方もいらっしゃるかと思いますけれども、たとえば「日の丸・君が代」の問題です。広島県のある高校で、この問題をめぐって校長先生が自殺しました。それを大きな引き金にして法律が作られて、「日の丸・君が代」問題は少なくともマスコミ的には表面から見えなくなりました。法律が作られるとそこに丸投げして、人が自殺してしまうという真に残念な事態まで含めて、人びとの苦しみ悲しみというのはなくなるわけです。と同時に、問題を我がこととして考えなくなってしまって論争も終わってしまう。このように、ルールや法律の制定とは個々人の主体性を丸投げする場になりがちだと思うのですが、いかがでしょうか。

それからもう一つは、二番目の二番目になりますけれども、実際に法律やガイドラインやルールが作られたときに、光石さんもおっしゃっていましたが、その決まりごとが本当にきまりごと通りに実行されているか、それに対して、どういう外枠的な審査機構を、どういう基準で設けようとお考えなのか。この点を伺いたいと思います。以上です。

岡本:生命倫理学に関して非常に狭い理解ではないかということでした。既存の生命倫理学から出発しているのではないか、ということに関しては、まったくそうです。既存の生命倫理学から私自身出発しておりますけれども、「既存の生命倫理学のなかにも実は多種多様な考え方があり、お前の生命倫理学に対する批判とか、生命倫理学に対する考え方というのは、それ自身非常に狭いのではないか、だから生命倫理学全般として括って、それに対して『異議あり』とか言えるような形で、生命倫理学が一枚岩で総和的な動きをしていないのではないか」、と言われる方もおられます。私は生命倫理学が今後、どういう形で展開して行くかということについては非常に興味があります。今回の発表でもそうですし、昨年出した本でもそうですが、基本的には生命倫理学という学問が、たとえば私自身あるいは多くの人に関係する「生と死」という問題に関して、一つの積極的な議論を展開したことは否定していません。ところが現在では、そうした積極的な議論そのものが途中で止まってしまったのではないか、というのが強い危惧としてあります。私としては、せっかく開かれた議論を途中で遮断するのではなく、もっと先まで進めていく必要があると思ったわけです。私は、生命倫理学について本を書きましたし、ここでも発表させていただきましたが、生命倫理学のなかにいるとは思っておりません。むしろ、その周辺あるいはその外に追い出されてしまっているのではないか、と思っております。追い出されたあたりから、生命倫理学の面白さというもの、あるいはそれが切り開いた地平とは何か、それに対して一つの可能性を展開してみたらどういうことになるか。この点に関して、コミュニケーションを展開してみようと思っておりました。そのため、私としては生命倫理学の狭い枠のなかに閉じこもって、そしてそのなかで一つの問題を解決してそれで事足れり、という印象は最初からありませんでした。

柘植:非常に大きなテーマでして、六時間くらいいただければかなりのご説明はできると思うのですが、そしてそれくらいの体力はあるのですが、時間がないので、残念ながら。ただ、一つは、フェミニストといっても生殖医療に対しても非常に色々な立場がありますので、私の言っている意見がフェミニストの代表ではないということをまずお断りしておきます。たぶん小松さんのイメージのなかには、フェミニストが生殖医療について発言してきたことで一番わかりやすいのは中絶の問題だというのがあると思います。人体の市場化への対処が遅れてきたということについても、中絶胎児の議論を説明すればわかりやすいと思います。

アメリカではレーガン大統領とかプロ・ライフ派と位置づけられている保守系の大統領のときには、受精卵の実験利用とか、中絶胎児の研究材料に使うことに関してかなり厳しい態度を示してきた。ところが、クリントン大統領は民主党のプロ・チョイス(中絶容認)派で、彼が大統領だったときに、研究使用というのをかなり緩やかな方向に持っていったということがありました。私などもすごくびっくりしたのですけれども、なぜそうなったかという議論を考えてゆくと、つまりアメリカ型の中絶容認派の論理のひとつとして1973年の中絶を合法化したロウ判決のなかで胚や胎児の発達段階において「人かモノか」という線引きがされたことを指示してきたわけです。そしてその線引きをしたのは決してフェミニストではないのですけれども、その線引きをしたことによってそれ以降、プロ・チョイス派がひきずらなければならなくなったのは、「中絶する段階の胎児は人ではなくモノなのだ」と言い続けなければ中絶を禁止されてしまう、中絶に対するバック・ラッシュが強いなかで、そういう危険な立場に立たされてしまった。私はそれが決していいことだとは思っていなくて、あのロウ判決が線引きで、「ここまでは人ではない、ここからは潜在的人になる可能性」、「可能的には人格」と岡本さんはおっしゃったのですが、そういうふうな認識をした論理に乗っかって中絶を合法化しようという議論をしてきたから、破綻してきたのだと思います。

