目の前の頂点欲が出て


十三回表。松山商の二塁打で一塁走者がホームをつく。捕手は永野さん
 「あと一球」。甲子園のスタンドの熱気は最高潮に達していた。永野元玄(もとはる)さん(64)が土佐(高知)の3年だった1953年夏。決勝の松山商(愛媛)戦は、2−lの一点リードで九回表の松山商の攻撃を迎えた。2死一、二塁で相手打者を2ストライクまで追い込んだ。主将で捕手の永野さんはべンチ横に運ばれてきた大きな旗をチラリと見た。優勝を意識した。次の一球は打者のバットをかすってミットに収まった。が、直後に白球はミットからこぽれて足元に転がった。「頭の中は優勝旗を渡される場面でいっぱいでした。無欲だったのに急に欲が出て、気が緩んだのでしょう。痛恨の一球ですよ」
 三振から救われた打者は二塁後方にフライを打ち、それがヒットに。同点に追いつかれた。延長十三回に松山商に決勝点を奪われ力尽きた。永野さんは4番だったが、5打席ヒットがなかった。そして、落球も……。記録上は失策にならなかったが、「自分ではエラーだと思っています」。永野さんは小学生時代、近所の川でよく石投げをした。野球に興味を持ち、地元の中学から文武両道がモットーの土佐高校に進学した。部員10人余りの野球部に入部し、甲子園には春2回、夏1回の計3回出場。だが、目指した高校野球の頂点にあと一歩届かずに、最後の夏が終わった。
 大学、社会人と野球を続けたが、「もう一度、甲子園に立ちたい」という思いが消えなかった。晴れ舞台での「悔い」が、永野さんを審判の道に進ませた
つづく(2000年3月27日毎日新聞夕刊より)


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