「先端医療」技術に関するルール形成における基本からの逃避

光石忠敬(弁護士)

これまで、精神衛生法や薬事法の改正、GCP(臨床試験の基準)、臓器移植法、感染症予防医療法、クローン法などについて、公共政策の論議・形成に多少なりとも関わってきた立場から、私が周囲に話す内容に説得力がなかったり、うまくいかなかったりしたいわば不成功の経験をお話します。反面教師ということで皆様の参考になるかもしれません。

今、日本で起きていることは、生命倫理における基本に対して、ある意味では忠実だと言えます。それは、アメリカ製の生命倫理の三点セット、IRB(施設内審査委員会)、インフォームド・コンセント、そして公開です。臓器、組織を欲しい人がいて提供する人がいて技術があるのになぜ自由にできないのか、なぜ社会は医療現場に干渉するのか、という問いがあります。たとえば再生医学は、社会のニーズ(不老不死、優生思想)に応えているだけではないか、悪い結果は法廷で救済を求めればいいじゃないか、これがアメリカ的な生命倫理の基本に忠実なところでないか。タイトルに「基本からの逃避」と書きましたが、実際には、先端医療技術のルールで基本とは何かということをお話しないと、そこから逃げているのか忠実なのかは分かりにくいと思います。

結論的には、IRBのシステムにしても、インフォームド・コンセントにしても、公開にしても、理念から程遠いのが現実であるということです。IRBの審査というのはほとんど儀式であって形骸化していますし、インフォームド・コンセントも説明する事柄や患者さんの理解という要素を考えますと、理念や理論から程遠いのが現状です。またインフォームド・コンセントの一部である代行判断(親権者や配偶者等による)についても、理念や理論すらまだできておらず、現場任せというのが実状です。そのような理念が現場で実現しているかのように考えて、これで良いのだとみなすのは、私にはとんでもない間違いを犯していると思えるのです。人体というのが生きた金鉱になった、医科学研究というのが巨大なビジネスになったという現実を人々はあまり知りませんし、想像もできないのであって、基本に忠実にやっていると見えるだけです。医科学研究の対象になる人の人権、幸福(well-being)は置き去りになっています。日本の生命倫理は西欧諸外国に比べて平等志向が強いのかなと思います。いずれにしても基本をどう考えるかで、忠実なのか逃避なのかというのがわかるので、その点を加味しつつ私なりの先端医療に関するルール形成の基本は何だということを、整理する必要があると感じました。

ここでは「先端医療」技術のルール形成における、第一に「手法における基本」、第二に「法論理における基本」、そして第三に「内容における基本」を分けて考えます。

 第一に「手法における基本」ですが、1番目に「当事者の参加」ということです。これは医療ですから、両方の当事者である患者と医療専門家がどういう意志をもっているかということがルール形成に必要であるのに、これが二の次にされてきたという現実があります。ICH International Conference on Harmonization、日米欧医薬品規制ハーモナイゼーション)という19904月から現在に至るまで続いている、日本とヨーロッパとアメリカそれぞれの薬務当局と製薬産業のカンファレンスがあり、そこでそれぞれのルールを統一していこうという試みが行われています。例えばEEfficacy10という臨床試験における対照群の選択についてのガイドラインづくりが行われてきました。1996年に議論を開始し、2000年に合意し、それは厚労省の通知にもなっておりますが、これが実は大変に倫理と関わりがあります。技術的な対応であるということから、当事者参加というコンセプトが疎外されております。実際の厚労省の通知の内容は、世界医師会のヘルシンキ宣言29条、32条と矛盾するもので、そこでは当事者が蚊帳の外に置かれるという事態が起きています。

