エッセイ後輩へ

平野俊夫

Japan Clipping Today (JCT) 2003年8月号3-4ページより

目の前の山に登りきることが重要; 研究の成果は後で評価されるもの

IL-6を発見したことが私の研究生活の大きな結果であり、新しい研究の出発点でもあると今は思っています。今後はサイトカインの分子機構と関節リウマチを始めとした自己免疫疾患の発症機構をテーマに研究生活を送って行くつもりです。

研究はやりきることが重要

研究室の若い人たちによく話す例え話に山登りの話しがあります。登山家は「どうせ登るのなら高い山に登りたい」と考える。しかし、私たち研究者にとっては、山が高いか低いかは登り切ってみないことには分からない。斬新な研究だと思っていたものがつまらなかったり、途中で投げ出したくなったりするかもしれません。しかし、「最後までやり切れ」。私は相談に来た学生たちにはそう言います。

 やり切らないと次が見えてきません。例え、つまらない研究成果だとしても、「つまらない」と分かったことが重要なのです。「それならば次はこれをやろう」というモチベーションも生まれてきます。中途半端でいくつもの研究を投げ出すと、いつまでも中途半端な研究者にしかなれないのです。

「理」を好んだ学生時代

もともと、基礎医学者志望だったわけではありません。しかし、暗記物の勉強に辟易していた学生時代、実験の手伝いをするのが楽しくて、教室にいるよりも研究室で過ごす時間が多かったかもしれません。

しかし、放射線基礎医学講座の近藤宗平先生の授業だけは欠かさずに聞いていました。近藤先生は京都大学で物理学を修めた後に医学生物学に転じた方で、物理学者らしい理路整然とした授業は、暗記に明け暮れた私にとって新鮮でした。

1971年、卒業を間近に控えた私は将来のことを考え始め、免疫学の研究に進もうと決めました。その話を近藤先生に伝えると「平野君、それならすぐに米国に行きなさい」と言う。さすがに医師国家試験も受けずに「すぐに」行くわけにもいかないので、国試を受けて、大阪大学の第三内科(山村雄一教授)に入局してから米国に行くことにしました。留学先は近藤教授が紹介してくれたボルチモアにあるNIHのDr. Makinodan(直接のボスはDr. Nordin)のラボでした。

現地に行ってみると、岸本忠三先生(現・大阪大学総長)、高津聖志先生(現東大教授)、小里啓子先生(現NIH研究室長)ら年上の先輩方が大勢いる。25歳、医学部を出たばかりの自分では、当然、研究成果は上がりません。それでも、三年間にJ. Immunologyに論文を3編発表することができましたし、研究の進め方と独立心だけはしっかりと心に刻んで帰国しました。

夜中に研究を続けた勤務医時代:結核性胸膜炎とのであい、そしてIL-6へ

帰国後2年間大阪大学第三内科で働いた後、1978年に大阪府立羽曳野病院に出ることになりました。現在は一般病床が1000床もある総合病院になっていますが、当時の羽曳野病院はまだ結核療養所の名残りがあり、患者さんも、結核や呼吸器疾患、さらにアレルギー疾患の方がほとんどでした。

羽曳野病院での私の上司は露口泉夫先生(現・羽曳野病院院長)でした。露口先生からは患者管理の手法をいろいろ教わりましたが、「胸膜炎の患者の胸水にはTリンパ球が非常に多い」という話は私の好奇心をいたく刺激しました。

胸膜炎の患者さんからは治療のため、1L近い胸水を抜きます。胸水1Lの中に10億このリンパ球が存在しているのです。そんな患者さんが病院には何十人といました。

しかも胸水リンパ球を結核菌体成分で刺激すると、その培養上清中には非常に強い抗体産生誘導活性がありました。当時はサイトカインの存在は知られていましたがその本態は全く不明でした。なんとかサイトカインの精製ができないかと考えたのです。その結果T細胞を増殖させるサイトカイン(現在IL-2と呼ばれている)とは全く異なる分子量と等電点を有した分画にB細胞株に作用して抗体産生を誘導するサイトカイン(現在のIL-6)の存在を発見しました。

臨床医から基礎医学者への転向

 日中は受け持ちの患者さんの治療、夜はIL-6の精製をしていた頃、当時大阪大学の総長の山村先生から「明日、阪大に来るように」と電話がありました。総長室に行くと「平野君、学校の先生にならんか?」と言われました。九大から熊本大学に行かれた尾上薫教授が、助教授を探しているとのことで私に白羽の矢が立ったようです。熊本大学では引き続きIL-6の精製とその解析を4年間かけて行いました。当時、サイトカインを精製していた研究者は世界でも数人だったと思います。