関連したことについて、私は、以前『現代思想』にも書きましたし、一年ほど前の朝日新聞にも書きましたけれども、受精卵にしても胎児にしても、たとえば岡本さんは「受精卵を人だと思う人はいないでしょう」とおっしゃいましたが、受精卵を人だと思う人もいます。その例をひとつあげましょう。不妊治療をして体外受精をしている人に対してお医者さんが受精卵を見せてくれることもあります。その受精卵を見て、「これは私たちの子供だ」と感じる人たちもいます。もちろん本当にどのくらい具体的に子供だと思っているかというのは想像の域を出ませんけれども。それから逆に「中絶をしたい」、「絶対産めない」と思っている人が中絶をした後に、罪の意識に悩む人もいますが、「ああすっきりした」と思う人もいます。つまりそれまで、「このまま妊娠が続いていったらどうしようか」と本当に悩んでいる人、「自分の人生どうなるんだろうか」と悩んでいる人が、中絶ができて、終わった後に「本当にすっきりした」、「自分を取り戻した」、と感じる場合もあります。つまり受精卵にしても胎児にしても、それへの視線というのは文脈依存的なのですね。そして、受精卵を自分の子供だとか人だとか感じた人でも、もしその人が妊娠・出産を何度もして、7回目の妊娠をしたときには中絶をするかもしれないし、結婚する前の妊娠では中絶をしたけれども、結婚して子供を持ってからはもう「絶対に中絶はしたくない」、といっていらっしゃる方もいます。そういう文脈依存的ななかで、女性の人生の外側から線引きをしてきたとこと自体が私は良いことだとは思っていないし、フェミニストがやってきた欠点というのは、ロウ判決の線引き理論に則って中絶を守ってきたというのはフェミニストの怠慢だと思います。

もう一つのフェミニストの怠慢は、ロウ判決でも日本の中絶合法化でもそうなのですが、医師のみがしてもよいということ、つまり中絶を医療化させてしまったということです。中絶は医師以外がしていた時代はいくらでもあって、今でも一部のフェミニストは中絶を自分たちで、ごく初期の中絶に関しては医師以外の人が女同士でやっている。そういう機械があります。バキュームという方法ですが、掃除機みたいなもので子宮のなかを掃除するわけですが、それは南アジアや東南アジアでは日本よりもよく使われています。中絶が禁止されているイスラム文化圏やヒンドゥー文化圏であれば、月経が止まって3ヶ月以内であれば、医療機関にいけば、医師ではない人たちでもやってくれます。これについても問題点はありますが、ここでは触れません。ここでお話したいのは、つまり、医師しかやってはいけないというふうにしたのは、別にフェミニストでもなんでもなくて、中絶を合法化する際に医療化したことによるのです。そうなると結局先ほどの線引き理論に乗っかっていかなければいけない、科学的にどこかに線引きしなればいけないという方針に乗っかっているのは、フェミニストの怠慢だと私は思います。これ以上話すと長くなってしまうのでこれで終えます。たぶん小松さんが一番疑問に思われていたことなのかと思ったので、以上のようにお答えしておきます。

