12〕石坂公成、独創的研究をするために必要なこと(2000/10/23)
今回の公開討論会の目的は、恐らく“日本から独創的な研究を輩出させたいが、そのためにはどうすればよいのか?”を考えようということだと思う。私には“独創性”の定義がよくわからないが、私の考えでは、研究者というものは、自分が興味を持った、ある未知の自然の仕組みを解き明かしたいという情熱から研究をするものだと思う。始めから他の人がやっていないことを物色して自分の研究課題を選ぶ人はいないだろうし、それはあまり意味のない事だと思う。私も長い研究生活の間には、“こんなことは誰も考えていないだろう”と思って悦に入ったことも数回あったが、後になってみると、必ず誰かが何処かで考えていた。最近のような情報化社会にあっては、益々もって、自分だけが“誰も考えていないような可能性を考え付くという事”はないのではないだろうか?言い換えれば、独創的な研究というものは、始めからユニークな研究をしようと計画して出てくるものではなく、未知の問題を解決しようとして努力している内に出てくるものなのであろう。
ニュースレター8巻2号で吉村氏はフレミングによるペニシリンの発見を、“無から有を生ずる大発見だ”と言っているが、そもそもこの発見はpetri dishの中に青かびが入ったことに端を発している。その当時としては、petri dishの中に青かびが入る事は他の人も見ていたに違いない。フレミングの偉いところは、カビのコロニーの周りには菌が生えていないことに気づいたこと、そしてその現象の重要性を感じて、原因を系統的に研究したことにある。彼は独創的な仕事をしようとしていたから青かびに気付いたわけではない。
この様な例は決して珍しい事ではない。私がJohns Hopkins時代に親しくしていたロックフェラーのHenry Kunkelは骨髄腫蛋白と抗体蛋白の関係を確立した人だが、彼が免疫グロブリンのlight chainにκchainとλchainがあることをみつけたのは、ImmunodiffusionのOuchterlony plateの上でかすかなspurを見落とさなかったことに始まる。勿論彼はそんな結果を期待していたわけではなかったが、彼はplateにapplyする蛋白の濃度を変えて、若しそのspurが本物なら、よりはっきり出るようなデザインをした。Spurが出ないようなデザインも可能だった筈だが、彼は敢えて常識を破るような結果が本当かどうかを確認しようとした。彼がそのようなデザインを選ばなかったら、κ,λchainの発見は1、2年遅れたかもしれない。
我々のIgEにも似たところがある。レアギンを生化学的に同定しようという試みは1950年代の始めからやられていたことだから、決して新しいテーマではない。その上、1962年以来“レアギンはIgAである”ということが定説となっていた。当時の私の目的はアレルギーの機序を知る事だったので、私も“レアギンはIgAである”と信じて実験をしていたのだが、どうもそれでは説明がつかない事実に遭遇した。私がここで“レアギンはIgAではない”と報告することは自説を曲げる事にもなるし、それが本当なら、その時一年がかりでやっていた実験を全部フイにすることにもなる。又、IgAではないと言っても、それがどんな蛋白かを同定できなければ意味がないし、誰も信用しないであろう。しかも私は、モIgEモが非常に微量で、当時の技術では患者血清が数リットルなければisolate出来ないことを知っていた。私は一週間考えた末、抗体を使ってレアギン(IgE)を同定しようというアプローチに切りかえたのだが、我々の仕事でユニークだったのはこのアプローチだけである。私はこの方法でレアギンを同定できると信じていたが、勿論何も保証があったわけではない。
当時は抗体の問題が流行だった。そうでなかったら、Kunkelだって骨髄腫蛋白と抗体の関係を考えてもみなかったろうし、免疫グロブリンの概念がはっきりしてきた時期だったから、レアギンの問題も解決出来たのである。従って、吉村式解釈では、これらの仕事は独創的とは言えないのかもしれないが、Kunkelも私もそんなことは全く意に介していない。抗体の構造は殆ど骨髄腫蛋白を使って明らかにされたのだし、IgEも多くの研究者の役にたったのだから、私どもはそれで満足である。独創的と言われようと言われまいと一向に差し支えない。そう考えてみると、“独創的とはなんぞや?”という議論をしても始まらない事にもなる。しかし、学問の進歩に貢献することが研究者の役目である以上、みんなが期待している事を確認するだけではその役目は果たせないから、研究者はどうしてもユニークな研究をするべきだという事になる。
それではどうしたらOriginalityのある研究が出来るか?ということになるが、今までの例から明らかなことは、“学問的常識に合わない実験事実を見逃さないこと、そしてそれが出てきた時、それを真剣に取り上げることが必要だ”ということである。しかし、後者は必ずしも可能ではない。かく言う私も、“もしあの実験結果をextendして真剣にしらべていたら面白い仕事に発展したであろうと思われるもの”がいくつかあったが、そんなにいろいろの事をやるわけにもゆかないし、それをやるための専門家もいなかったので、その仕事を続けなかった。私はこれらの問題に関しては全くcreditはないと考えている。面白いことを見つけてそれを記載し、それに基づいて仮説を唱える事は愉快な事だが、本庶氏も言われているように、それくらいではその仕事をやったことにはならない。周囲の反対に会いながら、自分の仮説を証明し、他の研究者がその結果を役に立ててくれて始めて学問的貢献と言えるのではないだろうか?
