先端医療技術において「生命倫理学」は何かできるのか?

岡本裕一朗(玉川大学教授)

 玉川大学の岡本でございます。今回のシンポジウム「先端医療技術における倫理・社会」におきまして、哲学・倫理学の方面から私がご報告する、というのは疑問をお感じではないかと思います。先端医療技術に関しましては全くの素人ですし、哲学・倫理学の代表的な見解というわけでもありません。その意味で、ミスキャストであることは私自身が一番自覚しておりますが、折角の機会を与えて頂きましたので、ご報告させて頂きます。

 今回私が報告する切っ掛けになりましたのは、おそらく2002年末に出しました私の本であろうと思われます。ちょっと勇ましく、しかも向こう見ずなタイトルの本、『異議あり!生命・環境倫理学』を出したのですが、「問題発言が多い」ということで厳重注意を受けるのではないか、と覚悟して参りました。ただ、私としましては、あの本で問題解決を図るよりも、むしろ問題を提起することに重点がありましたので、こうした場を与えて頂いたことに感謝しております。そうは言いましても、私の本は必ずしも最近の議論を取り扱っているわけではありません。あの本を読んで、「岡本は最近の問題をよく勉強していないのではないか」と見抜いた方が多いと思います。そこで、昨年の本については最小限の言及にとどめて、本日のテーマに即して話していきたいと思います。ただ最初にお断りしておかなければなりませんが、本日の議論はあくまでも「ラフなスケッチ」でありまして、私自身に向けられた問題提起と考えております。ですから、何か、いいアイデアがあれば、是非お教え頂きたいと思っています。

 さて、本日の私の提題は「先端医療技術において生命倫理学は何かできるのか」というものです。このとき、私の頭にあったイメージは、臓器移植やクローン技術、ES細胞や遺伝子改変技術などですが、こうしたものに対して生命倫理学はうまく対応できるのか、という疑念でした。最近の医療技術の発展はめざましく、今までとは異なる新しい次元を拓きつつありますが、生命倫理学はこの事態に対して適応不全に陥っているように見えます。そこで、まずその問題から始めていきたいと思います。

1.生命倫理学が直面する新次元?

 非常に大ざっぱな印象で申し訳ありませんが、私の見るところ、生命倫理学は新しい次元の問題に直面している、と考えられます。先端医療技術の発展が引き起こしたのでしょうが、具体的に言えば「体細胞クローン技術」の確立や「ヒトゲノム計画」の一応の完了によって、生命倫理学は今までとは異なる次元に立った、と言えます。イメージ的に語れば、今までは「生身の人間」に対面した形で生命倫理学は問題を考えることができたと思います。人工妊娠中絶であれ、臓器移植であれ、安楽死であれ、いわば「生身の人間」に対面して解決を図っていく、という方向です。ところが、最近問題になり始めたのは、そうした具体的な「人間」を突き抜けた領域ではないでしょうか。フランシス・フクヤマならば、「ポスト人間」の領域とでも呼べるような次元です。

 たとえば、妊娠中絶の問題を考えてみましょう。今までの議論では、胎児や新生児が「人格」ないし「人」かどうかが問われたり、中絶はいつまで可能かという線引き問題などが話題になったりしました。しかし、今後問題になるのは、その先ないしその手前の領域にシフトしていくのではないでしょうか。その先というのは、中絶した胎児をどう取り扱うか、という問題です。従来のように廃棄するのか、それとも胎児の組織を利用して難病治療に使っていくのか、あるいは中絶された胎児の細胞を利用してEG細胞をつくるのか、など新たな選択肢がでてきました。

 また、その手前というのは、体外受精によってつくられた受精卵を遺伝子診断して取捨選択したり、クローン技術によって体細胞クローン人間が可能になったり、あるいは受精卵や卵子からES細胞がつくられたり、さまざまな可能性が広がってきました。そのうち、生殖細胞の遺伝子を改変することによって、遺伝的な人間の特質を変えてしまうことも可能になる、と考えられています。従来の議論で言えば、「人格」とは呼べない段階で、既に事は決まってしまうのです。このとき、生命倫理学は、有効に議論する枠組みを持っているのでしょうか。しばしば「人間の尊厳」という概念を使って、こうした事態に対処しようとする人がいますが、あまりリアリティは感じられません。