光石:ご丁寧にありがとうございます。まず、ルールが作られるまでのことで、一般的な人々が過程から除外されたらよくないのではないですか、ということについて。そう思いますけれども、現実はどうかと言えば、肝心の当事者である患者さんないしはその団体ですらなかなか参加していないということです。参加しているように見えるのは、なにか出来上がった会議体に「ヒヤリング」と称して1回か2回呼ぶと、それで「聞きました」ということでお茶を濁しているのですね。私はそうではなくて、もし会議体を作るならば会議体のメンバーに患者さんなり患者さんを支援するNPOなりが入らなければ基本ではないという考え方です。一般の人々については、草案の段階から色々な形で今はインターネットその他で参加できるようになってきているから、イギリスで先ほど紹介したような工夫をしながら、一般の人々に参加してもらうというやり方は大いに可能だと思います。

それから二番目の、「ルールが作られると法律に丸投げされる」ということについて。ただ、もともと医療の中身については法律は介在していないんです。はじめて介入したのが「精神保健福祉法」の処遇のところ、「クローン法」と「臓器移植法」です。しかしそれ以外に裁判はたくさんあるではないか。たしかにそうです。事後的には、医療過誤の裁判という形で法が介入しているようには見えますけれども、法はそういう意味では非常に例外的にしか介入しない。公衆衛生上重大な危険があるときには厚生大臣が介入できます。けれどもそれは例外中の例外なのです。ですから、今議論しているのはカテゴリーとして、こういうカテゴリーのものを医療と呼んでいいのかどうか、こういうものを医療として本当にやっていいのか、たとえば「代行懐胎」ということなどを本当にやっていいのかどうか、そういう議論ですから、それは「丸投げ」というか、ちょっと私はご質問の「丸投げ」の意味がよくわからなかったのですが。

小松:要するに一人一人が考えなくなるということです。

光石:メディアに取り上げられなくなるということを非常に小松さんは重視されていたんだけれども、今、現実に日本で何がおきているかというと、メディアが取り上げるから、ルールがない無法状態にいわば多少なりとも歯止めがかかっているということだと私は思っています。それがいいことか、というと私は健全な状態だとは思わないけれども、メディアがある意味で一種のルールの役割を果たしている。逆に言うと、ばれなければなんでもやってしまうというのが現実だと思っています。で、丸投げされるのはやっぱり困りますので、コンスタントにウォッチしていく機構、あるいは審査機構が必要だし、その議論が可能な限り公開されることも必要だと思います。もちろんこれは分野によって異なるでしょう。たとえば脳死移植が「臓器移植法」ができてから何件か行われましたが、検証会議というのが非常に偏った構成でしかできていないし、それからまた、プライバシーの問題などが新しく入ってきましたから、公表されなくなってしまった。そのことのもたらすマイナスというものは計り知れない。やはり検証会議というのももうすこしバランスのとれた会議体にした上で、その会議体に対してはリアルタイムで情報を提供していって、そういうシステムで脳死移植をやるのだ、ということに同意した人だけがドナーになる。そういう考え方で本来はやるべきだろうと思います。現実にはそうなっていないことが残念ですけれども。

司会:会場からの発言をお受けする時間を確保させていただきたいので、柘植さん光石さんのお二人には大変申し訳ありませんが、どなたかお一人に対する質問ということでお願いいたします。

柘植:それでは岡本さんにおたずねします。非常に興味深くお話を伺いました。先ほど私が、受精卵や胎児に対する感覚が文脈依存的だという話をしたことにもかかわるのですが、岡本さん自身は二項対立ではない、そういう考え方ではだめだ、哲学の仕事として概念の創造をすべきだ、とおっしゃいました。具体的な試みというか、試案でもいいですが二項対立以外にどれくらいの可能性があるのか、ということについて、岡本さん自身のお考えを聞かせていただきたい。たとえば、受精卵を命と思う人もいれば、月経が来て早くトイレに流してしまいたいものだと思う人もいますが、そうなると自己決定しかないのか。というようなことを今考えているところなので、なにかもっと新しい「哲学の力」のようなものがあれば教えていただけるとありがたいのですが。