 2番目は、「草案作成作業からの参加」というのも基本だと思います。社会や市民というのが医療の潜在的需要者ですから、そういう者が参加するべきだと思うのですが、実際は原案が固まるまでは蚊帳の外に置かれています。国会の公聴会というのは完全な儀式にすぎませんし、最近、パブリック・コメントというのが行われるようになりましたが、これも期間が短い上フィードバックされておらず、半ば儀式のように見えます。イギリスの例を見ますと、人由来物質に関する新法のための意見公募として、リスト・オブ・コンサルテーション(問題を質問の形で詳しく区分けして、市民に対して意見を求める)という形で市民が草案の段階から関わっている。残念ながら日本はそうはなっていない。またイギリスでは、バイオ・バンクをたち上げる時、研究助成機関としてのNRCが、コンシューマー・リエゾン・グループ(13人の一般人と1人の大学の先生から構成される)を設置して、制度の設計段階から消費者の代表がパートナーとして入るというのが行われています。これは大いに参考とすべきことだと私は思います。

 3番目の「総合的対応」については実例は枚挙にいとまがありません。日本では役所の省庁部局の横断的対応というのはしないのです。縦割り行政と言われますが、省よりも局のほうが権限が強いとも言われますが、いずれにしても横断的な対応はできない。これを理解することが基本だと思います。たとえば1996年、医薬品安全性確保対策検討会という政府の機関ができたのですが、それは治験についての議論の場にしようというものでした。私はそのとき「治験も大切だけれども、広く臨床研究一般についても議論しましょうよ」と提案したら、「貴重な論点ですが・・・」ということで棚上げになりました。当時の厚生省薬務局が中心になって作った検討会だったので、その管轄外の議論をしようという提案はないものねだりだったのでしょう。

 4番目に「ケーススタディ」です。最近の言葉から言えば「失敗から学べ」ということですが、具体的事例というものは情報量が豊富です。先ほど挙げた医薬品安全性確保対策検討会での例ですが、研究者とスポンサ?の経済的な関係が研究結果にバイアスを与えたり、ゆがみをもたらしているという実証的なデータも出ていたので、私は「研究者とスポンサ?との金銭関係につき一例でもいいから調査してみよう」と提案したのですが、やはり棚上げになりました。

 5番目に「多様な意見」についてですが、まず多角的な専門家の意見ということがあると思います。しかし残念ながら行政部局の政策決定が先にあり、それに沿う専門家が集められるのは皆さんご存知だと思います。アリバイ的な考え方から、変わり種を一人か二人入れておくという工夫が行われているようですが、多様な意見を汲み上げるということはなされていない。審議会や検討会において意見書や報告書の起案を書くのが誰か、ということが結果の分かれ目になる。これを事務局、役所に委ねたら、少数意見はきわめて冷遇されるし載せてもらえない。医薬品安全性確保対策検討会のときも、少数意見を四行入れてもらうのに大変苦労しましたが、ほとんど目立たない形ではあるもののようやく入れてもらいました。その意味で1992年の脳死臨調の最終答申に少数意見がきっちりした形で載ったことは、画期的だったと思います。ちなみに今、ハンセン病の真相究明の為の検証作業が進んでいますが、その会議の事務局は役所がやらないということが認められ、日弁連の法務研究財団がやっています。これは私としては基本に忠実だと思います。専門家の多様な意見という場合、科学者の集まりの中から機関決定で推薦されて選ぶ場合と、行政からお願いして選ぶ場合とがありますが、前者の方が基本だと思います。

 6番目は「議会」です。霞ヶ関の官僚の本音は「法律は小さく生んで大きく育てる」ということだそうです。つまり法律はなるべく抽象的なものにとどめておいて、行政指針とか通達といった議会を通す必要のないルールでもって先端医療を乗り切ろうということのようですが、私はこれは基本から遠いと思っています。やはり行政と行政が選んだ一部の専門家の相互依存的な作業では、市民の意識はちっとも高まりませんし、使われている言葉すら理解できないというのが現に起こってきました。