 こうした先端医療技術が切り開いた新たな可能性に対して、生命倫理学は何ができるのでしょうか。暴走する医療技術に「歯止め」をかけるべきなのでしょうか。それとも、発展した医療技術に「お墨付き」を与えるべきなのでしょうか。しかし、「歯止め」論であれ、「お墨付き」論であれ、生命倫理学に正しい判断が可能であるかのように考えられていますが、そうした判断が果たしてできるのでしょうか。むしろ、新たな次元を前にして途方に暮れている、のではないでしょうか。生命倫理学の現状をどう考えるにしても、私たちが新たな次元に立っていることは間違いないと思います。そのため、今までは問う必要のなかった問題が、改めて浮上してきました。私は、それを三つの問題に分けて考えてみたいと思います。

2.概念の創造(適切な概念の不在)――ドゥルーズ風に

 第一の問題は、先端医療技術について議論するとき、生命倫理学に適切な概念がはたしてあるのか、という問題です。先端医療技術においてしばしば問題になるのは、たとえば「受精卵」であったり、「クローン胚」であったり、そうしたものからつくった「ES細胞」であったりしますが、それらはどう取り扱ったらいいのでしょうか。端的に言えば、それらは単なる「物」なのでしょうか。それとも、「人間」あるいは「人格」と呼んでもいいのでしょうか。あるいは、中絶胎児の組織を考えてもいいですし、心臓や肝臓や腎臓などの臓器ないしその一部でもいいのですが、これらは「物」なのでしょうか。それとも、なんらかの意味で「人格」と見なすべきなのでしょうか。

 奇妙な問いのように感じられるでしょうが、「物」であるか「人」であるかによって、取り扱いが全く違ってきます。たとえば、受精卵が「物」であれば、誰の所有かが問われますし、譲渡したり廃棄したりしても問題ないでしょう。それに対して、もし「人」であれば、所有や譲渡や廃棄などは当然禁止されるはずです。かつて、人工妊娠中絶が議論されたときに、「胎児は人格か」が問われたことがありますが、現在ではもっとプリミティヴな次元で「人格」が問われるようになりました。 

 極端な立場では、「人間の尊厳」に訴えてクローン技術全体が禁止されることもあります。クローン人間を作るだけでなく、「クローン胚」からES細胞を作成することも「人間の尊厳」に反している、と言われます。あるいは、体外受精による受精卵を遺伝子診断した上で取捨選択することも、中絶胎児の組織を利用してパーキンソン病や糖尿病の治療に当たることも、「人間性」に反していると考えられるかもしれません。しかし、この場合、「人間」ないし「人」というのは、どんな意味でしょうか。

 総じて、先端医療技術の分野では、「人」ないし「人格」とは言えない対象を取り扱うことが多くなっています。とすれば、その対象は単なる「物」として取り扱うことができるのでしょうか。しかし、臓器や組織だけでなく、受精卵やクローン胚までもすべて「物」として取り扱うには、抵抗があるかもしれません。「人格」とは言えないとしても、「物」にしてしまうこともできない、と考えられるでしょう。

 この困惑は、実は「妊娠中絶」の議論においても、既にありました。胎児を「人格」とは呼べないとしても、単なる「物」と考えることもできない。そこで持ち出されたのが、「可能的」と「現実的」という区別でした。つまり、「胎児は可能的には人格ではあるが、現実的には人格ではない」と規定されるでしょう。しかし、この規定では、結局「胎児は人格なのか、そうでないのか」決着がつかないと思われます。「可能的」に重点を置けば「人格」でしょうし、「現実的」を基準にすれば「人格ではない」ということになります。