岡本:非常に難しい問題をお尋ねいただきました。今回の発表の準備をしているなかで考えていたのですが、「人かモノか」という形でいけば、現在の先端医療の対象になるであろうものに関しては十分に対応できないということはわかっていました。では、実際上どうするのか。概念の創造が必要なのではないかということを考えているというところまででございまして、本当のところ具体的な案もなにもございません。ただ、一つの方法としてもちろん程度問題というものもございますし、あるいはフィクションとしてどこかに線引きをおくということもあるかと思います。その場合、具体的にフィクションとしてどこかに線を引かざるをえないと思います。一人一人がフィクションとして勝手にどこかで線を引けばよいということにもやはりならない。その意味でたとえば、お酒は何歳からだかとか、タバコは何歳からかというように、一人一人考えてみればもちろん体の大きさから何からすべて違いますけれども、フィクションという形でどこかに線引きをする。それと同じで、中絶に関して、あるいは受精卵に関して、フィクションという形で一つの取り決めをするということは必要ではないだろうかと思っております。その場合、どのような概念をもってくるかということは、私自身も非常に大きい問題ですので、ここでは十分な形でお答えできません。申し訳ございません。

光石:それでは岡本さんに二点だけ質問します。受精卵やクローン胚などという生命体は人格と呼べるか、という問いの立て方ですけれども、私は人格という言葉は言葉としてこのような生命体に関して不適当な言葉ではないかと考えています。人格という言葉には、パーソン論を見てもわかるように脳の高次機能の話しが当然入ってきます。私は「人格」と「ヒト」、「ヒト」と「人間」、これらはみんな違うと思います。私がさっきのスピーチでは全部「人間」という言葉を使って話したのは、それはそれなりの意味があって、社会的・文化的な存在としての生命体を考えたいということがあります。そこに「人格」という言葉をもってくれば、「生まれてからしばらくの間は人格はない」という話になりますから、問いを問うまでもない。問いかけに値しないのではないか、という質問が一つ。二つ目は、「無償と有償」ということに関して、無償原則を貫きつつ、得られた利益については社会還元をする、つまり、今HUGOがやっているようなメカニズムを法律によって創設するべきだというのが私の考え方ですけれども、いかがなものでしょうか。

岡本:ありがとうございます。「人格」といいますのは、必ずしも「パーソン論」で言うような形で考えているわけではなく、「人間」というふうに理解していただいても結構です。「人かモノか」という形で結構です。その場合に、「人と呼べるかどうか」という問題として立てて結構です。ですので、大脳の問題という形で考えれば、即座にもちろん「人格」ということことにはならないと思いますけれども、そうした意味での「パーソン論」というのは、先ほど申しましたときには考えておりませんでした。法律的は「人格か物件か」ということになるかもしれません。そういう意味での二分法、その意味での「人格」という言葉の使い方としてご理解いただけたらと思います。それが第一点です。

第二の「有償か無償か」ということに関しまして、無償原則を貫きつつさらにそこから出てきた利益といいますか、そうしたものをなんらかの形で還元するということでしたが、それには別に反対いたしません。その場合、提供者がその場面でやはり最終的には無償なのだろうか、というのが大変大きい問題として残っております。他の場合に無償ではなくてなんで提供者だけが無償なのかということが、どうしても基本的に割り切れない部分でございます。ですので、最終的にはどこの利益をどういう具合に削っていくのかというのが、非常に大きい問題になろうかと思います。その意味で、有償/無償というのは改めて問題にすべきでないか。決定事項というよりも、基本的に今現在、「有償化」ということを出すこと自体がどちらかというと不謹慎に感じられそうな勢いですので、あえてもう一度根本から考え直し、無償原則というのがはたして本当に無償原則という形で貫かれているのかということを改めて考え直す必要があるのではないかという意味で立てた次第です。

司会:ただいまの第二点目について、光石さんはなぜ無償原則を貫くべきだとお考えになるのか、あるいは岡本さんが有償でも可能ではないかというお話でしたので、その点についてもう一度ご意見がありましたらお願いします。

光石:現実は、貧困から、あるいは貧困でない場合でも、金につられてインドや中南米で臓器が売り買いされる、それから日本のお金持ちがフィリピンへ行って腎臓移植を受ける、というような話しをいやというほど聞きます。結局、有償にすればその歯止めがなくなって混乱状態に陥り、この人間社会が住むに値しない社会になるのではないかというのが私の危惧です。

