神経科学者でありノーベル生理学・医学賞受賞者であるエリック・カンデルが「脳は宇宙で知られている中で最も複雑な構造だ」とうい言葉を残しているように、脳は人体で最も神秘的な臓器と言えます。人工知能が発達した現在でも、ヒトの脳機能はいまだ解明されていないことが多くあります。我々が日常よく使用する麻酔薬においても神経細胞のGABA受容体に作用してその機能を抑制することはわかっていますが、「意識」を司る脳ネットワークがどのように作用して鎮静作用を発揮するのかは未解明です。観察対象である「脳」の研究を行うのが、観察者である我々の「脳」であることからもわかるように複雑な脳機能を評価することはとても難しく、研究の難易度が高い分野です。そんな神秘的な世界へ挑戦する神経生理学グループの研究を紹介いたします。まだ誰も進んだことのない、道なき道を進む創造力・冒険心あふれる仲間を待っています。
我が国は、世界に先駆け超高齢社会へと突入しており、その影響は医療分野にも顕著に表れています。75歳以上の高齢者に対する全身麻酔症例は、2008年と比較して2019年には約2倍に増加しており、高齢者への外科的介入の需要が年々高まっています。では、高齢者の術後合併症で最も頻度の高いものはなんでしょうか。そのひとつが、「術後せん妄」です。「術後せん妄」は手術・麻酔後に生じる、注意力低下を伴う意識障害、認知の変化を伴う知覚障害であり、その発症頻度は20-50%と報告されています。
「術後せん妄」は通常短期間で回復する一過性のものですが、一時的な問題にとどまりません。入院期間の延長・死亡率の増加・生活自立度の低下・認知機能低下といった長期的な予後との関連が指摘されています。さらに、術後せん妄関連の医療コストは米国において年間1500億ドルと報告されており、医療経済への負荷も大きい合併症です。今後世界各国が高齢化社会に直面する中で、「術後せん妄対策」はさらに注目の集まる課題と言えます。しかしながら、「術後せん妄」の発症メカニズムはいまだ解明されておらず、確立された予防・治療法がありません。メカニズムに基づいた治療・予防法の開発が急務であります。
我々は、手術・麻酔により、マウス前頭前野において、プレシナプスからの神経興奮伝達物質であるグルタミン酸放出低下によりシナプス伝達抑制が生じ、術後せん妄発生と関連することを明らかにしました。(図1) この手術・麻酔後のシナプスにおけるグルタミン酸低下がなぜ生じるのだろうか?この疑問に答えることで、そのメカニズムに基づいた新しい治療・予防法の可能性が見えてくると考え研究に取り組んでいます。
術後せん妄の主な病態生理学的機序のひとつとして、アルツハイマー病の促進があげられています。麻酔・手術を契機にアルツハイマー病発症カスケードが促進されるというものです。最近ではアルツハイマー病などの神経可塑性疾患において、脳機能維持に重要な構造単位であるNVU(Neuro Vascular Unit)の重要性が強調されています。なかでもNVU構成単位である血管内皮細胞の障害がそれら疾患の初期に現れることが報告されています。我々は、この脳微小血管障害が神経可塑性疾患のひとつとも考えられる術後せん妄の初期変化をとらえる可能性に着目し、術後せん妄発症予測バイオマーカーの同定を目指しています。
手術・麻酔を契機とした腸内細菌叢(micro biota)の乱れが脳内環境に影響を与えることが報告されています。しかしながら、腸内細菌叢の変化を素早くとらえる方法は確立されておらず、術後せん妄の予防・治療に応用できていないのが現状です。我々は、新たな手法で、簡便に腸内細菌叢の変化をとらえ、さらに腸内細菌叢を整える対策を行うことで術後せん妄の予防・治療法の確立を目指しています。
我々は、術後せん妄患者の血中において活性酸素代謝産物(dROM)が上昇していることを報告しました。活性酸素が体内で過剰になると神経障害やミトコンドリア機能障害による神経伝達異常が生じるので、通常、抗酸化システムが働きこれを中和します。抗酸化システムが中和できないほどの活性酸素種が蓄積することを酸化ストレスと言います。最先端の機器を用いて、周術期のストレス係数をリアルタイムで測定することで酸化ストレスの可視化に挑戦しています。また、抗酸化力を持ち認知症治療薬として効果実績のある医療機関専用サプリを用いた周術期酸化ストレス軽減による術後せん妄予防にも取り組んでいます。
動物実験においては、麻酔薬が発達中の脳に神経毒性および神経変性作用を及ぼすことが報告されてきました。この懸念から、乳児や幼児を対象とした多数の後ろ向き臨床研究が行われ、その一部では乳児期の全身麻酔への曝露と、後の神経行動学的問題との相関が指摘されています。この相関は、麻酔への長時間または繰り返しの曝露でより顕著に現れるとされています。米国では年間約600万人の小児が全身麻酔を受けており、そのうち150万人が新生児や乳児です。このことから、麻酔誘発性神経毒性(AIN: Anesthetic-Induced Neurotoxicity)の可能性は、重要かつ緊急に解明すべき臨床的・研究的課題となっています。
我々は、臨床で一般的に使用されている麻酔薬セボフルランを新生児マウスに複数回曝露すると、海馬における血管構造に長期的な変化(血管面積や分岐数の減少)が生じ、後シナプスにおける分子レベルの異常を伴うことを示しました。さらに、セボフルランへの新生児期の曝露は、血管内皮細胞死を伴う血管退縮(図2)を引き起こすことがわかり、この変化は、①セボフルランの脳微小血管内皮細胞(BMECs)への直接的影響、②セボフルランが炎症性サイトカインTNF-αの血漿中濃度を上昇させることによるBMECsへの間接的影響という、複合的な作用によるものである可能性が示唆されました。
これらの結果は、新生児期におけるセボフルランの複数回曝露が、脳微小血管内皮細胞の生存性に対する直接的および間接的影響を通じて血管退縮を引き起こし、構造的かつ機能的な長期障害と、それに関連した海馬シナプス密度の減少をもたらすことを示しています。以上の知見は、微小血管および内皮細胞の保護を標的とする新たなアプローチが、新生児期の麻酔誘発性神経毒性を軽減または予防する有効な手段となる可能性を示唆しておりさらに詳細なメカニズム解明の研究に取り組んでいます。
2020年度以降 神経生理グループの英文論文。