 実はここで問題になっているのは、新しい事態に直面して「概念」が上手く見つからない、ということではないでしょうか。手元にあるのは、「物」か「人格」かという二分法であり、このいずれかで事態を理解しようとするのですが、先端医療技術によって生み出された事態は、この二分法では上手く処理できないように思われます。「受精卵」や「クローン胚」を取り扱うとき、「物」か「人」かという二分法では有効ではないでしょう。また、身体の一部である臓器や組織もまた、「物」か「人」かという二分法では対処できないでしょう。

 ここで私は、ドゥルーズとガタリが『哲学とは何か』で、哲学の仕事として「概念を創造する」ことと言っていたのを思い出します。私たちは、「物」か「人」かという二分法ではない、別の概念を創造する必要があるのではないでしょうか。先端医療技術によって直面するようになったさまざまな対象を取り扱うためには、それに適した概念を考案しなければならない、と考えられます。

3.自己決定と優生主義 

 第二の問題として、生命倫理学で原理的な働きをしている「自己決定」と、先端医療技術が生み出すであろう「優生主義」との関係をどう捉えるか、という点を考えてみたいと思います。この問題は、従来の枠のなかでも、たとえば「羊水検査」を行うことによって「選択的中絶」を選択するという形で、議論にはなりました。しかし、現在では、体外受精の受精卵を着床前に遺伝子診断することが可能になりましたので、ますます重要性を帯びてきました。

 つまり、体外受精によって複数個の受精卵を造り出し、その中で「劣った」受精卵を廃棄して、「優れた」受精卵を選び出して着床させる、というものです。このとき、大きな原理となるのが、「本人の自己決定」という原則でしょう。体外受精を行うように決定したのも本人だし、どの受精卵にするか選択・決定したのも本人です。自分の子供として育てていくことを考えてみればどこにも問題はない、と考えられます。確かに、この選択では、受精卵の優劣を区別し、優秀な遺伝子を持つ受精卵を残していくことが図られていますから、「優生主義」という批判も可能です。しかし、注意したいのは、この選択があくまでも「本人の自己決定」から生み出されていることです。誰か第三者、たとえば国家などによって強制されたわけではありません。とすれば、この選択は「優生主義」という形で、非難されるべきなのでしょうか。国家によっていわば上から「優生主義」が強制されているわけではありませんし、個人の自由が侵害されているとも考えられません。

 これに対しては、20世紀前半のヨーロッパの「優生主義」が、上からの強制一辺倒ではない、と言われるかもしれません。実際、ナチスの優生政策においても、「本人の同意」が重要な役割を果たしていることは、否定できません。従って、「自己決定」を原則にしているからといって、国家の優生政策とは無関係である、と楽観的に考えることも危険ではあります。しかし、「本人の自己決定」という原則が、国家の優生政策に直ちに結びつくわけではありません。そのため最近の動向を、旧来の優生主義に還元してしまうことは避けなければなりません。「自己決定」と「優生政策」は基本的には別の事柄ですから、「自己決定から優生政策が生まれる」とは言えません。そもそも、最近行われている「受精卵の着床前診断」というのは、優生主義として非難されるべきなのでしょうか。

 従来の議論では、話が「優生主義」ということになれば、そこですべてが決着すると考えられていました。「君の考えは優生主義だな」とか、「君のように考えると優生主義になってしまう」と言われたら、議論はそこで終わってしまいました。しかし、現在進行しつつある状況は、「優生主義」というレッテルを貼ることでは問題が解決しないだろうと思われます。

 具体的な場面で考えてみます。2000年11月にフランスで発表された事例ですが、「致命的な遺伝病(名前ははっきりしませんが)」のために二人の子供を亡くした女性が、体外受精による受精卵の段階で遺伝子診断を受けて、受精卵の選別を行ない出産した、というものです。この場合、どこか問題があるのでしょうか。この女性は自然な形で妊娠することも可能だったのですが、致命的な遺伝病の可能性のために、あえて体外受精による着床前診断という方法を自己決定しました。複数の受精卵のなかから取捨選択するわけですから、間違いなく価値判断が働いています。しかし、この価値判断に対して、いったい誰が非難することができるでしょうか。この判断には優生思想が存在しているとしても、だからといってこの判断を間違いだとして却下できるとは思えません。

