近代医学のアナトミー

――先端医療思想を念頭に――

村岡 潔

(佛教大学文学部助教授、医学概論・医療思想史)


1.はじめに〜冷静な読解のために

 本稿は、遺伝子診断・治療などの先端医療を読解するための医学概論の試みである。

近年、遺伝子診断や遺伝子治療は「遺伝病の医療」という枠組みを超えて、遺伝子研究から得られた生物学的知見をもとにがん・脳卒中・心臓病等の「生活習慣病」のような後天性として扱われてきた疾患も治療・研究の対象とするようになり、「遺伝子医療」「遺伝子医学」などと呼ばれるようになった。[1] [2]一般に、遺伝子医療を含む先端医療に対しては、技術が未熟で安全性が確立されてない点や未知の部分が多いなどの問題点があるため研究推進は時期尚早とする慎重論や、差別や悪用の危険が高いので遺伝子医療・工学の運用は厳格な社会的ルールのもとにきちんと管理すべしといった議論が展開されている。しかも20世紀末のクローン羊ドリーの誕生以降、クローン技術のヒトへの応用の是非が急ピッチで熱心に議論され、ともかく多くの国で制度的には「クローン人間」を誕生させるような医療行為は禁止される方向で進んでいることは周知の通りである。[3] [4] [5] [6]

 他方、英国のコラムニストのB・アップルヤードは、こうした傾向に対して次のようにも言う。すなわち、人クローン技術など、ある「テクノロジーの進歩」を検討する際に、「非宗教的民主国家のもとでだれもが同意できそうなシステム」がない条件のもとでは、対立する勢力からの賛否両論および、新聞報道や世論調査、等々を取り込んだ上で行なわれる行政の報告書は「あらゆるレベルでの不安(極端な反感から軽度の懸念まで)と、ビジネスやテクノロジーの要求との妥協…言いかえれば単なる力の調整にすぎない」。また、道徳観について公に議論するには他に方法がないだろうが、「私たちは、本当は道徳…ではなく、政策を論じているのだということを認識しなくてはならない」と指摘している。[7]このような政策議論(それはそれで緊急課題として重要だが)から離れて、現在の先端医療の事態を冷静に解読する必要があると思う。

 さらに、医療思想史の立場から言えば、先端医療の議論に際しては、それが当該研究者のプロパガンダや熱狂どおりに実現されて、将来、スタンダードの医療技術となるとは限らない特性にも留意すべきだろう。その間の時間的長短はあるにしても、新しい医療技術は、大きく定着するものと廃れるものとに分けられる。一例を挙げれば、精神分裂病の治療として1930年代、画期的と評価された精神外科(ロボトミー)は半世紀持たずに廃れている(ちなみに19世紀に始まる胃切除術は21世紀になった今も続いている)。しかも、私見では、廃れた理由は、ロボトミーという医療技術の副作用として起こる人格障害が倫理的に問題視されたことよりも、クロールプロマジンのような新薬の開発により治療手段がさらに有効で省力的になったことのほうが大きいと思われる。[8]

 なぜなら治療行為の選択は、主要効果と副作用のバランスで決まるのが普通だが、がん治療のように仮に副作用が強くても、他に本質的な治療方法がない場合に、医学上、その治療が選択され続けることはよく起こるからだ。こうした医療史が示す流行性のあやは、医療の評価が倫理的判断よりもむしろ経験主義的になされることに基づいている。[9]たとえ、「不妊治療」という大義名分のもと「クローン人間」が生まれたとしても、それが通常の医療として流行するか否かはその時代の文化・社会的価値観に依存している。医療思想史が対象とするのは、他の先端医療と同様、現実に出現したクローン人間と社会との相互作用の経過であり結果の方なのである。[10]例えば「脳を切除する手術」や「心臓を取り出す手術」などがまだアイデアの段階で、したがって安全性も確認されていない場合に、その是非を問われたら、当然、多くの人々が反対や慎重意見を表明することになっただろう。もちろん、医療思想史の立場は、だからといって、先端医療批判はある成果が出るまで見守るべきだという能天気なことを言っているわけではない。例えば、多くの国で脳手術や心臓移植が通常的に行なわれるようになる歴史的過程では、当時の基準や今日的な意味での患者の権利がどれほど保障されていたかなどの倫理的検討も医療思想史の課題であり、それをもとにおこなう現代医療批判も守備範囲にふくまれている。