岡本:私は有償化にした場合に、具体的にどこまで、というのが現実的にどうか、ということがはっきりしません。これが第一点。それから、もう一つは貧困等においてどうするか、という点。これは社会制度そのものの問題なのではないかと思いますので、この点をそのまま置き去りにした上で無償化だけを固定化させるというのはいかがなものかと考えております。

司会:ありがとうございました。では、会場の方から質問がありましたらよろしくお願いします。

質問者A:主に岡本さんに、それとついでに小松さんにご質問いたします。岡本さんの本も十分読ませていただいています。今日の話でもあちこちチェックしながら、たくさんあるのですが、時間もありますので絞っていこうと思います。一つには、簡単に言えば、やはり自分が攻めやすい形に相手を規定してから攻めているからそれは当然攻められる、批判できる。相手の作りかた自体がそちらの土俵で作っていらっしゃるな、というのが広い意味での印象です。それで、今日のなかでもそれはいくつかあるのですが、なるべく共通の話題にしやすいところで一点に絞って申し上げますと、自己決定かどうか、それも国家政策的優生思想かそれとも個人の選択か、というところです。やはり一番思いますのは、「個人の選択だからいい」、とくに今のアメリカはそれで進んでいるのですけれども、つねに個人と国家というか社会とは相互浸透している。そういうことをちゃんとわれわれは意識すべきであると思います。たとえばミシェル・フーコーの権力論をあげられましたけれども、あれは私の考えでは、権力というのは個人のうちにも巣くっていて、内なる優生思想というのも同根であって、しかもそれは突然どこかからヒトラーが出て来たから誕生するのではなくて、やはりそういった「内なるもの」を触発したり、それと社会がキャッチボールしながら、欲望を増幅されたりするところに、色々な問題が膨らんでくる。そうしたら、「国家、お上が決めたことだからけしからんけど、個人の側から発せられたものであれば許される」という二分法ではなくて、その個人すらもが何か常に社会の影響を受けながら決定しているというときに、あるいは決定を余儀なくされているというときに、それはやはり個人の側のことだからというのではおそらく済まないだろう。私は、国家的なものか個人的なものかという二分法で白黒つけるということ自体が議論を誤らせると感じています。それはたとえば小松さんの発表で言えば、インフォームド・コンセントは個人対個人ではなくて、社会的な広がりを持つべきだという議論とも重なってきますし、柘植さんの発表で言えば、たとえば自己尊重感が失われるといった、あるいは社会の評価というものを個人が敏感に感じているほど、自己喪失なり自己評価が下がるということになると思うのです。だからそういった相互影響・相互浸透を考えていった上でどうなのか。私は、岡本さんはこの生命倫理業界のヒール役をわざわざ演じることによって議論を引き起こそうとしているのかな、と見ています。そこまで戦略を立ててやっているならすごいと思いますが、その相互浸透ということをどの程度重視なさっているのかということをお聞きしたいと思います。

小松さんについては、インフォームド・コンセントということで、その社会的な広がりを考えなければいけないと、おっしゃったわけですが、私はこれはこれで逆に難しい注文だなと思います。つまり非常に切羽詰っている個人に、「社会的影響を考えよ」とその場で要求して、そういったことを含めた決定を迫る、そのためのインフォームド・コンセントを医者も患者もやるという。とするとその社会的というのは、たとえばこういった空間での議論であるとか、そういうところが引き受けて議論をして社会的磁場を作っていくということしかないのではないか。それは岡本さんが投げかけた「生命倫理に何ができるのか」という問いの答えもそこに出てくるのではないかと思うのです。生命倫理学の議論というのはその磁場を作るということであって、それによって結果的に個人は自分のことを考えながらも、社会のこともちょっと考えるという引力を世の中に作っていくことが場作りということで、答えは出ているのではないかと私は思っています。だから、個人にいきなり押しつけるというのは無理である、ちょっと厳しすぎるのではないか、というのが小松さんに対する疑問です。

