「新年度」

 新しい年度が始まりました。  生命文化学(加藤研)は今年度で5年目を迎えました。僕としては3年目に突入です。加藤研に来た2006年度は加藤研メンバーが急激に増えた年でした。その時の入学メンバーのうち3人が先週末に研究室を卒業しました。彼(彼女)らは、僕と同時期に加藤研に入り一緒に2年間を過ごしたメンバーです。去って行く寂しさを感じつつ、彼(彼女)らが加藤研で何を得たのかをふと考えさせられました。そこで感じるのは、彼(彼女)らよりも、一緒に仕事をした僕自身が多くのものを与えてもらったことです。僕のバックグラウンドは生命科学の研究や実験であり、そこに特化しています。卒業したメンバーや現在のメンバーは僕とは異なったバックグラウンドを持ち、知識や経験、価値観や研究に対するモチベーションも様々です。そういったメンバーからは、新しい情報や経験を与えてもらうだけでなく、視野の狭かった自分の価値観を広げてもらったと感じます。  個性豊かなメンバーとのディスカッションは楽しいことばかりではありません。相手の気持ちや真意が理解できなかったり、自分の考えを伝えきれなかったりと、上手くいかないこともよくあります。けれども、最終的には相手の考えに驚かされ、大きな刺激を受けることがほとんどです。こういった経験は、日常的に密なディスカッションができる環境、同じ研究室で過ごせる環境だからこそ起きやすいのかもしれません。もちろん、研究室での日常的な生活を一緒に楽しみ、それらを共有できていることも大きな理由だと思います。  今年研究室を去って行ったメンバーと、日常的にディスカッションができなくなることは寂しく感じます。けれども気軽に連絡をとり、いつでもまた話ができる気もしています。これからも加藤研での繋がりは大切にしていきたいです。  さて、来週には新しく4名(学生3名・研究員1名)が加藤研メンバーとして加入します。個性的なメンバーがまた増えることを期待しながら、新しい年度を迎えたいと思います。 (白井哲哉)

雪中梅のころ

お陰さまで辛くも修士論文を出し終えた次第です。 怒涛のような一月二月が去り早や梅が咲きほころぶ三月となりましたが 未だ雪の舞い散る日もあってまさに三寒四温といった此の頃の京都です。 折角ですから修士時代の感想のようなものを。 この分野に身を置いていて、時代の要請のように感じるのは 生命科学をはじめサイエンスの有り様を社会的・制度的な面から 新たにデザインする仕事が現代の急務なのだ、ということ。 既に百家争鳴なところでは、科学・技術研究振興のための資源(リソース)を どこから出してどのように配分(シェア)すべきか、という一面。 他方では、科学・技術の進展による恩恵をどのように配分すべきか。 さらには、リスクはどう配分するか、という一面。 ELSIと言われる倫理的問題や法的・社会的問題も もし仮に理想的な話し合いがなされたならば解決解消するようなものではない。 然るべき各種役割やポジションを整備し、責任や義務や役目を配分して 手続き体制を整えてゆくことでしか解決されない。いや、解決というより サイエンスという営みの「持続可能な発展」が望めない。 生命科学の研究者たちは日々、生態系からさまざまな知識や便益を得ている。 その利用を持続可能にするには、環境問題と同様に 有効な制度や、アクセスと利用について決定するメカニズムを デザインすることが現実的なのだろうな、と考えるようになりました。 あと一つ、広く市民に科学を伝え、関与を促す活動について思うこと。 ネガティブな方向から見据えることかもしれませんが やはり我々世代から未来世代については 生命科学関連の教育を受け知識をもっていなければ 不自由や不利益をこうむるリスクが大きそうなことを無視できない。 生命科学の発展は、誰もが通る生病老死のすべてに変化を与える。 変化に対応し、私たちの自由を持続させるためにも、 市民は「受益者」としてのみでなく「行為者」として関わって欲しい。 それを促すことは、やや誇張して言えば、『人間の安全保障』にも関るくらいのことのはず。 今後しばらくは外から、そんなことを考えてみたいと思っています。 (新美耕平)