 本稿では、こうした点をふまえて遺伝子医療・工学や生殖・クローン技術などの先端医療のアナトミー(文化的解剖)のために最低限必要と思われる近代医学の基本的骨格とその問題点について簡単に述べてみたい。それらは近代医学のもつ「正常と異常の二分法」と特定病因論(特異的病因説ともいう)である。例えば、胎児診断(出生前の遺伝子診断など)による差別(差異化)の問題を検討するためには、そうした近代医学がもつ特性についての検討が無視できないからである。さもないと胎児診断によって初めて差異化が始まったかのような錯覚に陥ってしまうからである。むしろ、染色体や遺伝子に一元的に病気の根本原因を求める特定病因論がまずあり、その遺伝子の有無によって「正常」と「異常」に二分される、すなわち「診断」されることによって「異常な胎児」という存在が医学的に、また社会的に構築されているからである。

したがって、一連の先端医療は、生物学的還元主義に基づく近代医学の「正統な発展」の帰結として出現してきたという認識も重要である(無論、それゆえに患者や一般市民はそれに従属すべきという意味ではない)。近代西洋医学においては、病気のメカニズムを生物学(=生命に関する物理化学;これを「生き物」学とロマン主義的に読んではならない)的理論を用いて説明し、それらの知見に基づいた治療法を行う。それゆえに近代医学は生物医学とも呼ばれる。遺伝子医療などの先端医療を近代医学の変節や突然変異のように捉えるだけでは不十分である。なぜなら分子生物学によるヒトゲノム解読の試みも19世紀以降の解剖学・生理学による人体研究の延長線上のアプローチなのである。[11]

 

2. 思想としての「正常と異常」                                 

 「正常と異常」の二分法は近代医学の基本概念である。たとえば、体調不良を感じた者が病院を受診すると、医師は、当たり前のようにその訴える症状が「異常」か「正常」かを判断する。医師は自分の医学知識と経験、あるいは医学書や先輩などの外部資料をテキスト(照合体系)として参照しつつ、患者の状態が「異常」なのか「正常」なのかを分別する。つまり、この診断の過程を文化・社会的に見た場合、苦悩する人間を近代医学的見地から見て「正常」集団か「異常(病的・逸脱的)」集団かに振り分けることを意味する。

また、患者の治療とは、その診断に相応しい治療法、時には、実験的な治療法を適用することだが、マクロ的集団的に見ると、ある疾患に罹患しているとして異常の集団に帰属させた人間を再び正常の集団に復帰させようとする営為である。この結果、治療が成功し治癒すれば、患者は「異常」の集団の一員から「正常」の集団の一員に復帰できる。しかし、治療法は、ある病気に対する対処法を意味するもので、進行がんに対する「抗がん剤」治療のように、必ずしも病気の治癒を保証するものではない。そのため治療がうまくいかなかった場合、あるいは、そもそも治療法がまだない場合、患者は「正常」の集団に復帰できず、「異常」集団に留まったままとなる。そして治療が成功するまで患者というラベルは貼られたままとなる。患者は、このラベルのために社会的政治的側面でも差別や疎外を受けたり、拘束されたりすることになる。つまり、近代医学に属する遺伝子医療も、この選別の機能を働かせていることになる。こうしたラベリングの影響が患者・家族の社会生活にまで波及することはめずらしくない。[12]

たとえば、1996年に廃止された「らい予防法」下では、国民のハンセン病予防の名目で患者の集団は90年間の長きにわたり社会から強制隔離されてきた。また、染色体や遺伝子の異常のほとんどが遺伝子治療の対象ではないため、現時点の遺伝子診断は小児や成人ではそのほとんどが異常の確認とラベリングで終わる。さらに出生前診断では「異常胎児」が生後人間集団に帰属することを未然に防ぐ(すなわち人工妊娠中絶の適用の)ために行なわれることも少なくない。一般の健康診断の結果、尿蛋白陽性や高血圧といった日常的によく見られる問題でも雇用や昇進や保険加入の際に「否定的データ」として使われやすい。遺伝子診断の結果は、さらに影響力をもった決定論的文脈で濫用される危険性が高い。ただし、遺伝子診断の問題性を考える上で重要なことは、文化社会的に見て、管理や差別が、健康診断や遺伝子診断の結果としての医学的ラベリングを口実にする優生思想や民族差別、あるいは会社の人員整理などの要請などが先にあって行なわれるということである。

