ネットによる公開討論会”独創的研究とは”

平成12年9月8日ー12月31日(開催期間延長しました)

参加者:研究の専門領域を問いません。学部学生、大学院生、一般の研究者など、学問研究に従事しておられる全ての方。若い方の積極的な参加を期待しています。免疫学会会員以外の方からの参加も大いに歓迎いたします。

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1〕本庶 佑「独創的研究とは何か」(2000/09/08)

JSI Newsletter 8巻第2号(通巻15号)は大変力作が並んでいる。とりわけ編集委員長の平野俊夫先生の巻頭を飾る“免疫学への熱き思いを込めて”という小論には先生の学問に対する真摯な姿勢が見事に表現されており、大変大きな共感を得た。全体に若手の方の率直かつ意欲にあふれる思いが随所にあふれており、Newsletterが益々充実して来ているのは楽しみである。その中で私がふと目に止めた吉村昭彦氏の“独創性とは何か、あるいは優れた仕事を成し遂げるには何が必要か”というエッセイを読み、少なからぬ違和感を覚えたので、あえてNewsletterに一石を投じ、多くの方からの喧々諤々の論議を期待したいと思う。

まず、吉村氏のエッセーを一読して、私はここに大きな論理の飛躍があるのではないかと感じたが、何回か読み返してみると、その要因は、独創性という言葉の定義が曖昧で通常使われない意味にまで使われていること、また、文中で同じ独創性という言葉が場所によっては異なる意味に使われていることに起因するのではないかと感じた。従って、まず独創的というものの言葉の定義をきちっとした上で話をすることが大切だと思う。独創性とは、「独自の考えで始めること」というのが極めて当たり前の解釈である。しかし、吉村氏のエッセイ後半では、「人の注目を引く仕事」、あるいは、「人から優れた仕事と言われる研究」を独創的な研究と言っておられることが、大きな違和感の原因であると考える。

吉村氏は、独創的研究といわれるものには、それ以前の学問の発展と桁違いの大きな飛躍があるようなことは実際にはほとんどなく、過去の学問の蓄積の上に一皮加えた程度のものが多いということを、青色発光ダイオードを開発された中村修二氏の例、また抗体遺伝子の再編成の利根川進氏らの研究等を例に引いて述べておられる。一言でいうならば、独創的研究の背後には、多くの先人達の永々とした努力があるということを指摘されている。さらに吉村氏は、多くの独創的な研究として今日評価されているもの(氏の定義によれば、ノーベル賞を与えられたものは、それに該当するらしい)においても、そのような考えはその時代の多くの人が持っており、独創性があるとされる研究はその考えに基づきわずかな工夫によってその考えを実証したものであるとされている。さらに吉村氏は、いわゆる独創的な発見の多くは、改良であり、何であれ、競争の中から生み出された「結果」であるとしている。その例として、シャーリー・ギルマン、バンチング・ベスト、高峰譲吉等の仕事をあげている。彼等の仕事は生理活性物質の存在が予測されていたものを見事な抽出法の工夫か、人並みはずれた大量の材料を集めて、人の十倍働いて得られたものと結論される。これらの考察から、氏の結論は従って独創性というのは、それほど大したことではなく、多くの人が注目している仕事の中で競争に飛び込んでこれを成し遂げる(従ってこれに勝つこと)が、結果として独創的な大発見と後で評価されると結論する。従って「多くの人が注目している問題、解ければ絶賛されるような問題に取り組み、運を信じて人の倍働き、様々な工夫を繰り返していくことがベストである」と結論している。この議論が吉村氏の逆説的皮肉であるのか真意であるのか計りかねるが、文言を追う限り吉村氏はこのような考えを真面目に提案されているように思われる。