若い研究者がそのような行き方が出来るか否かは、理論(常識)からのdiscrepancyを見逃さない修練を積んでいるかどうか?そして、自分のデータが間違いか真実かを実験的に見極めるためにはどうしたらよいかを考える習慣がついているか否かにかかっていると思う。私はポストドクで、Dr. Dan Campbellのところに居た時にそのようなtrainingを受けた。彼からはプロの研究者になるために必要な事をいろいろ教わったが、“どうしてもその時の知識や理論で説明が出来ない実験結果があったら、そこには我々の知らない新しいprincipleがある”という前向きの考え方も彼が教えてくれたものだった。Dr. Campbellのような教育はすべてのポスドドクに有効だとは限らないが、プロの研究者をつくるためには重要な教育だと思う。その意味では、日本の大学院生やポストドクにもそのような経験を持ってもらいたいし、facultyがそのような教育をしてくれることは将来の独創的な研究に繋がるのではないかと思う。ボスの期待するデータを出すためにマンパワーとして使われているだけでは、将来originalityのある仕事をする研究者は出来てこないのではないかと思う。
研究者がユニークな課題にチャレンジするか否かは、その研究者の知識や技術よりは、その人の性格や人生観に依存するfactorが大きいのではないかと思う。(勿論これらは生まれつきのものだけではなく、その人の経験によってつくられるものであるが)。驚くほど専門知識が豊富で、実験をすることもうまく、しかも、“自分にはしたい事がある”というので、何がしたいか聞いてみたら、全く月並みの研究計画を書いてきたので驚いたことがある。“こんな事は出来たところで、みんなの期待通りで、やらなくても分かっていることじゃないか!”と言ったことがある。他の人と同じことをやっていなければ安心出来ないエリートは、いくら知識があっても独創的にはなれないとみえる。
インターネットの討論の中で、“流行を追うな”とか、“大いに流行を追え”という全く逆の意見があったが、私は、自分が大切な課題だと信じているならそれが流行している課題であろうと流行していない課題であろうと差し支えないと思う。但し、流行の中に身を置くなら、アプローチや研究方法まで流行を追うのでは意味がない。それでは流行のバンドワゴンに乗るだけで、やってもやらなくても、その結論は大勢に影響しない。つまりそれでは始めから学問的貢献は期待できない。流行している課題ではあるが、未解決の問題を他の人と違うアプローチで解決しようというのなら、そこから独創的な研究も生まれる可能性があるし、また、主流とは違う仮説をもっているならそれに入れ込む価値は大いにあると思う。自分の仮説を信ずる限りは、あらゆる手段をつくして、その仮説を立証するために力をfocusするべきである。但し、若し自分の研究の結果、自分で自分の仮説に疑いをもつようになった時はいさぎよくやめるか方向転換をするべきである。我々のなすべき事の一つは、自説を他の研究者にconvinceさせることである。自分に自信がなくては他人をconvinceさせることはできない。折角1,2年やってきたのだから何とか形をつけようというのでズルズル続ける事は辞めたほうがよい。そんなものは、発表できても、学問の進歩に貢献することにはならないからである。
研究者の魅力は、“自由がある”ということである。しかし、研究者も職業である限りは、何等かの意味で学問の進歩に貢献することが必要である。我々基礎医学者の研究は、普通はそれ自体経済効果があるわけではないから、自分のやったことや結論を他の研究者に利用してもらう事が重要なcontributionの一つである。ところが、最近のエリートの中には、面白いことがみつかった時、なるべく長い間それを独り占めにして、他の人が入ってこないようにする人がある。競争を避けたいのかも知れないが、それではその仕事は彼の娯楽になってしまう。独創的であることは大いに奨励すべきだが、独創を自分の娯楽として楽しんでいるのではプロの研究者の資格に欠ける。何も我々は他の人の関心を惹くために仕事をしているわけではないのだが、自分の見つけたことが本当に大切なことだと思ったら、それを同業者や競争相手に利用させるように勤めることは我々研究者の責任の一つであると思う。
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インターネットの討論では、研究費の分配に関する御意見がいくつかありました。私も、独創的な研究を奨励するためには、科学研究費の制度を大改革することが必要だと思いますが、元来のテーマからは少し外れるので、今回はその問題にはふれないことにしましした。
参考記事(平野追記)JSI Newsletter 第7巻1号(通巻12号)”日本 の免疫学研究体制の 現状を探る”
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