 ところで、医療思想史的にみると、「正常状態」という近代医療思想が、特に「平均値」などの統計的指標で表現されるようになるのは19世紀である。天文学者で数学者のA・ケトレは、人間に関する測定結果は正規分布[左右の両極が少なく中央の平均値の周辺が一番多くなる左右対称のベル型の分布]を示し、平均値とは理想的法則的なものであり、あらゆる性質において平均値をもつ人間、すなわち「平均人」は「神が設定した理想的な人間」であるとみなした。さらに、19世紀の実験生理学者C・ベルナールは、正常と異常は質的な違いというより、正常状態からの量的な偏りがすなわち病的状態であるとした。[13]こうした結果、血液検査などの正常値(標準値)は一般に平均値の周囲に存在し、その「正常状態」から離れれば離れるほど異常の度合いが高くなるという、近代医学の通念が生まれてくるのである。この観念は、さらに医学以外の領域(例えば、人間一般、行為、事物の状態、外交関係など)にも援用されるようになり、この人の挙動は正常か、八歳の少女のこんな行為は正常かといった文脈で使用されるに至った。今日、私達は「正常状態」が存在するという観念をアプリオリに受け入れ何のためらいもなく「正常な人とは何か」について語っている。[14]このような結果、現代人は、平均値やそこからの偏差(IQや、近年の日本では偏差値)によって自分が集団の中でどのあたりに位置づけられるかという統計的な配置に一喜一憂しながら生活していることになる。特に医療の分野では体温や血圧やコレステロール値などの統計的に意味づけられた数字が、食欲があるとかライフスタイルがよいといった日々の出来事の自覚的な判断よりも健康を保障してくれるバロメーターと信じているのである。

遺伝子医療などでの扱いで、特に注意すべきは、マクロの集団に対する正常か異常かの判断は、個々人レベルの評価と似ていたとしても、起源が本質的に異なっていることだ。つまり正常か異常かの二分法はマクロの集団における一断面の判断に過ぎないにもかかわらず、ミクロの個々人レベルにその個人差や自由度を無視してマクロの見方としての「患者」概念を当てはめてしまう。ここにこの医療思想の問題がある。また、この統計的なマクロ的見解と個々のミクロの見解との混同は、遺伝決定論者の誤謬としても見られることをS・J・グールドは次のように指摘している。それは、「遺伝する」ということと「[遺伝的伝達が]避けられないこと」が同じだと混同することだ。「生物学者にとって遺伝性とは、遺伝的伝達の結果として家系を通してその特徴や傾向が伝えられることであ」って「これらの特徴が環境の中でどのように変化するか、その変化の幅についてはほとんど語らない」。後者は、個人差のほうに深く関わるものであろう。しかし、遺伝決定論者にとっては「遺伝した」はほとんど「避けられない」を意味してしまう。また、彼は、さらに「グループ内遺伝」と「グループ間遺伝」との混同の誤謬にも言及する。例えば、米国の白人グループと黒人グループ間の平均IQでの一定割合の差も遺伝によって説明できるとすることもまた一般的に誤っている。これらの数値は、異なるの二つの現象をそれぞれ代表するものでしかないからである。[15]

 このことは、昨今のEBM(Evidence-based medicine;根拠に基づく医療)の概念とも通底するが、近代医学の基本は、集団(特に患者集団)で得られた知見を「医学的真実」とみなして、個々の様々なレベルの個人(病者)に当てはめるものである。両者は、異なる事象である可能性が大きいにも拘わらず、そうした齟齬は瑣末なこととして捨象される。ちなみに、斉尾らは、そうしたEBMに対抗するものとしてNBM(Narrative based medicine;ナラティヴ[患者固有の物語]を重視する医療)の存在を指摘している。[16]

 