まず、第一点の独創性が先人の努力の積み重ねの上に成立したものであり、実際に成し遂げられた結果はほんのひと皮めくっただけであろうという認識は共感を覚えるものである。例えば、今日生命科学の発展に大きな影響を与え、生物学に革命的な変革をもたらしたノックアウト技術の発展について考えてみるとさらに問題点は明らかである。M. カペッキーがES細胞に相同組換えを導入し、最初にノックアウトマウスに成功したことは周知の事実である。しかし、この技術の発展には、その以前にテラトカルチノーマ細胞系を確立したL. スチーブンスや、それをマウス胚に導入して個体発生ができることを証明したR. ブリンスターらの原理的な発見が必須であった。また、M. エバンスらよるES細胞株の樹立といった基礎的な成果も不可欠であった。M. カペッキーの貢献は、哺乳類動物細胞において相同組換えが可能であるということを立証し、これらの3つを統合して今日広く使われている画期的な技術に集大成したものである。したがって、吉村氏が言うようにM. カペッキーが成した仕事は過去の人々の成果の上に立った大きな集大成であること、また、相同組換えを検出するためのちょっとした工夫が彼を成功に導いたということは間違いではない。そこでこの新しい技術革新の貢献については、当然M. カペッキー以外の先人らに対しての十分な評価がなされる必要がある。このような論点であれば、私も吉村氏の指摘に心から賛同する。

しかしながら、第二点の後世に独創的発見といわれるような考えは、当時の多くの人に共有されており、それを(競争して最初に)実証した研究が独創的であると言われるという氏の結論には賛成できない。アイデアは色々な人の中に浮かぶが、「私もそれを考えたことがある」という程度では思いつきであって、理論とか仮説とは違う。思いつきよりはるかに深い思考と様々な可能性の中から実現性を考察して、その仮説にかけるという重大な決意と、周到な準備と、また、大きな情熱があって初めて研究という形になるものである。吉村氏がなぜ「ノーベル賞も理論には授与されない」と明言されているのかも不思議である。御承知のようにM. バーネットとN. ヤーネに与えられたクローン選択説はまさに理論であり、これこそ近代免疫学の出発点といっても間違いないからである。また、有名なホメオティック遺伝子の研究においても、遺伝学的データからホメオティック遺伝子の理論的なモデルを提唱したE. ルイスにノーベル賞が与えられ、ホメオボックス遺伝子を単離したW. ゲーリングには与えられなかったことも注目すべきであろう。(もっとも、私はノーベル賞を受けた研究が全て独創的だとは思っていないが。)

吉村氏があげておられる抗体遺伝子の再編成という基本的な仮説は、確かに利根川氏のみならず、当時このプロジェクトに関った4〜5つの中心的なグループ間では、共有されていたものである。しかし、それは極めて先端的な専門家集団の話であり、多くの生物学者にとっては、それが常識であったとは到底思えない。また、そのような仮説が生まれてきたのは、mRNAの精製によるcDNAを使っての古典的なCot解析等のデータから定常部領域の数と可変部領域との数に大きな隔たりがあるという当時極めてホットな情報に基づいており、従ってこれは限られた数の研究者だけに共有されていた仮説である。独創性というのが、一人の頭の中にだけに生じたものという定義であるならば、独創的ではないかもしれないが、そのような先端的な情報をふまえた思考過程は明らかにそれまでの常識を超える大きな飛躍であり、そこに研究者生命をかけようということ、そのプロセスが独創的な発見につながるのである。そしてその独創性は、そのような仮説を信じる人間が少なければ少ないほど、価値が高いのも事実である。 B. マクリントクが遺伝子は動くと20年以上も言い続けたけれど誰も見向きもしなかった。しかし、彼女は実験を続けて、実証はリコンビナント技術で初めて可能となった。次に氏があげておられるホルモンの発見においても氏はそのような物質の存在は多くの人に知られていたというふうに書いておられるが、多くの人というのはどれほど多くの人であろうか。氏が列挙された研究は当時の“流行のプロジェクト”であったのだろうか。多くの人はそのような可能性もあると考えたかもしれない。しかし、それに人生をかけた人は多くはなかったのではないか。「あのベンチャー企業の株は上がると思った」と言う人間と、「借金をしてまでその株を買った」人の違いではなかろうか。単に思い付くのとこれに自分の人生をかけるというのとは、大きな意味が違うことを認識すべきであり、そのことこそ独創性の出発点の一つであると私は考える。

