雪中梅のころ

お陰さまで辛くも修士論文を出し終えた次第です。
怒涛のような一月二月が去り早や梅が咲きほころぶ三月となりましたが
未だ雪の舞い散る日もあってまさに三寒四温といった此の頃の京都です。

折角ですから修士時代の感想のようなものを。
この分野に身を置いていて、時代の要請のように感じるのは
生命科学をはじめサイエンスの有り様を社会的・制度的な面から
新たにデザインする仕事が現代の急務なのだ、ということ。
既に百家争鳴なところでは、科学・技術研究振興のための資源(リソース)を
どこから出してどのように配分(シェア)すべきか、という一面。
他方では、科学・技術の進展による恩恵をどのように配分すべきか。
さらには、リスクはどう配分するか、という一面。
ELSIと言われる倫理的問題や法的・社会的問題も
もし仮に理想的な話し合いがなされたならば解決解消するようなものではない。
然るべき各種役割やポジションを整備し、責任や義務や役目を配分して
手続き体制を整えてゆくことでしか解決されない。いや、解決というより
サイエンスという営みの「持続可能な発展」が望めない。
生命科学の研究者たちは日々、生態系からさまざまな知識や便益を得ている。
その利用を持続可能にするには、環境問題と同様に
有効な制度や、アクセスと利用について決定するメカニズムを
デザインすることが現実的なのだろうな、と考えるようになりました。

あと一つ、広く市民に科学を伝え、関与を促す活動について思うこと。
ネガティブな方向から見据えることかもしれませんが
やはり我々世代から未来世代については
生命科学関連の教育を受け知識をもっていなければ
不自由や不利益をこうむるリスクが大きそうなことを無視できない。
生命科学の発展は、誰もが通る生病老死のすべてに変化を与える。
変化に対応し、私たちの自由を持続させるためにも、
市民は「受益者」としてのみでなく「行為者」として関わって欲しい。
それを促すことは、やや誇張して言えば、『人間の安全保障』にも関るくらいのことのはず。
今後しばらくは外から、そんなことを考えてみたいと思っています。

(新美耕平)