岡本:ありがとうございます。「攻めやすい形にしてお前は批判しているのではないか」ということについては、なんとも言いようがないと思います。あとの質問ですが、個人というのは社会との関係のうちにあって、単純に個人という形にはできないのではないかというご質問でありますが、全部そのことは認めます。個人とは社会との関係のなかにしか存在しません。これを否定するつもりは毛頭ありません。にもかかわらず、最終的に自己の生と死の問題に関しては、最終的に自分自身で決定するしかない、というのが私の考えです。これに関して、もちろん社会性を考えるというのは当然あると思います。もちろん自分自身の決定のなかに、その内容には様々な意味というのは入ってきますので。どのような生き方をするか、どのような死に方をするかというのは、当然その人の生き様にかかわってくる問題ですから、その点もまったく私は否定しません。自分自身の死に方に関して、たとえば「みっともない死に方」、「他人前には見せたくないような死に方」はさすがにしたくないと思っておりますので、そういう意味で言えば、他人に対する影響という小松さんのご指摘も当然だろうと思います。ただし、生死に関して、そしてもちろん私自身が他者との関係のなかで、社会のなかで存在するにもかかわらず、最終的に決定するのは私である、私の生死に関しては私しか決定できないというのはやはり大原則ではないか、これはさすがに譲れないと思っています。

小松:お二人の今の話について先に一言。たしかに決定するのは私でしかないかもしれませんが、「決定する」という事態と、「そこに決定権があらかじめ備わっている」というのは、別のレベルの話だと思います。

それでご質問にお答えします。おっしゃるように、たしかに社会への影響性をいきなり個人に突きつけるのは酷かもしれません。繰り返しになりますが、だからこそできるだけ社会的にそういう議論をまず広げておくべきだというのが私の主旨です。その上で、患者の側も医師の側も厳しいかもしれないけれども、個々の先端医療はそれなりに引き受けるべき大問題を含んだものだと私は思っています。仮にやるならやるで十字架を背負ってやっていくべきだと思っています。ただしそのときに、インフォームド・コンセントの一方の当事者が医師かどうかということについては、インフォームド・コンセントの専門家を養成するということも方向性としてあると思いますが、私は、難しくとも直接手を下す医師自身が、インフォームド・コンセントに主体的にかかわるべきだと思います。以上です。

質問者B:現実の患者――私は心筋梗塞になったのですが――は医療を受ける。インフォームド・コンセントなんていうことも患者にとっては受けるしかないんです。で、高度な技術で一応助かったわけですね。その後もありがたいことに健康でいられるのは、現在の科学・高度治療のおかげだと思っています。それでたとえば私の場合でしたら、その費用が150万円かかったわけです。心筋梗塞の簡単な治療です。それは保険でほとんどまかなえるんですけれど、アメリカの現実はそうではありません。そういう高度治療にはどんどんどんどん富が生まれるような形で国家が遂行していっている。それに便乗したような形で学者が乗っているというような現実が垣間見えるわけです。庶民の治療というのはそういうところに全然達していないわけです。たとえばみなさん阪大の医学部付属病院に行かれたらわかると思うのですけれども、3時間待ったり4時間待ったりして3分の診療なんです。前回私も行きましたけれどもそういう診療でした。そういう現実というのはずっとあるわけです。日本の13000万の人たちを考えると、そういう高度な治療ばかりが発達していって、なおかつそういう高度な治療は、特定の人たちだけにその恵みがもたらされる。その一方では、1100万ぐらいの比で、全然違ったような形で現実の医療を行っているわけです。だから今まで岡本さんとか皆さんの意見を聞いておりまして、理屈ではうまく整理されているような感じが一見するのですけれども、現実の医療の「南北問題」というのはそんなに簡単なことではないんです。それと、富の偏在というか、たとえばちょっとした心臓移植なんかは億単位のお金がかかるわけです。それを美談のごとく、マスメディアに取り上げられて、美談のごとく募金してたとえば2億なり1億なり集まったと。一方では膨大な医療ミスで死んでいる人の方が大半だし、あるいはその後のQOLの状態というのは、散々な状態というのが大半です。そういう現実をもっと深刻に研究なさらないで、こういう空論めいたことをどんどんやっているという現実が、非常に日本の歪んだ現実ではないか、と見ているんです。だからその一点をもう少し違った観点で切り開いていただかないと医療全体が良くなりませんし、また国民にとっても不幸な先端医療になります。それは確実です。それをぜひ申し上げたいと思います。だから医療を商売の対象にしている現実というのは、非常よくないと思います。先端医療を有償/無償というような議論で問題を立てられましたけれど、もうひどい商業ベースに乗っていると思います。そういうお先棒を担いでいるという印象を非常に強くしました。それから「人格」の概念とか「人間」の概念とか言いますけれど、これは科学技術に対する非常に大事なポイントで、もっと綿密な科学に対する洞察がなかったら、こういう議論はしてはいけないと思うんです。してはいけないという言い方はおかしいですけれども、概念化ばかりが進んでいって、人々に対してそれが幸せかどうかという観点が抜けていると思うのです。だから「生身の人間からポスト人間へ」などという言い方を聞いて私は非常に不愉快な感じを覚えたのですけれど、人間をどんどんどんどん細分化していって、細胞レベルとか、あるいはDNAとかですね、統合したインテグラルな人間というよりも、分析的な人間ばかりやっているわけですね。それは科学技術の自然な発展なのですけれど、そこから出てくる色々なマイナスの問題とか、文化的なレベルにおける人間観を抜きにして、そういう議論が一人歩きするというのは非常に怖いと思います。それをぜひ申し上げたいと思います。質問をしても議論が若干ずれるので、そういう感想だけ述べさしていただきました。