3.特定病因論と生物医学 

 前節では、正常/異常の二分法について述べたが,この診断法が標的とする病気の原因の決め方の根拠になるのが特定病因論である。今日では、医療者にとっては(一般市民にとっても)あまりにもポピュラーになっている考え方なので、ほとんどの医療者は「特定病因論」という名前すら認識していないほどである。しかし、医療思想史的にみれば、特定病因論はここ1世紀あまり前に支配的となった考え方で、19世紀末の細菌学の確立された後、近代医学が科学的装いを増していくために採用した病気原因の説明モデルである。それはどの病気にもその根本原因があるとし、疾患と病因とを一元的な因果関係で結び付けて解釈するものだ。この一元論的病因論を特定病因論(specific etiology;特異的病因説)という。[17] [18] 

 近代医学は、人体も心臓・肝臓・腎臓などのような特定の部品(臓器・器官)から構成されるとみなす。また、病気の原因(病因)もそれらの特定の臓器や器官の内部(責任病巣=原因個所))に存在すると考える。だから、その特定の原因を取りさったり補ったりする治療戦略(治療法)が中心となってくる。例えば、肺結核は、肺という臓器の肺葉(責任病巣)に結核菌という「病原体」が侵入して発病するのだから、結核菌をおさえる抗生物質を用いた薬物(化学)療法が正統な治療法となる。ちなみに、化学療法の開発以前は、胸郭形成術(人工気胸術)によって責任病巣を間接的に押しつぶす治療法が一世を風靡していた。また近年では、重篤な慢性心不全の場合であれば心臓移植や人工心臓埋め込みなどがそれに相当する。ただし、臓器の修理・交換の結果、全身状態が治るかどうかはこの理論では必ずしも保証されてはいない。

ちなみに19世紀末の細菌学説という一元的病因論の登場までは、こうした病原体に相当する接触性病原因子だけを追及するやり方ではなく、むしろ、公衆衛生学で重視するような患者の個体因子、環境因子ならびに接触性病原因子などの諸条件が複合的に作用しあった総合結果によるとみなす多元的病因論が中心だった。当時、ドイツの衛生学教授であったペッテンコーフェルは、後者の立場からコッホの細菌学説に反論するために純粋培養のコンマ菌[コレラ菌]の服用実験し、細菌だけでは「コレラ」は発病しないことをパフォーマンスしてみせた。[17]

  特定病因論という、患者の一人一人を個性的総合的に見ずにその病気の共通部分だけに着目する分析科学的な方法を採用することで、近代医学は、病因の一元的な説明ができるようになり、この病因の説明モデルに合致した伝染病・感染症やビタミン欠乏症など多くの病気に有効な治療法を編み出してきた。一方、20世紀末までは、いわゆるがん・高血圧症・糖尿病などの「生活習慣病(かつて成人病とも言われた)」は特定病因論では対処できない疾患モデルであり、後者は遺伝病のカテゴリーにもなかった。それが、DNAによる病因論(一部は病因のDNAが特定されている)を採用することで「生活習慣病」も特定病因論で説明可能な疾患モデルになりつつある。[19]

 こうして遺伝子診断で病気を染色体上の遺伝子DNAに対応させていくことは、近代医学の特定病因論の立場からは病気の根本原因を追究する「正式な作法」にかなったものである。だからヒトゲノム解析も、解剖学者や分子生物学者にしてみれば、近代医学の歴史を通じて整備されてきた解剖学生理学の延長上にある正統的アプローチである。[20]また、遺伝子診断である病気の責任病巣とされたDNAに対して、治療的操作を加えようというアプローチも、同様に、正統的なものとされよう。遺伝子治療は近代医学の正嫡子なのである。

 ここで問題とすべきは、近代医学の家系そのものであり、その特定病因論が措定する一元的な因果論である。特定病因論では、エイズの根治療法は病原体=HIV(エイズ・ウイルス)自体を化学療法で倒す手段以外にはない。遺伝病なら遺伝子診断を行なって異常な遺伝子を治療することが根本的な治療法となる。また、肺結核なら抗結核菌剤で、結核菌を死滅させるほかない。確かにその治療法は確立したが根絶には至らなかった。最近では世界的に結核患者は増加傾向にある。しかし、歴史的には、この一元的なアプローチだけではなく生活様式や栄養状態・衛生状態の改善などの多元的アプローチも病気を防ぐ有効な方法となってきた。結核に限らず、過酷な労働条件や過労・栄養失調は発病の原因・誘因となるし、結核も、抗生物質による治療法が確立する1世紀以前から、都市改造や下水道整備、労働条件・栄養状態の改善などによって大幅に死亡者は減少した経緯がある。[21]

