先端医療技術推進の論理を再考する

柘植あづみ(明治学院大学)

 これまで私は医療人類学の研究で、2つの病院に入院されている40人くらいの患者さんに自分の病気観についてインタビューしてきました。現在は先端医療、特に再生医療や遺伝子解析の技術が、実際の当事者の声をどのように反映しているのかという疑問を持っているので、障害や病気を持っている方々に障害や病気を持って生きていくことに対するお考えについてインタビューさせてもらっています。お二人のお話を聞いて、もう一つのテーマである妊娠と出生前検査についての研究を含めて、さまざまな事例が頭をかけめぐっている状態です。今日はなるべく具体的な話をしながら進めていきたいと思います。

 小松さんが言うように、インフォームド・コンセントをするとき、あなたが選択することがあなた自身だけでなく、どういうふうに社会までも変えていくのかについて説明することが必要だろうということでしたが、私は医療現場ではそこまで難しいだろうなと思っています。ただ、私の役割としては、社会、文化の側が、ある技術というのを個人が選択していくような、そういう状況、環境、文脈を作っているか、ということを考えています。私の研究テーマはある個人に対して、個人の意志決定に関わる要因はどういうものかというものに焦点をあてて話を聞いています。病気や障害を治すこと、治せるようになることが、先端医療技術の推進側の論理の中心に据えられているので、なぜ治すこと、治せるようになることが、推進していく論理になりうるのかということを考えていたいと思います。結論は出ていないのですが、一緒に考えていく材料を提示したいと思います。

 入院している患者さんや不妊治療をしている女性達にインタビューをしていると、まず病気の場合、身体的痛みや不快があったりしますが、不妊の場合は身体的痛みを伴わない人もいますし、子宮内膜症や筋腫など痛みを伴うこともありますし、がんの方の場合、痛い、辛いから治したいという方もおられれば、痛みがなく、なぜ私がここに入院しているか分からないという方もおられます。また、なんで子供ができないのかということが精神的苦痛(トラウマ)に到るほどになることもあり、身体的痛み・不快がない場合でも精神的苦痛が大きい場合があります。それから、死に直面している、あるいはそうでない病気の場合も、なぜ自分が治らないような病気にかかってしまったのか、なぜこの病院にいなければいけないのかという理由を、自分の生活史(ライフ・ヒストリー)の中で一生懸命探すわけです。実際、病気による不便、不自由があるので治したいというのもあります。脳硬塞の事例ですが、外泊をされた時「家はよかったですか」と尋ねると、全然よくなかったと言われた。トイレも自分で行けないし、自分で何かしたいと思ってもできない。家族は援助してくれるけれど、かえって不便だし不自由で、病院の方がトイレも段差がなく自分で行けて自由であったと答えた方もおられました。入院して何か困ったことがありますか、とインタビューで尋ねると、何人かの方がまず経済的な問題だと言われます。男性だけでなく離婚や死別によって一人で家計を支えている女性ももちろんですが、医療費がたくさんかかるし、経済的不利益があると言われます。

次にスティグマですが、病気になったとき、何か自分が病人、劣った者として扱われていく、がんであれば、「あそこはがんになった」など、田舎などで言われることがある。「入院していることをどなたに伝えましたか」という質問に対して、「誰にも言ってない」ということが多いのです。その理由は、「心配をかけるから」、「遠くから見舞いにこられたり、お金を持ってこられたりすると迷惑をかけるから」というのです。また、ご近所にも伝えていないというので、それはなぜ、と聞くと、心配かけるからとか、お見舞いをしてもらうことになるというだけではなく、病気になったから劣っているという単純なことではないにしても、病気がある、障害があるということで劣った存在として見られる、というスティグマが作用していると思います。不妊の場合によくあるのですが、医師にインタビューした時に、「この方はとても立派なご婦人なのですが、子宮がないのです」という発言をされます。立派なご婦人には子宮があって当然、という医師の考え方が出てくるし、何かひとつの病気や障害があれば、他のところも劣っていると見られるというスティグマがあることが逆に分かります。車椅子を使っている私の友人が区役所に行くと、「字書けますか」と言われて腹が立ったと言っていました。「私は不妊です」と言うと、他の全ての能力も劣っていると見られるし、「私はがんです」という場合も同様に、病気や障害を持った人々も、自分でそういう考え方をしているのです。また、役割遂行能力ができないということに対して悩みます。主婦の場合、病気であることによって何々をしてあげられない、家の仕事ができないという葛藤が非常に大きいことがあります。働き盛りの男性は、会社との連絡などで忙しくしていますが、なんだかんだ言っても仕方がないということになります。女性の主婦の方は、早く家に帰らなきゃ、家族はご飯を食べているか、仕事に行っているか、という心配をずっとされています。