司会:ありがとうございます。色々なことをいまご指摘なさいましたが、とくに岡本さんに、先端医療と日常医療との関係や、医療資源の配分の問題についてお答えいただけますでしょうか。

岡本:ありがとうございます。非常に重要なご指摘をいただきました。議論が先走りしているのではないか、「ポスト人間」というようなことを言っていていいのか、ということでした。実は今回問題としたのは、先端医療技術に関して倫理的にどのように考えることができるのかということでした。そこから出発したというのが本当のところです。ご指摘の医療資源の問題ですが、先端医療に莫大なお金をつぎ込むことによって一体何人の人が助かるのか、非常に微々たるものではないか、それに対して、多くの人、あるいは普通の人の大部分は、先端医療を受けなくとも通常の医療が必要なのではないか、その方たちをなおざりにして、先端医療という非常に莫大なお金がかかる、ごく一部の人だけを対象にするようなものを問題にするのはおかしいのではないか、ということだと思います。これは非常に重要な問題です。医療資源あるいは医療に関して効率性、あるいは限られた富をどのように分配していくか、どこに大きなウエイトをおいていくかというときに、高度な医療という形でごくわずかな人に恩恵を与える今のようなやり方で果たしていいのか。たとえば、先ほど小松さんが現在まで脳死移植は23例しかないと言われましたが、莫大なお金がかかる脳死からの移植医療というものをこのまま続けることがよいのかどうかという問題は、非常に大きな問題として、効率性の点から考えても出てくるのだろうと思います。その意味では具体的な様々なニーズに対して実際にどういう形で、限られた富を分配するかということは、決して見逃すことができない問題として私は考えています。

 

質問者C:主に柘植さんに、聞きたいというよりも教えていただきたいのですが。もし光石さんも可能であればお答えいただきたいと思います。今日のご報告では、臨床医療の問題と医科学研究――医科学研究の場合は医学だけではなくて、生物学といった周辺のものが入ってくると思うのですけれども――とが同じもののように扱われていました。私はとくに歴史的なことをやっておりますので、臨床の医者たちと研究者たち、つまり医学部のなかではMDやアメリカであればPhDをとっている人たち、あるいはMDを持っていないで遺伝子研究をやっている人たちは、それぞれプロフェッションとしても全然違うと思います。光石さんのご報告の中に少しそういうお話が出たのですけれども、柘植さんはとくに医者に何人もインタビューを取っておられますし、柘植さんのご報告の中では主に臨床医の方にインタビューされているような印象を受けました。日本ではいわゆる臨床医の発言力というのは比較的弱くて、大学の教授で研究の業績が上がっている人の発言力が非常に強くて、それが医学界全体を代表するようなものになっていると思います。そのあたりについて、なにかもしお考えあるいはご意見などあればお願いします。