 7番目に「立法」です。現実には行政指針の洪水という状況が起きています。遺伝子解析研究についても、クローン技術についても、ES細胞指針、疫学研究指針、臨床研究指針などいずれも立法という形式を避けて、専門家と行政でルールを作るということが行われているのです。その大義名分は、立法や国家権力による介入は、学問の自由の制約になるということのようです。しかし私は、ヨーロッパの国際人権法の学説のうちに基本を見出します。それは人権の尊重・保護・促進、つまりリスペクトしプロテクトしフルフィルするということが国家の義務であるという考えです。立法を抜きにして先端医療技術のルール形成を考えるべきではないと考えます。また、学問・研究の自由という基本的人権を制限するのに行政庁が定めた指針を持ち出せるかという憲法上の疑義もあります。

 第二の「法論理における基本」は三つに分けてみました。1番目に、法とプロフェッショナル・コード(たとえば医師会の会則)とは協働すべきものだと思います。このことについては、アメリカでは、スウェーデンではどうなっているのかという比較が、日本では活発に行われています。しかし欧米社会の法状況はよく研究されるのですが、そこでは、プロフェッショナル・コード、あるいはプロフェッショナル・ガバナビリティ、医師というプロフェッショナル集団が、そのプロフェッショナル・コードによってどれほど自律が保たれているかという論点を見ないで、法律だけ見るという傾向があります。日本ではたとえば医師が産婦人科学会の会告に反した医療行為を行って除名されても、日本医師会も産婦人科学会も強制加入団体ではないので、プラクティスをやめる必要はない。たとえばドイツでは医師会は強制加入団体なので、プロフェッショナル・コードに反すると、プラクティスができなくなるということが起こるのです。その上に法律というルールをかぶせる。プロフェッショナル・コードがどれだけ機能するかによって、法というものが下支えですむものなのか、そうでないのかを議論しなくてはならない。昨今のゲノム・バイオの世紀という時代、患者さんのいない研究者、医師の資格を持たない研究者が増えていますが、そういう者に対して、プロフェッショナル・ガバナビリティやコードがどれだけ機能するのかを市民としては見極めていかなくてはいけない。法律だけを論じても不十分なのであって、法とプロフェッショナル・コードは車の両輪のようなもので、両方が協働しなくてはいけないというのが基本です。

 2番目に法体系の問題ですが、法というのは憲法を頂点としたピラミッドで、体系的なものです。この7月30日から医師「主導」の治験に関する厚労省のルールが出来上がり、発効します。今、治験として行われているのは企業「主導」なのですが、医師「主導」でも行われるようになります。これは薬事法に関係するのですが、この法の目的は一言でいうと、医薬品の研究開発と促進です。ですから研究開発と促進という目的に沿う形で、被験者、対象者を保護しましょうと言っているにすぎない。こういう薬事法の限界というものを見ないで、薬事法の土俵の上でやればいいでしょうというのです。確かにこの治験はこのままにしておくと、たとえば小児科の薬剤とか難病といわれる領域では、薬事法に基づいて開発しても企業はメリットを感じないので、医師「主導」で治験をやっていくほうが良いではないか、ということになる。そのねらいは間違ってないのですが、薬事法の土俵の上でしか議論されていないことが基本から外れていると思います。

 3番目に人権・人間の尊厳についてです。クローン法の出来方を眺めると、基本からの逃避がパロディのように出てきた法律に見えます。クローン技術のいわば原料になる余剰胚や未受精卵はどこから供給されるのかという問題(川上問題)があります。それらが得られるのは、生殖医療の現場です。この法律は川上問題には一切関心を示さず、クローン人間だけは駄目だというものです。そこでは余剰胚の憲法上の地位、あるいはそもそも人権の源にある人間の尊厳はどうなっているのかという原点が忘れられている。これは法論理の基本からかなりずれたものとなっている、と言わざるをえない。