 この事例では、「致命的な遺伝病」ということでしたが、さまざまな段階があることは言うまでもありません。遺伝子研究が進んで遺伝病の原因が確定できる場合には、その病気を避けるような形で選択されると思います。あるいは、こうした病気などの場合だけでなく、身長や容姿、知能や性格などの遺伝子がどこまで確定できるか分かりませんが、それが確定できるようになるならば、受精卵を選択する際の条件は、ますます広がってくるでしょう。さまざまな条件を考慮した上で、「もっともよい受精卵はどれか」、真剣に悩むようになるかもしれません。あるいは、先端医療技術はもっと先まで私たちを導くことでしょう。生殖細胞に対して遺伝子の組み換えを行えば、遺伝病の根本的な治療ができると考えられます。現存する受精卵のなかからどれかを選択するのではなく、受精卵の遺伝子構造を意図的にデザインすることが可能になります。

ここまで想定するかどうかは別にして、問題を確認しておけば、現在進行しつつある個人レベルでの選択は、旧来の国家的な優生政策とは区別して理解すべきだ、ということです。国家的な優生政策に対しては非難することができたとしても、個人レベルでの選択に対して簡単に批判することはできないと思われます。「より優秀な」子供を願うという親の選択に、誰が、またどうして反対できるでしょうか。この選択がまた、ナチス的な優生政策に直結すると考えることも不可能だと思います。しかし、だからといって、個人的な自己決定がなんらかの優生主義と無関係だ、と考えるほどノーテンキでいられるわけでもありません。ではどう考えたらいいのでしょうか。

ストレートにではなく、少し回り道をして考えたいと思います。私の念頭にあるのは、ミッシェル・フーコーが提示した権力論の構想です。改めて繰り返すまでもないかもしれませんが、フーコーが近代社会の権力を分析したとき明らかにしたのは、絶対君主時代におけるような上から抑圧的に働く権力ではなく、個々人の内部で積極的に働く権力でした。つまり、権力のイメージが根本的に変化したのですが、私としては優生主義の問題をこれと類比的に捉えられるのではないか、と思っています。

 現在進行しつつあるのは、上から強制されるような国家的な優生政策というよりも、個々人の内部で働き、個々人の選択決定を導くような優生思想でしょう。個人的であり、かつ主体的な優生思想と言っていいと思いますが、このいったいどこが問題なのか明確ではないのです。国家的な優生政策の場合には、個人の自由に訴えて批判することは可能でしょう。しかし、私たちの内なる優生思想に関しては、この論理が使えません。可能な選択肢のなかから、その人にとってもっともよいものを選び出す、という原則に立てば、優生思想は必然的だと思います。しかし、だからといって、この選択が悪いわけでも、また国家的な優生政策に導くわけでもありません。重要なことは、個人的な優生思想と国家的な優生政策とを明確に区別した上で、この関連を探っていくことだと思われます。

4.無償かそれとも有償か

 第三の問題として、商業化の問題を考えてみたいと思います。一般に、生命倫理の問題を考えるとき、商業化に関してはほとんど議論されません。日本では特に、倫理問題を考えるとき、お金のことは口にすべきでない、といったような風潮があります。そのためか、臓器移植においても、ドナーは無償で臓器を提供することになっています。今後、ES細胞を作る際に受精卵が必要になったり、クローン胚を作るために卵子提供が要請されたりするでしょうが、このときもやはり無償が原則になるようです。しかし、この無償という原則は、はたして正当なのでしょうか。

 私は昨年出しました本の中で、「臓器不足を解消する」一つの方法として、臓器提供の有償化と臓器売買の可能性を提唱しました。ここでは、それについては繰り返しません。今議論したいのは、「そもそも無償とはどんな意味なのか」、ということです。無償であることは、有償であることよりも望ましいことか、と言いかえてもいいでしょう。単純に考えても、見知らぬ他人に何かを提供するときは、その見返りとして対価を期待します。提供したものが相手に利益をもたらすのに、私に何も対価が与えられなければ搾取されたと感じてもおかしくはありません。それなのに、なぜ臓器や受精卵や卵子などは無償なのでしょうか。