 

4.おわりに〜遺伝子からの眼差し

 特定病因論は、完全に間違った考え方とは言えないが、単純すぎるきらいがある。社会的諸条件・諸関係の交錯によって個々の人間に成立する「病気」という複雑な社会現象は、単純な一元的因果関係に置き換えることはできない。それは交通事故(交通外傷)の「病原体」は車だとみなして、車の全廃が交通事故の根本的解決だと主張するようなものである。むしろ、病気の究極的原因を確定しようという思想こそが問われなければならない。なぜなら「病気を一つの原因に還元してしまうとき、文化・社会的徴候として病気が象徴している解読されるべき諸関係のシステムを見失わせることになる」からである。[22]

 一方、この対極の路線をずっと走り続けてきたのが近代医学・生物医学である。その意味で遺伝子医療とその「DNA中心主義」は、まさに特定病因論の現時点で最高段階なのである。この医療思想の強大さは、遺伝子医療の賛同者のみならず、反対者までも、すべてがDNAに起因するという思想的枠組みの土俵に乗せてしまうほどである。たとえば遺伝子DNAの解読によって人間の病気や性質までがすべてわかってしまうというプロパガンダに対して、だから遺伝子解読や遺伝子医療は危険だという議論は、知らないうちに、この枠組みが正しいという前提に批判者をも立たせてしまう。[23]

確かに、生物の一種としての人間が遺伝子DNAの設計図に従って誕生し、やがて死を迎えることは否定できない。健康であれ病気であれ、それらを担っている主体としての人間が遺伝子による生物学的コントロールを受けている以上、遺伝子は人間の健康(正常)や病気(異常)と密接な関係がある。問題はこの先である。それは現在、少なくとも医療や自然科学の世界では、従来の環境から人間をみるのではなく、遺伝子の方から人間を見るようにまなざしが変化してきていることだ。これが高じたものが生物医学におけるDNA中心主義(遺伝子決定論)であり、人間が遺伝(先天性)と環境(後天性)の双方から形成されている複合物である点をあいまいにすることでどのような病気も人間の全形質や性格もDNAが原点であるとする強固な決定論的「まなざし」を人々に投げかけることになる。[24]

この生物学主義のわなから逃れるには、遺伝子医療を多々ある医療の選択肢の一つにすぎないとして相対化しておくことに限るだろう。実際、科学者も医療研究者も、ある仮定や条件のもとで、一定の蓋然性や可能性についての言明を行なっているにすぎない。つまり、こうした推論の妥当性は、近代医学という一つの信条体系に支えられている。それを聞く我々は何重もの「かっこ」つきの言葉と理解しておくべきだろう。人間のDNAの全塩基配列の解読も、いわば遺伝子の解剖学の概要が知られただけで、個々のDNAの生理学・病理学についてはまだこれから先のことなのである。

 最後に、ゲノムが生物種を代表するという観念の登場は、生物学においても、他の諸科学同様、知識が文的 sententialになった [25]ことを示唆している。それは遺伝子DNAによって書かれた種にまつわる文(言語的事物)なのであり、生物学医学に限らず、様々な学会論文をはじめ、あらゆる公共的な言説において自明で疑うことのできない不可欠の単位となりつつある。それが問題になるのは、人間の産物でありながら、自律的でそれ独自の法則性をもち、すでに生物学者と諸生物(あるいは医療者と患者)とのインターフェイスの役割を果たす存在になり、それなしには科学研究も医学研究も成立し得ないかのような事態にまで至っているためなのである。[26]

 

 

【註】(引用・参考文献含む)

[1]  大阪大学医学部では、1995年1月に「第1回阪大遺伝子医療フォーラム」が開かれた。本研究会は遺伝子治療の動物実験に関する報告が多いが、遺伝病を対象とする報告はほとんどない。一方『からだの科学』181号(1995年)の特集「遺伝子医療を考える」では遺伝病中心の記事であり遺伝子医療は"DNA Medicine"の訳語である。

