聴覚と脳の研究
私たちは、聴覚と脳に係る研究として、❶聴覚の知覚を生む脳内メカニズムの解明、❷難聴と脳神経疾患の関連の理解、の2つを進めています。
❶聴覚の知覚を生む脳内メカニズムの解明
塚野浩明が先導しています。
【研究の概略】
背 景
私たち哺乳類は、五感を使って周囲の世界を認識しています。その中でも、聴覚には特徴的な性質があります。目の前にある物体は繰り返し見ることができますが、音は発生した瞬間から消えていきます。そのため脳は、刻々と変化する音の情報をリアルタイムに処理し、「何が聴こえたのか」を瞬時に判断しなければなりません。
音の情報には、音の大きさや高さだけでなく、音がどのような時間順序で並んでいるか、その音が何であるか(what)、どこから聴こえてきたか(where)、過去の記憶と一致するか、そしてその音が自分にとって重要かどうか、といった多くの要素が含まれています。さらに重要なのは、耳に入ってきた音が、そのまま知覚されるわけではないということです。同じ音であっても、これまでの経験や注意、周囲の環境、さらには脳の内部状態によって聴こえ方は変化します。
私たちはマウスを用いて、聴覚皮質を中心とする神経活動を観察・操作することで、脳が音をどのように処理し、「聴こえ」という知覚を生み出しているのかを研究しています。
不必要な音を無視する脳内メカニズム
私たちの周囲は、多くの音であふれています。人の声や警告音のように聴き取る必要のある音がある一方で、エアコンの作動音、道路を走る車の音、一緒に寝ている人のいびきなど、常に注意を向ける必要のない音も存在します。こうした音も耳には絶えず入ってきます。しかし通常、私たちはそのすべてを意識することはありません。
では脳は、「聴かなくてもよい音」をどのように選別しているのでしょうか。私たちはマウスに同じ音を繰り返し経験させながら、二光子カルシウムイメージングを用いてマウスの一次聴覚野の神経活動を観察しました。最初は多くのニューロンが反応していた音でも、経験を重ねるにつれて興奮性の応答が弱くなり、やがて神経活動そのものが強く抑制されることを見いだしました(動画1)。さらに、この抑制は一次聴覚野のソマトスタチン(SST)陽性抑制性ニューロンがもたらしており、同じ音を繰り返し経験するにつれてSSTニューロンの活動が増強することが分かりました。
では、この抑制を指令しているのはどこでしょうか。私たちは聴覚皮質へ信号を送る高次脳領域を探索し、前頭眼窩皮質(OFC)が一次聴覚野へ投射し、その一部がSSTニューロンへ直接入力していることを明らかにしました。さらにOFCの活動を抑えると、繰り返し経験した音に対して抑制されていた一次聴覚野の活動が再び増強し、SSTニューロンの活動も低下しました(図1)。
未経験の音に対する神経活動
(□は音のタイミング)
経験済みの音

これらの結果は、脳が耳から入ってくる情報をただ受動的に処理しているのではなく、過去の経験に基づいて高次脳領域から聴覚皮質へ信号を送り、「すでに知っていて、重要ではない音」を積極的に抑えていることを示しています。つまり、「聴き慣れた音がいつの間にか気にならなくなる」という日常的な現象の背後には、脳による能動的な情報の選別機構が存在すると考えられます。
「正しく聴こえる」とは何か
私たちはなぜ、雑音に囲まれていても必要な音を正しく聴き取ることができるのでしょうか。実際の生活環境では、周囲の人の声や交通音、機械音など、さまざまな音が同時に耳へ入ってきます。それでも脳は、その中から必要な情報を取り出し、安定した音の知覚を作り出すことができます。
一方で、なぜ脳はときに、実際には存在しない音まで「聴こえた」と判断し、空耳を聴いてしまうのでしょうか。私たちが注目しているのが、脳の内部で生じる「内的ノイズ」です。神経活動には、外界からの刺激がなくても絶えず自発的なゆらぎがあります。通常、脳は外界の音による活動と、こうした脳内部の活動を区別していると考えられます。しかし、この均衡が崩れ、脳内部で生じた神経活動を外界からの音による活動だと誤って判断すれば、実際には存在しない音を「聴こえた」と知覚する可能性があります。これは、誤知覚や幻聴が生じる脳内メカニズムを理解する上でも重要な問題です。
【実験手法と展望】
私たちは、二光子カルシウムイメージングやNeuropixelsによる大規模神経活動記録、光遺伝学・化学遺伝学による神経回路操作、行動解析を組み合わせ、正常な脳が正確で安定した聴覚知覚を生み出す仕組みと、その仕組みが崩れて誤知覚や幻聴が生じるメカニズムを連続的に理解することを目標にしています。将来的には、正常な聴覚情報処理の理解を基盤として、精神・神経疾患や耳鼻咽喉科領域における病態の理解へと研究を発展させていきたいと考えています。
【メッセージ】
聴覚中枢の研究に興味のある方へ
私はこれまで、聴覚皮質における和音識別や音声情報処理、脳機能マッピング、神経回路トレーシングなど、幅広い研究に取り組んできました。また、聴覚皮質に限らず、視覚皮質、体性感覚皮質、視床、扁桃体、高次脳領域を対象とした研究や、マウスの行動動画解析、音声解析などにも携わってきました。こうした経験をもとに、幅広いシステム神経科学・脳生理学研究のテーマについて研究指導を行うことが可能です。
大学院生としてシステム神経科学・脳生理学研究を学びたい方、大学院進学を検討している臨床医の方、基礎研究に触れてみたい大学生など、出身学部・学内外を問わず歓迎します。お気軽にご連絡ください。
この研究に関する主な成果
(1) Tsukano H, Garcia MM, Dandu PR, Kato HK (2026) Orbitofrontal cortex drives predictive filtering of sensory responses. Nature Neuroscience 29(4), 888–900.
(2) Tsukano H, Horie M, Ohga S, Takahashi K, Kubota Y, Hishida R, Takebayashi H, Shibuki K. (2017). Reconsidering tonotopic maps in the auditory cortex and lemniscal auditory thalamus in mice. Frontiers in Neural Circuits 11:14.