 当時、精製からサイトカインの同定に至った研究者はおらず、1983年の谷口維紹先生によるIL-2の発見も遺伝子工学を利用したものでした。

 谷口先生の大発見を新聞で知り、遺伝子工学の手法も取り入れるべきだろうかと考えていたころ、岸本忠三先生が阪大に新設された細胞工学センターの教授になり、私に助教授の話が回ってきました。

苦節8年、IL-6の遺伝子単離に成功

細胞工学センターに移ったのは1984年1月、そのころには私の研究も胸水細胞や扁桃腺細胞から精製する手法からウイルスでトランスフォームしたT細胞からサイトカインの同定をする手法に移っていました。

1984年12月、蛋白研の綱澤先生らの助けを借りてN端の部分的アミノ酸配列の決定に成功しました。「これで早晩、遺伝子の単離も成功する」と思ったのですが、1年経っても期待した成果は出ません。1985年の年末には、いら立ちとストレスから不整脈が頻発し、研究者の道をあきらめようかと思ったほどです。

1986年になり、IL-6の精製をもう一度やりなおし、三つのフラグメントに分けて研究を再開しました。5月25日、日曜日の午前11時に研究室に来てみると、三つの異なるプローブと結合している遺伝子が確認できたのです。羽曳野病院で精製を開始してからじつに苦節8年、ついにIL-6遺伝子の単離に成功した瞬間でした。

若きライバルの先生方へ

研究には2種類あると私は思っています。やれば必ずできる研究と結果が予測できない研究の二つです。例えばヒトゲノムの解析はいかに困難があれども、やれば必ずできる研究でしょう。「ある」ことは明白で、1年かかるか100年かかるかは分かりませんが、必ず達成することができます。IL-6の遺伝子単離発見も同様にいつかは達成できます。

もう一つの意外な研究というのは、研究者が思いもよらない結果の出る研究です。例えば、IL-6がB細胞に作用して抗体産生を誘導する以外にも肝臓の細胞に作用して急性期蛋白の産生を誘導したり、多発性骨髄腫の増殖因子であるというのは、我々が予想していなかった意外な発見です。1988年に関節リウマチの患者さんの関節液中にIL-6が多量存在していることを発見し、IL-6が関節リウマチの病態に関係しているのではないかということが想像されたのですが、このような研究は、研究開始時点では、定かでなく、研究の結果、初めて明らかになることです。

IL-6が関節リウマチ関節液中に多量存在しているからといってもIL-6がリウマチの原因なのか、それとも副次的なものかはわかりません。1989年に阪大医学部に移って以来、 IL-6レセプターを介してIL-6がどのようにして作用するのかの詳細な研究をしていたのですが、この過程で、IL-6レセプターにミューテーションを入れたマウスの作成を行いました。驚いたことに、ある部位にミューテーションを入れたマウスは加齢により自然に関節リウマチになることが2002年にわかりました。この結果によりIL-6のシグナル異常により関節リウマチが発症するということを世界で初めて証明できたわけです。さらにこの機序を解明すれば関節リウマチなどの自己免疫疾患の発病メカニズムがわかるだろうと考えています。

とはいえ、私たち生命科学者の仕事は人間がまだ知らないだけのことを明らかにするだけです。その過程にはいわゆるメ創造メの世界はありません。その点は芸術家とは全く別物だと思います。着想や技法の斬新性や最新技術を用いた解析は重要ですが、あとは「考えるより動け」といったところではないでしょうか。

今年で研究者生活30年目となりましたが、IL-6のシグナル異常で関節リウマチのような自己免疫疾患が発症することを証明できたことは研究者冥利につきません。1972年医学部卒業当時の"夢"がメIL-6の発見とIL-6シグナル異常で自己免疫疾患が発症することを明らかにしたモことにより現実のものとなったのです。しかし科学に終わりはありません。これは、さらなる自然の摂理を解き明かす第一歩でもあります。まだまだ研究者としての青春を謳歌していくつもりです。

最後に多くの良き共同研究者と指導者に恵まれたこと、家族の理解があったこと、多くの幸運に恵まれたことを、ただただ感謝するのみです。

 

 


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