[2]  島次郎:『先端医療のルール』(副題:人体利用はどこまでゆるされるのか)、講談社現代新書、pp.120-126、2001年

[3] 金城清子:『生命誕生をめぐるバイオエシックス−生命倫理と法』、日本評論社、pp.178-183、1998年

[4] 位田隆一:「ヒト組織・細胞のクローン利用−その法的倫理的問題−」、遺伝子医学、Vol.4(No.2) pp.62-65、2001年

[5] 島次郎、前掲書、pp.196-219

[6] 米本昌平:「ヒト胚研究とクローン動物の倫理問題」、遺伝子医学、Vol.4(No.2)、pp.66-70、2001年

[7] B・アップルヤード(山下篤子訳):『優生学の復活?』(副題:遺伝子中心主義の行方)、毎日新聞社、pp.57-59、1999年

[8] 村岡潔:「先端医療」、黒田浩一郎編『現代医療の社会学』所収、世界思想社、pp.225-234、 1995年

[9] 日本のような医局講座制のような徒弟的環境下で修練を積むわけではないにしても、一般的に医師は、診断や手術の技法を自分が帰属する集団(ある国、ある大学、ある学派)内での言わば「常識的パターン」として学習して身につけている。したがって、新たな治療法が開発されたとしても、それが短期間で従来の方法ときりかわることは珍しい。例えば、乳がんの手術方法として胸部の筋肉(大胸筋)や腋の下のリンパ節まで取り去るハルステッドの手術法も米国では廃れたといわれるが日本では多くの施設でまだ行なわれている。また、他人から採取したヒト脳硬膜(ライオドゥラ)使用による「薬害ヤコブ病」も、脳表面を後日吸収される人工膜で覆うことで代用している日本のエジンバラ学派の医師らは回避することができた。従来、日本では手術による硬膜の欠損部をライオドゥラでパッチワークして綿密に縫合することが不可欠とされていたが、エジンバラ留学で表面を人工膜で覆うだけでも感染せず大差ないことを経験的に納得していたからである。もっとも彼らはヤコブ病のことを予知したわけではなく、新しい方法で手術時間を短縮でき、患者への麻酔の影響が少なくなると考えたからである。

[10] 哲学・倫理学と違い、医療思想史の立場では基本的にまだ起こっていない未来の事象については確定的な判断はできないが、筆者は「不妊治療」としても「クローン人間」は日常的な医療にはなりにくいと思う。それは人工的に生まれた「クローン人間」が市民社会で生活するとき、かれらは他の人間(非クローン)と同じような社会生活を営むほかなく、自らが核(遺伝子)の提供者と同一だとするアイデンティティも、「遺伝的同一性」という生物学的な観念でしか確認できないからである。クローン人間というと一卵性双生児(自然的クローン)の場合を思い浮かべることが多いが、人工的クローンでは核提供者とも年代的に異なるだろうし、外観がよく似た親子以上に見分けがつかない存在となるかどうかは疑わしい。こうした存在を生み出すために莫大な労力や経費をかけることに多くの人々が意義を見出すとは思えないからである。それを支配しているのはお互いがクローン同士であるという観念の共有にほかならない。

[11] 医療人類学研究会編:「生物医学」、『文化現象としての医療』所収、メディカ出版、pp.54-57、1992年

[12] 医療というシステムは、基本的に「正常」/「異常」の二分法から成り立っているので近代医学以外の伝統医療にもラベリングの可能性はある。この二分法の構造上、医師などの医療従事者の意図とは無関係に患者差別を生み出す危険性はあるが、医師も患者もそのことを日常診療で意識することはほとんど無い。

[13] 山本亨、「正常と異常」、医療人類学研究会編『文化現象としての医療』所収、メディカ出版、pp.50-51、1992年、

[14] イアン・ハッキング(石原英樹・重田園江訳)『偶然を飼いならす』(副題:統計と第二次科学革命)、木鐸社、pp.237-238、1999年

[15] スティーヴン・J・グールド(鈴木善次・森脇靖子訳):『人間の測りまちがい』(副題:差別の科学史)、河出書房新社、pp.179-191、1989年

[16] 斉尾武郎、栗原千絵子:「Evidence-based medicineの現代科学論的考察」、臨床評価、Vol.29,No.1,pp.185-201, Nov.2001