 第三に、「内容における基本」について3点挙げます。医科学研究の基本の一つは、対照群を作るということです。我が国では脳死基準としていわゆる竹内基準があり、法律上の基準となってしまっている。その作成方法に科学性があったのかということについて問題があります。立花隆さんが『脳死再論』で明確に論じていたことですが、研究対象が何であれ、対象だけを研究していたのでは対象固有の本質的な特徴を発見することができない、だから対象と対象以外のもの見て初めて対象の固有な特性が分かるのです。今、小児の脳死移植をどうするかという議論が進んでいますが、6才未満の脳死判定基準作りもやはり同じで、基本からの逃避があったと思います。といいますのも、判定基準を作る時も、脳死に近い脳死でない症例とか、脳死と疑われたけれども脳死でなかった症例とか、そういう非脳死群という対照群データというものを作って、非脳死群のうちで機能停止の最大値を調べて観察期間を構築していく、という科学的手法はとられていない。こうした基準を作ろうというときは、やはり科学的な原則に忠実なルール形成が行われるべきであったし、行われるべきでないかと思います。

 2番目は研究のインテグリティーと研究対象者保護です。医科学研究には、動物を使うものも試験管研究もありますが、人を対象とする場合、丸ごと人を対象にする場合もあれば、その人の組織とか細胞、要素を対象にすることもあれば、そういったものの情報を対象とする場合もあります。人を対象とする場合、どうやって対象者を保護するのか、研究の公正さをどうやって保持していくのかということが医科学研究の基本にあると思います。しかし中央薬事審議会などで、こういう問題を議論した方が良いのではないか提案しても流れてしまい、今日に至っております。人を対象とした侵襲を伴うような医科学研究に対しては、研究対象者保護法がこの種の先端医療技術のルール形成の基礎法とならなければならないはずですが、それができていない。

 3番目は生・死の概念・定義についてです。臓器移植法は、脳死は人の死であるという多数意見が下敷きになって出来たのですが、なぜ脳死は人の死であると言えるのかという死の定義に関連して、有機的統合性や体内恒常性(ホメオスターシス)ということが言われました。その後、新潟大学のある先生が、ホメオスターシスの中枢であるところの視床下部の神経細胞が竹内基準を満たした症例で、4日を経ても4割の事例で働き続けている事実を報告しました。それにより脳死は人の死であるという論理的前提が破綻したと私は思っているのですが、このことが無視されている。欧米で、臓器摘出するときに全身麻酔をするのはなぜか、モルヒネを使うのはなぜか、ということをある学者が学会で発表しようと申請したら却下されたということを聞いたのですが、学問の自由も認められていない。臓器移植法の論議でも、各党協議会の中で脳死論議を持ち出すと、取り調べを受ける被疑者のように扱われるといった雰囲気が作られていると関係委員から聞きました。人の死というのを定義して、それに脳死が入る、入らないというのは、基本中の基本であるのにそれが無視されている。

また胚について研究に利用することができるのかということも議論になっていますが、受精後14日間は胚ではなく前胚、つまりプリ・エンブリオだから研究は許されるのだと言われて、それが世界中で認められているのですが、どうもindividualityというか、個体性とか神経系の形成というものが出てくる時の前と後に分けて、それ以前は研究してもよろしいという判断になっているようです。なんで個体性が現れたときに保護するのか、それ以前は保護する必要がないのか、神経系が形成されたときに保護するのか、それ以前は保護する必要がないのかということは、私にはよく分からない。ES細胞の樹立をしても良いのか、可能なのかということですが、クローン法では、ES細胞は否定していないのですが、胚性細胞という定義の中に、巧みにES細胞は作っても使ってもよろしいという風な定義規定を作った。これは姑息な手段で、人間の生とか死とか、これが果たして人間なのかそうでないのか、という議論をしないで、定義規定を置いてしまった。

以上、どちらかというとうまくいかなかった私の経験について話してきましたが、なぜ基本から逃避するのでしょうか。それは、基本に近づけば近づくほど、特定分野の専門家や行政部局、産業にとっては不都合であるし、不利益だからです。つまり基本から遠ざかるほど便宜的に処理できるからです。だからこそ日本の先端医療技術に関するルール形成は基本から逃避し続けてきたし、今後もそうあり続けるおそれがあるということが結論です。


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