「さまざまな言葉」

 ひきつづき、初めまして。М1の新美耕平です。

 個性的なキャラクターたちの寄り合いとなった加藤研。新年度も一ヶ月が経ち、気候が暖かくなってゆくにつれて、毎日のお茶の時間が賑やかなものになってゆくようです。

 さて、私にとってこの春から新しい縁を持つことができたのは、人だけではありません。生命科学それ自体がそうなのだと言えます。いわゆる文系の学部出身の故、基礎的な知識も用語も、一気に圧倒的な量と鮮烈な出会いをしている真っ最中。

 何よりも耳新しい言葉の数といったら! 学問とは厳密性を求めるものですから、どのような分野でさえ専門の学術用語が多くあり、日常語彙よりも厳密な意味を付与されているものです。それにしてもこの世界は、たとえばそれぞれ異なる役割を果たしている数多の遺伝子や酵素、たんぱく質に一つ一つ名前をつけたりして知識を積み上げてゆくものであるから、まるで無数のようにすら感じたり。極めて専門的な議論を展開されれば、それはまるでお経。門前の小僧となるにはもうしばらく時間がかかりそうです。

 それでも私の好奇心が途切れないのは、どれだけ高度に複雑で難しい話ではあっても、それは生命体が普段当たり前にやっている活動を、言葉を使って表現しようとする言い換えに過ぎない、と思っていることに由来していそうです。世界中の優れた科学者たちが束になって研究にあたっていても中々すべてが簡単には解明できないほど、生命は見事としか言いようがない営為を自ずから然るべく行っている。先端的な生命科学の知識を得るほど、生命ってすごいという素朴な感動を幾度も味わえることだけでも、ここにきてハッピーだと思う今日この頃です。

 もちろん好ましいことしか見えない目を持つことも問題です。誰かが意図したことではなくとも派生的に好ましくないことが生じるも理。せっかく二つあるのだから、しっかり両の目で世界を見据えたいものです。

 今年二月に逝去されたこともあって、経済学のビッグネーム都留重人氏の『科学と社会』(岩波ブックレット)を読み返したところ、「科学への期待」と題された一章があり、そこで氏がE・F・シューマッハーの言葉を引用しているのが心に留まりました。

 「自然はいわば、どの点で、いつ、停止するかを知っている。…自然のものすべてには、その大きさ、速度、あるいは乱暴さという点で、節度がある。その結果、人間もその一部であるところの自然のシステムは、おのずからのバランス、調整及び浄化作用を発揮する傾向がある。だが技術に関しては、そうは言えない。あるいは、技術と専門化に支配されている人間についてはそうは言えない、というべきか」

 このような言葉も忘れずにいたいものです。

(新美耕平)