[17] B・ディクソン(奥地幹雄、他訳):『近代医学の壁』、 岩波現代選書、pp.1-131、1981年

[18] 佐藤純一:「医学」、黒田浩一郎編『現代医療の社会学』所収、世界思想社、pp.2-32、1995年  

[19] 2001年に入ると『ゲノム医学』(メディカルレビュー社)なる雑誌も創刊されている。その第2号の特集は「生活習慣病とヒトゲノム」で、高血圧、糖尿病、気管支喘息などがとりあげられている。また、EJ・ヨクセンは、臨床遺伝学などの分野では、近年、遺伝子が“Pseudo-pathogen”(疑似病原体)と見なされている問題を論じている。E.J.Yoxen: Constructing Genetic Diseases,In:P.Wright and A.Treacher (edited):The Problem of Medical Knowledge, Examing the Social Construction of Medicine, Edinburgh University Press,Edinburgh 1982,pp.144-161

[20] 養老孟司:「現代生物学の見方−二つの情報系−」、仏教(No.34)、法蔵館、pp.2-14 、1996年1月号。この中で、養老は、特定の遺伝子の存在価値が完全に負だという証明はないし、ヒト・ゲノム計画も調べること自体にとくに害があるわけではないと述べ、遺伝子情報は、物質科学と同様、まったく中立なものであると明記している(p.10)。

[21] B・ディクソン:前掲書、pp.107-109

[22] 柄谷行人:「病という意味」、『近代日本文学の起源』、講談社文芸文庫、pp.139-152、1988年

[23] 医療人類学的にみれば、このプロパガンダの言明自体に偽りがある。人間の病気や性質というものは、決して過去から現在に至るまで不変ではないからだ。それらは、常に文化社会的あるいは時代背景によって規定されているみなされる。21世紀初頭の我々が見る遺伝子像は我々の時代の病気観人間観の写像以外ではない。しかも、その写像は仮に必要条件を満たしたとしても、十分条件を満たしてはいない。つまり、Aという病気の患者やその家系を調べることで対応するBというDNA(単数または複数)が(もっぱら数理統計的に説明しやすい形で)捜し求められただけであって、そのBをもつ人間を調べ尽くしたらすべてAという病気になることが確認されたわけではない。これを時代や社会を超えて完璧に行なうことは物理的にも不可能である。

[24] 最近の社会生物学的言説の一つである「本能の分子生物学」では、遺伝的レベルから「同性愛原因遺伝子(X染色体長腕の先端にあるという)」などが研究されつつある。(山本大輔:『本能の分子遺伝学』、 羊土社、 pp.16-20、74-80、95-116、1994年。山元大輔:『遺伝子の神秘―男の脳・女の脳』、講談社+α文庫、2001年)。また、科学ジャーナリストの青野は、こうした「心の遺伝子」研究の問題にふれて、注意深い言い回しながら、「外見はもちろん、人間の中身が遺伝子にまったく左右されないと言い切ることは難しい」とする(青野由利:『遺伝子問題とは何か』(副題:ヒトゲノム計画から人間を問い直す)、新曜者、pp.155-158、2000年)。筆者からみると、この種の議論は、あたかも発生期や胎生期は遺伝子が決定してしまうような印象を与える点に問題がある。実際は、発生の最初のアミノ酸の形成の段階からすでに、遺伝子の影響力と環境の影響力が相互に作用し合っているということを隠蔽してしまうからである。

[25] I・ハッキング(伊藤邦武訳):『言語はなぜ哲学の問題になるのか』、勁草書房、pp.246-290、1989年

[26] 本稿の特に後半は、拙論:「遺伝子医療における『DNA中心主義』の現実的諸問題−我々の批判的スタイルはどうあるべきか?」(加藤尚武責任編集『ヒトゲノム解析と社会との接点』第2集所収、京都大学文学部倫理学研究室編・発行、1996年)の一部を時代に合せて改稿したものである。


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