次に不全感ですが、子供を産むことができないということは、スティグマとも関連しているのですが、他人からどう見られるかというだけでなく、自分自身が本来、産める存在だと思ってきたのに、産めないということで劣った人間と感じてしまう、ということです。このことは「内なる優生思想」につながるかもしれないのですが、むしろ不全感が生じてしまうのは、医学的知識、科学的知識というものが普及して、卵管があって子宮があって、受精卵がこうやって降りてきて着床して妊娠する、とかいったことが分かると、子宮がない人やそういう機能がない人は、本来あるべき姿より劣っているという悩みが出てくるからです。そういう病気を治したい理由は、もっと複雑なところから出てきているのです。

ところが研究者や医師の論理は、治すことが善であるということです。私も実際入院した時には、早く治してほしい、なるべくうまく治してほしいと思いました。医師や研究者は当然そういう論理を持っていますし、医学教育の中でもそのように教えられます。そして善であるという倫理的規範などではなく、自分の役割として治してあげたいという善意を持っています。自分が医学的知識や技術を持っている、研究者や医師という立場として治せる技術を開発できることは素晴らしいことだという価値観を持っているわけです。そうなると治せないということはとっても不安で、医師の自信喪失になります。実際に不妊治療の最前線にいる医師は、「不妊治療で治らない人もおられますよね」と聞くと、「はい」と答える。大学病院では、一般の不妊クリニックで妊娠しない人を治療するので、妊娠する人は3〜4割程度というのが現実なのですが、そのことを尋ねると、医師たちは「何とか新しい技術を使って治してあげたい」と言うわけです。「何とかならない場合は、治療のために仕事をやめていた人や、やりたかったことをやめていたことを始められたりという新しい人生がありますよね」と聞くと、「そういう場合もあるかもしれないが、それは医師としては敗北です」と答える。「その人の人生としてはいろいろあるとしても、治してくれと目の前に来ている人に対して、あなたには他の人生がありますよね、と言うのは、医師として敗北である」と言う医師が複数います。病気を診断すること、治療すること、より高度な技術を使って治してあげることが良いことである、というのが医師・研究者としての論理としてある。

そういう人たちが技術評価をする時、成功率が高いか低いかということで評価をします。成功率が高ければ技術はよいと判断する。しかし最先端の医療技術に関わっている医師は、「成功率はそれほど重要ではないよ」と言います。たとえば妊娠率を成功率として出す人が多いのですが、最近は出産率を成功率として提示されるようになってきました。とはいえまだまだ一般的には「この病院の体外受精の成功率は30%です」という時は、妊娠率を指すことが多いのです。なぜ妊娠率かというと、「不妊で妊娠しないのだから、妊娠させることができれば成功だ」ということになるからです。しかし不妊治療の自助グループの調査では、妊娠した後流産した人は4割近くいます。ここに医師・研究者の論理と患者側の論理との違いを感じるのです。

安全性について言うと、何をもって安全とするかというのは非常にイデオロギー的だと言われます。不妊治療ではなくお産の話を産婦人科医としていると、安全性というのがすごく出てきます。たとえばある産婦人科医たちの会合で、「なぜ日本人の女性は里帰り出産をしたがるのだろう。そういう習慣があるから日本のお産の安全性が低いんだ」と言われたことがあります。確かに医療として見れば、妊娠の経緯だけ自分の近くの産婦人科で診てもらって、出産の時だけ実家に帰ってその近くの産婦人科で診てもらうというのは、危険性が増すだろうと思います。だけど、なぜ女性が里帰り出産をしたいのかというと、産む側としてはお産を経験したことのある者、たとえば母親が近くにいるということは安心感をもたらすからです。お産の後も家事を手伝ってくれる人がいるということもある。つまり安全性を重視して、妊娠・出産の事故を減らそうとする医師たちには「里帰り出産するのはばかだ」という論理がある。産む側の論理としては、温かい人間関係の中で産みたいし、おめでとうと言ってくれる関係の中で産みたいし、ちょっと休んでなさいよと言ってくれる中で産みたいということがあるが、医師にはどうも理解しづらいということになります。

次に効率性についてですが、先ほど、小松さんからトリプルマーカーテストでインフォームド・コンセントが30分しか行われていないというお話があり、それだけの中で何が伝えられるかということをおっしゃっていましたが、今の医療現場でトリプルマーカーテスト(値段を忘れてしまいました)がたとえば1万円とすると、1万円のために医師が30分説明するのは大変なことです。このテスト結果は確率で出てくるので、妊婦さんが検査の結果を聞いて、間違ってあなたの危険性が高いとか陰性だとか陽性だとか言われて、それで不安になってその後の行動を誤らないようにきちんと説明することが必要であると言われています。けれども30分説明してたった1万円ならば、医師は勧めない方がもうかる(効率としてはよい)のであって、医師も営利のためにやっている人たちだけではないのですけれども、今この医療現場で検査の目的やリスクや結果をどう読むかという説明を30分かけてするという暇はないので、最近トリプルマーカーは使われなくなってきています。