柘植:ご指摘ありがとうございました。私もやっぱりパソコンで報告しながら、医師・研究者と並べてしまったけれど、それについて説明する必要があると思いながらお話を進めていったんですね。というのは先ほど、パーキンソン病の方の例のときに説明しましたが、研究者の方が「先端医療を進めれば(この病気の方たちが)たすかります」という夢を描いたときに、私が「臨床医の方はどうお考えなのでしょうか」と質問しました。それに、神経内科の方が答えてくださって、「実際にパーキンソン病の方のほとんど、8割とか9割の方は、今ある医療つまり薬で状態は改善できるので、ES細胞研究や再生医療研究は必要ないと思います。ただ何割かの方は今ある医療では改善できないので、そういう場合にまあそれが有効でしょうかね」というような発言をされていました。先ほどの医療資源の配分のこととか、現場の患者さんのことを臨床医の方はかなり分かって発言されているようです。ただ、先ほどのご質問にもありましたが、大学教授の発言力が強いというか、「新しい技術を進める方がすばらしいのだ」という日本における価値観みたいなものがあります。私はむしろ基礎的な医療をきちんとできるようにしたらいいと思います。たとえば、難病の患者さんにインタビューしているときに聞いた話ですが、自分たちの病気について勉強会を開いて、医師を招いて話をしてもらうと、医師は基本的な臨床の現場の話をして、「こういう治療方法があります」とか「こういうリハビリがあります」と説明した後、最後に必ず夢を描きます。「もうちょっと待てば、たとえばクローンを使ったり、ES細胞を使ったり、こんな医療ができるようになるかもしれません。そうしたら、あなたたちが今困っていることは解決できるかもしれません。」と言うんですね。臨床医なのでそれこそ研究現場で指摘されているリスクも知らない、技術のリスクだとか、実現可能性がどのくらいかも知らない臨床医が、患者の前で夢を話してしまうのです。それは不妊治療の事例でもすごく感じていたことです。実際に子宮を取らざるをえない女性が、産婦人科の臨床医である主治医が、「もう少し待てば代理出産できるようになりますから、10年後にはできるようになりますから」と言ったので、10年経ってもう1回来ました、という方が実際にいらっしゃるんですよね。

確かに臨床医と研究者は違う行動をしているし、違う思考をしているのだけれども、どうも「最先端の研究というものがすばらしい」、というのが医学界全体にあって、それが患者さんにとっての必要な情報や必要な医療というものの方向を誤らせているのではないかという印象はあります。

光石:ヘルシンキ宣言の文言に、医師の使命として、一つは「人々の健康」を守るというのがあって、その後で「マイ・ペイシェントの健康」と宣言しています。私はこの順序は逆だと思っています。要するに、臨床診療と研究は本質的に違うのです。研究というのはプロトコルが最初にあって仮説を決定してそれを検証していくわけです。とくに純粋の研究者がやるよりも、臨床医が研究をやる場合が問題です。その区別を自覚していない。「眼の前のこの患者のために」ということと、仮説の検証に成功するというのは、往々にして相反するのです。ジレンマに陥るわけです。この「義務の衝突」を意識しない方もおられるわけですね。そういう人にかかりますと、「研究に参加するのは当たり前」という形で患者に接していくことになりがちです。だから、その二面性を自覚してもらうためにも、民間組織が提唱している「患者の権利法」よりも先に、研究対象となる人を保護する法律が必要だ、というのが私の考え方です。

司会:今日は「臨床コミュニケーションのモデル開発と実践」というプロジェクトの一環として、とくに人文社会系の専門家の方をお招きして、ご報告・議論をしていただきました。異なる分野の専門家の間で、どういう形での対話が成り立つかという試みの一つとして、どこまでそれが実現できたかはわかりませんけれども、こうした公共的なコミュニケーションあるいは対話の場というものを作る、それは小松さんがご指摘なさったように生命倫理学あるいは医療倫理学の役割というふうに考えますと、今後もまたこうした色々な分野の専門家、あるいは一般市民の方を交えた議論の場を作るという試みを続けていければと思います。シンポジストの皆様、参加していただいた皆様、本日は本当にどうもありがとうございました。


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