 私たちの社会では、有償か無償かに関しては、価値の上での明確な序列が出来上がっています。たとえば、臓器移植においては、「いのちのリレー」とか「愛の行為」といった美辞麗句で無償性が讃えられます。これに対して、臓器の有償性に関しては「臓器売買」が「ヤミ金融」などとの関連でイメージされるでしょう。このイメージを増幅させるように、臓器や受精卵や卵子などの「商品化」や、人体の「資源化」という言葉が使われるでしょう。こうした言葉の背後には、「人身売買」というおぞましい考えが、見え隠れしています。しかし、臓器や卵子などは「生身の人間」全体とは違いますし、商業化が最初から悪いわけでもありません。そもそも、こうした価値の序列、つまり「無償性はよく、有償性は悪い」という判断は、認められるのでしょうか。

 この問題を、正面から議論する前に、逆の方から考えてみたいと思います。たとえば、「いのちのリレー」などと称讃される臓器移植の場面で、「無償性の原則は本当に貫かれているのか」、という側面から見てみるとどうでしょうか。確かに、脳死とされるドナーから臓器を取り出すときは、無償かもしれません。しかし、取り出された臓器がレシピエントに移植されるには、さまざまな経費がかかっています。医療器具や薬剤だけでなく、コーディネーターや医者の人件費などを含め、莫大な費用がかかるでしょう。医者の場合は、移植手術を行うことで地位や立場を確保したり、業績を築き上げたりするかもしれません。あるいは、生命倫理学者はこの事例を利用して、論文を作成するかもしれません。要するに、無償性の原則に立つ臓器移植には、有形無形のさまざまな利益が生み出されている、と考えられます。

 今度は、受精卵からES細胞を作成する、場合を考えてみましょう。ある研究者ないし研究所が不妊のカップルから使用しなくなった受精卵を無償で提供してもらい、そこからES細胞を作成したとします。この研究者は、研究成果を発表して特許をとったり、商品化したりして莫大な利益を得るかもしれません。あるいは、直接的な利益ではないとしても、研究業績によって社会的な地位を上昇させることもあるでしょう。それによって、政府からの補助金が与えられたり、スポンサーがついたりするかもしれません。いずれにせよ、この研究者や研究所に利益がもたらされることは確かでしょう。つまり、無償で提供された受精卵によって、有形無形のさまざまな利益が生み出されます。

 医療産業やバイオビジネスについては言うまでもないと思います。クローン技術にしても、ヒトゲノム計画にしてもバイオ企業なしには不可能だったでしょう。先端医療技術を推進するためにはお金がかかりますが、またそれによって利益が生み出されることも事実でしょう。バイオ企業が研究開発のために資金を出資するのは、その見返りとして十分な利益が期待できるからです。その材料として、臓器や受精卵や卵子などが必要になる場合、無償で提供されたものから、利益が生み出されていくでしょう。

 ここで何を言いたいのかは明かだと思われます。たとえ、臓器や受精卵や卵子などの提供に関して無償性の原則を貫くとしても、それを取り巻くひとびとには何らかの利益が生み出される、という当たり前の事実です。不謹慎な言い方をすれば、「みんなこれで飯を食っている」と表現できるかもしれません。臓器や受精卵や卵子は「飯のタネ」と言えば、言い過ぎでしょうか。露骨な言い方なので認めたがらない人はいるかもしれませんが、無償性に先立って、既に有償性が働いていることは間違いありません。これを、私はデリダの言葉をもじって、「原(アルシ)有償性」と呼んでおきたいと思います。無償制の原則が成立するためには、常に既に「原有償性」が働いているわけです。

 この観点から見ると、臓器や受精卵や卵子などを無償で提供する、という現在の制度は妥当なのでしょうか。提供者には無償を要求しながら、その回りの人々はそれぞれの利益を追求しているのではないでしょうか。さまざまな美辞麗句を重ねながら、提供者からタダで身体の一部を収奪している、と考えることもできます。