ところが技術評価には、痛み、不快、恥ずかしさという指標もあります。たとえば不妊治療で、子宮卵管造影という造影剤を膣から卵管まで通して子宮と卵管をレントゲンで撮るのですが、すごく痛みがあります。その検査は、10年以上経ったけれどもまだまだ改善されず、痛いと言われます。また婦人科の内診台で、自分の下腹部(陰部)を医師の目の前に見せるために足を開くというのは、非常に恥ずかしくて不快です。近年、婦人科で経膣超音波が普及し、68週の胎児を写すことができるのでよく使われています。多くの女性は器具を膣に入れられるのが恥ずかしくて嫌だと感じていますが、検査についての説明がほとんどなく、「はい、検査しますね」と言われて行われ、ほとんどの女性は不快なのですがいやだとは言えないのです。こういうことは医師・研究者の技術評価で考慮されないので、改善されることがない。

もうひとつの「病気によって生じる社会的・文化的問題」というのは、ほとんどの医師・研究者の技術評価には入ってきません。たとえば再生医療、特にES細胞の時に、研究者は「一番可能性として高いのが、パーキンソン病の治療に使えることです」と強調します。ガイドラインを作る審議会で私は「パーキンソン病の方々は、病気になったということをどう感じておられるのでしょうか、何を苦しんでおられるのでしょうか」とその人に質問しましたら、「私は臨床医ではありません」と答えました。私は「あなたはさっき、パーキンソン病は大変なんですと言いましたね」と言いたかったのですが、代わりに神経内科医が説明してくれました。実際こういう論理で技術が進んでいくのです。患者のことが無視されているということです。

改善策というのは非常に単純なことですが、この単純なことがなされていないこと、これが問題だと思っています。「患者は何に苦しんでいるのかということを知る」ということです。患者と言いましたが、「私は患者じゃない、医療には関係ない」と言う方もおられます。たとえば施設を出て自立生活を始めた筋ジストロフィーの20代の男性にインタビューをしました。「今、病院に行ってますか」と尋ねると、「行ってません」と言うのです。人工呼吸器をつけているのでもちろん介助の人達が入っているのですが、「風邪をひいたら普通の内科医には行きますが、筋ジストロフィーの専門医のところには行かない」と言ってました。また「あなたは筋ジストロフィーという病気の患者ですか」と聞くと、「私は患者ではない」と言われました。

「病気になって良かったこと」というような話を医師にすると、「人間誰でも合理化しますから、病気になって入院させられて嫌だったことはいっぱいあるけれども、良かったこともあるよねと思うよ」と言うのです。普通に病院に病気と診断されて入院されている方にインタビューさせてもらうと、病気になって良くなかったこと、良かったこと、と両方聞くと、いろんな豊かな経験が出てきます。たしかに医師が言うように、合理化しているのかもしれないけれども、良かったと思うことは重要だと思うし、研究者や医師が着目しないところに着目しなくてはいけないのではないかと思うのです。

患者と家族の考えの違いへの理解についてですが、日本の場合、非常に家族が重視されるので、家族の考えが患者の考えを代弁(代諾)していると思われがちです。倫理委員会で実際にあったことですが、「16才未満の子の遺伝子解析をする時には、本人のコンセント(同意)は必要ありません」と言われたので、私は「それは違うでしょう」と言いました。本人に説明して理解してもらって、本人がしたいかしたくないかを決めてもらうのが必要であって、それは法的な権利云々という話ではなく、まず本人に説明するのが本筋ではないか、その後に家族にも説明して、そしてできれば本人と家族が同意すること、研究に参加したいということ、承諾するということが必要なのではないか、ということを議論しています。またたとえば先天的に娘さんに卵巣がない、卵巣または卵子がないという親御さんが、「生殖補助医療で卵子提供を認めてほしい」、「娘たちが子供を産みたいと思ったときに子供が産めるようにしておいてほしい」と言われます。とても難しい問題ですが、卵巣がないご本人二人に話を伺うと、一人は「看護師になるために勉強している時なので、自分が子供を産みたいということまで考えられない。選択肢を残しておくというのは良いことかもしれないが、そこまで考えていません」と言ってました。もう一人の方は「多分自分は、卵子提供してもらってまで子どもを持ちたいとは思わないかもしれない」と言ってました。当事者とは一体誰なのだろうか、と考えさせられます。先天的に卵巣がないと言われている人たちの選択肢のために、ご家族が選択肢を拡げたいと言われるのも分かるのですが、先ほどのパーキンソン病の方のことなどを考えると、もっと患者さん自身が発言できるようなところで倫理を考えていかなくてはいけないと思います。


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