独創性とは、凡人にはできないような大それたことではないという意味では吉村氏の考えに共感できる。私のような凡人が独創性を生み出すには、ナンバーワンになることではなく、オンリーワンになることが独創性への最も近道であると考える。極端な話、生物学の研究は、これまで誰も研究したことのない生物種を選び、それを詳しく解析することによっても十分に独創性が発揮される。しかし、それにかけるだけの勇気と熱意があるかどうかである。このような例は最初にバクテリオファージの研究を始めたM. デルブリュック、線虫研究をシステムとして立ち上げて今日の繁栄に導いたS. ブレンナーらの例がある。しかし、この場合もどんな種でも良いというものでもない。そもそも研究とは、好奇心からスタートするものである。“なんだろう?”“不思議だな?”という自らの問を心行くまで追求することが、研究者の楽しみではなかろうか。先日もふとテレビを観ていたら、満月の夜に珊瑚が一斉に産卵を開始する映像を観て、なんと生物は不思議だという気持ちが心底沸き起こるではないか。このような現象を心行くまで研究することが、まさに研究者の特権であり、また、一生をかける意味のあることではなかろうか。「流行を追う」ということは、自らの中に何かを知りたいという好奇心が希薄であるせいではないのであろうか。「流行を追う」ことがその人にとって本当に楽しいのであろうか。研究を楽しまずにして、一生やることは業務でしかなくなり、果たしてそこに想像豊かな研究が開かれるのであろうか。

研究者の醍醐味とは、私にとっては誰も見向きもしない岩からのわき水を見つけ、やがてその水を次第に太くし、小川からやがて大河にまで育てることである。また、山奥に道なき道を分け入り、初めて丸木橋を架けることが私にとっての喜びであり、丸木橋を鉄筋コンクリートの橋にすることではない。多くの人がそこに群がってくる時は、丸木橋ではなく、既に鉄筋コンクリートの橋になっており、その向こうにある金鉱石の残りをめがけて多くの人が群がっているのである。その結果得られたものが、高価であるからといって、本当にそれが独創的な研究であろうか。独創的な研究は、おそらくその研究が20年経ってもまだ引用されているかどうかによって決まる。今日Cell, Nature, Scienceを賑わしている論文を1年後にどれだけ我々が覚えているであろうか。ましてや20年後においてをや。私にとってのもうひとつの喜びは、多くの人が石ころだと思って見向きもしなかったものを拾い上げ、10年、20年かけてそれを磨きあげて、それをダイヤモンドにすることである。そのような研究こそ本当に独創的で研究者冥利につきるというものではなかろうか。石ころが石ころのままで終わるのか、ダイヤモンドに化けるのかは吉村氏が言うように運の問題もある。但し、そこに研究者の嗅覚が非常に重要な要素を占めることも否めない。バンチング・ベストは流行を追ったのではなく、多くの人が不可能と思っていたことに“無謀”にも飛び込んで行ったのではなかったのであろうか。私は教室の若い人に優れた研究者になるための6つの「C」を説いている。すなわち、好奇心 (curiosity) を大切にして、勇気(courage)を持って困難な問題に挑戦すること(challenge)。必ずできるという自信(confidence)を持って、全精力を集中(concentration)し、そして諦めずに継続すること(continuation)。その中でも最も重要なのは、curiosity, challenge, continuation の3Cである。これが凡人でも優れた独創的と言われる研究を仕上げるための要素であると私は考える。

最後に本稿に貴重な御意見をいただいた京都大学医学部分子生物学分野の諸兄姉に厚く感謝いたします。

 


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