 では、「臓器や受精卵や卵子の提供に関して有償と無償のどちらがいいか」、と端的に問うてみれば、無償よりは有償の方がいいと考えます。それでは、「臓器などの商品化につながる」と批判されるかもしれません。しかし、無償の段階でさえも、臓器は利益を生み出すものとして、既に回りの人々には取り扱われていました。それに、「商品化につながる」からといって、直ちに批判すべきものでもありません。私たちは現在、商品が流通する社会に住み・暮らしていますが、この商品化社会はそれ自体で悪いものとして批判すべきなのでしょうか。「商品化」ということから、「悪い」ということはでてきません。そもそも、臓器や受精卵や卵子を有償で提供することのどこが悪いのでしょうか。無償で提供することがよくて、有償で提供することは悪い、とどうして言えるのでしょうか。

 たとえば、妊娠中絶した胎児をどう取り扱うか、ということについて考えてみましょう。この場合、現在ではいくつかの方法があると思います。従来のように、中絶胎児を廃棄することも一つですが、先端医療技術の発展によって有効利用する方法が可能になりつつあります。胎児の組織からEG細胞をつくったり、パーキンソン病や糖尿病の治療に役立てたりすることも考えられます。この場合、胎児の提供は無償がいいのでしょうか。「他人のために役立てる」という名目で、無償提供することがいいのでしょうか。しかし、この胎児の回りには、さまざまな利害関係が形成されますし、実際にも多様な利益が生み出されるでしょう。この点をすべて覆い隠して、私たちは無償の提供を要求すべきなのでしょうか。

 このように考えますと、「有償ならば悪いが無償ならばいい」ということは言えないだろうと思います。具体的な政策としてどうするかは別にして、私たちは「無償か有償か」について根本的に考え直す必要があります。

4.バイオ権力と生命倫理学

さて、ここで最初の問題に立ち返って考えてみましょう。先端医療技術によって、私たちは今までとは異なる次元の問題に直面しているように感じます。西暦2000年前後を境にして、「生身の人間」に対面する状況から、「ポスト人間」の状況へシフトしつつある、と考えられます。生殖細胞の遺伝子を改変して思い通りの子供をつくったり、クローン技術を利用してレズビアンのカップルから子供が生まれたりするかもしれません。こうした状況のなかで、生命倫理学は何かできるのでしょうか。

 最初にも述べましたが、暴走する医療技術に対して「歯止めをかける」といった「歯止め」論や、発展する医療技術に対して「お墨付きを与える」といった「お墨付き」論などが想定されるかもしれません。しかし、このいずれの場合にも、「生命倫理学の方には正しい判断が可能である」という前提があります。つまり、「正しい」生命倫理学が「誤った」医療技術に歯止めをかけるとか、または生命倫理学が正しいと認めた「先端医療技術」に正当性を与えるというものです。しかし、生命倫理学にこうした判断が可能なのでしょうか。手持ちの概念や理論では、現在進行しつつある状況にうまく対応できないのではないでしょうか。

 現在進行しつつある状況は、フーコーの言葉を使えば、「バイオ権力」とでも表現できると思いますが、「生命」をめぐって多様な欲望が形成されています。先端医療技術によって、体外受精が可能になり、着床前診断が可能になります。クローン人間やデザイナー・ベビーが生まれてきてもおかしくはないでしょう。臓器移植にしても、他人からの臓器だけでなく、ES細胞によって自家製造できるようになるかもしれません。つまり、個人の欲望を起点として、「生命」に対する管理支配が形成されています。このとき、生命倫理学も「バイオ倫理学」として、「バイオ権力」の蚊帳の外に立つことはできません。とすれば、「バイオ権力」のなかで「バイオ倫理学」は何ができるのでしょうか。私にとっては、先端医療技術が問題であるだけでなく、バイオ倫理学それ自体が改めて問い直さなければならないと思います。


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