ポケットに使用済み球
永野さんが11年ぶりに甲子園に帰ってきた1964年のセンバツ開会式
土佐高時代に3度、甲子園に出場した永野元玄(もとはる)さんは1964年、11年ぶりに審判として晴れ舞台に帰ってきた。同年のセンバツ。梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん」の曲が流れる開会式のグラウンドを行進する球児の姿を眺め、式全体の雰囲気を心ゆくまで味わった。「行進に夢中だった選手時代とは気分も違いました」
式から数日後、三塁塁審でデビューした。緊張と不安の中で、始めてのジャッジはバントに絡む三塁ベース上のクロスプレー。「アウト」と大声で出した瞬間に「血圧がすーっと下がるように緊張が消えた」。
永野さんは当時、住友金属工業社員で、鉄道車両部品の販売を担当していた。仕事を休んで甲子園に通う永野さんに同僚たちが注ぐ視線は優しくはなかった。「野球がライフワークなのか?」。陰口をたたかれたことも。だが、休んだ分、仕事はきちんとこなした。そんな姿勢が認められて数年後、大会期間中に会社を休んでも、会社は勤務扱いにしてくれるようになった。
球審を務める時に、永野さんは一つの工夫をした。予備ポールを入れる制服のポケット内に使用済みのボールを1球しのばせておくのだ。おろしたての新球は滑りやすい。続けて新球を渡すと投手への負担になると、考えた気配り。選手時代は捕手だった永野さんは「新しいポ−ルの怖さを知っていたのでね」。それは64年のセンバツから引退するまでずっと続けた。
=つづく(2000年3月30日毎日新聞夕刊より)